浮世絵に魅せられて

2019.01.07 TOPICS

浮世絵に魅せられて 公益財団法人 大和文華館 館長   浅野秀剛さん(1974年理工学部卒)

 故郷は秋田県の能代市で、秋田県立能代高等学校出身なのですが、数学や理科の成績が比較的良く、理系に進もうと京都の国立大学を受験しました。正直、受かる自信はなく、結果はやはり不合格。京都で1 年間浪人生活を送ることになりました。
 当時の秋田県には美術館などの文化施設がほとんどありませんでしたので、京都で美術品に触れ、魅了されました。浪人生ながら時間があれば美術館・古社寺巡りをするようになっていました。
 立命館大学に進学していた高校時代の先輩に誘われ、古美術研究会の研究成果の展示を見に学園祭へ足を運びました。このときの絵画のテーマが「浮世絵」。これが浮世絵との初めての出合いだったように思います。「せっかく来たのだから、わからないことがあれば聞いて」と先輩に促され、いくつか質問をしましたが、納得できる回答は得られませんでした。私が不満を漏らしたところ、それなら自分で調べたらいいと言われたことを記憶しています。大学受験を終え、複数の私立大学に合格した私は、学費が一番安かった立命館大学に進むことにしました。入学してすぐ、当然のように古美術研究会に入りました。前年の学園祭での出来事もありましたので、浮世絵を研究することにしたのです。それからの私の生活が、勉強よりサークルがメインになるまでに時間はかかりませんでした。当時、理工学部は衣笠キャンパスにありましたが、研究会の活動拠点である広小路キャンパスに通い、土・日は見学会と称して寺社や美術館巡りをしていました。3 回生のとき、古美術研究会の会長になるように先輩から言われましたが、辞退しました。しかし、引退時期の4回生で立候補し、サークル活動を継続。卒業論文や就職活動に取り組まなければいけないという気持ちはなく、そもそも卒業する気がありませんでした。研究を続けるため単位を少し残して留年するつもりだったのです。ところがゼミの教授から「物理を真面目に学ぶ気がない君のような学生が留年すると、他の学生の士気に関わるから、追試を受けて卒業しなさい」と言われ、しぶしぶ卒業することに。当時は就職口も多い時代で、教務室には職を斡旋する案内がありましたが、「だれが就職なんかするか」と、今でいうフリーターの道を選びました。

浮世絵の世界に飛び込む

なまこ壁が美しい大和文華館の外観
なまこ壁が美しい大和文華館の外観

 卒業して1年半ほど京都の錦市場でアルバイトをしながら浮世絵の研究をしました。強がってはみたものの、今後どうやって社会と関わりながら生きていったらいいのだろうか、自分は何ができるのだろうかと初めて考え、悩みました。大学を卒業はしましたが、私には浮世絵しかなかったのです。自分なりに浮世絵の論文を書き、それが一応完成したので、東京に引っ越しました。東京では午後の時間がとりやすい築地市場で働きながら研究を続けました。そして、東京にある日本浮世絵協会(現・国際浮世絵学会)に入会。若い人が集まって開催している浮世絵の研究会にも参加をしました。
 活動を続けていくうちに協会の機関誌『浮世絵芸術』の編集長と話す機会があり、自分の論文を見せました。すると、「手直しが必要だが、学会誌に載せる」と言われ、驚きました。独学での論文でしたし、あんなものでいいのかなと多少不安もありましたが、編集長の指導の下、一生懸命に手直しをし、無事に掲載されました。
 時期を同じくして、協会が編集する浮世絵百科事典をつくることになりました。出版社の社員が浮世絵研究会のメンバーで、仕事を手伝ってほしいと私に依頼があり、喜んで引き受けました。制作に本腰を入れるため、築地での仕事を辞めたところ、嘱託の編集者として働かせてもらえることになりました。当初は校閲担当でしたが、浮世絵の原稿や事典の下書きをする、あるいはそれ以上の仕事をする研究者が非常に少なかったため、原稿執筆も担当するようになりました。発刊までの4年間、週2 回の休み以外は1 日14 時間の労働でした。もちろん楽しかったのですが、若くて体力があったから持ち堪えたようなものです。百科事典が完結したのは1982 年、私が31歳のとき。完結後は仕事がなくなり、困って編集委員長に相談したところ、学芸員の資格を取るように言われました。通信教育で学び、1年かけて資格を取得。その間、友人と学習塾の共同経営や他の仕事をしながら、美術史の論文を書き続けていました。
 34 歳で千葉市教育委員会の中途採用試験を受け、学芸員の職に就くことができました。すでに結婚して子どもがいたので、やっとまともに給料をもらえると、妻とともに大喜びしたことを覚えています。千葉市立郷土博物館などへの配属を経て、千葉市美術館の開設準備に携わることになり、1995 年に千葉市美術館がオープンしました。学芸員の中で一番の古株だった私が開館記念展を担当し、大英博物館(英国)との国際共同企画で「喜多川歌麿展」を開催。大英博物館の学芸員ティモシー・クラーク氏と共編で、当時では珍しいバイリンガルのカタログもつくりました。
 その後、管理職になりましたが、研究を続け、論文だけでも100 本を超す量を書いていました。そして50 歳を過ぎてから博士号を取得。約23 年間、公務員生活をした後、2008 年に大和文華館の館長に就任。2013 年からは翌年にオープンしたあべのハルカス美術館の館長も兼任しています。また、2014 年に国際浮世絵学会の理事長に就任しました。23 歳で退路を断たれ、浮世絵の世界に飛び込んだ私が、理事長の座に就けたことはうれしい限りです。

浮世絵の面白さ

 浮世絵の特徴は、作品の数が多いことです。版本、肉筆画、木版画を合わせて世界中で100 万を超える数が残っているので、その中から自分の好きな作品やテーマを選んで研究できることも魅力です。特に版画は、江戸時代の日本人にとって安価で身近なものでしたが、欧米人が価値を見いだし、美術品として輸出が増えたことで価格も上昇しました。そのような経済活動と同じ次元で研究ができることも面白い点です。昔は研究がしにくかった春画も、今では堂々と研究ができるようになりました。立命館の校友で、国際日本文化研究センター特任助教(人間文化研究機構 総合人間文化研究推進センター特任助教 併任)の石上阿希さん(’08院文)は、女性で初めて春画研究者と公言した方だと思います。まだ春画に対する偏見が残っているのも事実ですが、浮世絵の大事な分野の一つとして扱われるようになってきて、私は良かったと思います。

人生を楽しむ

 昨年、能代市立能代第一中学校の70 周年記念事業で、中学生に向けた講演の依頼がありました。中学生に浮世絵の話は面白くなかろうと、フリーター時代の話を中心にしました。先生方はともかく、生徒には好評で質問が相次ぎました。「好きなことをそのまま頑張って続けていけば、なんとかなるものでしょうか?」という質問に対して、「私は運が良かっただけで、誰しもが必ずしも実を結び、大きな成果が出るとは限らない。しかし、結果はどうであれ、その行為自体はその人にとって人生の中の貴重な1ページになる」と答えました。そして「誰でも世間や社会と、自分の思いがうまくミックスしないことが起きる。そのときにどのように折り合いをつけるかが大切。バランスが難しいが、若い君たちは今後、そのような局面を何度も迎えるから、逆に楽しいのではないか」と付け加えました。
 これまで歩んできた中で、20 ~ 30 代に考え方が大きく変わったことがあります。それは無責任に他人を全否定しないことです。どんな人でもその人なりの思いや気持ち、考え方、そして人生がある。受け入れ難いと思う人でも、自分の基準ではなく、相手の基準で物事を見てみる。その上で対話することが大切だと考えるようになりました。そうしないと、社会のバランスが取れなくなっていく。全部を肯定する必要はありませんが、それぞれを認めた上で、良い方向にいくにはどうするかを考えることが肝要だと思っています。
 浮世絵の研究を始めた動機自体は貧弱でしたが、研究は私のライフワークです。昔は苦痛だった執筆も数を重ねることで、楽しめるようになってきました。浮世絵や美術に関しての講演などは、基本的にお受けするようにしています。浮世絵を「見る」楽しみと同時に、浮世絵を「調べる」楽しさを、みなさんにお伝えできればと思っています。

出典元:校友会報「りつめい」No.273 (2018年7月号)
撮影協力:公益財団法人 大和文華館
写真撮影:津久井 珠美

PROFILE

浅野 秀剛さん
1974年理工学部卒
公益財団法人 大和文華館 館長
あべのハルカス美術館 館長

千葉市美術館学芸課長を経て、現職。国際浮世絵学会の理事長も務める。
奈良県北部校友会(立命若草会)参与。

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