白川静ことば抄

「白川静ことば抄」は、数多くの白川先生の著作の中から、学問的に重要なことばや特に印象的なことばなどを抜き出し、主に若い読者からの感想やコメントを加えたものです。大海のような白川先生の著作から抜き出した短いことばですが、いずれも小さな水滴のようにきらきらと輝いています。その内容に関心を持たれましたら、白川先生の著作という深く広い海に飛び込んで、さらにそのことばを味わって頂ければと思います。

目次

第100回

「文字逍遙」

[『文字逍遙』(平凡社 1987)]

 これは、白川先生の著書『文字逍遙』の書題であるが、本書のあとがきに次の ようにある。「漢字の歴史は古く、漢字による文化的集積は、比類を絶するほど にゆたかである。……漢字には漢字文化というべきものがあり、文字の世界があ る。その文字の世界に逍遙するという意味で、この書を〔文字逍遙〕と題する」 と。
また、アイザック・ニュートンは自らを回顧して、「私が世界にどう映ってい るかわからないが、私自身は浜辺で遊んでいる子供のように思える。真理の大海 は私の前にまだ発見されずにいるのに、時々より丸い石や、より綺麗な貝殻を見 つけて楽しんでいるようなものに過ぎなかったのだ。」と言っている。
これらの言からも、楽しむことがいかに大事なことであるかがわかるだろう。 日本人は勤勉であると評されるが、時に深刻に考えすぎるきらいがあるのではな いか。対象は何でもよい。深刻にならずに、しかし真剣に、とことん楽しめばよ いのである。そうすればその先に、見えてくるもの、得られるものが必ずあると 思うのである。

第99回

「われわれの責任というものは、ただ現在に生きるというだけではない。現在に 生きることによって、将来の歴史の作用に耐える、歴史の美化に耐える、そうい う文化、そういう社会、そういう政治、そういう国でなければならないと、私は 思う。」

[『続文字講話』第四話「金文についてIII」(平凡社 2007)]

 孔子は西周を理想の時代として崇めた。しかし実際の西周が、孔子が夢みたよ うな理想的社会であったかは定かではない。「歴史というものは、あとから考え ると美しくみえるもの」である、と白川先生は述べておられる。ただし、「歴史 的に美しく変容されるというものは、本来そのような可能性をもっている」ので ある。理想的とまではいかなかったかもしれないが、西周は後世理想と仰がれる ようなものを残す社会であったのだ。白川先生は中国の古代王朝のことを研究し ながら、常に日本の、国家の在るべき姿、現在の人のあるべき姿を考えておられ た。先生は「歴史は常にのちの時代の鏡である」と述べられた。後世、“あの時 代から進む道が狂いはじめたのだ”と評価されないように、我々は、先人たちの 歩いた道に学びながら、後世に伝える道を考え今日を生きなければならない。

第98回

「だいたい古代王権の条件は、自分の文字をもたなければならないのです。エジ プトの古代王権はヒエログラフをもっていた。オリエントでは楔形文字をもって いた。中国では甲骨文字をもっていた。日本もだいたい同じ条件ですから、文字 をもつべきだった。ところが、わが国では文字が生まれる前に、漢字が来てしも うたのであります。仕方がないから使うことにしたのであって、決してこちらか らいただいたと卑下することはないのです。」

[『続文字講話』第一話「甲骨文について」(平凡社 2007)]

 白川先生は、この後で次のように述べられる。日本人が使っている漢字は中国 歴代の音のみならず、訓も備わっている。中国人は漢字を読み下すことがないの で、わが国では漢字を「国字」と読んでもよい。そして、日本人は漢字を使いこ なし、国語の表現力を豊かにしてきたのだ、と。
明治期に翻訳語として作られた「経済」「哲学」「芸術」などの言葉は、その 後中国に伝わり、現代中国語として完全に定着している。この事実は「漢字を使 いこなし、国語の表現力を豊かにしてきた」わが先賢の造語能力の高さを物語る だろう。我々も、漢字による優れた造語を行いたいものである。

第97回

「校讐の学が重要視されるに至ったのは清に入ってからであって、清代の考証学 はまず書の源流を考え本文を正すということから出発したものであるから、校讐 は最も厳密なることが要求された。」

[『白川静著作集』巻12、文献学(平凡社 2000)]

 漢文を読むにあたって、原本に近いテキストを底本とし、他本と「校讐」(校 勘)しながら本文を定めていくという作業は、家に喩えるならば土台作りである。 だが驚くべきことに中国における本格的な本文の校勘は、「校讐の学が重要視さ れるに至ったのは清に入ってから」という白川先生のご指摘にあるように、予想 以上に遅い。
「校讐」は地味な作業であり、かつその書の源流をたどっていくことも容易で はない。だが、先にも示したように「校讐」は土台である。土台をおろそかにす れば、その上に作られるものは必ずや脆弱なものとなる。ましてや漢字の性質を 考えるならば、たった一字の異同が、文意に大きく影響するはずである。このこ とから、我々は漢字の性質を再確認したうえで、「校讐」の持つ重要性を今一度 考え直していかなければならないのではないだろうか。

第96回

「我が眼守る計器の針の揺れ乱れやがてま白き画面となりぬ
(中略)
意識絶えて今はの言は聞かざりしまた逢はむ日に懇ろに言へ


臨終のときに傍にいて、思わず口ずさむように出た数首につづけて、しばらく歌 日記のようなつもりで記しておいたものがこれである。見られるように、歌とい うべきものではないが、文章として書くと長くなるので、この形式で書きとめて おくことにした。それぞれ一篇の文章として書くべきことの、いわば見出しのよ うなものである。それからのちも、何かと多忙であった。追憶は私の記憶の中に とどめておく外はないが、せめてこの見出しの文句のようなもので、その霊を送 りたいと思う。」

[『桂東雑記III』 卯月抄(平凡社 2005)]

 卯月抄には先生の歌が七十首収めれられており、夫人と連れ添った七十年の思 い出が綴られている。臨終の際のこと、戦時中のこと、家での何気ない生活の模 様など、綴られる思い出は様々であるが、そのどれもが先生にとって大事な記憶 であることは、歌の端々から感じ取ることができる。学問の世界において先生は 「孤詣独往」であったが、普段の生活においてそうではないことが、この卯月抄 を見ると分かるだろう。先生を語る人の中には「孤高の存在」を強烈に印象付け る人もいるが、それは「白川静」の一側面であり、決して先生の全てを表すもの ではないことを忘れてはならない。

第95回

「一つの語が一つの文字で表記されるのであるから、文字はことばの数だけ必要 なわけである。社会生活が複雑となり、概念の分化が進み、表現の方法も詳しく なるにつれて、文字の数もこれに対応して増加するのは自然の趨勢であった。」

[『白川静著作集』巻12 中国学研究法(平凡社 2000)]

 最近は、日本語とか漢字がはやっているようで、テレビ番組でもこれらをとり あげたものをよく見かける。これは、人々の関心の高さを表すものであり、また 関心を喚起するという点では、よいことだろう。しかしとりあげられる言葉の中 には、いわゆる若者言葉のような奇妙なものも多い。日々進歩の著しい自然科学 や科学技術など、分野によっては新しい言葉が多く生まれている場合もあるだろ うが、若者言葉や流行語といったものは、必ずしも社会の複雑化や概念の分化に よって現れたものばかりでもないだろう。これを、言葉の乱れととらえるか、言 葉の変化ととらえるか、分かれるところであると思うが、日本語は、造語力に優 れる、外来語の受容が容易であるなどの特徴があり、柔軟に対応していくことも 大事なことではないかと思うのである。

第94回

「およそ唯一神を信ずる信仰というものには、必ず排他性をともなう。これは、 世界の平和の為には良くない。ただしかし、あらゆる神秘なものを神として信仰 するというだんになれば、これは世界が一致できるはずですね。」

[『文字講話I』第五話「自然と神話」(平凡社 2002)]

 日本には実に多くの寺社仏閣が存在する。特に神社は大小の違いはあれ少し歩 けば見つけることができるだろう。白川先生はそれを日本において自然がそのま ま一種の神聖性をもって残っている証拠だと述べられている。戦時中それは精神 的な支柱として軍国主義に利用されてしまったために信仰としての神道に対する 信頼は失われてしまったが、それでも神社への参拝者は途絶えることなく、道す がらでも習慣のように手を合わせる人も少なくない。知らず知らずに私たちは昔 からの自然、すなわち人知を超えたものへの信仰を受け継いでいるのである。白 川先生はこの講義の最後に「日本人にとって信仰とは何かという問題を、考える 必要があるのではないか。」と結ばれた。神話は中国では思想に変わり、ヨーロ ッパではキリスト教の出現により駆逐されて正しからざるものとされてしまった。 私たちは日本に残るこの自然への信仰をあらためて考え、大事にしていかなけれ ばならない。

第93回

「訓みを定めることは一つの創作ともいうべき事業であった。〔詩経〕の場合に は、まだそういう作業が完成していないのである。古典をよむことは、ある意味 ではつねに一つの創作であるが、〔詩経〕の場合には特にそのことがいえるよう に思う。」

[『白川静著作集』卷9 詩経 「詩篇の伝承と詩経学」(平凡社 2000)]

 柿本人麻呂の有名な作品「東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡」は、現在 「東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ」とよまれる。しかし、その 「訓み」は契沖・賀茂真淵らの辛苦を経て初めて実現できたのである。同様に 「訓み」の定まらぬ作品が『詩経』には多く存在しており、白川先生は精力を傾 けて訓詁の解決を試みた。その成果は、『詩経国風』『詩経雅頌1』『詩経雅頌 2』(いずれも平凡社東洋文庫)として結実している。
従来の訓詁や解釈に疑問を覚えれば、白川先生に習って刻苦勉励を厭わず考究 すべきだろう。古典の読解はすぐれて創造的な知の営みであり、古人の心に直接 触れることのできる精神活動でもある。そのことを肝に銘じ、我々は古典文学研 究を進めてゆくべきだろう。

第92回

「私は早くから辞書に興味をもち、友人と議論するときにも、辞書説の是非にま で及ぶというようなこともあった。」

[『白川静著作集』巻12、字通に寄せる(平凡社 2000)]

 文献を読み進めるにあたって辞書は必要不可欠なものである。周知のことなが ら、辞書というものは完全なものではない。辞書の説を信用しすぎたために、か えって間違った解釈を生むということもある。
上にもあるように、白川先生は若いときから「辞書説の是非」まで考えられて いたという。このような姿勢があってこそ、先生は後に字書三部作を生み出すこ とができたのだろう。この一文を読むと、あくまで辞書は参考であり、最終的に は自分自身で判断しなければならないと戒められる思いがするのである。

第91回

「質問:菊は音読みですが、訓読みはないのでしょうか。菊は外来の花だと聞き ましたが、日本にはもともとない花なのでしょうか。
回答:菊という字は音読みだけで、訓読みはありません。それは菊は中国から渡 来したもので、古い時代にはわが国にはなかったものだからです。外来のものに は、その原名がそのまま国語化されていることが多いのです。・・・」

[『桂東雑記I』「文字答問」(平凡社 2003)]

 「文字答問」というのは、文字講話中の質疑や手紙などで寄せられた質問など に先生が回答したものである。この「文字答問」の項は桂東雑記IからVまでの全 てに設けられており、その全ての質問に対して先生は丁寧な解を寄せておられる。 質問は多岐にわたっており、先生の知見を信頼されている方も多いということが 分かる。
子供は「なぜ・・・」という質問をすることが多いが、多くの大人はその質問 に対し真摯に向き合うことができず、お茶を濁す形で回答する。その不信のため か、大人になるにつれてそのような質問を周囲の者にすることは無くなっていく。 だが、そういった知的探究心が年をとる事で無くなる訳ではなく、「何故」とい う疑問は常に持っているのだろう。故に、先生のような、問題に対して真摯に向 き合い解を出してくれる大人に対して、読者の方々は子供の頃の気持ちそのまま に、安心して質問を投げかけているのではないだろうか。

第90回

「詩経]の詩篇からは、叙景詩は生まれなかった。自然を観照の対象として歌う ものは、六朝期の謝霊運まで下らなければならない。西洋ではほとんど近代には いってからのことである。ひとりわが国では、古代歌謡の時代にすぐつづいて、 むしろそれと重なり合いながら、叙景歌が生まれてくる。このふしぎな事実は、 比較文学としてもきわめて注目すべき課題であるといわなければならない。」

[『白川静著作集』巻11、古代歌謡の世界(平凡社 2000)]

 先生によると、日本人はきわめて古くから「自然を観照の対象として」とらえ ており、これは他の文明と比べても随分早いものであるという。世界を見れば、 頻繁に氾濫する大河、乾燥した砂漠地帯、高温多湿の森林、氷に閉ざされた酷寒 の地、移動も困難な高地等、厳しい自然環境の中で暮らす人々も多い中、わが国 は比較的穏やかな自然環境に恵まれた。日本人は、自然をただ畏れ、戦い、押さ え込むのではなく、自然の中で共に生き、親しみ、愛しむことができた。「ふし ぎな事実」を生み出した理由のひとつに、このことが挙げられるだろう。我々は、 そのような自然に囲まれていることを自覚しなければならないし、そのような自 然に囲まれていることを自覚したとき、世界は違って見えるのではないだろうか。

第89回

「今すべて文化や生活の面でも、グローバルという言葉で、地域の独自性を尊ば ないというやり方をしているけれども、これはアメリカ的な考え方でしょう。ほ んとうはグローバルなものはそれぞれの地域性が確立された上で、お互いの理解 の上に一種の通時性、時代的な共通の理解というものが生まれて、初めてグロー バルである。」

[『回思九十年』「古代と現代の架橋」(平凡社 2000)]

 交通・輸送手段の発達によりここ数十年で世界の国々の距離は縮まり、経済的 な必要性から世界標準――グローバル・スタンダードというものが言われるよう になった。しかしいわゆるグローバルとは、結局強者による弱者への押しつけに 他ならない。世界が近くなることは歓迎すべきことであるが、グローバルという 名の下に少数派を否定するのではなく、その独自性を尊重した上で共通の規準を 作るべきである。近年東アジア共同体の構想がもちあがっているが、白川先生の 言われた真の意味での「グローバル」がそこで実現されることを期待する。

第88回

「日本人は昔からよほど学問が好きであったと見えまして、書物を大事にします わね。」

[『回思九十年』「日本人と漢字世界」(平凡社 2000)]

 引用文に続いて、白川先生は以下のように説明される。平安期に中国から伝わ った書物は『日本国見在書目録』に記録される。該書に記される一割ほどの漢籍 は中国では失われた。後世来日した楊守敬が中国で既に散逸した多くの書が日本 に現存することを知り、中国に持ち帰って『古逸叢書』『続古逸叢書』として出 版した、と。この一事で、日本人が漢籍をどれほど大事に扱ってきたかが分かる だろう。
現在インターネット上で貴重書の文字データが大量に公表されるが、それは先 人が書物を保存してくれたお陰である。かように便利になった今だからこそ、先 人への感謝を忘れてはいけない。

第87回

「最初に『字統』という字源辞書を作った。あれはカルチャーショックを与える 衝撃的な本なんです。読んだ人はたぶんびっくりしたでしょうな。今までの字書 ではおおよそ思いつかんような書です。」

[『桂東雑記Ⅲ』「漢字教育について」(平凡社 2005)]

 白川先生の字書三部作の冒頭を飾るのが『字統』である。 従来「字源辞書」といえば、後漢の許慎による『説文解字』が長らく権威とさ れてきた。この『説文解字』のように、一度権威的な書として認知されると、そ こには疑問を挟む余地がなくなりがちである。だが、白川先生は許慎の字書に不 足する甲骨文字の研究成果を取り入れ、通説に果敢に疑問を投げかけ、新たな解 釈を生み出し、『字統』などの字書として世に問われた。こうした姿勢は『説文 解字』だけにとどまらず、経書である『詩経』に対してもまた同様であった。
権威として認められてきた書物や通説をそのまま受け入れるのではなく、それ らを果敢に批判し、新たな解釈を生み出していくという白川先生のような学問に 対する姿勢があってこそ、学問は進歩していくものなのではないだろうか。われ われも白川先生のご姿勢を忘れずにいきたいものである。

第86回

「論語に『芸に遊ぶ』という語があり、孔子はそれを人生の至境とした。この芸 は六芸、中国の古代の学芸のことである。学芸の世界も、また遊びの場であった。 私も久しい間、その世界に遊んだ。その世界に遊ぶことが、私の夢であった。し かし一生の間、世俗の遊びをしなかったわけではない。」

[『回思九十年』私の履歴書 遊び(平凡社 2000)]

 その学識の高さと残された研究の大きさを見れば分かるように、先生が学問の 世界に生きてこられたことは間違いない。しかし、先生を単なる研究一筋の堅物 として見てはいけない。先生は趣味として、囲碁や将棋をされ、能を見、謡曲を 聞かれていたというし、晩年にいたってはゲーム機で囲碁などを楽しまれていた という。また、本人は話すことが苦手だと言っておられるが、対談や講演録を見 れば分かるように、人と話すことを大いに楽しんでおられる。
先生は研究者である以上、研究のみによって評価され、語られることが当然な のかもしれないが、先生の著作を読むとき、こういった姿も頭の片隅に入れてお くと、先生の残された研究をより一層楽しむことが出来るのではないだろうか。

第85回

「従来の漢字の字源説には、疑わしいところが多い。字形学的な字書として唯一 のものであり、その聖典とされる後漢の許慎の〔説文解字〕にも、実に誤りが多 いのである。……このような字説の誤りは、字の初形についての知識の不足を、 思弁や推測で補おうとすることから生れたもので、基本的には、古い文字資料の 不足に帰すべきことであった。許慎の時代には、……文字の最古の資料である甲 骨文は、まだ地下深く埋もれたままであった。」

[『字統』字統の編集について(平凡社 1994)]

 以前このコラムで筆者は、子供の頃「『山』は『やま』の形」「『川』は『か わ』の形」などと教わったことから漢字に興味を覚えた旨のことを書いたが、そ の際「『ほし』は『日(太陽)』から『生』まれるから『星』」とも聞いた記憶 がある。「星」は『説文解字』には「萬物之精、上為列星(萬物の精、上りて列 星と為る)」とあり、『字統』には「玉光の星々たるをいう」とあって、許慎と 白川先生では説を異にしている。ここで両説の正誤を論じることはできないが、 筆者が聞いた「『ほし』は『日』から『生』まれるから『星』」という説はどう やら誤りのようである。しかし漢字や漢字の成り立ちに関心を持つきっかけにな ったのである。そう考えると、正しいことが良く、誤りが悪いとは、必ずしも言 えないのではないか。きっかけが間違ったことであっても、関心を持って調べる ことで、それが間違いであったことに気づいたり、正しいことや新しいことが分 かったりすることができる。きっかけは何でもよい、関心を持つことが大切だと 思うのである。

第84回

「町衆も参加して、京都では大きな祭りがいくつも行われる。ああいう祭りが長 い間継承され、しかも町衆が非常な力をもち、殆ど無報酬でこの祭典のためにさ さげる、奉仕をするというような形態の祭りは、きわめてすぐれた文化のあり方 であるというふうに、私は思うのであります。それで単なる競技形式でなしに、 やはり神とともにうち興じて、勝敗も何もなしに楽しみ合うというものが、本当 の祭りであると思う。」

[『文字講話Ⅱ』第七話「祭祀について」(平凡社 2003)]

 京都に限らず、全国各地で年中を通して様々な祭りが行われている。それが 我々の日常の中にあり、ニュースでどの祭りが何処其処で行われたと報じられる と「ああ、そういう季節になったな」と感じる、いわば風物詩となっている。た だ祭りの楽しさに興じるだけでも、我々はその文化の継承の一端を担っているの だ。小学生の時に社会科などで近所の寺社や祭りの由来を調査した経験を持つ人 も多いと思う。中には新しいものもあろうが、その起源を遡ってみるとだいたい 古いものが多い。起源や意味がわかると祭りの違う面も見えてくる。これから多 くなる春の祭りに向けて、そういったことを調べてみるのも面白いのではないだ ろうか。

第83回

「地名はわが国に残されている重要な歴史的財産である。古い地名・氏族名・神 社・寺の名前などは、歴史の名前を蘇らせてくれる貴重な遺産です。」

[『文字講話Ⅰ』第三話「身分と職掌」(平凡社 2002)]

 簡便さを第一に「〇〇番地」のように地名を改めるべきだ、と主張する人たち がいる。無論、番号化によるメリットは十分承知しているが、これまで使用され ていた地名を全く廃止するというならば断固反対する。何故なら、普段我々が何 気なく目にする地名は、数多くの事柄を雄弁に語ってくれる「歴史の証人」だか らだ。皆さんも一度ご自身がお住まいの地名の由来を調べてみてはどうだろう。 意外な発見があるかもしれない。

第82回

「唐宋において文学の主流を占めていた詩文は、もはやその様式のうちで自己を 発展させることができなかった。それは詩文が読書人・官僚の文学であり、その 階層に新しい発展がなかったことを意味する。」

[『中国文学史第三編・近世文学第二部・明清文学』第一章・第二節 文学の傾向
(立命館大学中国文学研究室 油印、昭和三十年代)]

 白川先生は、『中国の古代文学』(『白川静著作集』巻8所収)において、古 代から六朝までの文学史を論じられているが、元来は中国文学史の講義用に執筆 されたテキストであった。これらは、古代・中世・近世の三編で構成されている が、刊行されたのは『中国の古代文学』のみで、残りの二つは未刊であり、刊行 が望まれる。
明清時代の詩文には新たな「発展」がなかった。その理由を、白川先生は文学 の担い手である「読書人・官僚」の精神に着目されて考察されている。すなわち、 唐宋の士人は、従来の門閥貴族に変わる「新しい社会的役割」と「新しい意識形 態」(同章参照)を持っており、これらが「詩文の文学の背景を成していた」が、 明清時代は政治の安定と腐敗のため、これらに乏しく、発展が見られなかったと いうことである。
中国の文学の主な担い手は、社会と強い関わりを持った士人層である。このよ うな特徴を持つ中国の文学史を論じるにあたっては、社会史の側面に着目する必 要は言うまでもない。だが、白川先生の考察のように、さらに進んで文学の担い 手の精神の違いにも着目することで、文学史の理解は更に深まるのではないだろ うか。

第81回

「白川でございます。大変お待たせ致しまして恐縮に存じますが、今回は文字文 化研究所の第四十八回の講演に当たります。……気がついてみますと、私ももう いい加減な歳になっておりますので、この際機会をいただいて文字のお話をした い、できればシリーズにして少しまとまったことをお話したいということを、皆 さんにお図り致しまして、このようなシリーズを開くということになった次第で あります。何回か予定を致しておりますので、第一回は「文字以前」という題に 致しました。」

[『文字講話』第一話「文字以前」(平凡社 2002)]

 平成十一年三月十四日、この言葉から先生の文字講話は始まった。講演はおよ そ年四回のペースで計二十四回行われ、多くの人々の関心を集める中、惜しまれ つつ幕を閉じることとなったのである。
この多くの聴衆を集めた背景には、文字に対する一般の方々の関心の高さがあ ったことは間違いない。しかし、長い研究生活の中で歩んできた広大な文字の世 界を分かりやすく伝える、先生の教育者としての魅力が聴衆をひきつけたことも 忘れてはならないだろう。先生は、その研究姿勢から孤高の研究者としての側面 が強いように感じられるが、晩年はその膨大な研究成果を世に伝える教育者とし ての活動が多い。先生のことを語るとき、研究のことにばかり比重を置くと、誤 った人物像を描き出してしまうことになるだろう。

第80回

「エジプトの文字でありますと、たとえば人の形にしても、だいたい輪郭的に書 くのです。・・・・・・ところが漢字では、人を書くにも、たった二画で、これ でもう人を表す。・・・・・・まあ抽象というか、デッサンみたいに極度に簡略 化して、ちょっとした一点一画の違いで、表すものが異なる。」

[『回思九十年』「漢字 古代と現代の架橋」(平凡社 2000)]

 文字の起源とはおおむねこういうものであろう。アルファベットであっても、 元は絵文字であり、表意文字であったというから、漢字以上に簡略化されたのか もしれない。ところが、多くの文字が表音文字化していったのに対して、漢字は 表音文字化することがなかった。現在は世界的に太陽暦であるグレゴリオ暦が用 いられており、公式には中国もこれに従っているが、過去、中国では陰陽暦を用 いていた。中国ほど陰陽暦が発達した国はほかに見られない。表意文字・表音文 字とか、陰陽暦・太陽暦というのは、文明や科学の発展度合いとは必ずしも直結 しているわけではなく、優劣の比較でもない。古いものを高度に改良してきた文 明、新しいものを取り入れてきた文明。そういう視点で世界をとらえるのも面白 いのではないかと思うのである。
ところで、漢字は「一点一画の違いで、表すものが異なる」ために難解である という声もあるが、漢字のこの特徴は、かえって興味深いと思うのであるが、い かがだろうか。

第79回

「一国の命運が問われるとき、必ずその回帰するところの原点というものがある。 これは非常に大事なことです。国の歴史を綴っていく場合、いろんなことがあろ うかと思うのですが、そういうときに必ず帰るべき原点をもつということ、たと えば明治ならば、維新というのが一つの時代の理念になっている。「維新の精 神」によって、明治の時代にはあのように充実した、立派な時代を、その歴史を 築くことができた。国家の運命を左右するものは、私はそのような建国の理念、 あるいは時代精神の帰属すべき原点というようなものを、もつかもたぬかという ことにあると思う。戦後六十年のこの悲しむべき現実は、そのような意味での原 点をもたぬがゆえではないかと思うのです。」

[『続文字講話』「第四話 金文について蝖」(平凡社 2007)]

 これは周代の国運や社会に関する銘文に必ず使われている「文武受命」という 語に関して説明されたときの言葉である。神聖国家ではない周は、それまで神の 子孫を名乗っていた殷王朝を倒し王朝を建てるとき、中心となる理念を必要とし た。そこで天の有する大命を文王が受け、武王が文王を嗣いでその徳を認められ 国を作ったという「文武受命」を肇国の理念とし、その言葉が周の滅亡まで使わ れた。周王朝は、後に孔子がそれを理想として長きにわたる“伝統”として大成 させる礼教文化をつくりあげた。
白川先生は文字を通じて古代社会に思いを馳せながら、いつも今の社会を見つ め、疑問を投げかけておられた。今の日本に果たしてそのような理念や原点があ るかと問われれば、答えられる人はいるだろうか。世界が身近なものになってグ ローバル化が叫ばれる昨今、我々の“帰属すべき原点”とは何なのか、考えてみ る必要があろう。

第78回

「殷の王朝が、大量の奴隷を所有し、その生殺与奪の権をもち、その搾取と虐使 の上に繁栄を築いたとみるべき証跡は、ほとんどない。」

[『白川静著作集』巻4、甲骨文の世界(平凡社 2000)]

 「白川文字学」は単なる文字の考察に留まらず、その文字が使われた時代の社 会構造と人々の思惟形式をも解明したところに魅力がある。例えば、従来の説で は甲骨文字が使われた殷王朝には奴隷制があると信じて疑われなかった。しかし、 白川先生は多くの文字資料の分析によってその通説が誤りだと論じられたのであ る。
このように、幅広い成果を伴った研究活動が先生の学問の特徴だが、それは研 究者としての心構えに起因するのではないか。「何事も根こそぎ研究することが 肝要だ。」先生は常々そう仰って研究を続けられたそうである。我々の研究がど れほどのスケールを持ち得るかは分からないが、少なくとも「根こそぎ研究す る」気構えだけは忘れずに持ち続けたいものである。

第77回

「三曹の周辺に、七子とよばれる文学の徒があった。かれらは曹操の幕下であるが、ときには賓客であり、謀臣であり、書檄の作者であり、また清友であった。臣従という関係以外に、文を以て交わるという一面がある。そのような人間関係は、従来の君臣の秩序のうちにはなかったものである。」

[『白川静著作集』巻8 中国の古代文学(2) 七子の徒(平凡社 2000)]

 曹操、曹丕、曹植の「三曹」のもとには、「建安の七子」とよばれる臣下が仕えていた。「建安の七子」とは、王粲、陳琳、阮禹、徐幹、劉楨、孔融、応瑒の七人を指す。彼らは「文学の徒」と言われるだけに、徐幹を除き、その作品はみな『文選』に収められている。 最近、中国で曹操の墓が発見されたようであるが、曹操というと、『三国志』での仇役の姿から、武人というイメージを抱く方も多いのではないだろうか。だが、ここに示されるように、「文を以て交わる」君臣関係を初めて構築した君主であり、武人のイメージを持つ方には意外な、文人曹操という一面があったのである。ひょっとすると、その墓内からあるいは曹操の愛読書が発見されるかもしれない 。

第76回

「わが国の国字政策では、字形上の問題のあるものは、すべて『康煕字典』に依 拠することを原則としていますが、『康煕字典』には、時にこのような偏見の例 もあり、清代考証学の興る以前の編述であるので、十分な文字学的な用意のもと に編集されたものではありません。」

[『桂東雑記Ⅳ』「文字答問 丸の正字」(平凡社 2006)]

 これは、「丸」という字形が『康煕字典』では俗字、『字通』では正字になっ ていることに関する一般読者からの疑問に対する、白川先生のお答えの一節であ る。このお答えの中で先生は、『康煕字典』の解釈にかなり乱暴な手法がとられ ていることを挙げ、批判されているが、一般の人がそこに気付くことはまず無い。 一般の人にとって「字典」は「字典」であり、それぞれの編纂に関する問題点を 意識することは無いだろう。しかし、専門家の目から見れば、その問題は大きな ものであり、看過することが出来ないものである。では、漢字の専門家でないも のはどうすればよいのか。もちろん、漢字一字が生活に大きな問題となることは 無いので無視するということも出来る。しかし、自分が普段使う文字を正確に把 握しておきたいというのであれば、当たり前のことではあるが、信頼の置ける字 典を探すほか無い。ただ、その選別の際には、字典という書物の向こう側にいる、 編纂した人物に思いを馳せてみる必要があるかもしれない。

第75回

「自分の姓や名前、住んでいる地名とか、近所の人の姓とか、「なんでこの形な のかな」とか「なんで、こんな字が使われているのかな」と考えるようになりま す。この「なぜか」を導き出すことが、漢字指導の上ではいちばん大事です。」

[『桂東雑記』Ⅱ「理想の漢字教育」(平凡社 2004)]

 この言は「理想の漢字教育」と題された白川先生の対談の中での言であるが、 これは、ひとり「漢字教育」についてのみ言えることではない。情報化社会と言 われるようになって久しいが、インターネットに代表される通信技術の発達と普 及によって、情報化どころか膨大かつ玉石混交の情報の氾濫している現代、真に 有益な情報を見極めることさえ困難になっている。このような中では、真に問題 を解決するために、常に「なぜか」「これで良いか」と考えておく必要があるだ ろう。先生はこの言の後「子どもたちの『なぜか』という疑問に答えられる正し い知識が、先生がたをはじめ、周囲の大人たちにないと、せっかくの『なぜか』 が生かされません」と言われている。教壇に立つ者は、心に刻んでおかなければ ならない言葉であろう。そうでなくても我々は、情報に限らず、日々の生活の中 で目にし、耳にすることがらについても、常に関心を持ち、問題意識を持つこと が大切であると思うのである。

第74回

「私は必ずしも日本文化の将来を悲観しておりません。今のように教育が荒廃し、 社会が乱れた時代であっても、能楽堂では六百年も昔に生まれた能が演じられ、 ほとんど満席になっておる。しかも、観客がそれを理解した上で批評もできる。 それだけの底の厚い文化を持った国なのです。また、和歌や俳句を作る人が、日本中に何百人といて、多くの結社が毎月のように百頁近い雑誌を出している。こ んな文学的な民族は、どこにもありません。」

[『桂東雑記』Ⅲ「文字を奪われた日本人」(平凡社 2005)]

 白川先生はこうも仰っている、「日本人は自分たちが生み出してきた文化、言 葉にもっと誇りを持つべきである」と。日本人は中国から伝わってきた漢字を自 分たちのものにして自分たちの文化を築き上げてきた。伝統芸能や文学はともす れば経済活動や生活とは無縁の余暇的なものと思われがちだ。しかし、昔の人は 苦境にあってこそ人間を見つめ思索を深め、それを言葉にして表現し優れた文学 作品を生んできたのである。現代に生きる私たちも思索を深め自らを表現するた めに、豊かな日本語・日本文化の知識を自分の中に土台として作っておくことが 必要である。例えば、いつも機械的に書き、また見ている年賀状の賀詞の意味や 由来などをじっくり考えてみたことがあるだろうか。休みの間に、辞書を引きな がら少しそんなことを考えてみるのもいいと思う。

第73回

「歴史的な集積の中で、自己というものができ、自己というものがあってはじめ て創作もできるわけです。しっかりした自己の根拠をつくるには、自分の国につ いての、文化についての十分な知識をもたなければならぬ。古典をしっかり読む ことによって、自分を養うことができるんです。」

[『桂東雑記Ⅲ』 漢字教育について(平凡社 2005)]


 白川先生は著述・対談・講演の中で「漢字は我が国の国字であり、漢字で記さ れた古典は我が国の文化の土台である」と度々説かれた。同時に、漢字文化が荒 廃してゆく現状も強く憂慮されていた。高度情報化の進んだ今の社会において、 時代の最先端を行く技術を習得することは不可欠である。しかし、流行をひたす ら追いかけて自国文化の根幹たる古典を疎かにしてしまえば、愚の骨頂だと断罪 されて当然だろう。時代がどんなに移り変わろうと、我々は「自己の根拠をつく る」べく、漢字文化を継承すると共に発展させなければならないのである。

第72回

「古詩十九首]は、魏晋以来の詩人たちが、珠玉のように愛惜してやまないものである。」

[『白川静著作集』巻8、中国の古代文学(2) 古詩十九首(平凡社 2000)]


 『文選』所収の古詩十九首は古来名作とされてきた。明の陳祚明は『采菽堂古 詩選』において、その理由を以下のように言及する。「古詩十九首が千年以上に もわたって名作であるのは、誰もが抱く感情を巧みに言い表しているからである (十九首所以千古至文者、以能言人同有之情也)」、と。ここでは古詩十九首か ら幾つかを取り上げて、陳祚明の主張を実感してみよう。「世を去った人とは関 係が薄らいでいくけれど、生きている人とは日に日に親しくなるものだ(去者日 以疎、来者日以親)」(其十四)、「人生は百年に満たないというのに、人は千 年先ものことを心配してしまうものだ(生年不満百、常懐千載憂)」(其十五)。 この二例だけをみても、誰もが同じ感情を抱くのではなかろうか。そのほかにも 古詩十九首には、このような「同有之情」が沢山ちりばめられており、まさに 「珠玉」というにふさわしいのではないだろうか。

第71回

「私は若年のとき甚だ虚弱であって、兵隊検査のときには丙種合格であった。丙 種でも合格というのは「蜻蛉蝶々も鳥のうち」という扱いかたである。それでど こまでやれるかということが、常に私の課題であった。その「どこまで」が、つ いに今日に連なっている。」

[『桂東雑記Ⅳ』 生物(平凡社 2006年)]


  先生は若いころ虚弱であったというが、文字講話などの講演で齢九十を超えて もなお衰えぬ声量をもって、聴衆に向かい活き活きと文字の話をする姿を拝見さ れた方には、「虚弱」などという言葉を想像することはできないだろう。しかし ながら、先生は虚弱であったという。では何故、その虚弱であった人が晩年に至 るまで研究に打ち込むことができたのか。先生がされてきた膨大な研究結果を見 ると、「どこまでやれるか」という想いからではなく、文字という大きすぎる テーマに出会い、その研究に情熱を傾け続けるうち、虚弱などという些細なこと を忘れてしまったからではないかと思えてならない。

第70回

「私が最初に手にした辞書は、[言海]であった。……私にとって特に興味深かっ たのは、その語源説であった。どの語にも、必ずといってよいほど執拗に、語源 の探求が試みられており、それを読むのが何よりの楽しみであった。……当時、 その語源説の当否について考える力もない私であったが、語には語源があるべき であるという意識が、この書によって与えられたのであろう。語源の探索は、私 にとって、甚だ興味のある課題となった。」

[『字書を作る』、字通に寄せる(平凡社 2002年)]


 今でこそ文字学・漢字学の大家として知られる白川先生であるが、『万葉集』 や『詩経』に関する著述も多い。しかし、語源に対する興味とその重要性から、 甲骨文・金文の研究を進められた。その結果、数々の業績を残された訳だが、そ れは、若き日に手にした[言海]より始まっていると言える。書物に限ったことで はない。初めてそれを手にしたり目にしたりしたときに、感動し興味を覚えた何 かが、誰しもあることだろう。何もそれによって偉業を成さねばならないという ことはなく、それを大切に抱き温め続けることで、日々の暮らしをより豊かなも のにできると思うのである。

第69回

「研究の順序としては、まず正しい資料を正しくよむということからはじめるべ きである。これは極めて平凡な主張であり、また容易なことに思われやすいが、 実際にはこういう平凡で自明と思われることが、最も実践のむつかしいものである。」

[『白川静著作集』巻12、中国学研究法 第三章研究法(平凡社 2000)]


 『中国学研究法』は昭和36年(1961年)、中国文学専攻入学者のために書かれ たものである。50年近く前のものではあるが、その内容は少しも古いものではな い。むしろ、情報が氾濫する現在の我々こそ読むべき書であろう。ここにある “正しい資料”については、第二章の「文献学」で解説されている。諸書や文献 資料がどのように成立し、伝えられてきたかを理解し、よく考察した上で扱わね ばならない。そうしてこそ初めてスタート地点に立てるのである。これは中国文 学だけではなく、他の学問についても言えることである。今日、様々な形態の情 報が比較的簡単に手に入るようになったが、この“平凡で自明と思われること” を忘れずにいたい。

第68回

「人間の運命を主題とするこの偉大な史書は、その問題に解決と慰めを与えるも のではなく、この書に示されたようなさまざまな運命に生きることを、その運命 の実践を、むしろ将来の人びとに課したのであった。人びとは、その史伝中の人 びとのように生きることを典型として与えられ、義務づけられたのである。」

[『白川静著作集』巻8、中国の古代文学(2) 史記の世界(平凡社 2000)]


 引用文中の「偉大な史書」とは司馬遷の名著『史記』を指す。該書では、多種 多様の人間が運命に翻弄されながらも懸命に生きる様子が描かれる。それは、 「腐刑」という屈辱的な刑罰を受けた司馬遷の人生経験と密接に関連していよう。 そして、彼自身畢生の書を完成させる過程において己の運命に向き合うことがで きた、と言えるかもしれない。昨今、自分に課せられた運命から逃げようとする 人が増えている様に見受けられる。しかし、逃避は問題を先送りするだけであり、 根本的な解決は到底望めまい。白川先生のお言葉を目にして、『史記』を手にと り人間と運命との関係について今一度考えるべきではないか、と強く思った次第 である。

第67回

「陶謝と並称される謝霊運は、山水の間に自己の世界を求めた。いずれも圏外に生きようとした人である。ただその山川は、かれにとって必ずしも安心の場ではなかった。その自然に対する耽溺は、むしろ自己投棄に近いものであった。(中略)すでに前朝の人である以上、劉宋とうまくゆくはずはない。かつての嵆康、阮籍と同じような立場にあるのである。しかし、壮心の挫折はかれに癒しがたい傷痕を与える。かれはその憤懣のすべてを自然に投げかけ、ひたすらに山川の幽寂を求めた。」

[『白川静著作集』巻8 中国の古代文学(2) 謝霊運と山水詩]


 文学史上、謝霊運といえば第一に山水詩の祖と想起される。その作品では、山水の情景に仮託して自己の思いが述べられているが、難解な語句が多く、真意を汲み取ることは容易ではない。しかし、彼の山水に対する向き合い方を、「自己投棄に近い」と指摘された白川先生の見解は、謝詩の意を解するうえで大変参考になる。
先生は謝霊運と同じ立場の士人として阮籍と嵆康とを引き合いに出しておられるが、彼らの自然に対する向き合い方にも「自己投棄に近い」ものがあると考えられるのである。ここでは、試みに阮籍を取り上げ、彼の自然に対する向き合い方を見てみよう。『晋書』阮籍伝を読むと、いかに阮籍が自然に対して鬱屈した思いを持っていたのかが見て取れる。謝霊運に限らず、人は誰でも山水に遊んだりするようで、阮籍も山に登り川を眺め、自然に接すると帰るのも忘れて一日中没頭していたらしい(「或登臨山水、経日忘帰。」)。以下に示す彼の行動も、一見すると奇行のようであるが、自然に対する鬱屈した思いの表出と見て取れる。阮籍は時々、思うに任せて馬を駆けめぐらせ、道が途絶えたところに来ると、声をあげて号泣した(「時率意独駕、不由径路、車迹所窮、輒慟哭而反。」)という。この行為は一体何を意味するのか。これは政権交代期を生き、常に鬱々とした思いを抱いていた阮籍が、自然に接し、一時的にその思いを晴らそうとしていたということである。道が途絶えて泣いたというこの一件も、記述はないが、おそらく山に向かって馬を駆けたものであろう。このように、自然に対して身をゆだねた阮籍であったが、彼にとってもまた自然は「安心の場」とはなり得なかったようである。

第66回

「梅雨どきで大変鬱陶しい日が続いておりますが、こういう梅雨どきの消化法と いたしまして、私はなるべく根をつめた仕事をするということにいたしております。」

[『文字講話』第十八話「文字の構造法について」(平凡社 2005)]


 じめじめした梅雨の季節、普通の人であれば、不快さを理由に楽な仕事に逃げ てしまいがちである。それを逆に普段以上の仕事をする。普通とは全く別の姿勢 を先生は有しておられる。先生の研究においては、しばしば文字研究の方法論が 着目されてきた。実際、先生の研究法は文字学を大きく発展させるものであった が、先生の研究において、注目すべき点はどのような場合においても研究姿勢を 変えず、取り組み続けていくその姿にあるように、この講話の中で語られた何気 ない仕事への姿勢から感じ取れる。このような先生の仕事に対する取り組み方か らは、研究に携わるものでなくとも見習うべき点が多いのではないだろうか。

第65回

「漢字は決して学習に困難なものではありません。……漢字の本来の姿から考え ますと、その成り立ちが非常によく分かる。その考え方、語原や字原が非常によ く分かる。要するに学ぶに方を以てすれば、きわめて容易に学ぶことができる。 そしてまた、一度学べばその形象性がきわめてはっきりしている、印象がはっき りしている。それだけに記憶しやすい。また利用しやすい。」

[『文字講話』第十八話「文字の構造法について」(平凡社 2005)]


 最近、テレビのクイズ番組等でも漢字が多くとりあげられているが、その多く は全く当てものであって、必ずしも漢字の知識とは直結したものであるか疑わし い。クイズの番組であるのだから、それはそれで構わないのだが、中には中学の 入試問題からとってきたものもあるようだ。こうなると、教育現場で当てものク イズのような形で国語力が測られているのかと心配になってくる。クイズの形を とれば楽しく漢字を覚えられるだろうという意図もわからなくはないが、これは 漢字を暗記科目としてしまったところに問題があるのではないか。上の言は、白 川先生が2003年7月13日の第十八回文字講話で、象形、指事等の文字の構造法に ついて話された後、述べられたものである。筆者自身を顧みればまさにこの通り で、授業の中で「これは『やま』の形」「これは『かわ』の形」などと教わった ことから、漢字に興味を覚えたものである。学ぶ際だけでなく、教えるにも「方 を以てす」ることが必要だと思うのである。

第64回

「古代文字のお話を申し上げますけれども、単に中国の古代文字がこうであった ということを、いくらか興味的にお話をするというのではなくて、アジアの古代 王朝として、中国と日本が、いかなるかかわり方をもったか、それぞれの古代文 化を、どのように形成してきたか、そこにどのような東洋の世界が展開されてき たかと、そういうことをテーマとして、考えてゆきたいと思うのであります。」

[『文字講話』第一話「文字以前」(平凡社 2002)]


 『文字講話』は1999年より2005年まで開催された。開始当時白川先生は既に御 歳89でいらっしゃったが、毎回きっちりと資料を用意され、板書をしながら長時 間ずっと立ったままで講演された。その内容は単に文字の成り立ちを説くという ものではなく、文字を通じて中国・日本の文化の根本を考え、そこに繋がる様々 な問題を論じるというものであった。深い内容でありながら、白川先生は親しみ やすい口調で噛み砕いて説明され、質疑応答の時間にはどんな質問にも丁寧に回 答されていた。その先生のお姿を思い出すと、気持ちがひきしまる思いである。

第63回

「詩経学の停滞を破るには、新しい視点と新しい資料が必要である。」

[『白川静著作集』巻9 詩経(平凡社 2000)]


 『詩経』は中国最古の歌謡集である。この書は古来より経典として扱われた為、 その作品解釈は儒教的な観点によって歪められ、結果として詩経学も停滞する嫌 いがあった。しかし、長年解明されなかった「興」(詩篇における発想法)を民 俗学的観点から究明するという「新しい視点」を採用し、諸詩篇と同時代に製作 された青銅器の銘文(金文)という「新しい資料」を活用することによって、白 川先生はこれまでの詩経学の停滞を打破できたのだった。
このように、およそ文学研究とは「新しい視点」と「新しい資料」があってこ そ進歩を遂げることができる。白川先生のお言葉を目にし、新視点の創出と新資 料の発見を課題として研究活動に従事する大切さを、改めて実感した次第である。

第62回

「粲の[七哀詩]は曹操の[苦寒行]とともに、新しい創作詩への道を開くものであった。」

[『白川静著作集』巻8 中国の古代文学(二) 七子の徒]


 魏の三曹(曹操、および息子の曹丕・曹植)のもとには七人の文人が仕えてい た。彼らを総称して「建安七子」という。実際に作品を鑑賞してみればわかるこ とであるが、七子の中でも王粲の文学は、当時主流であった悲憤慷慨型の作風と 比べれば、まことに「新しい」趣きを感じさせるものがある。王粲の代表作の 「七哀詩」や「登楼賦」は、彼が董卓の乱を避けて荊州に赴く道中、または荊州 での作であるが、いづれの作品も、兵乱による凄まじい光景を生々しく描いてい る点が特徴的である。例えば「七哀詩」(『文選』所収)の、「門を出づれば見 る所無し、白骨平原を蔽ふ。路に飢ゑたる婦人有り、子を抱きて草間に棄つ」な どの句は、その凄まじい光景がありありと浮かびあがってくるようである。白川 先生が同章において「七哀詩」を「きびしい写実の精神に貫かれたものである」 と評されているように、この「写実の精神」こそ、王粲が七子や、当時の詩人た ちと比べて一際傑出している点であり、また一歩新たな「創作詩への道」へと向 わせたものにほかならない。

第61回

「私はしばしば漢字学者として紹介される。しかし私の本心は東洋学者として紹介してほしい。」

[『桂東雑記Ⅲ』 わが国の漢字―漢字と国字(平凡社 2005)]


 先生ご自身がおっしゃるように、世間で「白川静」といえば漢字学者として知 られている。それは、先生の名が世に広く知られる要因となったものが字書三部 作に代表されるような漢字研究にあることに由来するからであろう。ただ、先生 の著書を読み進めていくと、先生の研究対象は漢字そのものではなく、漢字研究 という方法によって見えてくる東洋の源流であることが分かる。今後、先生のこ とを紹介するときには漢字学者などとせず、東洋学者とすることは先生のご遺志 に沿うだけでなく、学者「白川静」を評する上でも適当なことであろう。

第60回

「「山」 象形。高い山々が連なっている形。中国の山は火山活動によってでは なく、地殻の変動や水の浸食によってできた山が多いので、山が連なっている形 に作られている。火山の爆発によってできた富士山のような一つの高い峰の形で はない。山の美しい姿は、主峰があり、その左右に山容が連なっている形で、そ れが山という字となった。」

[『常用字解』「山」項(平凡社 2003年)]


 古代中国人にあっては、主峰の周囲に山々が連なっている様を美しいととらえ たようだ。これは、地理的に中国には連峰が多いためであるという。文明の発 生・発達と、地理や動植物等の自然環境とが、極めて密接な関係があることは、 多くの言を俟つまでもなく明らかである。異なる条件下で発展した文明や民族の 価値観や美意識も同じであるはずはないが、しかしわが国の富士山の稜線の美し さは世界に誇って良いだろう。古代中国人が富士山のような山を目にしていたら、 あるいは、富士山を望む地域で文字が発達していたら、「やま」はどのように表 されていただろうか。歴史に「もし」はないとはよく言われることだが、このよ うに想像することもまた楽しい。このように考えたとき、悠久の時間の流れの中 にあっては、我々は実に小さな存在であることを実感する。しかし同時に、我々 は確かにその中に居るのだと気付くのである。

第59回

「批判は同じ次元での、自己分裂の運動とみてよい。それは自他を区別しながら、 新しい我を形成する作用であるが、しかし果たして、人は真に自他を区別しうる であろうか。他と自己の全き認識ということはありうるのであろうか。それぞれ の思想の根源にある究極のものを理解することは、それと同一化することとなる のではないか。それゆえに批判は、一般に、他者を媒介としながらみずからをあ らわすということに終る。それは歴史的認識を目的とするいまの研究者にとって も、いいうることである。」

[『白川静著作集』巻6 孔子伝(平凡社 1999)]


 孔子の思想に対して、墨子の学はその思想を批判するという形で発展した。孟 子は墨子の学を批判し、荀子はその孟子を正統ではないと批判した。戦国諸子百 家の学はこのようにして多くは批判から出発し、発展を遂げた。しかし墨子が孔 子の思想の極限のところを理解していたかというと、そうではない。墨子の提唱 した“兼愛”は結局孔子の“仁”に対立するものではなかった、と白川先生は述 べておられる。人は他を批判するとき、自らを高いところに置いて客観的に述べ ているつもりになりがちである。しかし実際のところそれは単に“みずからをあ らわすことに終わ”ってはいないだろうか。本当に客観的な材料を揃えて対象を 理解しようとしているだろうか。何かを批判しようと思うとき、白川先生のこの 言葉を思い出したい。

第58回

「私達の若いときには、ずいぶんませた文章、大人の文学というようなものを読 みました。それで大人になった。古典も読み、大人の読みものを読んで、はじめ て大人になるのであって、それをいつまでもあてがわなければ、大人になり損ね てしまいます。」

[『桂東雑記Ⅳ』 文字教育について(平凡社 2006)]


 今の若者たちは、「大人になり損」なってはいないか。そうした危惧を抱く白 川先生は、ご自身の体験を交えつつ古典と大人の読み物とを読む重要性を説かれ る。「読書百遍」とある様に、たとえ難解な古典でも何度も繰り返し読めば、書 かれた内容はおのずと理解できる。そして自分の中で内容を咀嚼し消化する過程 が、大人になることに他ならない。先生はそうお考えになっていた。昨今若者の 「古典離れ」が指摘される中、白川先生のこの言葉を噛み締めつつ、教育におけ る古典の効用について今一度考えてみたい。

第57回

「かれ(注、阮籍)の[大人先生伝]は、世の礼俗の士に対するその立場を示したものである。」

[『白川静著作集』巻8 中国の古代文学(2) 阮籍の詠懐詩]


 阮籍の時代は大変生きにくい時代であった。折しも曹氏の魏を司馬氏が武力で簒奪し、新たに晋を建てようとするその渦中のことであり、政治に携わる阮籍もまた少なからぬ影響を受けた。司馬氏に反する些細な言動ですら身の危険を招き、阮籍の友人の嵆康などは死刑に処せられた。こうした世情であったために、阮籍や嵆康をはじめとする所謂「竹林の七賢」は老荘や易などの思想を駆使し、婉曲的で難解な談義を行なわざるを得なかったようである。つまり、当時の人々は世情を鑑み、言動を制約せずにはおられなかったのである。このような世情を最も反映しているといえるのが、阮籍の代表作の「詠懐詩」八十二首である。この「詠懐詩」には婉曲的な表現が多く、難解である。『文選』(巻二十三・阮嗣宗詠懐詩十七首)の顔延年の注では、「阮籍は不安定な時代に仕え、自分自身が禍に遭うことを恐れてこのような作品を作った」、「生命を憂える嘆きがみられる」といった解釈がなされている。顔延年注にいうように、「詠懐詩」は全篇を通して嘆きや憂いが見て取れ、読む者に鬱々とした感じを与えるものがある。婉曲的で、「終身薄氷を履(ふ)む」(「詠懐詩」其三十三)がごとき「詠懐詩」に対し、「大人先生伝」は大きく趣きを異にする。「大人先生伝」の内容は、簡単に言えば世の儒者に対する批判である。「大人先生伝」において阮籍は、全てを超越した「大人」に自己を仮託し、儒者の言動の特徴的なものを逐一取り上げ、痛烈に批判する。筆者は最近、改めてこの「大人先生伝」を読み返し、「詠懐詩」に一貫する思想や姿勢、または『晋書』などにみられる阮籍の生き方とは、大いに異なるものを窺い知った。白川先生が「大人先生伝」を「世の礼俗の士に対するその立場を示したもの」といわれたことは確実で的確ある。これに多少補足するならば、「詠懐詩」とは大きく趣を異にする「大人先生伝」を、阮籍の思想の一側面として広く見ていく必要もあるのではないかと考える。

第56回

「写しているうちに『この形は、この時代の人がこういう意識を持ってこういう 形を与えたのだな』というふうに、字の形の意味が手を通じてわかるのです。頭 でわかるのではなくて、体でわかってくる。」

[『桂東雑記Ⅳ』 文字の世界に遊ぶ(平凡社 2006)]


 先生は甲骨文の資料をノートに書き写し、整理することを独力で行われ、頭の 中だけで考えをめぐらすだけでは気付き得ないことに気付かれ、多くの研究結果 を残されてきた。このように「書き写す」という方法は研究において重要なイン スピレーションに深く関わるもののひとつではあるが、大変な労力を必要とする ことから、誰もが行うような研究方法ではない。とりわけ、現在の研究者はコ ピー機や電子テキストの普及に伴って、自らの手で資料を書き写すということは 少なくなってきた。結果として、資料に埋もれるだけの研究が増え、革新的な研 究が少なくなってきていることは事実である。このような現状を考えると、先生 がされてきた書き写すといった地味に見える研究方法こそが、研究というものの 本質を表していることが分かるのではないだろうか。

第55回

「一介の孝廉から身を起こし、「贅閹の遺醜」と罵られながら覇権を掌握したかれには、世の顕門名流とおのずから異なる心情がみられる。かれは士卒らと、人馬ともに飢える苦寒を分ち、その悲涼を歌うことに、むしろある喜びを感じている。(中略)[三国志]中の名賢君子よりも、曹操の方がはるかに人間的であったのではないかと思う。それでここにおいてのみ、文学が開花するのである。」

[『白川静著作集』巻8 中国の古代文学(2)(平凡社 2000年)]


 『三国志』の英傑・曹操といえば、少なからず残虐非道という「奸雄」としてのイメージが付き纏う。小説『三国志演義』等の影響から、必然的に曹操は悪役・敵役として扱われてしまう運命にあり、蜀(劉備)贔屓の傾向にある日本に於いては、尚の事である。しかし、史実の曹操は当時の建安文学の第一人者としての、文人としての側面をも持ち合わせており、そこから彼が単なる「天下に執着するだけの武将・政治家」でなかった事が窺い知れるのである。
先生は曹操の最も有名な作の一つとして「苦寒行」(『文選』巻27所収)一首を例に挙げ、「そこにはあの驕慢な権力者の姿はない。むしろ運命的に老いてなお戦いつづける武将の悲壮な心情と、その孤独さが歌われている。」と述べておられる。
時に傑出した才智と謀略に長けつつ、一人間としての心情を素直に顧みる事の出来る人であったからこそ、彼の生き様とその文学は面白い。そこには英雄か奸雄か、などという議論は取るに足らぬ、些細な問題となるだろう。

第54回

「「辰(大火)と参とは東西に相対するもので、同時にみえることのない星宿である。それで参、辰相闘うという説話を生んだのであろう・・・・・。」

[『白川静著作集』巻6 中国の神話(平凡社 1999年)]


 白川先生の言に補足といっては僭越ではあるが、この辰と参に関してエピソー ドをひとつ紹介したい。
まず、この辰と参の話は『春秋左氏伝』(昭公元年)に子産の言として記載さ れている。その概略は、「高辛氏に閼伯と実沈という二子があったが、仲が悪く 争いばかりしており、后帝はこれを快く思わず、閼伯を商丘に遷して辰星を祀ら せ、実沈を大夏に遷して参星を祀らせた」というものである。辰星と参星は天球 上でほぼ180度離れており、一方が見えるときもう一方は地平線下にあって同時 に見ることができない。このことから、閼伯と実沈の説話のほか、別離のたとえ として文学作品の中にもよく見られる。
現行の星座でいえば、辰星はさそり座、参星はオリオン座に当たる。ギリシア 神話では、オリオンは腕の良い猟人であったがうぬぼれが強く、これを懲らしめ るため神々は一匹のさそりを放ちオリオンを刺させた。このためオリオン座はさ そり座が昇ってくると、これを恐れ地平線下に逃げるように沈んで行くのだとい う。
遠く離れた東洋と西洋でこのような伝説があるのは、大変興味深いことだと思 うのである。

第53回

「人は、一人の偉人を作るために、しばしば多くの犠牲を惜しまないものである。しかしまた、人を偉大ならしめようとする努力が、どんなに滑稽を伴うものであ るかをも、この「郷党篇」は示している。」

[『白川静著作集』巻6 孔子伝(平凡社 1999年)]


 『論語』郷党篇に記されている孔子の日常における仔細な記録は、後世の聖人孔 子の理想像であり、実際の人間孔子とは異なったものである。白川先生は丹念に『論語』や他の歴史資料を読み込むことによって粉飾された部分と孔子の精神を 正しく継承している部分とを分析され、人間孔子の実像を浮かび上がらせた。今日、我々は何かに対して、他者の概説や批評などを読むだけで頭の中にイメージ を作ってしまいがちである。しかしやはり自分で実物を見、分析して粉飾を取り除いていかなければ、真実の姿は見えてこない。情報が氾濫している現在におい てその作業はいっそう重要である。

第52回

「すべての学問は、その時代の意識をどのように正確に把え、それに対える営み を為しうるかということによって、その価値が決定されるといってよい」

[『白川静著作集』巻1「呉大澂の文字学」(平凡社 1999)]


 呉大澂は近代文字学の先駆けであり、若き日の白川先生の文字学研究に影響を与えた人物でもある。彼が生きた清朝末期には、西洋の近代文明の科学技術を導入して国力の増強を図る「洋務運動」が起こっていた。彼の文字解釈は、著しく 合理的・科学的な方法に基づいて行なわれており、それは洋務運動によってもたらされた時代の精神と何かしらの関係がある、と先生は推測されている。
充実した研究とその時々の社会思潮とは、不可分の関係にある。研究者たる者よ、呉大澂に倣って時代の意識を汲み取る、そんな研究を行なうべく努力せよ。かような激励のお言葉を白川先生から頂戴した気がする。

第51回

「先生は晩年に、養生の法を、食生活と精神生活の上から、いろいろと説かれる ことが多かったが、私は先生の長寿の秘訣は、よく歩かれたことにあったと思う」

[『白川静著作集』巻12 蘆北先生遺事(平凡社 2000)]


 白川先生ご自身も大変な長寿であったが、師の橋本循先生も長寿であった。そ れだけでなく、両先生ともに共通の健康法をお持ちであったようだ。自宅から大学まで徒歩で通われた橋本先生、若いときには山歩きを、晩年にはご自宅の周り を散歩されていた白川先生(同章参照)という具合に、歩くという点において共通しているところが実に興味深い。こうした文章から、白川先生が御退職後、精 力的に書物を世に送り出していかれた背景には、健康に留意しそれを維持しておられたという一面があることが分かるのである。

第50回

「言語はわれわれにとって所与的なものである。われわれは生れると同時に、われわれを待ち受けている既存の言語体系の中に包まれてしまう。われわれはその与えられた言語体系の中で生長し、これを通して思惟し、また自らの思想を形成してゆくのである。」

[『白川静著作集』巻1 訓詁に於ける思惟の形式について(平凡社 1999)]


 誤解されがちだが、言語に関する問題というのは、今を生きる我々だけの問題ではない。これから生れてくる子供たちにも大きな影響を及ぼす重要な問題でも ある。先生はたびたび漢字制限の問題に関して苦言を呈されてきたが、このような考えが根底にあったことを考えると、先生は現在のこと以上に、これから生れ てくる子供たちのことを心配されていたように思われる。
先生はともすれば漢字の研究者としてのみ捉えられがちだが、先生のことを正しく理解しようとするなら、教育者としての側面も見る必要があるのではないだろうか。

第49回

「『黄帝内経素問』は二十四巻八十一篇、『其の天年を盡終して百歳に度りて乃 ち去る』としている。その永世不死への希望が、のち神仙の思想を生んだ。」

[『文字講話Ⅲ』 生活と医術(平凡社 2003)]


 白川先生は、今日様々な社会問題がある中で一番憂慮すべき問題は、長寿社会的な事象であると考えておられた。九十二歳になられる(2002)年には、自分のことを老人というふうには思っていない、老人という意識をまず改め、自分はやがて老人介護を受ける身分になるというような観念を捨てること、生涯介護はう けないというぐらいの気持ちになることが大切である、と述べておられる。この言葉の通り、先生は九十六歳でお亡くなりになる直前まで「生涯現役」でおられた。
『黄帝内経』とは中国最古の医書とされているものである。そこで人の天年は百年であるとされている。先生はその通り、まさしく百年を生きられたのである。 伝説の医書と生き方を同じくするような先生の生き様に、改めて頭が下がる思いである。

第48回

「万葉の様式における中国の思想や文学との関係を、特定の作者の文学的体験にのみ本づけるのでなく、たとえば漢字の使用によってその表現意識の基盤に底深く養われてきたもの、あるいはその生活感情を規定した当時の文化や、政治的社会変動の中に、より根源的な課題を見出だそうとするのが、私の意図するところであった。」

[『白川静著作集』巻11 万葉集と中国思想(平凡社 2000)]


 使用頻度に多寡はあっても、それぞれの漢字には「底深く養われてきたもの」があり、それは主に義という形で表れている。義はその漢字の歴史であり、思想であり、血肉であると言ってよい。
人名などを見てみても、音(ここでは音読み・訓読みの両方を指す)に重点が置かれ、義はあまり考慮していないのではないかと思える名前が多い。また、同 じ音でも義はニュアンスが異なる場合が多く、その場に合った漢字を選択することが肝要である。義に注意を払わないということは漢字の特質を活かしきれてい ないということである。現代中国語の場合、外国の企業名などに漢字をあてる際には褒義字を用いることが多い。もっとも、響きの美しさということも大事な要 素であり、一概に否定はしないが、ただ、漢字文化圏に生きる者として、義に敏感になることで言語生活がより豊かになると思うのである。

第47回

「難しければ辞書をひいて調べたらいいのですよ。見ただけでわかろうなんでい うのは横着な話。」

[『回思九十年』「漢字の素晴らしさを伝えたい」(平凡社 2000)]


 白川先生はたびたび文字制限を批判されている。文字制限によって日本語と漢字が持つ多様な表現が規制され、言葉が少なくなることを先生は危惧された。わ からなければ辞書をひく、調べて覚える、そして自分の知識とする。先生は「知識は無限でなけりゃいかん」とも仰っている。漢字はただ音をあてはめるだけの 記号ではない。そこには歴史があり、文化が表わされている。辞書をひけばその語の意義・語源を知ることが出来るのと同時に、その語を発端として繋がるもの が次々と出てきて、知識が広がってゆく。そうした発見の楽しさを、現在の我々は忘れがちである。

第46回

「全て学問の体系をうかがいながら、それによって自分を養っていく、それによってそれをさらに発展、展開させていく、というのが後の学者の仕事でなければな らんわけであります。」

[「京都の支那學と私」、『學林』第33号(中國藝文研究會 2001)]


 若き日の白川先生は、王国維・内藤湖南など一流の学者から多大な影響を受けながら文字学研究を進められた。最終的に彼らの学説を厳しく批判するに至った が、それは新資料が発見・解読され、新しい学問の体系が生まれてきたからだ、と説明される。そして、先賢の学恩を先生が決してお忘れにならなかったことは、 講演録を読めばはっきりと分かることである。
白川先生のこの短いお言葉の中に、学者のあるべき姿が端的に述べられていよう。我々も研究活動を行なってゆく上で、先人の業績に尊敬と感謝の念を忘れず、 しかしその学説を妄信することなく批判的に継承してゆきたい。それこそが、「後の学者の仕事」である。

第45回

「(しかも)[詩品]は陶詩を中品に列している。その詩はこの時期の修辞主義の風尚にあわぬもので、その真趣は当時の一般の人に十分理解されることがなかったのであろう。」

[『白川静著作集』巻10 中国の古代文学(2)(平凡社2000年)]


 陶詩とは陶淵明の詩のことである。中国の詩人といえば、李白や杜甫といった、 いわゆる唐代の詩人がまず思い浮かぶことであろう。しかし、唐以外の詩人となればこの陶淵明を挙げる人も少なくないと思われる。これは、陶淵明の詩篇のみ ならず、「帰りなんいざ、田園まさに蕪(あ)れなんとす」より始まる「帰居来の辞」を著し、それまでの役人生活と決別したのち、郷里の田園に退いて、そこ に真意を求めたということでも大変有名な彼の生涯が、古くから我々日本人に親しまれてきたことをよく表しているといえよう。現在ではこれほどまでに良く知 られている陶淵明であるが、実のところ当時の評価はあまり芳しくないものがあった。例えば、白川先生が指摘されているように、当時の詩人を上・中・下に分 けて評価する『詩品』という書物では、陶淵明は「中品」の評価である。また、『詩品』以外の資料として、当時の権威的な詩文集であった『文選』においては、 山水詩人として有名な謝霊運の詩が四十首も採録されている一方で、陶淵明の詩は八首のみが収められるばかりであり、ここからも当時の陶淵明の評価の一端が 垣間見られることであろう。このように、『詩品』における評価のみならず、『文選』での陶詩の採録状況を含めて考えると、白川先生の「その真趣は当時の 一般の人に十分理解されることがなかった」という言葉のように、現在は大変に有名な陶淵明でも、当時はその良さが十分に理解されていなかったということが でき、なかなか興味深いものがある。

第44回

「経学の伝統はあまりにも重く、古代歌謡をその閉鎖の中から解放することは、この国の伝統の中からは不可能であったのであろう。」

[[『白川静著作集』巻9 詩篇の伝承と詩経学 (平凡社2000)]


 これは詩経を文学として研究しようとする方法論が、中国において開拓されなかったことに対しての言である。詩経は中国最古の歌謡集であるが、孔子の編纂ということで経学に組み込まれ、長く歌謡としての本質から離れた所で論じられてきた。近年に至り、伝統の重責を持たない外国人によって詩篇は歌謡として捉えられ、文学作品として解されることとなったのである。このように、伝統の中にあり続けると本質から離れ、伝統に振り回されてしまうことがある。
先生は中国の伝統的な経学が色濃い日本にありながら、伝統を軽んずることなく、柔軟な発想を持ち、歌謡としての詩経の本質を研究され、結果として詩経学にひとつの足跡を残された。ただ、先生の残された足跡も重要ではあるが、先生の対象への向き合い方から見て取れる研究者のあるべき姿の方が、研究を行うものにとっては重いように思える。

第43回

「書物はあくまでも資料であり、その資料を用いて研究するためのものである。そこで最も重要なことは、いかに読みいかに考えるかということ、すなわち研究法の問題でなければならぬ。」

[『白川静著作集』巻12 文献学(平凡社2000)]


 研究者にとって、文献資料なくして研究は成り立たない。しかし更に重要となるのが、それらに基づいてどのように考えを発展させていくのか、という事である。換言すれば、如何にして資料を読みとくかが研究の根幹を成すと言っても過言ではない。
近年、漢文資料の電子テキスト化が進み、漢学研究の世界にも少なからず影響を及ぼしてきている。我々研究を志す者も、一昔前に比べれば、随分と簡単に膨大な文献資料を検索、あるいは閲覧できることが可能となった。しかし、研究の根幹である読解と解釈に重きを置かなければ、結局はその膨大な資料に振り回さ れるだけで終わってしまう。どのような資料をどのように読み解いていくのか。あらためて、先生のこの言葉を己自身に言い聞かせなければならぬと感じた。

第42回

「古代にあっては、ことばはことだまとして霊的な力をもつものであった。しかしことばは、そこにとどめることのできないものである。高められてきた王の神聖性を証示するためにも、ことだまの呪能をいっそう効果的なものとし、持続させるためにも、文字が必要であった。」

[『白川静著作集』巻1 漢字(平凡社 1999)]


 霊力や神聖性などと大げさなことを言うつもりではない。しかし、ことばを文字として残すことができるおかげで、我々はその人の意思をいつでも振り返ることができる。白川先生のように膨大な意思を残した人物もいるだろう。また、ほとんど残さない人物もいるだろう。しかし、わずかでも残した意思があるなら、いつでも、何度でも、その人物と対話できるのである。それを手にするときよぎるのは、必ずしも喜びばかりではないだろう。しかし、それを手にすることができる者は、やはり幸いだと思うのである。

第41回

「形のみでなく、音のみでなく、両者を含めて、その上に同時代的な意味の体系を追求すること、そこに古代文字学が成立する。」

[『字書を作る』 字通に寄せる(平凡社 2002年)]


 白川先生は七十三歳のとき、かねてより意図していた字源字書の編纂にとりかかられた。それまでの内外のどの字書にも満足されなかったからである。白川先生は、字の起源と、その背景にある古代の社会・文化を考え、その表象は字形的表現全体の中で理解すべきだとされている。それは長年膨大な甲骨文・金文資料の文字を手でひとつひとつ抄写し、当時の社会背景とあわせ体系的に把握されていた先生だからこそ強く感じられたことであろう。漢字の成り立ちを考えるとき、つい形や音だけにとらわれてしまいがちだが、そこには深い歴史と文化が刻まれているのである。

第40回

「孔子を歴史的な人格としてとらえ、その歴史性を明らかにすること、それが孔子の生命のいぶきをよみがえらせる、唯一の道である。」

[『白川静著作集』巻6 孔子伝(平凡社 1999年)]


 孔子は偉大な人物であり、東アジア文化圏に及ぼした影響は計り知れない。従って、孔子の現代における意義を考えることは重要な課題だといえる。しかし、引用文より前の箇所で「論者の史観に合うような、任意の孔子像」を求めるべきでない、と白川先生は述べられる。つまり、あくまでも資料に基づいて孔子の人となりを考えるべきであり、それでこそ孔子を正当に評価したことになる、というのが先生のお考えであった。
実際、『孔子伝』では資料を大量に引用することによって、「歴史的な人格」としての孔子が実証的に考察されている。諸国を漂泊する際に弟子たちと共に苦労し、挫折を経験する姿を活写する所は、聖人君子のイメージを色濃く有する従来の孔子伝とは大きく異なっていよう。 膨大な量の資料を収集してその是非を検討し、精密な筆致で文章を執筆する所に白川先生の学問の特質がある。先生の学問の精髄が随所に見られる『孔子伝』、この書から我々が学ぶことは多いはずである。

第39回

「宴席はよいものだが、やはり節度がほしい。当時の貴族たちには、わが国の酒乱者のように、乱れるのを酒のみの特権とでも思う人が、やはりあったようである。」

[『白川静著作集』巻10 詩経(平凡社 2000年)]


 これは『詩経』小雅の「賓之初宴」の一節を解説されたものである。『詩経』といえば近付き難い印象があるが、西周の貴族たちにも現在の我々と共通した一面を持っていたことを知ると、『詩経』に対して親しみを持てるのは筆者だけではあるまい。
西周の貴族たちは盛んに宴席を催し、太平の世を謳歌していたのであったが、こうした時代はやはり長くは続かないもので、遂に「衰落」(同章参照)の時代を迎えることになるのであった。
白川先生の著作を読むと、学問に対して戒められることが多いが、今回の文章のように、学問を通して人としての生き方を諭し、導いてくださっているように感じられるものもあり、白川先生の学問の幅の広さには驚嘆するばかりである。

第38回

「[詩]の学は古くして新しい。」

[『白川静著作集』巻10 詩経研究通論篇 序(平凡社 2000)]


 [詩]は前六百年前後に制作されたと考えられる。その後、[詩]は伝承の過程を経る中、さまざまな人々に受容され、理解されることとなり、その時代ごとに大きな研究結果を残しながら現在に至っている。ただ、現在までにおよそ二千六百年の時を経ているのだが、一向に研究の尽きる気配がないのは何故であろうか。その理由は恐らく、二千六百年も前のものを扱う学問に新しさを見出すことができる人々が各々の時代に存在したからであろう。
一般の方々の目には古典も古典を扱う人々も古臭いものとして映るかもしれない。しかしながら、古典を扱う人間がすべて古臭いというわけではない。現代に生き、先進的な感性を有している人々もいる。その感性を以って古典という対象に向き合うことで現代に通じる新しい何かを発見していくのであり、先生もそういった発見をされた一人である。
現在、古臭いという理由から古典を学ぶ人は少なくなっているが、古典に新しさを見出すことができない人というのは、実のところ硬直した感性しか持たない古臭い人間ということなのかもしれない。古典に新しさを見出す人々を見るとそう思えてくる。

第37回

「地球は、この僅か百年ほどの間に、著しくその相貌を変えた。現代の人は、儵(しゅく)と忽とのように、その眼を穿ち、その鼻を穿ち、地球は今異常な息吹をしているようである。」

[『桂東雑記Ⅳ』 渾沌について(平凡社 2006)]


 『荘子』「応帝王篇」の「渾沌、七竅(きょう)に死す」寓話についての言葉である。南海の帝である儵と北海の帝である忽が、中央の帝である渾沌と巡り会う。人間には七つの竅(あな)<眼2、耳2、口1、鼻2の七つ>があり視聴食息するが、渾沌にはその竅が一つもない。そこで儵と忽が、渾沌の為にと、七つの竅を鑿(ほ)ってやることにした。一日に一つの竅を穿ち、七日目に七つ全ての竅が穿たれ、ようやく人間らしくなったと思ったら、渾沌はただの屍と化していた…という寓話である。
先生は、高度経済成長の著しい「激動の二十世紀」、百年を生きられた方である。今や、環境破壊・自然破壊などという言葉が耳に入ってくるのは日常茶飯事だ。我々はこのまま儵と忽のように、地球にとって良からぬ「竅」を穿ち続けるしかないのだろうか。先生はこの条の最後を「渾沌をして渾沌たらしめよ。そこに自然の大摂理が看取される。」という言葉で締め括っておられる。今一度、これらの言葉を胸に、人と自然の在り方について思いを馳せてみるべきなのかもしれない。

第36回

「近くに彙文堂があり、(中略)私は学校への途中、時間があればここに立寄り、思うままに書物を見せてもらった。高くて買えない本が多かったが、手に合う程度のものは、その都度一、二冊ずつでも求めた。」

[『回思九十年』「私の履歴書」(平凡社 2000)]


 京都御苑南東の「彙文堂」という古書店をご存知であろうか。この書店の店頭には内藤湖南の揮毫による立派な扁額があり、古くから京都の中国学者に親しまれてきた。かつての立命館広小路学舎からも近く、白川先生ご自身もよく通われていたことがこの一文からも明らかであろう。昨今は書店に行かずともインターネット上にて書物を購入することも可能であり、その利便性も高いが、思いがけない本と遭遇できたり、本の背表紙を眺めて書名を目にするだけでも知識の蓄えが増えるなど、書店で購入することにはインターネットでの購入にはない良さがあると思うのである。単なる利便性だけにとらわれない書物購入のあり方を、今一度見直してみてもよいのではないだろうか。

第35回

「([風俗通義]によりますと、)上寿なるものは百二、三十歳とあり、本当の天寿は百二十歳と申します。中寿が百歳、八十歳が下寿、一番下の年寄り、私はまだ九十一歳、この四月に九十二歳になりますけれども、まだまだ中寿まで、間があるのです。勿論老人というふうには自分では思っておりません。」

[『白川静文字講話Ⅲ』「生活と医術」(平凡社 2003)]


 いつまでも、年齢を感じさせないご活動をされていた白川先生。そんな先生の、衰えない意欲を感じさせる、若い我々からすれば、頭が下がらずにはおれないお言葉である。
近年、社会の価値観は経済活動が中心となり、年を取ること、成熟することが、軽視されているように感じられる。短期的な結果を追い求めるばかりではなく、長期的な、一生をかけてのぞむというような目的意識を、この不況の折に、今一度、誰もが見直すべきではないかと思う。

第34回

「人は他の人物を論じながら、しばしば多くみずからを語るものである。」

[『白川静著作集』巻6 周公旦(平凡社 1999)]


 これは、郭沫若氏が岩波講座の[東洋思潮]に発表した[天の思想]で、周書の諸篇に周公の政略的意図を見ようとしている背景に、自身の策謀家としての側面が影響していることについて述べた文であり、先生自身も周公を論ずるに当たっては、「私のかこうとする周公の像も、要するに私の観想のなかにあるものにすぎないであろう」と断りを入れている。
先生の言葉通り、人が他者を論じる際には必ず自分というものが出てくる。それ故に、一人の人物に対して多くの見方が出てくるわけである。どの見方が正しいのかといえば、それは自分で考えなければならない。しかしながら、自分で考えるということは、そこに自分が現れてくることになり、正しい姿から離れてい ってしまう。これは、研究者にとって解決不能なジレンマであり、人が他者を論じる際には完璧な答えがないということの現れである。ただ、それでも完璧な答えを探求し続けることが研究者としての正しい姿であろう。

第33回

「うん、夢は持っておらんといかん。どんな場合でもね。」

[『回思九十年』古代文字を探る(平凡社 2000)]


 平成5(1993)年、白川先生が83歳の時、『後宮小説』・『墨攻』等の著作で知られる酒見賢一氏との対談で語った言葉だ。先生の夢は、自分の義務を終えたという時がきたら、『大航海時代叢書』正続を読み、その中で、世界を旅してみたい、という事だった。しかし「老後の楽しみ」としての書物の旅は、実現されることはなかった。先生のご自宅の二階には、『大航海時代』第Ⅰ期・第Ⅱ期37冊が置かれたままになっていたそうだ。
先生のこの短いお言葉の中に、「夢」をどんな場合でも持ち続けるには、確かな目標と日々の努力が必要なのだ、と強く感じた。「夢や理想を抱く」ことは簡単に出来るかも知れない。しかし本当に「夢を持ち続け」られるのは、目前の自分が為すべき事を正面から見据え、日々邁進している人なのではないか。「夢」や「理想」を語る前に、自分の成すべき事をする。全てはそれからなのだ。「夢を持ちにくい時代になった」と言う。そんな時代だからこそ、先生のこのお言葉は重い。

第32回

「名のつけ方は時代とともに変わる。平安以後には好字をえらび、名告(なの)りに一定の方式があった。今は好尚も多様化し、あまり字義に拘泥しないことが多い。しかし名はその人の人格形成に深くかかわるもので、親の趣向で軽々しくつけてよいというものではない。」

[『桂東雑記Ⅲ』「人名漢字表の追加について」(平凡社 2005)]


 近年では、画数などを依りどころにして、子供の名前をつける人が多いようだ。子を思う親心は、古来変わらぬものかもしれないが、いささか親心が空回りしている場合もある。
たとえば子供の名前に、「腥」字を使いたいという要望が多いらしい。「腥」の字義は「なまぐさい」、月と星では決してない。白川静・津崎幸博『人名字解』(平凡社 2006年)で、一度漢字の意味を調べてみるのも親心だ。

第31回

「暗誦していますと、古い時代の故事熟語、そういうふうなものがみな頭の中に入る。今言いました王勃の作品(注、「滕王閣の序」)の一句一句がね、すべて故事来歴があるのですよ。それが大体頭の中にある、そうすると他のものを読むとき、辞書を引かなくても大体わかる。」

[文字講話』Ⅳ 漢字の将来(平凡社 2005)]


 中国の古典文学には典故表現が多く、漢賦における『楚辞』という具合に、基づく作品や表現が必ずあり、『楚辞』を理解していなければ漢賦の理解は難しいとされている。このように、一つの作品を理解するにも、いくつもの基づく作品にあたって多くの典故表現を知らなければならず、その煩わしさに悩まされることも少なくはない。そのためか、労を惜しみ、関連する典故表現が出てくれば、その部分だけを調べて良しとしてしまうこともある。しかし、本当にその文学作品を理解しようとするならば、白川先生のように作品一つをすべて「暗誦」し、それを知識として使えるくらいにする必要があるのではないかと、先生のこの文章を読み、日頃の怠けた気持ちが戒められる思いがするのである。

第30回

「韓国にしましても中国にしましても、将来これは日本の与国として、同盟国として、必ず手を結ばねばならん国です。私は特に漢字・漢文をやっておりますから、そういう漢字文化圏という歴史的な意味あいからも、この文化圏の持つ歴史的な意味を、失うべきではないと考えておるのです。」

[『白川静文字講話』Ⅱ 戦争について(平凡社 2003)]


 ただ単に同じように漢字表記を用いた、というだけではない。漢字文化圏は、中国を中心に、文化の深い部分で繋がっていると言える。今、日本と、中国や韓国との間には、簡単には埋められそうにない巨大な溝が存在する。東洋文化を知り、研究するとういう行為は、日本文化の根底を知ることであり、同時に国家間の溝に橋を架ける行為であるという点で、大きな価値を有している。白川先生は、その研究成果を発表することで、「漢字文化圏の復権」をも考えておられた。

第29回

「漢字を単なる借り物である、と思うのは、非常な間違いです。漢字はいまや、日本人の血脈である。」

[『白川静著作集』巻2 漢字の思考(平凡社 2000)]


 漢字は中国からもたらされたものであり、本来の意味での国字ではない。しかしながら、万葉集にも見えるように奈良の頃より漢字は国字のように用いられてきた。そして、漢字の持つ特性は膠着語たる日本語の欠点を補い、日本語は近代語としても十分な機能を果たすことができたのである。にもかかわらず、日本人は自国の文化の根底にある漢字を捨てようとしている。漢字に対して思い入れのない人にとって先生の言葉は漢字学者ゆえの言葉と思われるかもしれない。ただ、人間の思考の構成要素のひとつは言語である。それを制限されることは、思考の自由を奪われることに等しいのではないか。先生の漢字制限に対する危機感がどれほどのもであったかは、残された言葉の端々から読み取ることしかできないが、深いものであったことは想像に難くない。

第28回

「果たして中国古代における共同体の基本構造を、実証的に追求することは不可能であろうか。こういう問題は、中国の古代研究の資料である甲骨文や金文・経籍、およびおびただしい考古学的な遺物の細心な研究の末に、はじめて決定できる問題であり、そういう努力の払われる前から結論を予定すべきではない。困難がどんなに大きくても、中国の古代社会の研究は、まずこれらの資料を克服し、そこに社会史的事実を発掘する、ということからはじめるべきであると考える。」

[『白川静著作集』巻4「中国古代の共同体」(平凡社 2000)]


 中国の古代共同体社会を、実証的に求めてゆくこと、先生はそれを回避して研究はあり得ないと考えておられた。この課題に対しては、はじめから不可能な事であると決定づけ、他の諸民族の歴史や未開社会のうちに認められる諸事実に本づいて、理論的に中国における古代社会を構成することが、唯一の可能な方法で あると考えている研究者もいたほどだ。
しかし白川先生がその困難な道を敢えて突き進み、多大なる結果を残された事はあらためて言うまでもない事実である。聳え立つ高い壁に直面した時、人はその壁を越える事を諦めるか、または回り道をして避けて通ろうとする。誰しもが挑まぬ事に、苦難を覚悟の上で尽力する。本物の研究というものは、器用に苦難 を回避する如才なさから育つのではなく、こういった困難に敢えて立ち向かおうとする気概から生まれるものかもしれない。

第27回

「中国古代の観念によると、宇宙は、上に円形のドームをなす空があり、下には水平な大地がある。これが彼らの考えていた宇宙像である。つづめていうと、それは「天円地方」である。そしてその「天円地方」を象徴するものは、亀のあの異様な姿である。背甲は隆起してその肢体をおおい、腹甲には地文があって大地についている。その安定した姿から、古代人は容易に宇宙の姿、われらが住む大地の姿を連想した。」

[『白川静著作集』巻4「卜辞の世界」(平凡社・2000年)]


 うらないに亀の甲羅が用いられるようになったのは、なぜか。白川先生は推測に過ぎないと断りながら、以上のような仮説を立てておられる。
実証的な裏づけを得られない問題には、豊かな想像力を駆使して、その真相に迫る。また一方では証拠を積み重ねることで、実証的な結論を導きだす。このふたつの絶妙なバランスが、ひとつの巨大な体系を織り成している。だから白川文字学はすごいのだと思う。

第26回

「立命館の夜学に入学して、その先生(注、小泉苳三先生)に邂逅したということが驚きであり、奇遇という感じであった。」

[『桂東雑記Ⅲ』苳三先生遺事(平凡社 2005)]


 人と人との出会いや繋がりは、実に不思議なものである。
当時、立命館の文学科は存亡の危機にあり、白川先生の入学された年に教員資格の検定試験に失敗すれば、廃科と決められていた。もとより中学の国語科の資格を得ることが目的であった白川先生も、この検定試験を受けて、その志を遂げられ、本学文学科もまた無事に存続と相成ったのであるが、この時白川先生をはじめ、立命館からの受験者を「猛特訓」(同章参照)されたのが、長野高等女専から招聘された小泉苳三先生であった。小泉苳三先生は歌人でもあり、『詩経』と『万葉集』の比較研究を目標とされていた白川先生は、以前から『短歌講座』という雑誌において小泉先生が書かれた論文を見ておられ、強烈な印象を受けておられたとのことである。しかし、まさかこのような形で「邂逅」することになるとは、思いもよらなかったことであろう。この白川先生と小泉先生との出会い一つを取り上げてみても、人と人との出会いの不思議さや運命的なものを感じずにはおられないのである。

第25回

「学問をする以上は、単なる紹介というようなものであってはならん。単に自分が理解し咀嚼するということで終わるものであってはならん。そこから何らかの意味において、新たなものを生み出し、そしてその源泉に向かってそれを寄与するというものでなくてならん。」

[「『學林』二十年に寄せる」、『學林』第三十八号(中國藝文研究會 2003)]


 新年を向かえ、新たな目標を立てた方も多かろうと思う。白川先生が残してくださったお言葉に、改めてお力を頂きながら、本年も自らを奮い立たせ、それぞれの信念を貫くべく、邁進していきたいものである。

第24回

「東洋の黎明を開いたこの古代文化の研究は、東洋を考え、東洋を愛し、その可能性を追求しようとする人びとにとって、ゆたかな問題領域をもつ世界ではないかと思うのである。」

[『白川静著作集』巻5 金文の世界(断代と編年)(平凡社 2000)]


 甲骨金文というのは、まさしく文化の黎明期の産物である。しかしながら、学問としての甲骨金文学というのは古い伝統があるものではなく、まだまだ新しい分野のものである。それ故か、この言葉からは新しい世界に想いを馳せる活き活きとした感情が伝わってくる。先生は亡くなる際まで精力的に活動されてこられたが、その活力の源泉は文字の可能性を信じる少年のような気持ちだったのかもしれない。

第23回

「漢字の体系は、この文化圏における人類の歩みを貫いて、その歴史を如実に示す地層の断面であるといえよう。」

[『白川静著作集』巻1 象形文字の論理(平凡社 1999)]


 先生はこのように、漢字の体系を地層の断面に喩えておられる。地層とはほとんどの場合、掘り起こしてみなない限り人目に触れることも無く、常に我々の足元に隠れ眠っている。まして運よく発見する事が出来たとしても、知識ある人でなければただの「層の文様」である。恐らく先生は、漢字の体系を分かりやすく換言し、「地層の断面」と喩えたに過ぎないのだろう。しかし通常の人ならば省みない足元の「土」を掘り起こしてそれを読み解く、先生は正しく「漢字体系の発掘者」と言えるのではないか。

第22回

「中国の文学史は、詩・文・戯曲の分野では、明らかに新旧文学の上に断点がある。ただ一つ小説においてのみ、それはかなり密接な関係でつづいている。それは小説という様式が、近代文学の殆ど唯一の様式となっているその後の展開からも考えられるように小説こそ近代文学に堪えうる要件を備えたものであったからである。」

[『中国文学史第三編・近世文学第二部・明清文学』
(立命館大学中国文学研究室油印・昭和30年代)]


 白川先生は甲骨学の専家であるが、文学史を講じるために、古代から清代にまで至る文学史を編んでいる。今回引用したのは、その文学史の最終段からである。その幅広い学識によって、ご自身の見解を交えながら、連綿と続く中国文学の流れを読み解かれている。
いまや一口に中国文学と言っても、その中には細分化され分裂した専門分野が多数存在しており、その全容を束ねようとする文学史の試みは、一層困難になってきている。
しかし、一点を凝視する専門知とともに、俯瞰的な全体知もまた、兼ね備えなければならない。そうでなければ専門が無数に枝分かれするにつれて、相互不理解が進行するだけだ。この甲骨学の専家から見た中国文学史のように、様々な専家が文学史を編むようになれば面白い。

第21回

「『楚辞』の「離騒」はかなりの長編ですが、原文を写して暗誦するように努めました。「離騒」の一篇を覚え込んでいると、この系統の辞賦の表現法が理解できます。のち『文選』などを読むとき大変役に立ちました。」

[『回思九十年』雲山万畳、猶ほ浅きを嫌ふ(平凡社 2000)]


 白川先生は大阪での書生時代のみならず、京都に出て本学の漢文学科で学ばれてからも、『楚辞』の「離騒」などを書き写し、暗誦することで学ばれたという。書き写し、暗誦するという学問の方法は、一見すると大変地味な方法である。しかし、同章において白川先生が「書いていると、文の構造など文法的なことも理解することができるように思いました」と書き写すことの効能について言われているように、大変有益な学問の方法であることがわかるであろう。後に白川先生が甲骨文の研究を始められたときも、まず最初に行なったことは、甲骨文の拓本をトレースすることであった(同書、「私の履歴書」参照)。独自の壮大な学問の世界を築かれた白川先生のことであるから、何かしら特別な学問の手法を持っておられたのではないかと思われなくもない。しかし、先生の学問の基礎が書き写し、暗誦することにあったということを知ると、当然のことながら学問には地道な努力が必要であるということを改めて思い知らされるのである。

第20回

「腐敗した文明社会が、その腐敗を自ら救いえないかぎり、結局は野蛮主義の社会の蹂躙に委ねられてしまうことは、東西の歴史を貫いて見られる、一の普遍的事実である。しかしこの腐敗した社会が、二千数百年前と同じように、必ず民衆の殺戮と混乱の犠牲なくしては、ついに改善しえないものとするならば、人間の理性はその進歩が余りにも遅く、余りにも無力に過ぎるといわなければならない。」

[『白川静著作集』巻8 屈原の立場(平凡社 2000)]


 最近、無慈悲で痛ましい事件が、毎日のようにメディアをにぎわせている。そのような事件の背景として、「社会の歪み」を指摘する声は多い。我々はこの「歪み」を、理性的に、文明的に解決していくことはできるのだろうか。
少なくとも、安易に全体主義的考えに同調することは危険に思える。確かな知識と志に裏打ちされた、知者の言葉にこそ耳を傾けるべきであろう。 

第19回

「嚴(いか)つかりし手のやさしさよ指細り細りたる手を靜かに握る」

[『桂東雑記Ⅲ』 卯月抄(平凡社 2005)]


 先生は学問に生きた人であり、寸暇を惜しんで研究を進められてきた。結果として大きな成果を残され、学問の世界に留まらず白川静という名は知られることとなった。ただ、研究という孤独な作業を絶え間無く続けることができたのは、その傍に夫人のつるさんの存在があったからだと、夫人と連れ添った七十年という月日が、そのまま先生の研究生活と言えることからもわかるだろう。そして、そのことを誰よりも強く先生が感じていたことは夫人の臨終の際に先生が詠まれたこの一句に表れている。今日、「白川静」の研究成果を享受できる背景に先生の家族の存在があることを心に留めておきたい。

第18回

 「問題の出発点は、適用すべき理論の選択ではなくて、まず必要な社会史的事実関係を、資料に即して解明するということにある。」

[『白川静著作集』巻10 農事詩の研究(平凡社 2000)]


 『詩経』詩篇研究を語る上で、先生はまずその詩篇を成立せしめた社会的基盤の解明を試みられた。中国の古代社会については、大体において二つの支配的な見解「奴隷制説」と「封建制説」とが存在していた。しかし先生は、いずれも中国の古代社会にそのままには適合しない概念であり、それらを以て社会史的体系を構成しようとするところに、根本的な疑問を抱いておられた。そこで『詩経』中の農事詩からその生産関係を明らかにし、それらの資料に基づいて当時の時代と社会を見ようとされたのである。
今日の我々は、世間に既に存在している見解に答えを重ねがちである。ある物事について、既に二つの大きな見解が提示されていた場合、右でもなく左でもなく、イエスでもノーでもなく、もう一度出発点に立ち返り、第三の可能性を探せる人間でいたい。

第17回

「滑沢なまでに磨き上げられている亀版卜片の象面は、一見して極めて無機的な抽象性を示している。それはもとより玉石という感じではない。玉潤というには遥かに遠く、また石の冷重という感じとも異なったものがある。一切の形質を捨象された死せる形相、生命的なすべての陰翳をとどめることのない極度の抽象性が、この無機的な象面を形成しているように見える。生ける形相が捨てられ、顕在的なものがすべて背後に隠されていることを以て抽象と呼ぶならば、それはまたこの抽象を通して、自由に神秘的な世界を回復する可能性をもつ、ということでもある。」

[『白川靜著作集』巻4 卜辞の本質(平凡社 2000)]


 白川文字学の端緒を開いた処女論文「卜辞の本質」。その冒頭部分では、亀版卜片を「一見」した所の瑞々しい印象がまず語られる。意味を与え、整理し、分類する以前の、こうした無垢な印象をいつまでも保持し続けられる人は、そうそういない。白川先生を「3000歳の青年」と評した人もいるほどだ(中野美代子「平凡社ライブラリー『文字逍遥』解説」平凡社・1994)。こうした先入観にとらわれない無から、あの壮大な白川文字学の体系は構築された。「卜辞の本質」には、これから行われる白川文字学のすべてが予告されていたと言えよう。 

第16回

「中国の古典には、人生のエッセンスが凝縮されておる。」

[『桂東雑記Ⅲ』文字を奪われた日本人(平凡社 2005)]


 中国の古典文学が一体どのようなものであるのかを全く知らずに、勝手な思い込みだけでそのイメージを抱いている人が少なくない。多くは堅苦しい、役に立たないなどと考えるのではあるまいか。しかし、そのような言葉では片付けられないところがあるように思われるのである。同章において「中国の文学者の多くは、政治や社会と深くかかわり、その現実のただなかで、人はいかに生きるかという問いかけをなし、表現や思索を深めてきました」と白川先生が言われたように、中国文学の担い手は現実の社会や政治と密接な関わりを持っていたのである。しかも、現実の政治理論にとどまらず、人間としていかに生きるべきかと絶えず問い続けてやむことがない。こうした性格を持つ中国の古典文学を「人生のエッセンスが凝縮」されていると言わずして何と言いえようか。珠玉とも言うべき先人の生き方や物の考え方を中国の古典文学から学ぶことは、必ずや我々の人生にとって有益な示唆となるに違いない。

第15回

「ことばはやはり、過去と未来とをつなぐものでなければならない。ことばの上でも、歴史を回復しなければならない。現在の振幅が、過去の共鳴をよび起す。そしてまた、未来を導き出すのである。」

[『白川静著作集』第三巻 国語雑感 (平凡社 2000) ]


 先生は、法による言語の規制、漢字制限の問題に大きな危惧を抱いておられた。日本語は万葉の昔から絶えず漢字を用い、豊かな表現がなされてきた歴史がある。そこに継承されてきた文化が途絶え、未来につながらないとすれば、それはやはり大きな損失と言わざるをえないだろう。近代化の進む今日、「ケータイ小説」といった不思議な文字世界も生まれているようだが、日本のことばは今後、どのような未来を歩んでいくことになるのだろうか。

第14回

「人に遭遇の差があるように、学術の研究にもまた運と不運とがあるようである。」

[『白川静著作集』別巻 白鶴美術館誌の刊行について (平凡社2006)]


 先生の代表的な研究成果たる金文通釈は、樸社という会での講義が元になっている。それが、白鶴美術館の支援によって館誌として世に出るに至り、その縁によって説文新義もまた刊行されることになった。いかに優れた研究であっても世に広く知られぬまま終わることがあることを考えれば、このような機縁が廻ってきたことが幸運であることは間違いない。ただ、機縁というものが運のみに左右されていないことは周知のとおりである。

第13回

 「東洋の古典を読むことは、大人の世界を学ぶことにほかならない。」

[『桂東雑記Ⅲ』文字を奪われた日本人(平凡社 2005)]


 漢文、古典の授業を激減させてしまった戦後日本の教育方針に対し、先生は強い憤りを抱いておられたようである。先生の世代の人々は、子供の頃から漢籍の世界への親しみが深く、先生はそれを「(漢籍に親しむことは)大人の世界をのぞき、大人の価値観を次第に身につけることであった。昔の人は、背伸びをしてでも大人の仲間に入りたいと思っていた。(中略)大人になりたいと思い、大人ぶって、そして本当に大人になっていったのです。」と述べておられる。漢籍への理解を半ば放棄し、欧米への歩み寄りへと舵を取った日本は、先人が積み上げてきた日本人における「大人としての在り方」と「大人になる方法」の確たる選択肢の一つを喪失してしまったのかもしれない。

第12回

 「手書きの文字は、まだ自己の一部である。それは脳細胞に直結した指先を通じて、指先の感触と視覚とが結び合うところに、一つの軌迹として生まれる。文字に逍遥することも、そのような世界でのことである。今後もなお、私と同じように、このような文字の世界に遊ぶ人があるのであろうか。」

[『白川静著作集』巻三 あとがき(平凡社 2000)]


 『白川静著作集』巻三に収められている『文字逍遥』は、文字世界を自分の手で写し取り、自己の一部としようとする、そうした姿勢に根ざした随筆である。文字は「書く」ものから、「打つ」ものへ、パソコンの普及によって急速にその筆記法を変化させた。書いたことはないが、打ったことのある漢字が、これからますます増えるかもしれない。複雑な心境の中、いまこの文章を打っている。

第11回

 「ただ受業の門下として、先生(注、橋本循先生)の学術に近づき、それを学ぼうとする努力は怠るべきではないから、私はつとめて先生の文章に接し、その学術を考え、その真髄をえたいと思った。先生は、自らはその学問や方法について、直接語られることは殆んどなかった。すべて師承のことは、「視て識るべし」という方針をとられていたように思う。」

[『白川静著作集12雑纂』蘆北先生遺事(平凡社 2000)]


 「蘆北」とは、白川先生の恩師・橋本循先生の雅号のことである。橋本先生は本学文学部の基礎を築かれた方であり、また白川先生と同じく福井県のご出身でもある。
白川先生は「すべて師承のことは、『視て識るべし』というような方針をとられていたように思う」と橋本先生のことを回想しておられる。白川先生はこうした橋本先生の方針を肌で感じ取り、それを早くから実践に移しておられたようである。「すべて師承のことは、『視て識るべし』」、要するにこの言葉は、学問を修めるにあたっては、その人自身が主体的に学び取ろうとする姿勢が何より大切であると伝えたかったのではないだろうか。

第10回

「『読書千巻、冷生涯』(逵雅堂先生の詩句)といわれる研究者の生活のなかにも、外にあらわれぬ思いはある。学術の問題を論じているときにも、その意識の底に連なる何らかの現実がある。」

[『孔子伝』文庫版あとがき(中央公論社 1991)]


 先生は、遠い古代のことを研究していながら、同時に現代に生きるものとしての問題意識を、常にその根底に置いておられた。だからこそ、先生の御論著には、魂がこもっているように感ぜられるのではないか。我々も、現実に生きている以上、現実に背を向けて生きることはできない。どのような生き方をするにせよ、常にその流れを見据えていたいものである。

第9回

「その最初に買いました書物は、これはどなたかから教えて頂いたのかもしれんと思うのでありますけれども、大槻文彦の『言海』という、国語の辞書であります。」

[『桂東雑記Ⅰ』読書の思い出 (平凡社 2003)]


 三つの辞書を作った根底に、先生が初めて買われた『言海』の存在があったと仰られている。よき人との出会いは言うに及ばず、よき書との出会いもまた、人の醸成に欠くべからざるもののようである。ただし、出会いの幸いを漫然と受け流すのではなく、一つの出会いを大切にする真摯な姿勢こそが重要であることは、長い月日の後に結実した先生の研究からも分かるだろう。

第8回

「漢字には明らかに文化があり、世界がある。しかも創成のときの形態を以て、今もなお霊妙な活力を持続している、生きている歴史であるといえよう。」

[『文字講話Ⅰ』まえがき (平凡社 2002)]


 白川先生は更に、このような漢字を、音訓両用、自在に国語として駆使することのできた日本人の資質に至っては、何びとも驚嘆することを禁じえないであろう、と述べておられる。我々は日々、このような生きている歴史をごく当たり前のように駆使し、互いに意思伝達を行っているわけである。果たして、生きた歴史を用いてどのような事を誰かに伝えられるのか、あるいは残すことが出来るのか。偉大なる業績を残された先生に、天から問われているような気がする。

第7回

「やどかりは、おのれの身に合う殻を求めて生きる。それを安住の地とするのである。外からみていくらか不相応な殻であっても、意に介することはない。ただその身に合わせて、殻をとりかえることがある。」

[『桂東雑記Ⅱ』やどかりの弁 (平凡社 2004)]


 白川先生が詩歌を愛誦することは、まるでやどかりが殻をとりかえるような具合であったらしい。中野逍遥・夏目漱石・陶淵明・蘇軾など。やどかりは殻がなくては生きられない。八十歳を過ぎてからは、陸遊の詩を好まれたようである。

第6回

「漢籍は骨董品の扱いをされ、その三千年の蓄積のなかに秘められている貴重な叡智と体験、比類のないすぐれた表現は、うち捨てられたままである。私はこの書(注『字通』)の語彙の引例に、かれらが苦心して成就したそのような表現の一斑を、文意の完結した形で提供したいと思った。」

[『字書を作る』「字通に寄せる」(平凡社  2002)]


 白川先生は76歳まで本学の特任教授を務められた後、字書三部作の作成に取りかかられた。その第三作目が『字通』である。白川先生は、ご自身が長い年月をかけて中国古典から得られた「叡智と体験」、「すぐれた表現」を、字書の作成によって広く一般にまで還元させようと意図されたのである。学問の蓄積を自己の内側だけにとどまらせておくのではなく、世の中に還元させるという姿勢に、白川先生の学問に対する一面が伺えるようである。

第5回

「生きることは一種の狂である。」

[『文字遊心』あとがき (平凡社 1990)]


 白川先生によるとこの「狂」は、「理性の対極」にあり、不可欠の精神活動である。「狂」は権威を否定し、その否定から理性が生まれ、理性に呼応して再び「狂」が生まれる。この「螺旋的」な循環が、人間の創造・発展の原動力となる。

 先生はこの言葉の後、「一生を終えるまで書物の中で遊んで暮らすのは、一生幼稚園で遊んでいるのとほぼ同じ」であり、「これも一種の狂」と書いておられる。先生の最後まで衰えることのなかった精力は、まさにこの「狂」を楽しむところに、その源泉があったのであろう。

第4回

「論語に「芸に遊ぶ」という語があり、孔子はそれを人生の至境とした。」

[『回思九十年』私の履歴書 (平凡社 2000)]


 探求者として一人孤独に進まれてきた先生だが、学芸の世界にあっては多くの人や書と交わり遊んだことが九十年目の言葉からうかがえる。人生の至境というのは孔子のころより古今変わらぬようである。

第3回

「知識は、すべて疑うことから始まる。疑うことがなくては、本当の知識は得がたい。疑い始めると、すべてが疑問にみえる。それを一つずつ解き明かしてゆく ところに、知的な世界が生まれる。」

[『回思九十年』私の履歴書 (平凡社 2000)]


 白川先生が、東洋の理想を求め志を抱いて出発された時、世の中は先生のお考えとは逆の方向に向かってしまった。世間では当たり前の事とされている事柄に、先生は敢えて疑問を投げかけたのである。この簡潔なお言葉の中に、およそ他人 では計り知れないような、先生の苦悩と格闘の日々が隠されているような気がする。今存在する情報に満足し、安易な安全地帯に留まることは、知識への扉を自ら閉ざしてしまっている行為に他ならない。あらためて身が引き締まる思いであ る。

第2回

「私の本来の志は、中学校の教師として、気ままな読書の生活を楽しむことにあったが、学部に籍を置くことになれば、そのようなわがままが許されるわけはない。」

[『回思九十年』私の履歴書 (平凡社 2000)]


 白川先生が、立命館大学文学部助教授に就任された折の回想である。志の赴くままの気ままな読書が、やがて収斂されて、白川先生の独創的な研究に結実したのでではないだろうか。

第1回

「学術の研究は、自己の内発的な要求に発するものであり、そのための条件を他 に俟つべきものではない。すでに志があるならば、ことは果敢に行なうべきである」

[「創刊の辞」、『學林』第一号 (中国藝文研究会 1983)]


 白川先生のことばは簡潔で、またそれゆえにしばしば激しく読む者の心を揺り動かす。本学文学部中文専攻の機関誌創刊に際して寄せられたこのことばは、志 を抱いていながら悩み、具体的な行動を起こすことに逡巡しているすべての人々を鼓舞してやまないであろう。
本コラム「白川静ことば抄」では、白川先生の多くの著作の中から、学問的に重要なことばや特に印象的なことばなどを抜き出して、皆様に紹介する。一週間ごとの更新を目指して、「果敢に行な」っていきたい。

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