何をどう学ぶか

テーマの学際性とは

文化芸術専攻では具体的に、どのようなテーマを、どのように展開できるのでしょうか。「食」「吸血鬼」「ことば」という3つのテーマを例にとってみましょう。

THEME 01「食」

世界の食(文化人類学)

グローバル化によって、食べ物のありようは、大きく変わりました。世界のあちこちで、同じ味のハンバーガーを食べることができるはず。しかしそれとは対極的に、地域固有の食べ物を、伝統を基にしながらも、バラエティに富む新たな調理法でより美味しく食べられるようになってもいます。トマト、バナナ、昆ちゅう、つる草…。食から見せる世界は、「どこでも等しい一つ」と「ここだけの多数」とが競い合う場でもあります。

食の味・美の趣味(美学・芸術学)

芸術作品を前に(あるいは耳に)するとき、専門的にであろうとなかろうと、私たちは何かしらの価値判断を行なっています。そのとき行使する「趣味」を英語では“taste”(テイスト)と呼びますが、ならばそれは、食を味わう場合に作用する「味覚」ないし「味」そのものと同義です。さまざまな料理に触れることで舌が肥えてくるように、芸術鑑賞もまた経験と学識によっていっそう意義深いものとなるにちがいありません。

テーブルマナーと文明化(美学・社会学)

フランス料理には少し窮屈なテーブルマナーがあります。ナイフとフォークの使い方をはじめとするその食事のルールは数百年かけてできあがったものであり、中世のフランスでは王族ですら手で食べていました。食器の使い方が徐々に厳格化したのは、武器と暴力を制限する過程とも直結して、それは「文明化」と見なされます。食事という日常のふるまいが社会においてどのような意味を持つのか、社会学的に考えてみることもできるのです。

「人食い」の比較文学(比較文学・比較文化)

「食人種」に注目してみます。自分を「食人種」だと名乗った人がいたとか、「食人種」が人を食べている現場を目撃したとかいう確実な記録はありません。「食人種」が存在しなかったと断言することはできませんが、「食人種」は「究極の他者」というレッテルなのです。このことが分かると『ロビンソン・クルーソー』『山月記』『ポカホンタス』など、日本や英米のお馴染みの作品たちが、国や時代、ジャンルを超えて結びつき、比較研究ができるのです。

THEME 02「吸血鬼」

現代ハリウッドの吸血鬼(比較文学・比較文化・英文学)

大人気のハリウッド映画『トワイライト・サーガ』シリーズは、人間のヒロインと美しい吸血鬼の男性との恋愛・結婚を描いています。この作品を「異類婚」の物語と見ると、内容がヨーロッパの従来的な異類婚物語とも、日本の異類婚の昔話とも色々な点で異なっていることに気づきます。そこから、物語と社会との関係を様々に考えるきっかけが得られます。映画と原作小説との比較研究も面白いでしょう。

十字架のイコノロジー(美術史学)

映画等が描くドラキュラは普通、十字架を苦手とします。キリスト教徒がその形態に寄せる思いとは対照的ですが、しかし正直言って、一人の男が磔(はりつけ)にされた刑具に何らの恐怖も抱かないほうが、むしろ特異なのではないでしょうか。実際、そうした恐怖心喚起の可能性ゆえ、十字架を立派に描き、あるいは彫ることが躊躇された時代もありました。形態の背後の、精神のこうした機微も、美術史学の研究対象に他なりません。

他者の表象(植民地研究・国際関係論)

アンデス高地に住む先住民族の人びとの間では、社会的な不安が高まると、「ニャカクNacaqがやってくる」という噂が、町全体を覆いつくすことがあります。「ニャカク」とは、子供たちをさらって血と脂を絞り取る「白人の吸血鬼」です。「ニャカク」は、植民地支配の歴史を背景に、「よそ者の魅力」と「よそ者への反発」が入り混じって生まれ続ける、圧倒的な現実の喩え話なのです。

日本の鬼(民俗学)

地獄の赤鬼、青鬼といった仏教の影響を日本の鬼から取り除くと、鬼には非常に古代から伝わる一連の観念が見られます。鬼とは人食いです。福島の安達ヶ原の鬼婆は、旅人の生き肝を食らい、鹿児島の鬼は末っ子の手の指をぼりぼり食べる。また目が一つしかなく、山から下りてくる鬼もいます。人を食らうという点で、鬼は死霊であり、それも自らの位運命に生きている人間を引きずり込もうとするその飽くなき欲求に特徴があるのです。

血の聖像の奇跡(美術史学・宗教学・説話文学)

少し派生する話題となりますが、血と言えば、マリア像が血の涙を流すといった奇跡が(それが実際にあり得たかどうかはともかくとして)、語られることがあります。仏像についても、突然、光を放って動き出す、天変地異の前触れとして、頭が落ちちゃう等々、こうした伝説に事欠きません。キリスト教や仏教をはじめとした宗教美術を、芸術作品として分析できるのは勿論ですが、宗教美術を、それにまつわるさまざまな信仰や伝説との対応関係、あるいは当時の社会における受け入れられ方などを考えるのも、宗教美術を扱う醍醐味の一つです。

THEME 03「ことば」

関西弁と標準語(言語学、方言学、社会言語学)

〈問い〉
つぎの文を関西弁に直しなさい 「東門を出てまっすぐ行って、西大路まで出たら右に曲がって、北野白梅町駅まで行ったら、そこを左に曲がって、そのまま今出川通りをずっと進むと、右手にあります」

〈答え〉
「東門出てずっと行って、西大路んとこでガってまがって、北野白梅町までバーッと行って、ガって曲がって、今出川をダーーーッと行った右にあるで」(授業での学生の創作)

擬音語・擬態語そのものの研究や、関西弁におけるその多用また標準語における節約的な使い方などが研究対象です。そのほかの言語現象一般についても履修モデル「言語表現と文化」で学べます。

マンガにおける描き文字(表象文化論・社会言語学)

マンガの中には文字があふれています。フキダシに書き込まれた搭乗人物たちの台詞だけじゃありません。「ゴゴゴッ!」「ザンッ!」「バシッ!」といった擬音語・擬態語がたくさん盛り込まれています。描き文字とも呼ばれるこれらの表現から、私たちは、その場面の雰囲気や、登場する人物の動きを読み取ることができるわけです。しかし、なぜ「読み取れる」のでしょうか?そこには、マンガにおける表現の歴史、さらには私たちの言葉の習慣が深く関わっています。

声の政治(社会運動論)

フランス革命に大きな影響をおよぼした啓蒙思想家、ジャン・ジャック・ルソーは、聴衆に直接向けて発せられる、具体的で理路整然とした「声の政治」のもつ力を高く評価しました。そして彼の指摘が的を射ていることを、私たちは今も確認できます。落語や漫才、アジテーション(煽動演説)、そして大学での講義の「声」が、どれほどの力をもっているかをじっくりと考えてみませんか。

文学作品のことばと翻訳(比較文学・比較文化・日本文学)

日本語で書かれた小説などの文学作品を、例えば英語に翻訳されたものと比較すると、語順や文の区切り方も違い、随分と雰囲気が変えられていると感じるでしょう。ことばは翻訳できても、文化は翻訳できないことがあります。比較によって原作の隠された特徴を発見できたり、その英語訳を読む人々の言語観や社会についての考察が深まったりします。さらに、日本語に近いと言われる朝鮮語の翻訳と比べてみると何が見えるでしょうか。

ポスターとことば(美学・芸術学)

絵画は、ことばとは対照的な伝達手段と考えられがちです。しかし、ことばが銘記されることで特殊な社会性を有することとなった絵画が古来、存在します。あるいは現代のポスターは、ことばとイメージの相乗効果を最大限利用しようとする意思の産物です。ある種の美学的観点からは、しかしこう述べておきましょう―すなわち、ことばが現に書き込まれていようといまいと、美術はつねに一種のことばであり続けてきたのだ、と。

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