2008年10月11日 (第2871回)

映像は思想を表現できるか?

立命館大学 ポストドクトラルフェロー 友田 義行

 カメラ=万年筆」という言葉があります。文筆家が万年筆を使って書くのと同じように、映画作家はカメラで書くのだ、という考え方です。1948年にフランスの映画人が発表したこの理論は、それまで娯楽に過ぎなかった映画が、文学とならんで、どんな思想でも表現できる特別な芸術になりつつあることを説くものでした。

 この言葉は約十年後に日本でも紹介され、これに基づいた映画理論や映画史が構想されました。そこで軸となったのは、書記言語と同じように、「映像は思想を表現できる」という主張です。さらに、単独で思想を表現できる映像=映画言語は、つなぎ合わせたり組み立てたりする必要がない、つまりモンタージュは不要になるとも言われました。

 しかし、映像を「もう一つの言語」とみなす考え方は、反発も呼び込みました。また、モンタージュ不要論に対しても、多くの批判がなされます。議論はやがて、映画人だけでなく、文学者も巻き込んだ論争へと発展していきます。

 はたして映像は、思想を表現できるのでしょうか? 言語と映像は、どのように関係するのでしょうか? 論争を追いながら、映像/視覚と、言語/文学をめぐる想像力の問題を探ってみましょう。