2007年2月24日 (第2803回)

京都における洋画の展開

先端総合学術 研究科教授 神林 恒道

 わが国で最も古い公立の美術学校は、明治十三年に設立された、現在の京都市立芸術大学につながる「京都府畫學校」である。この開校は工部美術学校の閉校と東京美術学校の開校の間の時期にあたる。カリキュラムは東西南北の四宗からなっていたが、西洋画科は十年後、事実上廃止の憂き目にある。その後これが復活するのは、第二次大戦後の「京都市立繪畫専門學校」時代の頃である。

 その間、京都での洋画教育は私塾に委ねられていた。その中心となったのが、東京美術学校から追われるようにして「京都高等工藝學校」へ移ってきた淺井忠によって経営された「関西美術院」であった。その後を受け継ぎ、後進の指導に当たったのが黒田重太郎であり、この私塾の出身である梅原龍三郎、安井曾太郎、そして須田國太郎は、昭和期における日本洋画壇をリードするに至った。

 この洋画の流れを、戦後の堂本印象のアヴァンギャルディズムとからめて概観してみようと思う。