2014年10月4日 (第3108回)

ヘロドトス「歴史」を読む

立命館大学文学部 名誉教授 大戸 千之

 ヘロドトスは、はやくから「歴史の父」と呼ばれてきました。

 もっとも古い例として知られるのは、前1世紀のローマ人キケロの『法律について』の一節ですが、その書きぶりからして、おそらくは当時すでに、そうした呼び方はかなり一般化していたものと思われます。

 それでは「歴史の父」とはどういう意味なのでしょうか。歴史を学ぶとは過去の多くの「事実」について知ることだ、と考えている人は少なくありません。そうだとすると、ヘロドトスは正確な事実を記録した最初の人、ということになるのでしょうか。

 実のところ、キケロは逆に、ヘロドトスの『歴史』には「無数の作り話がある」と書いているのです。これはヘロドトスにたいする批判と読めますが、おもしろければよいと考えているような読者への警告とも読めるでしょう。

 さて、「事実」を重んじようとする近代歴史学は、ヘロドトスをしばしば批判の対象としてきました。しかし、歴史も物語も同じようなものだ、と主張する人たちは、現在もなお、力を失っておりません。

 「歴史を書く」あるいは「歴史を読む」とはどういうことなのか。ヘロドトスの『歴史』を素材として考えてみたいと思います。