2015年1月31日 (第3120回)

災害と多文化共生~住民は外国人とどう向き合うのか~

東北学院大学経済学部教授 東北学院大学災害ボランティアステーション所長 郭 基煥

 震災から3年半が経ち、被災地に対する関心は急激に低下しているように思われる。おそらく、この低下は、ただ自然的な現象ではない。むしろ現代的な社会的風潮によって促進されている側面がある。すなわち、競争原理の強化による経済の活性化と個人の選択や自助努力の強調という社会風潮である。これら「自らの努力」を自分に、そして他者に語る言葉が、「他者と共にあること」を語る言葉を遠ざけているのではないか。

 その一方で「奇妙な現実」がある。ボランティアで被災地を訪れる多くの者が目まいを起こすような現実にあっている。仮設に慰問や「コミュニティの再建」という名目で訪れる学生は、しばしばむしろ自分たちが住人からあつくもてなされるのを経験する。漁業支援に行った学生は、働いた分を明らかに超えた何か、だとえばホタテやカキをいただいてくる。手を握りに行ったものが、より強く手を握りしめられる。被災地に行くものは、むしろ歓待を受けてくるのだ。 

 逆境のうちにあるはずの被災地の人々が見せる歓待は、一方で「外部の人」と繋がる関係への「ニーズ」の深さを示している。しかし、それだけではない。この「歓待」は、この歓待は歓待される側ではなく、歓待する側の「高貴さ」を示しているという点で通常の他者への応接を超えた何かである。この「歓待」はただごとではない。

 この、逆境のうちにある人が見せる「高貴な歓待」は、もしかすると、自助努力が喧伝される私たちの社会のあり方を超えた人と人の結びつきを構想する基点となりうるのではないか。そして、「高貴な歓待」が私たちがもう一つの被災地のリアリティであるとすれば、被災地のリアリティを見ず、聞かないことは、社会のもう一つのあり方の可能性を消し去ることを意味するのではないか。

 被災地という逆境の地における歓待は、その場所が人と人を結ぶ原理を組み替える希望の発祥地たりうるのではないか、そんなことさえ思わせるのである。