SPECIAL CONTENTS #1 岡本先生を語る

外務省で築いた一時代。あれほどの外務公務員は二度と現れない

薬師寺宮家先生は、岡本先生とは外務省時代からの長いおつきあいでしたね。

宮家岡本さんと初めて会ったのは、1981年のことです。1980年に外務省に入省し、研修生としてエジプト・カイロでアラビア語を学んでいた時の指導教官が岡本さんでした。若かった私は、ずいぶん生意気な研修生だったのではないかと思います。ジーンズ姿に髪を肩まで伸ばし、一等書記官の彼に挨拶したら、開口一番からかわれました。「出身はどこだ」と聞かれたので「神奈川県です」とお答えしたら、「同郷じゃないか」と驚いておられました。そのような出会いから約40年。長きに渡り、これほどお世話になるとは、当時は夢にも思いませんでした。

長田誰からも愛された岡本先生のお人柄がにじみ出ていますね。

宮家その後も岡本さんとは不思議とご縁がありました。数年後に湾岸戦争が勃発した時、私はイラクに赴任しており、バグダッドからアメリカの日本国大使館に公電を打ち続けていました。ワシントンでそれを読み続けてくださっていたのが、後に北米局北米第一課長となる岡本さんだったのです。休暇で帰国する前にワシントンで再会した時、「電報を毎日読んでいたぞ」と言われ、公電を読んでくれていたのが岡本さんだったと初めて知りました。現地の状況を必死の思いで綴っていましたから、その言葉で報われた気がしました。
私にとっては尊敬すべき先輩であり、ロールモデルであり、メンターであり、愛すべき「うちの親分」でした。エジプト時代から立命館大学で一緒にプログラムを担当した今年まで、ずっと岡本さんの背中を見ながら歩いてきたようなものです。

宮家 邦彦
立命館大学 客員教授、内閣官房参与、キヤノングローバル略研究所研究主幹

1953年、神奈川県生まれ。
東京大学法学部卒業後、外務省入省。外務大臣秘書官、在米国大使館一等書記官、中近東第二課長、中近東第一課長、日米安全保障条約課長、在中華人民共和国大使館公使、在イラク大使館公使、中近東アフリカ局参事官を歴任。2005年8月退官。安倍内閣で総理大臣公邸連絡調整官。
現在、内閣官房参与、キヤノングローバル戦略研究所研究主幹、国際情勢アナリスト。

薬師寺1991年の湾岸戦争時、私はジュネーブにいました。国連国際法委員会の傍聴の機会を外務省から与えて頂いて、国際法委員会の故・小木曽本雄委員の助手として主権免除条文の草案作りを傍聴し、お手伝いをしておりました。「砂漠の嵐作戦」開始のニュースが流れたのを聞いたのはジュネーブの博物館でした。博物館のいつもであれば各陳列室にいる案内の職員さんが一人もいなくなり、テレビに釘付けになっていました。その年の4月から7月に任期を終えるまでの3カ月間はとりわけ忙しく、大使もILCの担当の法務部の方も、そのお手伝いをした私も条文草案を完成させることに集中していました。ちょうどその頃、外務省から来られた外交官の方が「尊敬している上司が外務省を辞められた」と話しているのを聞きました。当時は条文草案のことで頭がいっぱいでしたが、今思うと、あの時の話題の人物は、岡本先生ではなかったかと思います。

宮家岡本さんが外務省を退官されたのが1991年ですから、おそらくその通りでしょう。私は岡本さんが辞表を書く際に立ち会いました。ある日、私は北米局の参事官室に呼ばれて行くと、岡本さんが一人で部屋に座っておられ、「今から辞表を書くから、横で黙って見届けて欲しい」と言われました。外務省に入省以来、彼の生き様を追いかけ続け、退官も見届けることになったのです。ですから私が外務省を辞める時も、岡本さんにだけは相談しました。
彼が外務省を辞した本当の理由はわかりません。しかし確信を持って言えるのは、岡本行夫という人物は組織の枠に収まるような小さな男ではなかったということです。岡本さんのような外務公務員は二度と現れないでしょう。間違いなく彼は、一つの時代を築いたと思います。

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