2006年6月3日 (第2774回)

近代京都の地理的変化―立命館大学の周辺地域―

文学部教授 河島 一仁

 京都では、1897年に京都帝国大学が創設され、1920年に同志社大学、1922年に龍谷大学、大谷大学、そして立命館大学が発足しました。よく知られていることですが、第三高等学校の移転跡地に京都帝大、薩摩藩屋敷跡地に同志社大学、西本願寺の南隣に龍谷大学、高倉通魚棚上ル富屋町にあった高倉大学寮の敷地に大谷大学、そして上御霊神社御旅所跡地に立命館大学がそれぞれ立地しました。

 本学の場合、なぜそこが選択されたのか、そこには町家があったのか、その後に敷地に含められる遣迎院はどうなったのかなどに関して詳細には論じられていません。ただ、同志社大学、京都師範学校などとともに、御所近傍の土地所有と利用形態の激変のなかに広小路学舎も含まれることだけは明らかです。衣笠学舎は、一条通り沿いにおける衣笠園と日活大将軍撮影所の建設、等持院村における「マキノ映画制作所」などがもたらした地理的変化の後に誕生します。

 この一連の変化を当時の人々はどう認識したのでしょうか。画家と女優の随筆をもとにそれを考えたいと思います。