2015年11月21日 (第3147回)
ヒロシマから見た戦後70年
立命館大学産業社会学部 教授 福間 良明
原爆ドームは、しばしば「被爆の惨禍を伝える歴史の証人」「核兵器廃絶と人類の平和を求める誓いのシンボル」 と形容される。1996年には世界文化遺産に登録された。だが、それは当初から「歴史の証人」「誓いのシンボル」であったわけではない。 戦後初期には撤去論も根強かった。中国新聞社発行の夕刊紙『夕刊ひろしま』(1948年10月10日)には、原爆ドームに言及しながら、「このような悲惨以外のなにものでもないような残ガイを都市のドまん中に放置したまま足かけ四年――自分のアバタ面を世界に誇示して同情を引こうとする貧乏根性を広島市民はもはや精算しなければいけない」と記されている。そこでは、原爆ドームという遺構への嫌悪感が綴られている。 だとすれば、原爆ドームという遺構はいかにして「歴史の証人」という地位を手に入れるに至ったのか。それに対し、モニュメントである平和記念公園はどう位置付けられてきたのか。 本発表では、広島の遺構・モニュメントを取り上げ、それらが「歴史の証人」として発見され、創られていくプロセスを跡付ける。そのうえで、戦跡が整備のなかで、いかなる記憶が「継承」され、また「断絶」したのか、そこにはいかなる社会的な力学が関わっていたのかについて考えたい。