法学部の歴史

HISTORY

1900-1922 1900-1922

草創期

立命館大学法学部は、1900年5月19日に私立京都法政学校として京都府から認可され、同6月5日に開校式典を開きました。京都の法律学校としては、明治20年代にも京都法学校が設けられていましたが、この京都法学校を吸収する形で本学は創立されました。

創立者は東京帝大法科大学出身の中川小十郎、学長は東京帝大教授の富井政章であり、京都帝大教授の井上密や織田萬、雉本朗造などが学校運営の中心的役割を担っていました。その後1903年には、専門学校令による私立京都法政専門学校に改称、1913年私立立命館大学と改称しました。

この時期の法学の特徴は、夜間の専門学校として発展してきたことであり、1899年に創設された京都帝国大学法科大学の教授陣が、そのまま本学の法律学の大半の講義を受け持つ形で運営されてきた点であるといえます。

1922-1945 1922-1945

大学昇格

これまで専門学校であった立命館大学は、1922年第一次世界大戦後、大学令による大学に昇格しました。大学昇格のためには、基金、図書、専任教員などが必要であり、この大学昇格を契機に本学でも専任教授制が発足しました。最初の専任教授となったのは、立命館中学を経て京都帝国大学を卒業した板木郁郎(民法)であり、立命館大学では板木を専任教授として迎えるためドイツに留学させています。板木に続いて、次々と専任教授が生まれましたが、本学法学部にとって画期となったのは、1933年の京大事件でした。この時には、京大事件で辞職した佐々木惣一以下の教授・助教授等17名を本学に招聘し、それ以前の専任教授が6名であった本学法学部の陣容は、一挙に充実することとなりました。

こうした本学への招聘は、総長の中川小十郎の言うように京都帝大との「特別の因縁」に基づくものでしょう。佐々木惣一は、その後本学学長にも就任していますが、戦時下の立命館はむしろ国家主義的な潮流に結びついていました。

1945-1981 1945-1981

戦後の
広小路時代

敗戦直後の1945年11月、法学部出身者で総長代行の地位にあった石原広一郎は、末川博を学長に招きました。この末川博学長の下で本学の民主化が進行し、「平和と民主主義」の理念が本学の教学理念として掲げられることとなります。そうした中で、平和問題談話会や憲法問題懇談会などの社会活動の場や、私法学会などの学会活動の場でも、末川博を始めとして本学法学部教員が活躍する時代が到来しました。

戦後初期に活躍した法学部の教授としては、吉川大二郎、西村信雄、浅井清信、佐伯千仭、園部敏、大西芳雄などの学者の名が知られています。しかし大学の規模の拡大に伴い、法学部でも教育のマスプロ化が進行していきました。1968年に始まる大学紛争は、立命館大学にも大きな衝撃を与えましたが、その後になって、基礎演習の開講など教育面での改革が進むこととなりました。

1981- 1981-

衣笠移転

1981年3月に、法学部は現在の衣笠キャンパスに移転しました。1988年には、法律コース・政治行政コースの2コース制を採用し、学生の多様な進路に向けてのカリキュラムの設計に踏み出しました。その後、現在に至るまで、学生の問題関心や志望進路に応じた、系統的、段階的な専門知識の積み上げが可能となるような学修を重視した、カリキュラムの改革・改善を継続的に行なっています。また、この間、多くの展開分野での新科目が開講され、大学院の拡大とあいまって、法学部の専任教員も大いに充実することとなりました。

2018年3月には、法学部の衣笠への移転以来、その時計台と衣笠山の借景とともに、四季折々のキャンパス風景として長く親しまれてきた存心館(法学部棟)が、全面的にリニューアルされ、さらに快適な学修環境が整いました。

2020年に法学部は学部創設120周年を迎え、これまでの歴史の積み上げを礎としつつ実社会で活躍できる優秀な人材輩出にむけて日々、教学改革を進めています。