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加藤周一先生の経歴と写真

加藤周一(一九一九―二〇〇八)は、戦後日本を代表する国際的な知識人である。知識人としての加藤の特徴は、ものごとを理解するに専門的な視点だけから見るのではなく、たえず全体的視野のもとに収めようとしたことにある。もうひとつの特徴は、科学者の合理的思考を身につけ、豊かな詩人の感性に満ちていたことである。加藤の書く文章には、論理的明晰さと詩的な美しい表現とが結びついていた。

加藤は、東京府立第一中学校、第一高等学校を経て、東京帝国大学医学部に進学する。幼少時から読書に親しみ、小学時代に日本の抒情詩に惹かれ愛読し、中学時代に芥川龍之介を知り、『万葉集』に接する。大学時代に医学を学ぶかたわら、フランス文学研究室に出入りした。フランス文学者渡邊一夫の薫陶を受けてフランス文学への関心を深め、法律学者川島武宜の知己を得て、川島の主宰する勉強会にも参加した。

「戦争反対」を貫き、「少数派」として生きた渡邊、川島と接したことは加藤に深い影響を与え、加藤は戦時下の狂信主義から身を守ることが出来たのである。

敗戦直後には「原爆影響日米合同調査団」に加わり、広島で調査研究に従う。一九五一年にフランスに留学し、医学のみならず、文学、ことにフランス文学、さらにヨーロッパ美術、音楽、演劇、そしてヨーロッパ思想を深く学んだ。ヨーロッパ文化を知れば知るほど、日本文化を学びなおす必要性を痛感して一九五五年に帰国し、一連の「雑種文化論」を発表する。

一九六〇年から六九年までカナダのブリティッシュ・コロンビア大学で教鞭をとる。加藤自身がいうように、この十年間は「蓄積の時代」であり、日本文学史・美術史の研究を重ねた。その頃につくられた厖大な「研究ノート」は本文庫に収められる。その「蓄積」が花開くのは一九七〇年代から八〇年代にかけてのことであり、『日本文学史序説』や『日本 その心とかたち』を著した。

加藤の仕事は日本文化史研究だけではなかった。国内外の政治情勢や社会問題に対しても発言を続けた。「政治は嫌いである」といいつつも、加藤はたえず政治に関心を向けた。政治は黙っていれば、向うから押し寄せてきて、土足で入りこんでくるものだと考えていたからである。連載「山中人閒話」や二四年間続けた連載「夕陽妄語」には、加藤の政治的信条がしばしば述べられたが、政治的無関心を厳しく排し、たえず権力と対峙しようとした。それにもかかわらず、加藤はいかなる権力からも遠くに位置し、多数派の意見に与することはなかった。そういう考え方をしていたからこそ、二〇〇四年に「九条の会」の呼びかけ人のひとりに名を連ねたのである。晩年の加藤は憲法九条の擁護に精力を注いだ。

加藤の思想と行動は、硬直することなく「しなやかさ」にあふれていた。いわば「二枚腰」の思想と行動の持ち主だった。だからこそ、どんな場合にも決して「希望」を捨てなかった。希望を捨てない限り「敗北」はないからである。

忘れてならないもうひとつの加藤の特徴がある。それは「人生を愉しむ」姿勢である。文学を愉しみ、美術や音楽や演劇に親しみ、友人との交流を悦んだ。どんなときにも「人生を愉しむ」ことをないがしろにすることはなかった。

「思うに憲法第九条はまもらなければならぬ。そして人生の愉しみは、可能な限り愉しまなければならぬ……」(加藤周一『高原好日』)

この姿勢こそが「加藤周一」である。