2008年5月31日 (第2856回)

呪縛する熱意 -教育の暴力的変容-

文学部 教授 鳶野 克己

 私たちは、例えば教育の場における暴力行為や体罰やいじめの問題に直面して、暴力を肯定するのかと問われれば、当然のごとく、暴力は断固として否定されねばならないと応答するだろう。あるいはまた私たちは、職場や地域や家庭で、弱い立場、下の立場に置かれた人々が、一方的に理不尽な身体的・心理的苦痛を被っている事態を知るとき、その苦痛を与える者や苦痛を生み出す環境に対して、憤りを覚え強く非難することだろう。さらに私たちは学校のみならず広く日常的な社会生活の場で、互いの主義主張や利害が対立し、当事者間に物理的・身体的な衝突が生じんとする事態に遭遇するとき、暴力に訴えることの不毛と愚かさを説き、話し合いを通じて合意点や妥協点をねばり強く追求することの意義をためらいなく語ろうとするだろう。

 しかしながら、暴力的現象に対して通常示されるこのような、一見疑問を挟む余地のないかのような公式的見解や態度は、私たちが暴力を決して望まず退け続けてきたはずであるにもかかわらず、暴力的なものが、依然としてしばしば侮りがたい「魔力」と「魅力」を伴って私たちの生を内奥から激しく揺さぶってくることの意味を、人間存在におけるその根源に遡って、果たして徹底的に考え抜かれた上でのものであろうか。

 やや「危険な」こうした問題意識を携えつつ、教育と暴力とのかかわりについて、その深みと広がりを批判的に見極めるべく、人間学的に考究していく一つの試みを提示したい。