RS Web 学園通信
立命館大学 | Infostudents
 
経済学研究科
中川賢司 さん
ボランティアセンター
奥 優子さん
キャノピー(BKC)
「究」バックナンバー
#1 情報理工学部情報システム学科
西尾信彦 教授
#2 理工学部 深川良一 教授
#3 文学部 望月 昭 教授
#4 立命館大学歴史都市防災研究センター幹事
中谷友樹 助教授
#6 情報理工学部 田村秀行 教授
#7 文学部 北岡明佳教授
#8 理工学部ロボティクス学科
牧川方昭 教授
RS Webアンケート
木立雅朗 教授
文学部 日本史学専攻

「考古学」で大切なことは何ですか?

考古学において、地域住民の協力を得ることはとても大切なことです。発掘調査そのものが周辺の方々の迷惑になることもありますが、地域の遺跡と最もながくつきあい、熟知しているのは地域住民だからです。色々と教えていただくためにも、遺跡や出土品にどのような価値があるのか、地域の方々に分かって頂いた上で協力して頂くことが必要です。考古学研究者には地域住民への説明責任があるのです。また、説明する時には、今の私たちの暮らしと遺跡との係わり合いを提示しないとわかりにくいため、現在から過去へ順序よく遡って説明しなければなりません。時代を遡る中で脈絡を持った説明をするには、古代だけでなく近現代のことも知っていなければなりません。地域住民の生活に根ざした歴史全般の知識を備えておくことが必要なのです。

 

道仙化学製陶所を発掘したきっかけを教えてください

立命館に来てから、近くにある仁清や乾山の窯跡を訪ねましたが、発掘はおろか、保存措置も全くとられていないことを知りました。調べてみると仁清・乾山に限らず、京焼の窯跡のすべてが放置されていたのです。危機的な状況にあることを痛感し、その調査に関わるようになりました。そして、江戸時代の京焼の窯を調査し重要性を訴えるには、現代の京焼・清水焼との歴史的脈絡を調べる必要がでてきました。そのため、京焼・清水焼の伝統的な産地、五条坂に出入りするようになりました。

五条坂では、町おこしを実践されている建築専門学校の先生と知り合い、「道仙化学製陶所の窯跡を調査してみませんか」と誘いを受けました。町おこしの一環でそこに集会場を作る計画があったためです。五条坂のためにも、考古学研究のためにも重要なことだと考え、喜んで調査を引き受けました。この窯は昭和37年に操業を停止した現代の窯です。昨年、予備調査を行い、この夏の約1ヶ月間、本格的な発掘活動を行いました。窯跡の中からは大量の漏斗やビーカーなどといった化学陶器が出土しました。

放置されていた窯跡
(2004年1月撮影)
窯跡発掘作業の様子
(二の間から出土した化学陶器検出作業)

 

化学陶器とはどのようなものですか?

明治維新以降、日本が近代化する中で様々な新しい産業が発展しました。陶磁器は輸出産業の花形のひとつとして発展しましたが、国内の新しい産業を支える様々な道具類も作りました。理化学陶磁器、化学磁器など、いろんな呼び方で呼ばれます。耐酸容器や碍子などの工業製品や、蒸発皿やビーカーなどの理化学の実験用品が主なものですが、実に多様で幅広い業種に関わる製品です。京都では明治の初め頃から化学陶器が作られ初め、発展します。のちに「道仙化学製陶所」と改称する入江道仙も明治初め頃から化学陶器の生産に関わりはじめたようです。化学陶器の生産は、江戸時代から続く京焼の新しい展開として注目されます。

発掘調査作業風景 発掘調査した窯跡
(手前の胴木間〜二の間は一部のみ発掘)

 

この発掘調査から分かったことはどのようなことですか?

そもそも京焼とは雅(みやび)な焼き物です。しかし、五条坂の真ん中で、しかも、京焼と全く同じ窯で化学陶器を焼成していたことはあまり知られていません。

かつて、化学陶器は、登窯の部屋の一部を借りて焼成されていました。「一の間」や「二の間」などは、一般的な京焼を焼くには温度が高く、炎があらすぎるため、化学陶器が窯詰めされました。炎が穏やかな部屋には一般的な京焼が窯詰めされ、一つの窯の中で化学陶器と一般的な京焼が共生し、棲み分けしていました。雅で美しい京焼と実用的な化学陶器を同時に焼いていたのです。京都は歴史の街、文化の街と言われますが、その反面、伝統工芸の街、もしくは中小工場で成り立ってきた街だともいえます。この窯は伝統産業と工業が共存していたことを物語ってくれます。おそらく、京都や大阪からの様々な注文に即座に応えて優秀な製品を供給したのでしょう。そういった京都の特色の知られざる側面を示したものが、まさしく今回出土した化学陶器です。

二の間(西側) 遺物出土状況 二の間出土化学陶器
(大型の蒸発皿)

ところで、今回発掘した道仙化学製陶所の窯は化学陶器専門の窯でした。聞き取り調査によると、評判の高い良質な化学陶器を作っていたそうです。化学陶器を専門とする会社として発展できたのは、製品の優秀さからだったようです。ただし、窯そのものは通常の京焼窯と何の変化もありません。そのため、経営が思わしくなった最終段階には窯の一部を貸し、一般的な陶器を焼いていたそうです。この頃、瀬戸や美濃では化学陶器生産が大規模化し、大いに発展しました。京都はそうした工場の大規模化についていけず、評判のよかった道仙化学製陶所ですら廃窯を余儀なくされました。京焼と同じ窯では規模が小さすぎたのでしょう。京都のよい点は小規模だけれども手作業で高い品質の製品を作ることです。しかし、弱点もそこにあります。産業の枠組みが変化し、日本の近代化、工業化が本格的に進む中で、道仙化学製陶所は時代の流れの中で取り残されてしまったのです。

ところが、その反面、京都の化学陶器から村田製作所や京セラのような、京焼出身のベンチャー企業が発展していきました。京焼や化学陶器がなければ、これらの企業は生まれなかったはずです。化学陶器はそれらベンチャー企業の「さきがけ」だったとも言えます。瀬戸や美濃との競争に敗れていった企業と、世界的な企業に発展していった企業の姿は大変対照的です。京都の産業の変遷を知ることが京都の伝統産業を守り伝え、京都の地域社会の維持にも繋がる大事な要素になることをこの発掘が教えてくれています。

三の間(西側) 遺物出土状況
漏斗
三の間 「C.C.」と書かれた漏斗

 

先生がこの発掘を通して感じたやりがいとはどのようなものですか?

今回の発掘調査のやりがいは、考古学以外の多様な分野にまたがった基礎研究を行うこと、考古学の成果を街おこし活動に活かせるきっかけになったことだと考えています。

そして今回の調査は、町中の調査であったため、日々、地元の方々と触れ合うことができました。住民の方々には迷惑だったと思いますが、教えていただいたことが沢山あり、深く感謝しています。今後、さらに研究を深めて、住民の方々に何らかのお返しをしたいと考えています。

今回の調査は五条坂の知られざる側面を明らかにしましたが、実は地元の方々にとっては当たり前のことであり、日常生活の一部に過ぎません。発掘された窯を見て、「こうしてみると、なんか、遺跡みたいやな」と戸惑われていました。当たり前のことが大切なのですが、それを失い続けているが今の京都です。地元の方々にとっても、五条坂の魅力を再発見する機会になったとしたら、うれしいことです。

 

最後に学生へのメッセージをお願いします。

私が考古学にのめりこんだきっかけは、小学生の時にある発掘現場を見学したことです。調査の中心になっていた大学生が、とてもまぶしく見えました。中学・高校時代は単なる歴史好き程度でしたが、大学進学後は自然と考古学を選び、発掘調査に精を出すようになりました。発掘現場などでは先輩や先生方からたくさんのことを学び、人間的に随分と変わりました。最も印象的で強い影響を受けたのは、遺跡の保存運動と「地域とともに学ぶ姿勢」でした。その時に受けた教えが現在の自分の研究に強く反映しています。人間は20代までに学んだ様々な経験を深く感じ取り、ずっと覚えているものだと思います。それが生涯の宝になります。

学生の皆さんには「面白いと感じたことをとことんやる楽しさ」と、そうすれば「人は変われる」ということを知って欲しいと思います。

立命館大学文学部日本史学専攻
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取材・文 中川知沙(文学部1回生)
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