Reportレポート・参加者の声

福島漫記(ふくしまスタディツアー・チャレンジ、ふくしま塾。参加Report)

 福島県主催「ふくしまスタディツアー」(8/22~8/24)と災害復興支援室「チャレンジ、ふくしま塾。」(8/24~8/26)に参加したJIA Binさんの手記です。写真も全てJIA Binさんによる撮影です。


福島まん

立命館大学政策科学研究科 D1
JIA Bin

縁由

 この度、立命館大学震災復興支援室による「チャレンジ、ふくしま塾。」、福島県庁主催の「ふくしまスタディツアー」に参加できる機会を得た。 今回参加したい理由は2つある。まず、地震や津波の災害破壊を実感してみたいことだ。故郷は、中央アジアに近い盆地構造での小さな都市だから、地質構造が安定しているため、地震はほとんど発生しない。また、海から離れているため、津波の心配もない。正直、自分が地震と津波の関連性を意識したのは、東日本大震災がきっかけだった。もう一つの理由は、原発事故の真相を直接入手したいと思ったからだ。 夥しいメディアの勃発で情報が氾濫し、東京電力の福島第一原子力発電所のことが話題になった。 どんな情報が正しくて、どんな情報が間違って解釈されているのか、今回はフィールドワークを通して自らで判断してみたいと考え、参加した。
 つまり、上記の動機で今まで足を踏み入れたことのない土地に足を踏み入れるきっかけにもなった。 6日間で福島県内各地を伺い、絶景の美しさに驚き、ご馳走に舌鼓を打ち、被害に心を痛め、復興実践に感動することができた。「復興」という広大な語彙を前にして、適切な結びや結論を見出すことは難しいと思うので、この記事は、初めてこの地に足を踏み入れた部外者の視点からの記録、見聞、そして、考えを述べたものに過ぎない。

福島の印象

 「ふくしまスタディツアー」が始まる前に、主催者からアンケートをもらい、その中に「福島の印象について」という質問があった。残念ながら「原発事故」という語彙が、自分や他の参加者の回答に頻繁に出てきたのだ。これは、あの恐ろしい事故が福島に、そして世界に残した深い傷跡だと思う。例えば、2022年でも英語で「Fukushima」と検索すると、一番上の検索結果は「Fukushima nuclear accident」となっている。自分にとって、原発事故に伴う印象は、不毛の地というものだ。 浅はかで無知な考えだが、原発事故で汚染された土地は一本の草もない不毛の地となり、もちろんその土地での生活もままならないのではと思った。

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「ふくしまスタディツアー」説明会


 もし、二つめの印象があるとすれば、それは「落莫せきばく 」とは言えるだろう。 留学生である私にとって、福島はやや物寂しい県だと思っていた。 福島の印象は、北の北海道、南の首都圏に比べるとやや浅くなり、福島がある東北地方は少し物寂しく感じていた。 自分にとっては、中国の魯迅氏と縁のあった仙台市を除けば、地名として存在しかない都市だ。 一方で、猛烈な自然災害が度々起こす印象もある。 津波石、これも東北地方の太平洋沿岸で覚えていることだ。このような岩は、先人が後世に残した警告であり、この地域で生活するには常に警戒が必要だというメッセージだ。
 そして、さまざまな思いを胸に、やまびこ新幹線での福島への旅に出た。

三地流連りゅうれん

 福島県は、日本で三番目に面積の大きな県である。 県内を縦断する奥州山脈と阿武隈高地は、日本海側の会津地方、太平洋側の浜通り、それに挟まれた中通りの3つの地方に分かれている。会津地方は、広大な自然の中に深い歴史があり、独自の伝統と文化を持ち、伝統産業と農林業が盛んな土地だ。 戊辰戦争、白虎隊、鶴ヶ城など歴史に名を残る事件が数多くある。 浜通りでは、黒潮と親潮が交わる海岸線があり、漁業が盛んである。例えば、福島県最大の港である小名浜港は、浜通り南部のいわき市にある。会津地方と浜通りの間に挟まれた中通りは、地方都市と田園地域がハイブリッドし、福島県の重要な都市圏群となる。 例えば、東北地方で2番目の都市圏である郡山都市圏は、中通りの中部にある。郡山市は福島県の経済県庁でも言える。

福島の実像

 福島県を現地で訪れて印象が変わったことといえば、まず賑やかさだろう。福島県は思ったより賑やかだった。新幹線も開通し、中通りにある福島市、郡山市、白河市は、他の県の地方都市と変わらない。そびえ立つビル、整備された都市建設、忙しそうなオフィスワーカー。そんな平凡で安定した街から、日本経済は発展してきたのだろう。 我々はマスコミでのインパクトのある情報に注意を奪われやすく、原発事故に関する情報が福島の印象の大半を占めてしまい、今も170万人以上の人々が平和に暮らしていることを見落としていたことに改めて気づいた。

20220916-2JR東日本郡山駅


 自然の美しさも、明らかに印象が変わった。「ふくしまスタディツアー」では、いろいろなところに行く機会があった。 磐梯山と猪苗代湖が一番印象に残っている。 実際に磐梯山に登ったわけではないのだが、猪苗代湖に向かう途中で衝撃を受けた。バスでの長距離移動で疲れていた私は、曲がり角で遠くの山が目に入った。淡い蒼色の植物に覆われ、頂上にはいくつかの雲があり、そびえ立っていたのが磐梯山である。丘の下は平地になっており、広い緑の田んぼの中に数軒の民家が点在している。この油絵のような光景が、旅の疲れを癒してくれた。遠くない猪苗代湖は、青く澄んだ水をたたえ、そよ風が優しく吹いている。バスを降りて観覧船に乗り込むと、青い水面と遠くの山裾の境界線が曖昧になり、湖面に反射する陽光が水面を輝かせ、船は青い水面を雪のように白い波に変え、風が吹き抜け、遠くの山頂ではいくつかの風力発電機がゆっくりとその羽根を回していた。船尾に移動すると、湖岸のドックが信じられないほど小さくなり、背景には広い磐梯山がどっしりと聳えている。もし、琵琶湖の美しさが巨大な面積が鏡のように「水天一色」を作り出せるとすれば、猪苗代の美しさは青い水と青々とした山々のコントラストが互いを引き立て合うところだろう。

20220916-3磐梯山と猪苗代湖


 もう一つ印象に残った山が飯盛山である。鶴ヶ城と共鳴するように、若松会津市の北東に位置する飯盛山は、会津藩の白虎隊が自刎した場所である。戊申戦争で生き残っていた白虎隊士は、飯盛山から鶴ヶ城方面に火や煙が上がったのを見て、鶴ヶ城もう落城だったと思い、ここで自決した。倒幕派と佐幕派の争いではあったが、藩主の忠実な武士として、白虎隊の自刃は武士道精神を見事に表現していると思う。鶴ヶ城は、数々の名将を輩出した会津藩のシンボルでもあり、幕末まで武士の誇りを背負ってきたのだ。平和と戦争、鶴ヶ城の赤瓦だけは、静かに世の中の流れを見つめてきた。

20220916-4鶴ヶ城天守閣


 福島の歴史といえば、歴史に名を遺す出来事だけでなく、普通の小さな人々の暮らしもよく遺されている。 会津の南部にある大内宿は、奥州山脈のなだらかな八重山の中にある。茅葺き屋根の家が立ち並び、古の街並みがそのまま景観として現存し、まるで江戸時代にタイムスリップしたようだ。大内宿は、江戸時代、東北と関東を結ぶ会津西街道が宿場として利用されていた。明治時代に入り、鉄道の敷設や交通手段の変化に伴い、大内宿は交通の要衝としての地位を失い、通りの両側には住宅が建ち並ぶようになった。
大内宿でぜひ食べていただきたいのが、つゆが特徴の高遠そばだ。通常の醤油ベースのつゆとは異なり、醤油の代わりに辛味大根おろしを使用し、鰹節の爽やかさも相まって、暑い真夏の日に暑気払いとして高遠そばは本当によく似合う。食べ方も変わっていて、箸の代わりに大きなネギを使い、そばをつまんで食べる。これは、地元の結婚式で割箸を割るのは縁起が悪いので、大きなネギ一本を代用したことから由来している。正直なところ、初めての人には少し難しいかもしれないが、すぐにコツがつかめるようになる。さっぱりとした大根おろし入りつゆとネギの薬味が、暑さで疲れた体と心を癒してくれる。

20220916-5 高遠たかとお そば


20220916-6大内宿おおうちじゅく



20220916-7 馬肉料理・馬刺し


 美食に関しては、本当に止めるのが難しいだろう。馬文化の長い歴史を持つ福島県では、馬肉を食べる歴史がある。特に明治以降、馬肉は豚肉や鶏肉と並ぶ重要なタンパク源として、庶民の食卓に出されていた。今回、筆者も馬刺しを味わうことができた。正直に言うと、馬刺しが出てきたときはドキドキした。鉄分を多く含む馬肉は濃い赤色で、新鮮な馬刺しは皿での氷に映えて更に鮮やかに見えた。なんとなく刺身に似ており、生肉特有な食感であった。肉は少し歯ごたえがあり、生臭さや血のような匂いが一切なく、噛むとほのかに甘みが出てくる。さらに、甘みと共に、馬肉の脂身からくるのであろうか、クリーミーな風味も感じられた。はじめは生の馬肉を食べることの緊張感があったが、食べてみるとやさしくて伸びやかな味わいだった。
 馬肉のような珍しい食材とは対照的に、福島には地に足の着いた珍味もたくさんある。その一つが、朝ラーだ。 朝でラーメンを食べる習慣は、福島県喜多方市が発祥の地と言われている。スープは醤油と豚骨スープが中心に、特製の太麺と一緒に、チャーショウやメンマが添えられている。朝ラーメンの源来には諸説あるが、一般的には、夜勤明けの工場労働者や農業から早く帰る農家のために、中華そばを売るお店が朝から営業し始め、やがて朝からラーメンを食べる習慣が形成されたと言われている。夜勤明けでもなく、農業帰りでもないのだが、朝ラーを体験させていただいた。会津東山である温泉宿に宿泊し、朝の5時、ほのかな光を浴びながら三階の露天風呂に浸かった。少し肌寒い空気が温泉とぶつかり、霧が軽い錦紗のようになる。その向こうに会津の街並みを眺めると、近すぎず遠すぎず千年の歴史が流れたように感じられた。入浴後、期待に胸を膨らませながら朝のラーメンを食べ始めた。味噌を加えた濃厚な豚骨スープが魅力的な褐色を呈し、ねじれた特製麺が強い食感をほのめかしている。 濃厚だけどしょっぱすぎない食感が眠っていた味覚を呼び覚まし、筋の通った麺が爽やかな味わいだった。案の定これだ、朝ラーだ。
 斬新な馬刺しと安定感のある朝ラー、そして福島は桃の郷であり、日本で二番目の産地である。特品の一つである「あかつき」は、献上品として選ばれてきた。もちろん、これは福島北部の優渥な自然条件のみならず、何世代にもわたる果樹農家の努力の賜物でもあるのだろう。今回、筆者も桃狩りに参加した。桃の甘い香りが漂う桃園で、ピンク色の桃が手招きしているようだった。実際、桃狩りには技術が必要で、高い枝先にある桃は光が当たりやすいため、赤くなりやすい。摘み取るときに翌年の芽を傷つけないように注意しなければならない。採れたての桃は、皮をむいて一口食べると、果肉から豊かな果汁があふれ出てくる。桃の味は品種によって異なり、「あかつき」は見た目の通り丸みがあり、柔らかい果肉に適度な甘さとふくよかな果汁が添えられている。一方、「川中島」は、その味わいが異なっており、伝統的な桃らしいシャキッとした果肉と、噛むほどに口中に広がる甘みが絶妙なバランスを保っている、この二種はそれぞれ特徴的であり、桃狩りの良きパートナーだと思えた。

20220916-8桃狩り

「実現」福島

 自然、歴史、美食、文化、福島への旅は、福島の「落莫せきばく 」に対する自分の誤解を解いてくれた。もう一つの認識である「不毛之地」についてはどうだろうか。
 時間を2011年3月11日14時46分に戻すと、東北地方三陸沖を震源とするマグニチュード9度の東日本大震災が発生した。マグニチュード4度以上で3分以上続いた。4147人が直接または間接的に死亡した。福島県は地震で大きな被害を受け、その後の津波が浜通りの状況をさらに悪化させる。双葉町と大熊町の間に所在する東京電力福島第一原子力発電所は、地震と津波により非常用電源装置、付属電気設備、燃料タンクなどが損傷した。原発への電力供給が途絶え、冷却装置が機能しなくなり、炉心溶融に至ったのだ。水素が急激に蓄積され、結局、1号機は3月12日15時36分、3号機は3月14日11時1分、4号機は3月15日6時10分に水素爆発した。2011年4月23日の時点で日本政府の「原子力緊急事態」により、福島第一原子力発電所から半径20キロを警戒区域、30kmを緊急時避難準備区域に指定した。これらの区域を合わせた面積は、福島県の面積の約12%で、東京都や大阪府の面積に近い。2012年5月現在、全国で164865人が避難している。絶望的な数字が自分の思考力を奪ってしまい、これだけの面積と避難者数からだと、その数字の裏にある本当の残酷さを推し量るのに想像力が働かない。しかし、幸いなことに、今回の福島での滞在期間中、被災された方々のお話を伺うことができた。これらの生の声は、福島原発事故に対する筆者の理解を再構築するのに役立った。

20220916-9 東京電力福島第一電子力発電所


 「惨め」、「屈辱」、「混乱」という幾つの言葉が、この事故を表現しているように思う。じっくり考えて、震災を経験した人たちの状態は、「降り」という語彙が一番しっくりくると思う。天から降った災害がきた、慌てて家を出た人々がもう入れなくなるとは思いもよらなかった。

20220916-11 双葉町での被害にあった民家、現在空き家


 筆者は双葉町の避難指示解除予備区域に入ることができた。その区域の放射線量は安全なレベル内に自然に落ち着いていたにもかかわらず、内心驚く光景であった。想像とは裏腹に、まだ青々とした、生い茂った、あるいは緑に覆われた地域だった。耳をつんざくような蝉の鳴き声、静かに佇む神社やお墓、そこにあるいつもの情景に少しうるっときた。小学校内の当番表はまだ字が読めるし、引き取りに来ない靴と名札は一緒に持ち主が明日来るのを待っているようだった。ただ、何とも言えない異常さがあり、少し時間が経過してくると「人間だ」と思い至った。人々は一瞬にして消え去り、地震で揺れた塀はそのままで残り、ただ横から新しい蔓数本が伸びていた。学校の講堂も、床も津波で流されて久しいが、国旗がいまだに壁に高く貼られていた。そう、この土地では10年という歳月を感じさせないほど、それらはほったらかされた時のままなのだ。故郷を遠く離れた人も同じなのだろう。どんなに忘れられない思い出があっても、今では非難する時に見た最後の光景しか記憶に残っていないだろう。
 双葉町が避難指示地域を解除するために努力していることは喜ばしいことだ。除染を終えて、双葉町は今、未来への計画を立てているところだ。JR双葉町駅が復旧・新設され、常磐線と接続されたことで、双葉町は孤島ではなくなっている。駅の東側では、新しくできた二葉町役場が移り住む人々の到着を待っており、駅の西側では、帰還者と新たな移住者が共生することをコンセプトとした災害公営住宅プロジェクトが始動している。人々は未来に目を向け、少しずつ新しい可能性を開拓していこうとしている。

20220916-11 JR東日本双葉町駅及び駅前東広場


 「ふれあいセンターなみえ」において、NPO法人コーヒータイム代表、橋本さんのお話を伺った。筆者が得られたのは、復興ということが、壊れた建物の修復や新しい施設の建設だけでなく、かつて存在したが途絶えた社会的関係を修復し、町民がかつて住んでいた社会環境を取り戻すことである。新参の移住者がコミュニティに溶け込めるようにすること、これもまた、模索・検討すべき問題である。 また、筆者は楢葉町において、楢葉町での公務員や社団法人で活躍する若い立命館大学の卒業生を何人か訪ね、彼らとの会話から福島の未来に確信を持った。楢葉町に来る理由は人それぞれだが、ここで自分の能力を最大限に発揮し、自分が温めた構想を実際のものとして実現していく感動を味わうことができる。これは、東日本大震災後、被災地の実情を踏まえて、それまでの計画をすべて覆し、開発目標を見直した福島県の進むべき道でもある。 今年は、福島県総合計画2022-2030の発表と重なり、福島県庁で総合計画の解釈を聞く機会があった。福島の30年先の未来を描き、10年程度先の福島の将来の姿をオール福島まで創り上げる。福島県が取り巻く現状と課題には、復興・再生の現状と課題、地方創生の現状と課題、横断的に対応すべき課題があり、これらを踏まえて、総合計画審議会、地域懇談会、市町村との意見交換、対話型ワークショップ(小中・高校生・大学生)、アンケートなどを組み合わせて県民の意見を集約し、福島県の基本目標を策定した。 正直なところ、これだけ福島の未来を想像するのは難しいが、上記の訪れた方々のさまざまな実践の上に、実現できるだろう。

20220916-12 やまびこ新幹線

追記

 六日間の旅を振り返って、私が得たものは、福島の全体的印象と、震災後の復興に関するさまざまな詳細だと考える。そして何より、震災を経験した多くの人々、被災者、移住者、有志者の人々などと出会い、その信念や努力、生活方式を観察する機会を得たことだと考えている。 冒頭に書いたように、筆者は「復興」という広大な語彙を前にして、適切な結びや結論を見出すことは難しいと思う。しかし、6日間の福島滞在で、美しい自然、おいしい美食、傷ましい災害、不屈の精神…何かを経験したこと、見たこと、聞いたこと、感じたことを書いて伝えたい。もし読者も福島のことを知りたいのなら、まずは「来て」と伝えたい。