2010年10月9日 (第2953回)

王羲之書法の受容と変容 ―奈良朝・平安朝の時代推移の中で―

神戸大学 名誉教授 魚住 和晃

 万葉集では「羲之」と書いて「てし」と読ませる。「てし」とは「手師」をさし、手の師、つまり能書家をさす。 当時、遣唐使によって盛んに王羲之系統の書が舶載されていた。しかし、多くの歌人には羲之が人名であることが明確ではなく、 むしろすぐれた書に対する比喩語としての認識の方が浸透していたのだろう。

 東大寺国家珍宝張は、奈良朝の内府に収蔵されていた王羲之系統の書跡が、いかに厖大であったかをものがたっている。 ただし、こうした古記録の中にも、王羲之認識の不確かさは随所に含まれる。

 平安朝中期に小野道風が登場して、日本の書は和様に大きく転換された。この道風も、手本にしたのは王羲之であった。 道風の書風は、中国書法から見れば骨力が乏しいが、自由奔放な筆致は、中国書法の呪縛からのがれることを望む公達から大いに迎えられ、 その後の方向を決定づけた。

 日本の書は、王羲之書法をもとにしながら、日本人の主観や感性がさかんに生かされたものであった。 むしろ、王羲之に対する認識の不確かさによって、中国とは異なった表現性が生み出されたともいえる。この偶然的発展が、 文化伝承のグローバル理解に、稀有なる事例を与えているのである。

聴講者の感想

  中国東晋の書家王羲之に或る文書の筆跡は、古今に卓越していたようで、当時日本へ伝来し範例となったのは意義深い。 だが、同じ漢字圏のもと日本がその価値を受容しつつ、仮名文字との組合せにより特有の手法へと変容を遂げたのは、順当な推移であろう。 何故なら、渡来文化を吸収し国情に調和させるのは通例に過ぎず、それが更なる向上への糧となれば、本来の目的に叶うからである。