2010年10月2日 (第2952回)

杜甫のユーモア

京都大学 名誉教授 興膳 宏

 杜甫は「詩聖」、つまり詩の聖人、あるいは完璧な詩人と呼ばれて、今日に至るまで広く敬愛を集めてきた。だが、聖人などという敬称を受けるのは、 どこか窮屈な印象を否めないという人もあろう。また、杜甫は「生涯憂う」ともいわれて、「憂愁の詩人」というレッテルを貼られることも珍しくない。それも誤ってはいない。 確かに彼は生涯にわたって、世のさまざまな不幸や矛盾を、自分自身を含めた人間全ての苦悩として詠いつづけてきた。だから、杜甫はきまじめ過ぎる詩人という印象を持つ人もいる。

 しかし、杜甫はその反面で、優れたユーモア精神の持ち主でもあった。世を憂える心とユーモアの精神は相反するようで、実はそうではない。 ユーモアはまず自分という主体を突き放して客体化するところから始まる。たとえば杜甫から三百年前の詩人陶淵明が、人にとって避けられない死の問題を、 第三者の視点から冷静に観察した「挽歌詩」を作ったように。杜甫のユーモアは陶淵明とは異質だが、冷静な人間観察に根ざす点は共通している。

 杜甫の作品を通じて、杜詩のユーモアの諸相を見つめ、そこから改めて彼の文学を考えたい。

聴講者の感想

 土曜講座には初めて出席いたしました。私の専攻は日本史ですが1回生のうちから様々な知識を得たいと思って参加いたしました。 今回の杜甫の詩についての講演はとても楽しめました。漢詩の解釈で杜甫の様子を考察していただき、杜甫の詩のユーモアがわかりました。

 漢籍にこれからはふれていきたいです。