略年譜解説

説文解字 (せつもんかいじ)

15巻。後漢の学者許慎(?~120年頃)が西暦100年に著した最古の字書。異なる字体を比較して字形から意義を説明したもので、その体系的な字形学は、今日に至るまで文字学の基礎となってきた。『説文解字』のテキストには宋・徐鉉らが校定した本書のほか、徐鉉の弟・徐鍇の「説文解字繋伝」があり、それぞれ大徐本、小徐本と称する。また注釈としては、清の段玉裁(1735~1815)の「説文解字注」があり、権威のあるものとされている。

広瀬徳蔵 (ひろせとくぞう)

1878(明治11)年5月生まれ。関西法律学校(現関西大学)卒。判事をやめて弁護士を開業。大阪府会議員などをへて、1924(大正13)年から衆議院議員(当選4回,民政党)。宝塚尼崎電鉄,大阪土地建物などの役員もつとめた。1933(昭和8)年5月、死去。大阪府出身。白川は、1923(大正12)年から1927(昭和2)年まで広瀬の事務所につとめた。

小泉苳三 (こいずみとうぞう)

1894(明治27)年4月、横浜市に生まれる。東洋大学専門部二科を卒業。1930(昭和5)年、長野県立女子専門学校教授に就任。1932(昭和7)年、立命館大学専門学部教授。1940(昭和15)年、歌書・雑誌約3500冊を大学に寄贈(後に「白楊荘文庫」として、約8000冊を所蔵)。1941(昭和16)年、立命館大学法文学部の教授となる。1947(昭和22)年、教職不適格により大学の職を免ぜられる。1953(昭和28)年、関西学院大学教授に就任。1956(昭和31)年11月、死去。著書に1938(昭和13)年、『明治大正歌書年表・増補版』(立命館出版部 1937年刊)、『明治大正短歌資料大成』(鳳出版 1940年刊)、『山西前線』(立命館出版部 1940年刊)その他多数。白川の教育上の恩師にあたる。

橋本循 (はしもとじゅん)

1890(明治23)年6月、現在の福井県越前市に生まれる。京都帝国大学文科大学文学科修了。1928(昭和3)年、立命館大学予科教授兼専門学部文学科講師に就任。1946(昭和21)年、法文学部文学科部長兼専門学校文学科部長に就任。爾後、学制改革後の文学部長および文学研究科長を数次歴任。財団法人および学校法人立命館の理事に就任。1959(昭和34)年、特別任用教授に就任。1969(昭和44)年、立命館大学名誉教授を授与される。1988(昭和63)年5月死去。著書に『訳注楚辞』(岩波書店 1935年刊)、『王漁洋』(集英社 1964年刊)、『中国文学思想管見』(朋友書店 1982年刊)、その他多数。白川の研究上の恩師にあたる。

倉橋勇蔵

1903(明治36)年12月生まれ。1930(昭和5)年3月立命館大学専門学部文学科卒業。卒業と同時に、立命館中学校教員嘱託。1937(昭和12)年3月、同校主事。同年5月、大学本部幹事。その後、財団法人立命館の常務理事・専務理事を歴任。倉橋から1935(昭和10)年、白川は立命館中学の教員に就任するよう要請された。倉橋は、中川小十郎の特命を受けて「満州国」との関係など主として対外的折衝に活躍した。1991(平成3)年12月、死去。

戦前の立命館中学(北大路)学舎

1922(大正11)年に、広小路から北大路に学舎を移転した。白川はここで教鞭をとった。立命館中学校・高等学校は京都市伏見区深草に移転。跡地は2006(平成18)年より、立命館小学校となっている。
中学教員時代の授業風景
「当時はまだ体罰などいくらでもあった時代でしたが、先生は声を荒げて生徒を叱るようなことは一切なさいませんでした。」 (立命館中学校第37回卒業生回想。『りつめい』№220)

学徒勤労動員

1938(昭和13)年4月、国家総動員法が制定され、以降1944(昭和19)年には「勤労=教育」とする「緊急学徒勤労動員方策要綱」、通年動員態勢を採用する「決戦非常措置要綱」が決定された。1945(昭和20)年3月「決戦教育措置要綱」によって国民学校初等科以外の授業は停止された。
大学から中等学校の生徒は、兵器などの生産、防空壕の建設、建物疎開など、直接戦争の遂行に役立つ勤労奉仕に動員された。立命館からも豊川海軍工廠(愛知県豊川市)や舞鶴第三海軍火薬廠(京都府舞鶴市)を始め、30を超える工場に延べ3000人近い学徒が派遣され、豊川海軍工廠の4人など少なくとも7人が空襲などで死亡した。
豊川では、作業者でない我々が作業場に入ることを禁じた。(中略)悲劇は我々の非番のときに起きた。艦載機のグラマンが来ると、警報と共に廠の高官たちが廠外に脱出するのである。怒った学生たちが路上を塞ごうと集まったところを掃射されて、多数の犠牲者が出た。私の古い教え子も一人は犠牲となり、一人は数日後、困憊した姿で帰ってきた。(「私の履歴書」より)※1945(昭和20)年8月7日

卜辞の本質 (ぼくじのほんしつ)

論文初期三部作の第一作目。『立命館文学 62号』(1948年1月)誌上に発表された。白川はそのなかで、卜辞を帝王の記録として見るのではなく、占いによる王の神聖化にその本質を求めるべきであることを論じている。この論文に続いて「訓詁に於ける思惟の形式について」(64号、1948年3月)、「殷の社会」(66号、1948年9月)の二作が、同じく『立命館文学』誌上に発表された。

甲骨金文学論叢 (こうこつきんぶんがくろんそう)(1955-1962)

甲骨文字や金文には、活字にない字が非常に多く、一般学術誌に寄稿するには、大変な困難をともなう。そこで白川は手書き原稿をコピーし製本するという発表の形態をとった。それがこの『甲骨金文学論叢』である。「史」一字の成り立ちに言及した「釈史」や、同じく「文」一字の成り立ちに言及した「釈文」などの論文をこの場で発表した。この発表形態によって、豊かな漢字の世界を具体的に論じることが初めて可能となった。
この時期は、いわば「ガリ版」の時代であった。しかし「ガリ版」にしてはじめて可能な研究の分野であった。『論叢』はその意味で、私の研究にとってまた一つの時期を画するものであった。(「私の履歴書」より)

金文通釈 (きんぶんつうしゃく) (白鶴美術館 1964年-1984年刊)

金文とは、むかし中国に殷や周といった国が栄えていたころ、青銅器に刻まれた文字のことである。白川はこの著作によって、膨大な数にのぼるその金文ひとつひとつに、詳細な解釈を加え、他の追随を許さぬ壮大な体系を打ち立てた。そのはじまりは樸社という組織において白川が行った金文の講義に端を発し、その後その内容が『白鶴美術館誌』に連載された。

説文新義 (せつもんしんぎ) (白鶴美術館 1969年-1974年刊)

後漢の学者許慎が『説文解字』という字書をしるし、漢字の成り立ちについて解説をおこなった。その後、許慎の説をくつがえすような論説は現れなかった。ところが白川は、この著作により許慎の誤りを看破し、許慎の説に代わる、新たな体系を示した。これも樸社において白川が行った『説文解字』の講義に端を発し、その後小野楠雄(樸社同人)の支援により、1969年から刊行された。

漢字の世界 (平凡社 1976年刊)

甲骨文・金文を十分理解するには、古代文字そのものについての知識を必要とする。本書はそのような立場から、文字の成立した社会と文化を背景として、そのすべてを有機的な関連のなかで理解しうるものとすることを意図した著作である。当時利用しうる甲骨文・金文の文字資料のうち、ほとんど大部分を収録し、1460字について解説を加えている。
「中国文化の原点」という副題を加えたが、それは古代文字の研究は、その字源を明らかにするということだけでなく、その文化の起源的な状況をも明らかにするものでなくてはならぬという、私の考えにもとづいている。(「私の履歴書」より)

稿本詩経研究 (1960年刊)

大学院での講義案としてまとめられたもの。博士課程の講義案である「通論篇」と修士課程の講義案である「解釈篇」からなる。詩篇の文学的生命は儒教的価値観による説話的解釈によって圧殺されており、これを離れ詩篇を文学として理解すべきであることを述べている。「通論篇」では、詩篇の成立と背景、詩篇の伝承、詩経解釈学の成立と推移、経学としての詩経学の批判など、詩経研究の基礎的な分野を扱っている。「解釈篇」では、詩の系列化を主題とし、詩の展開を社会生活との対応においてとらえている。

興の研究 (1960年刊)

『稿本詩経研究』の別冊として編まれたもので、本稿も修士課程の講義案である。従来、「興」とは、ある主題を詠むのに先立ってその主題に似た現象をとらえて歌い興すもの、といった説明がなされてきたように、修辞的な問題としてとらえられてきた。しかしその背後には、日本文学における序詞・枕詞と同様な民族的事実がその発想の背景としてある。本稿では、この問題の構造的な理解を試み、興的発想と古代的思惟・民族との関係を中心に、その理解の方法と、その発想の持つ性格について述べている。

初期万葉論・後期万葉論 (中央公論社 1979年刊、1995年刊)

初期万葉論では、主に柿本人麻呂の挽歌を分析し、「短歌の本質は儀礼における鎮魂・魂振りとしての、呪歌であった」と指摘する。後期万葉論では、人麻呂に関心を払いつつ、それ以降の旅人・憶良・家持らの歌を中心に分析がなされ、七夕論や表記論などについて論じている。
『万葉』についての考説を試みることは、私の素願の一つである。はじめに中国の古代文学に志したのも、そのことを準備する心づもりからであった。(初期万葉論「あとがき」より)

中国・台湾の研究者との交流

楊樹達 (ようじゅたつ ヤン・シュータァ)1885~1956

近現代中国を代表する文字学・言語学学者。その研究は広範にわたり、甲骨文に関する論文も豊富である。著書には『耐林廎甲文説』、『積微居甲文説』などがあり、その甲骨文研究の成果は「楊樹達先生甲骨文論著編年目録」によって整理されている。またその主要な功績は「楊樹達文集」としてまとめられている。
私はその頃、台湾の屈万里先生、中国の楊樹達先生と文通、時に抜き刷りを交換したが、纏まった著作を頂くことが多かった。(「私の履歴書」より)

屈万里 (くつばんり チュイ・ワンリィ)1907~1979

元国立台湾大学教授。専門は経学・文字学・目録学など多岐にわたる。その著書には「殷墟文字甲編考釈」「詩経釈義」「尚書釈義」などがあり、その功績は「屈万里先生全集」としてまとめられている。

張秉権 (ちょうへいけん チャン・ピンチュエン)1919~1997

文字学を専門とし、長きにわたり台湾の国立中央研究院歴史語言研究所に勤めた。その著書に「殷虚文字丙編」「甲骨文与甲骨学」などがある。論文には、「甲骨文中所見人地同名考」や「卜辞甲申月食考」など、甲骨文に関する論考が多数ある。

杜正勝 (とせいしょう トゥー・チョンション)1944~

中国古代史を専門とし、台湾の国立中央研究院歴史語言研究所所長、故宮博物院院長を経て、現在は教育部長(文部大臣)。その著作には「編戸斉民・伝統政治社会結構之形成」や「古代社会与国家」などがある。論文も多数あり、「伝統家族試論」や「考古学与中国古代史研究」などがある。

楊寛 (ようかん ヤン・クァン)1914~

中国古代史を専門とし、上海市博物館長、光華大学。復旦大学教授。文化大革命で受難。1986年名誉回復。アメリカに移住。旺盛な著作活動を続ける。中国学界の最長老。著書に『歴史激流楊寛自伝』(東京大学出版会 1995年)がある。

欧陽可亮 (おうようかりょう オウヤン・コォリャン) 1918~1992

1918年、北京に生まれる。欧陽詢(557~641 中国の唐初の書家)の直系44代目の子孫で、甲骨文字の書家で研究者。1992(平成4)年、東京都三鷹市において没。欧陽可亮が京都在住時に白川と交流をもつ。

著作

漢字 (岩波書店 1970年刊)

漢字の世界を概観することを目的に著された一般向けの書。白川のそれまでの著作は『金文通釈』『説文新義』など、専門的、学術的な内容のものばかりであったが、「学問は、その成果が、本来一般に還元できるものでなければならない。何らかの方法で一般に還元することができて、はじめて研究の意義があるわけである」(「私の履歴書」より)との考えのもと執筆された、白川の初の一般向けの著書である。

詩経 (中公新書 1970年)

『詩経』は中国最古の詩歌集でありながら、儒教の経典としてその解釈がゆがめられ、古代歌謡の本来の姿は早くから失われた。本書は、人間としての今とかわらぬ感情に直接ふれる解釈に到達することを目標とし、古代歌謡としての『詩経』を理解しようとしたものである。
六十歳を期して一般書の執筆を志していた私は、岩波新書の『漢字』に続いて、『詩経』と『万葉集』との比較文学的研究を主点とする中公新書の『詩経』を書き…(「私の履歴書」より)

孔子伝 (中公叢書 1972年)

『歴史と人物』(中央公論社)に一部連載。道徳的な絶対的聖人としての孔子像を打ち砕き、最も狂者を愛し、自身の高い理想に敗北し続けた思想家として孔子を捉え、画期的な孔子論として読者に衝撃を与えた。酒見賢一『陋巷に在り』は本書の影響を受けて書かれたものとして知られる。
私が『論語』を、教室の講義のためでなく、自らのために読んだのは、敗戦後のことであった。あの敗戦のあとの、やるせないような虚脱を味わわれた方には、理解して頂けることかと思う。私の机辺には、いつとはなく、『論語』と『聖書』とがあった。(本書「文庫版あとがき」より)

字統 (平凡社 1984年)

漢字の構造を通じて、字の初形と初義を明らかにした「字源の字書」であり、その初形初義より、字義が展開分化してゆく過程を考える「語史的字書」であり、また、そのような語史的な展開を通じて、漢字のもつ文化史的な問題にもふれようとする「漢字文化の研究書」である。要約していえば、漢字の歴史的研究を主とする字書である。
私は学校を退くと、直ちに字書の執筆に着手した。まず字源の書を作るべきである。これは今までの内外のどの字典においても、私を満足させるものはなかった。(「字書を作る」より)

字訓 (平凡社 1987年)

日本において漢字を国字として使用し、その訓義が定着するに至った過程を、「古事記」「日本書紀」「万葉集」などにみえる古代語の表記法に求めて、その適合性を検証している。国語のもつ多様な表記法の全体にわたって、漢字との対応関係を概観することが本書の意図するところである。
[万葉]はかねてわたしの愛誦するところであり、[紀][記]の中にも、その表現のうちに苦闘する当時の精神のありかたが見える。そこに国語の出発点がある。その姿を見極めようと思って、私は[字訓]を書いた。(「字書を作る」より)

字通 (平凡社 1996年)

漢字本来の字義と、その用法を通じて示される字義の展開について明らかにした辞書。その用例は、かつて国民的な教養の書として親しまれていた文献や詩文から求め、読み下し文で掲げている。
文字を通じて、その文字の表現する所を通じて、東洋に回帰する道を求めなければならない。そのために字書を通じて、その表現にふれる機会を多くもつ必要がある。そのような思いで、私は[字通]を書いた。(「字書を作る」より)

常用字解 (平凡社 2003年)

常用漢字1945字に絞って、字形・字源・用法について漢字の基本構造から解説している。漢字について、最も基本的な字形の構造についての学習を目的として執筆され、中・高校生以上の読者に向けて平易に書き下ろした、漢字の入門字典である。
漢字を学習するときに、その成り立ちについての正確な理解があるならば、文字学的な基礎も用意され、学習はいっそう効果的となるであろう。(本書解説より)

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