2006年6月17日 (第2776回)

朝鮮に渡った京都の缶詰 ― 京都における近代産業の一断面 ―

文学部助教授 河原 典史

 花街である京都の祇園では、さまざまな食材が宴席に提供されてきました。エンドウ豆や牛肉の大和煮など,いわゆる「珍味」には工夫が重ねられて保存食となり、それらは瓶詰から缶詰となりました。

 最大手の竹中缶詰製造所は、明治末期に祇園新橋で創業したのち,大正期には伏見・墨染で事業を拡大しました。当時、この周辺には師団司令部・兵器支廠・砲兵営・輜重兵営などの軍事施設が連立していました。竹中缶詰製造所は、軍需工業演習管理工場としての役割を担うようになったのです。やがて、京都府舞鶴、広島県尾道や島根県隠岐などにも分工場が設立されました。製造された缶詰の多くは、舞鶴・横須賀・呉・佐世保の海軍に納められました。

 昭和期には、植民地であった朝鮮の済州島や、京城(ソウル)、釜山や羅州をはじめとする半島各地にも分工場や営業所が展開されました。これらのなかには、現在でもその姿を残すものがあります。

 しかし、その背景には、軍需産業としても発展した缶詰製造業をめぐる日本の産業政策も見のがしてはならないのです。朝鮮総督府資料だけでなく、当時の缶詰ラベル・古写真・8ミリフィルムなどの資料も駆使して、近代京都の隠れた一面を紹介しましょう。