白川静字説抄

「白川静字説抄」は、『字通』や『常用字解』等から抜き出した白川先生の字説を紹介し、コメントを附したものです。漢字の成り立ちは、多くの日本人にとって関心の深いテーマですが、先生の字説を読んだときの、「こんな意味があったのか」という新鮮な驚きや、「なるほど、だからこんなかたちなのか」と納得したりした気持ちを書いてみました。でもそれはあくまでも執筆者個人の感想であり、読者の皆様それぞれにいろいろな思いを抱かれることと思います。ぜひお読み頂いて、白川先生の字説からさまざまな思いを広げてみて下さい。

目次

第96回

音(ショウ・ドウ)
訓(あこがれる)

【解説】
形声。
音符は童(どう)。童に撞、鐘(しょう)の声がある。〔説文〕十下に「意定まらざるなり」とあって、心の不安定な状態を言う。また昏愚の意がある。憧憬は遥かなものに思いをはせること。〔玉篇〕に憬を「遠行の兒なり」とする。

[『字通』(平凡社 1996)]


日本語で「あこがれる」というと、目をキラキラさせて遠くを見つめてうっとりする…といった状態を思い浮かべがちだが、解説にもあるように、もともと「心の不安定な状態」を指すとは少し意外である。ただ、「あこがれる」というのは要するに何かに心引かれたり、それを思ったりすることであるから、気になっていることや好きな人がいる時のそわそわした、落ち着かない感じが「心の不安定な状態」とも言えるかもしれない。 普段使う言葉でも、その字の起源を知ったり、意味の広がりを考えたりするだけで、その言葉に対するイメージがより奥行きのあるものになる。

第95回

音(エイ)
訓(よむ うたう)

【解説】
形声。
音符は永。永は水の流れが合流して、その水脈【みお】(水路)の長いことをいう。強く長く声をのばして詩歌【しいか】(漢詩と和歌)を歌いあげることを詠といい、「うたう」の意味となる。また「詩歌を作る、よむ」の意味に用いる。わが国で、声を長く引き節をつけて詩歌を歌うことを「詠【なが】む」というのも、その意味であろう。

[『常用字解』 (平凡社 2006)]


古来人々は歌を「詠」んできた。和漢の古典籍において詩歌を「朗詠」する場面は頻見し、現在でも詩吟を嗜んで珠玉の名句を「吟詠」される方がいらっしゃる。また、三国・魏の阮籍による「詠懐詩」八十二首は、深い思索に基づく格調高い作品群として著名である。このように記すと、「詠」は古典の詩歌にのみ関連する言葉と思われるが、「詠」とは「強く声をのばして」「歌いあげる」ことだ、との白川先生の【解説】に従えば、カラオケでの熱唱も一種の「詠」だとみなせよう。 つまり、古典の詩歌も現代のカラオケも「詠」という共通点があり、古典の詩歌が実は我々にとって身近な存在だと分かるのである。

第94回

音(カイ)
訓(おもう・いだく・なつく)

【解説】
形声。
旧字は「懷」に作り、?声。?は死者の胸もとに?(涙)を垂れて、その死を哀惜する喪葬の儀礼を示す字で、懐の初文。金文に「率?」「?刑」「神?」などの語があり、みな懐の意である。〔説文〕八上に?を侠の義とし、「衣に從ひ、?聲、一に曰く、?なり」とするが、声義ともに合わない。懐は死者を懐念する意より、わが心に懐うこと、ある情念。情操を心に懐包し、懐蔵することをいう。〔詩、召南、野有死麕〕「女あり春を懷ふ」は懐春である人を恋うる意、〔周頌、時邁〕「百神を懷柔す」は、神意を柔らげることである。

[『字統』 (平凡社 1984)]


ある程度の年齢の方には自明のことであるが、「ナツメロ」という言葉は、「懐かしのメロディー」というテレビ番組に因んだものである。人はしばしば歌を聞いて往時を思い出し、時には涙を流すこともあるだろう。懐かしむことと落涙とは、密接な関係があるのである。こうした涙は、「?」の字義の説明にもあるように、元来は亡き人を思いしのんで流したものであった。それは、人が最も懐かしく感じられ、そして涙を誘うものが人の死であるからであろう。 最近NHKで「花は咲く」という歌がよく流れているが、この歌を聴いて懐かしい人を想い、涙を流す方も多いのではないだろうか。

第93回

音(キュウ)
訓(きわめる・きわまる・くるしむ)

【解説】
会意。
穴と躬を組み合わせた形。穴の中に躬をおく形であるから、窮屈(心身の自由が縛られて、思うようにできないこと)の意味となる。極度に狭い所に身を折り曲げて入り込むので、「きわまる」という意味になる。躬は身をかがめた形で究と音・意味が近く、窮極(きわまり。はて)とはもと狭い所に身をかがめるという意味であった。それで極限の状態にあることを窮といい、「きわめる、きわまる」の意味となる。生活に「くるしむ」という意味にも使う。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


時代の閉塞感からであろうか、この「窮」という漢字を目にすることが多くなったように思う。 使われ方を見ても、身体的なものであることはほとんど無く、精神的なものばかりである。このような現状で選挙も近くなってきたせいであろうか、政治家の中には「救国」を叫び始めるものもいる。いままでの政治のありようを見ていると、「窮国」の間違いではないかと皮肉の一つも言いたくもなる。とはいえ、政治家を選ぶのは我々であるから、しっかりと見定めなければならない。私などは、「窮則變、變則通、通則久(窮すれば則ち變じ,變ずれば則ち通じ,通ずれば則ち久し)」[周易・?辭下傳]という言葉を実践する方に投票したいと思っている。 決して、「小人窮斯濫矣(小人窮すればここに濫す〈取り乱す〉)[論語・衛靈公]の言葉に見える「小人」を選択することの無いようにしたいものである。

第92回

音(トウ)
訓(しま)

【解説】
会意。
鳥の省略形と山とを組み合わせた形。山は海中に突出している岩島で、無人の岩の島には海鳥が多く集まるものであるから、そのような「しま」を島という。岩の島の大きなものを島、小さなものを嶼(しま)という。

[白川静『常用字解』(平凡社 2003)]


隣国と二つの島(諸島)の領有権を巡り、最近の日本は特に騒がしい。これらはすべて現在無人島だそうだが、領有権を主張する各国を尻目に、海鳥達が悠々と島の上空を飛んでいる映像や写真を目にすることもしばしばだ。 この字義が示すように、はじめは純粋に海鳥が集まるという光景から「島」という字が出来たのであろう。しかし、領有権を獲得することで国際的に保障される漁業範囲が拡大されたり、海底の資源を探り当てる技術までをも手に入れてしまった近現代の人々にとって、もはや島というものは海鳥が集まる自然の情景の一部ではなく、より多くの利益を得るための「縄張り争いの要地」に変わってしまった。 だからといって、そのことが愚かしいなどというつもりは全くない。領土の明確化は国家の一大責務であり、それを軽んじることは国民の安全を軽んじるのと同等と言っても過言ではない。しかしその元来の字義を知ると、なんとも複雑な思いを抱かずにはいられないのも事実である。

第91回

音(エイ)
訓(はな・すぐれる)

【解説】
形声。
声符は央(おう)。〔説文〕一下に「艸(くさ)榮(はなさ)きて實らざる者なり」とあり〔爾雅、釈草〕に「榮かずして實るを秀、榮きて實らざるを英と曰ふ」による。央に盛大の義があり、〔詩、小雅、白華〕「英英(あうあう)たる白雲」、〔呂氏春秋、古楽〕「其の音英英たり」のように、そのゆたかにしてさかんな状態をいう。花の美しいこと英といい、また人の俊英をいい、〔淮南子、泰族訓〕に「智、万人に過ぐる者、之(これ)を英と謂ふ」とみえる。

[新訂『字統』 (平凡社 2004)]


ロンドン五輪開催中は、日本選手の活躍に見とれてつい夜更かしをしてしまったという方も多かったことであろう。メダルの獲得数も気になったが、時差もあれば気候も違う英国で、力強く活躍した選手達には自然に頭が下がる。さて、この英の字義が花が咲いて実がつかないことであるとは私も調べるまで知らなかった。英吉利と当て字を考えた人が帝国主義全盛期のイギリスに対して含むところがあったのかは分からないが、なにも五輪に限らず、華だけでなく實につながる夏をすごしたいものである。

第90回

音(ヒツ)
訓(ふで・かく)

【解説】
会意。
竹と聿とを組み合わせた形。聿(ふで、のべる)は筆の形と又とを組み合わせた形。又は手の形であるから、聿は筆を手に持つ形で、ふでの意味となる。聿が筆のもとの字である。筆は竹材で作ることが多く、聿に竹をそえた筆は「ふで、ふででかく、かく」の意味となる。

[白川静『常用字解』 (平凡社 2003)]


近年は情報端末の普及により、手紙や文章を書く際に筆を手に取る機会が少なくなっている。筆の歴史は古く、文字が作られた時代からあったと言われる。筆は紙・墨・硯と共に文房四宝と呼ばれ、書道を嗜む人にとっては大切なものである。 便利なものが次々と出回る今日、時には筆を手に取り、お世話になった人、友人に一筆差し上げるのはいかがだろうか。

第89回

音(サツ)
訓(あきらか・みる・かんがえる)

【解説】
会意。
察も「察(み)る」とよむ字である。宀(べん)は廟、廟中に祖霊を祭ることを示す字である。廟中に祭って、神霊が感応し、その神意を示すことを「察(あきら)か」という。その神意を感得することを「察(み)る」といい、察知することをいう。察の音は?祭と同じく、おそらく直接的に、触れ合う意味であろう。際も神の陟降する聖梯の前で祭ることを示す字で、そこが神人の際、神と人との相会するところである。祭は人が神と相会するための儀礼であった。

[『文字逍遥』(平凡社 1987)]


この字を使う言葉として「洞察」「考察」などがあり、これらの熟語から「察」一字のイメージを考えてみると一応「鋭く感知する」という程度のことが思い浮かぶ。「みる」などの訓読みは常用漢字表には無く、従って日常でも使われないのだが、本来「みる」という訓読みがあることを知れば、字の起源・熟語の意味どちらにおいても、なるほど、と思う。現在では、熟語そのものだけで意味を覚えて使うことが多いが、白川先生は、常用漢字で本来の読みを制限していることが文字や熟語の理解の弊害となることを大変憂いておられた。このような例は他にも多くあるだろうが、言葉や文字を正しく理解する上で、日本の訓読みの価値が大きいものだということがわかる。

第88回

音(ロン)
訓(はかる いいあわそう とく)

【解説】
形声。
音符は侖。侖に次序を以て全体をまとめる意がある。〔説文〕三上に「議(はか)るなり」、また言地条に「論難するを語と曰ふ」とあって、討論することをいう。討は検討。是非を定め、適否を決することをいう。

[『字通』 (平凡社 1996)]


「論」は日常的に用いる漢字であり、その語義もさほど難しくないと思われる。ただ、「議論」の場でこの字の原義を体現できている人間がどれほどいるだろうか。例えば、国会のテレビ中継を見ていると、相手の揚げ足を取ることに専念する議員、あるいは武断的な言葉を延々と並べ続ける議員があまりに多く、しばしば暗澹たる気分に襲われることがある。また、日常生活での様々な「議論」の場でも、同じような光景をよく目にする。実り多き「討論」を行うには何が必要なのか。白川先生の【解説】を頼りに、お互い一度は熟考したいものである。

第87回

音(ロ)
訓(つゆ・うるおす・あらわれる・もれる)

【解説】
形声。
声符は路。〔説文〕一一下に「潤澤なり」、〔玉篇〕に「天の津液、萬物を潤す所以なり」とあり、雨露は万物を生育するものとされる。また暴露はさらされる意。本意のあらわれることを、露見・露呈、かくさぬことを露骨という。また人生の無常にたとえ、古楽府〔薤露行〕は挽歌で、「薤上の露 何ぞ晞き易き」とそのはかなさを歌う。

[『字統』 (平凡社 1984)]


この時期、植物が大雨などによって盛んに生い茂っているさまを目にする。こうした植物を見ると、「雨露は万物を生育するもの」という解説の言葉が改めて実感させられる。植物は、言ってみれば露によって生命力を与えられるのである。ところで、文学における露となると、はかないものに喩えられ、生命を与える存在として用いられることは少ない。これは、おそらく、人間が悲哀に深い共感を覚えることと無関係ではないだろう。

第86回

音(サイ・サ)
訓(ふたたび・ふたつ)

【解説】
象形。
組紐の形。組紐を組むとき、その器具(冉)の上下に一を加え、そこから折り返して、また組み続ける形であることを示す。折り返すことから「ふただび」の意味になる。再び織り返して織るの意味であるから、「ふたつ」の意味ともなる。冉を上下に組み合わせると冓(くむ)となる。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


最近、政治家が「○○再生」という言葉を口にすることが多くなったように思う。現状の国や地方のありように対して不満を持ち、在りし日への回帰を望む方が多いことを背景に、それに応える形でこの言葉を口にする政治家が多くなったのだろう。ただ、果たしてこの言葉の意味を正しく理解している人がどれだけいるだろうか。どうも、多くの方が「新生」と同義に捉えているように思えてならない。「再生」と言いながら、実際に行っているのは現状を徹底的に破壊した後に新しいものを作る行為であり、それを「再生」と捉えている政治家が多いように思われる。ここでお断りしておくと、私は破壊と創造を否定しているのではない。不要なものを壊し、新しいものを作るというのは必要な行為であると思っている。だからといって字義を無視し、前述のような行為を「再生」と表現することを黙認できないのである。
「再」の字が持つ原義は組紐を折り返し編み続けていくことである。国民が政治家に「再生」を望んでいるとすれば、それは連綿たる時間の中で編み続けられたものを、誤りがあれば根気よく繕い、後世に向けて折り返し折り返し編み続けていく行為ではないだろうか。うまくいかないからといって癇癪をおこし、全てを無かったことにしようとする子供のような行いを、国民が政治家に求めている「再生」とは思いたくないものである。

第85回

音 (エイ)
訓 (ながれ・ながい)

【解説】
象形。
水の流れる形。〔説文〕十一下に「水の長きなり。水の坙理の長永なるに象るなり」という。坙理とは水脈、ハイ(派字の?を取った部分)は分流、永は合流のところ。水勢の急疾なるところである。

[『字通』 (平凡社 1996)]


絶えることなく続く水(川)の流れから、実際の物質的長さを表すとともに、時間の長さを言う場合にも使われる字である。古代から川というものは我々の身近にあるものであり、より良い生活を営む為に必要不可欠なものであった。美空ひばりの歌謡「川の流れのように」も正に、時代の流れを川の流れに例えているが、その身近にある大いなる自然を時間的なものに例えるという作業は実はこの字が完成した頃から存在していたようである。

第84回

音 (ボウ {バウ})
訓 (さまたげる・そこなう)

【解説】
形声。
声符は方。方は架屍の形。これを呪禁として防ぎ守る意がある。[説文]十二下に「害するなり」とあり、〔六書故〕に「女人、他の進むを妨ぐるなり」とするが、巫女(ふじょ)をもって防遏(ぼうあつ)の術を施さしめた、古代の呪的な方法のなごりであろう。方は架屍、曷(かつ)は屍骨を用いて呪禁とする方法であった。方に従う字のうちには、そのような古い呪的方法のなごりを残しているものがある。

[新訂『字統』 (平凡社 2004)]


妨げるという字に、死体を呪術に用いるという恐ろしい意味が本来あったということに驚く。普段何気なく妨害という言葉を使うが、その妨の字形は本来の意味としての恐るべき呪術の痕跡をいまだに残しているのである。呪詛や怨霊を表むき恐れない我々ではあるが、これらの漢字は古代から続く人間の持つ暗い側面や恐怖を、もはやその自覚を失った現代人に代わってこれからも記憶し続けてゆくのであろう。そういう様に思うと、漢字という文字の不可思議な豊かさをも感じられるのではないだろうか。しかし、そうはいっても死んでから自分の死体を呪術に使われるというのはぞっとしない。是非とも勘弁してもらいたいものである。

第83回

音(カン)
訓(たま・たまき)

【解説】
形声。
声符は?。?は死葬のとき、死者の復活を願い、玉環を胸元に置き、復活の象として目をその上に加えた形。その玉を環という。[説文]一上に「壁なり、肉と好(孔)と一の若き、之れを環と謂ふ」とある。金文の?は目+衣+○、その○が環の形であるという。

[白川静[『字通』 (平凡社 1996)]]


先日観測された金環日食をきっかけに、金環という言葉や響きに興味を持たれた方も多いであろう。当日天を仰いだ人の脳裏には、金環日食のロマンと共に、これほどの天文ショーはもう再びは見ることが叶わないであろうというはかなさも感じられたのではないだろうか。この世に生まれた奇跡、人との出会い、若くして逝った知人、人はこれらの巡り合わせに感謝し、自分の存在を確認するのである。時には美しい空を見上げ、時節の移ろいを感じながら自分と向き合う余裕を持ちたいものである。

第82回

音(シ)
訓(おもう・かんがえる)

【解説】
思の正字は?に従い、その形声の字である。〔説文〕一〇下に「容なり」とするが、〔繋伝〕には「(ふか)し」とあり、〔書、洪範〕「思にはしと曰ふ」の文によるもので、(ふか)く思う意とするものであろう。?は頭蓋の形であるから、くさぐさの思いに頭痛のするようなさまをいう。細ももと?に従う字で、くさぐさと乱れ紛うさまをいう字であった。思とは心に思いなやむことをいう字である。

[『文字逍遥』(平凡社 1987)]


日本語で「おもう」と読む漢字はいくつもある。今試みに漢和辞典を引いてみれば、思・想・意・懐・念・憶などの漢字がすぐに検索できる。だがそれぞれの漢字の「おもう」という意味について、特に意識して考えてみる機会は少ないであろう。しかし例えば、「遠くにいる恋人を」に続けるには「思う」よりも「想う」にしたくはならないだろうか。それは「思」と「想」の漢字になんとなくニュアンスの違いを感じているからである。漢字の起源を学ぶことは、そのニュアンスの違いを学ぶことでもあって、私たちが普段、文学作品を読んだり手紙を書いたりする時にも大いに活かせるのではないだろうか。

第81回

音(セキ)
訓(おしむ)

【解説】
形声。
音符は昔。〔説文〕十下に「痛むなり」とあり、痛惜の意とし、〔広雅、釈詁一〕に「愛(をし)むなり」とあって愛惜の意とする。昔字に数しげく乱れる意があり、いくたびも思いかえすような情をいう。

[『字通』 (平凡社 1996)]


「サヨナラダケガ人生ダ」との言葉が端的に示すように、人は生きていると多くの別れを経験する。そして数ある別れのうち、「死別」が一番哀切であるのは言うまでもない。訃報に接した時には勿論この上ない悲しみを覚えるが、日々の暮らしでの何気ない瞬間に、亡き人がどれほどかけがえのない存在であったかを改めて思い知った時の心痛もまた、辛いものである。そしてこの心痛こそが、今回取り上げた「惜」の情なのだろう。人は、別れた人たちを「愛惜」「痛惜」せずにはいられない。何故なら、どんな痛みを伴ったとしても、記憶の中で別れた人たちとの再会を果たせるからである。

第80回

音(ヒ)
訓(つかれる・ものうい・とぼしい)

【解説】
声符は皮。〔説文〕七下に「勞るるなり」とあり、苦労して病困することをいう。病・罷・憊など、みな声義の近い字である。兵書の〔六韜〕に「疲労は撃つべし」とあり、敵の困憊に乗じて撃つべきであるという。

[『字統』 (平凡社 1984)]


大型連休も終わり、そして五月も折り返しを迎えた今、四月からの疲労が溜まっている方も多いのではないだろうか。また、この時期は新社会人や新入生に五月病という一種のノイローゼが起こる頃でもある。ところで、興味深いのは解説に引用された『六韜』の用例である。「敵の困憊に乗じて撃つべきである」との解説がなされているように、敵が弱っている隙をねらって攻撃するというのである。弱みに付け込んだ惨酷な攻撃方法と思われるかもしれないが、大変効果的な作戦であることには違いない。心身ともに疲労の色が現れつつあるこの時期だからこそ、『六韜』の「疲労は撃つべし」という言葉を肝に銘じ、休憩をしながら身体を労っていきたいものである。

第79回

音(ケツ)
訓(むすぶ・しめる)

【解説】
形声。
音符は吉。吉にとじこめる意があり、結ぶということも、そこにある力をとじこめる意味をもつものであった。〔説文〕一三上に「締むるなり」とあって締結の意。紐を結び合うことは、古代の歌謡では愛情を約する行為として歌われており、後世にも結不解・結綢繆(結びまとう)のような呪飾が喜ばれた。転じて結交・結情・結社・結怨のようにいい、また結構・結宇のようにも用いる。

[『字統』 (平凡社 1984)]


世の中には目に見えない結びつきが数多く存在する。紐を固く結びつけたならばなかなか解けないものだが、ゆるく結んだだけではすぐに解けてしまう。固く紐を結ぶ為には、結んだ両方の紐を同時に力一杯引かねばならない。一方をきつく引っ張っても片方がそうでければ結び目は強固なものにはならない。より強い結びつきとは、互いがそれぞれ強い力を以て結ぼうと思わない限り、決して強くはならないのだ。人同士の結びつきとは正しくそういうものであると思う。

第78回

音(ラン)
訓(あらし)

【解説】
会意。
山と風とに従う。山の嵐気、また緑にうるおう山気をいう。嵐気・翠嵐を歌うものは謝霊運の山水の詩などにはじまる。江南の生活が興ってのち、その嵐影湖光の好風景が、詩文の世界に入るようになった。わが国では、はげしい嵐をいう。

[『字統』 (平凡社 1984)]


以前、立命館大学で講師をされていた中国人の女性に、「嵐」という名前の方がおられた。 私のような日本人の感覚からすると、この「嵐」という漢字は激しい暴風の意味と考えるので、どうして親御さんはそのような名前を付けたのかと思ったものである。ただ、この字を『字統』で調べてみると、上記のような解説が附されている。考えてみれば、日本でも京都の「嵐山」という景勝地があることに気付くだろう。この地名も決して激しい嵐の起こる山ということでは無く、緑にうるおう山気に満ちた地であることを表している。そこで改めて「嵐」という名前を見ると、子供に対する両親の深い愛情が感じられる、とても美しい名前であることが分かる。

第77回

音(チョク・ジキ)
訓(ただちに・なおす・なおる・ただしい・なおい・ただ)

【解説】
会意。
省と?とを組み合わせた形。省は目の呪力(まじないの力)を強めるために眉に飾りをつけ、地方を巡察して不正を取り締まることをいう。?は塀などを立てている形で、隠れるの意味がある。直はひそかに調べて不正をただすという意味であろう。それで「ただす、ただしい」の意味となり、ただすので「なおい、まっすぐ、すなお」の意味となる。また「ただちに」の意味に用い、但と通じて「ただ」、宿直(宿泊して夜の番に当たること)のように「あたる」の意味にも用いる。国語では「なおす、なおる」とよみ、寸法を直す、故障が直るのようにいう。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


「直」は、現在では直線、直下などのようにまっすぐの意味で捉えられる事が多いが、先生の解説によると本来はひそかに調べて正すという意味であったらしい。誰も見ていないと思っていても誰かが見ていたり聞いていたりして、その事が調べあげられて問題になることも多い。だからこそ、誰かが見ているかもしれない、しっぺ返しを食らうかもしれない、などと意識する事で、悪事を行う事への誘惑をはね除けることができるのではないだろうか。ひそかに調べられても自分はやましいことはしていないと誇れるように、真っ直ぐ生きて行きたいものである。

第76回

音(カツ(クヮツ)・コツ)
訓(すべる・なめらか)

【解説】
形成。
音符は骨。骨に猾(わるがしこい)の音がある。骨の表面はきわめてなめらかであるので、水に濡れて「なめらか、すべる」状態を滑という。滑稽はもと酒器の名で、酌めども尽きぬものだという。それで転じて、よどみなく話すことをいう。またおどけて言うことが多いので、「おどけ」の意味となる。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


「滑」という文字は、その字の属する分類や意味をあらわす記号(「滑」の場合は?)と発音をあらわす記号(「滑」の場合は骨)の組み合わせによってつくられる、形声という造字法に属している。ただ、この字の場合「骨」は音をあらわすだけではなく、意味にも深く係ってきているようだ。現代では、骨の表面のなめらかさを実感する経験は、ほとんど無いが、甲骨を使用する古代なら、あたりまえの認識だったかもしれない。古代の世界に想像を膨らませながら、漢字の成り立ちを考えるのも、おもしろいのではないだろうか。

第75回

音(シン)
訓(すすむ・すすめる)

【解説】
形成。
音符は隹。隹に隼(はやぶさ)の音がある。隹は鳥の形で、鳥占いによって軍の進退を決め、進軍させることを進といい、「すすめる、すすむ」の意味となり、薦めるの意味にも用いる。[詩経、小雅、常棣]に、「脊令(鳥の名)原に在り 兄弟に急難あり」とあり、脊令は尾を振って波状に飛行し、ただならぬ気配を感じさせるので、急難の前ぶれとされた。隹は音符であるが、隹という意味をも含むところがあり、そのような関係を亦声という。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


 新年度が始まって、新たな生活をスタートさせた方も多いだろう。慣れない環境でのこれからの一年、少しでも前に進めるようにとの思いを込めて、この「進」という字を選んだが、その由来はすこし意外な内容である。みなさんは占いを信じるほうだろうか。情報番組や雑誌の占いコーナーをつい見てしまう、という程度の人が多いのではないだろうか。今の時代、軍隊や人生の進退という重大なことを占いで決定することはありえないし、当然、自分の進む道は自分で決めるものだと思う人が大多数だろう。しかし古代世界における占いは、今とは比べ物にならないほど重要な役割を果たしていたのである。そして、いま日常的に使う漢字からそれが読み取れるというのも興味深い点である。

第74回

音(シン)
訓(かい・はまぐり)

【解説】
形成。
音符は辰。辰は象形で蜃の初文。その肉は呪的な意味を持つものとして、祭儀や予兆のことに用いられた。またその殻は蜃器、耕耘の器として古くから農耕に用いられた。(中略)異説も多いが、鳥が水に入って貝となるという古い伝承があったことは疑いない。蜃は蜃気楼の話などもあって、殊に霊異のものとされていたようである。蜃器はまた祭器の飾りにも用いた。(中略)蜃は古く呪的な意味を持つものであり、辰に従う字形のうちに、なおそのなごりを残している。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


 ここで言う「蜃気楼の話」というのは、古代には蜃気楼は蜃が気を吐いて楼閣を作り出していると考えられていた、というものである。蜃とは、訓にもある通りはまぐりを指し、はまぐりが蜃気楼を起こしているのだという伝説をご存知の方もいるかもしれない。李時珍は『本草綱目』で「蜃與蛟蜃之蜃、同名異物(蜃(はまぐり)と蛟蜃(みずち)の蜃とは、名称は同じだが別のものである)」と言い、同書で「蛟之屬有蜃、其状亦似蛇而大、有角如龍状……能吁氣成樓臺城郭之状、將雨即見、名蜃樓、亦曰海市(みずちの一種に蜃というものがあって、外形は蛇に似て大きく、角があって龍のようである……気を吐いて楼台城郭を形成でき、雨の降りそうなときに現れ、これを蜃楼または海市と言う。)」と言っている。このように、蜃を蛇または龍だとする説もある。いずれにしても、蜃気楼は現代では原理の知られた自然現象であるが、その名称に古代の伝説の名残があるのは興味深い。

第73回

音(ケイ)
訓(かたむく・かたむける・あやうい)

【解説】
形成。
音符は頃。頃は上から降りて来る神を迎え、姿を正し、身をかがめて拝む形。身を前に傾けて礼をするので、頃にかたむくの意味がある。頃に人をそえた傾は、その神を迎えて拝む人の姿勢をいっそう明確にした形であり、「かたむく、かたむける」の意味となる。身を傾けることから、「あやうい」の意味となる。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


 「傾」字の由来は古代人の宗教的な行動様式にある、との白川先生の【解説】に興味を覚えた方も多いだろう。ただ、「かたむく」と「あやうい」とが共に「傾」字の訓になっていることにも注目したい。例えば、人間たるもの、何かに情熱を「かたむける」ことは大切である。しかし、自己の現状を客観視できずにバランスを失えば、おのずと「あやうい」状態に陥るだろう。「傾」字の訓からはこのような先人の訓戒が見て取れるが、皆さんはいかがお考えだろうか。

第72回

音(シュウ・ジュ)
訓(つく・つける・なる・おわる)

【解説】
会意。
京と尤とを組み合わせた形。京は出入口がアーチ形の都の城門の形。上に望楼(ものみやぐら)のある大きな城門で、京観という。尤は殪れている犬の形で、この字では犠牲(いけにえ)として用いる。京観の築造が終わり落成式を行うとき、犠牲の犬の血をふりそそいで祓い清める釁礼を行うことを就という。これによって京観の築造が成就する(完成する。実現する)ので「なる」の意味となり、成就することによってことが始まるので「つく(ある地位や状態に身を置くこと)」の意味となる。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


 解説に「京観の築造が終わり落成式を行うとき、犠牲の犬の血をふりそそいで祓い清める」とあることから、古代中国の習慣を残酷だと思われる方も多いのではないだろうか。確かに、人間に身近な動物の犬をいけにえにすることには抵抗を覚える。だが、物事の成就のうらには何かしらの犠牲がある可能性にも思いを致す必要がある。現代の豊かな文明社会の実現には、多くの生命や自然の犠牲があることを決して忘れてはならない。

第71回

音(デイ)
訓(どろ・なずむ)

【解説】
形声。
音符は尼。尼は尸と匕とを組み合わせた形で、二人がもたれあって親しみなじむことをいう。土が水を含み、水となじんでいる状態を泥といい、「どろ、ぬかるみ、なじむ、なずむ」の意味に用いる。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


友達と泥遊びをして、全身泥まみれで帰ってきた子供を頭ごなしに叱るのは少し待って欲しい。土と水がなじんで出来上がっていく泥のように、誰かと親しみなじめるのならば泥遊びも決して悪くはない。都市部では、子供達が自然と接する機会が少なくなったという危惧の念から、体験学習と称して積極的に泥いじりをさせる事もあるそうだ。自然と触れ合うだけでなく、そこにいる仲間達と馴染む為の「子供同士の社交手段」の一つとして、泥遊びというものを捉えてみてはどうか。

第70回

音(ガ)
訓(め・きざす)

【解説】
形声。
もとの字はに作り、音符は牙。牙は獣の牙で、強くて鋭く曲がった形をしている。草や木の芽も、そのような力を含んで生えてくるので、草かんむりをつけて芽といい、「め、芽ぐむ、きざす」の意味に用いる。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


まだ雪が残る地域もあるだろうが、徐々に春の気配が感じられるようになってきたのではないだろうか。いままで枯草で覆われていた場所や、秋に葉を落として枝のみとなっていた木々に、鮮やかな新緑の芽吹きが見え始める。草かんむりに牙という、考えてみればおかしなつくりをしているこの「芽」という漢字の成り立ちも、新芽の持つ生命力の強さと勢いを見れば理解することが容易なのではないだろうか。

第69回

音(ビ)
訓(そぐ、かすか、ひそか)

【解説】
形声。
もとの字は微に作り、音符はび〔微に彳を取った字〕。〔微に彳を取った字〕は長髪の巫女〔微に彳と攵を取った字〕に攴(攵。うつの意味)を加えている形で、敵方の巫女を殴って敵の呪力(まじないの力)をなくする呪術をいう。彳は行(十字路の形)の左半分であるから、道路において〔微に彳を取った字〕の呪術を行うことを微といい、「なくする、そぐ、よわめる」の意味となる。なくする、よわめるの意味から「かすか、ほのか、ひそか」の意味となる。敵軍の眉飾りを加えた巫女を捕えて殺し、その呪力を失わせることをベツ〔蔑の戌の部分が伐になっている字〕といい、「ないがしろにする、はげすむ」の意味となる。〔蔑の戌の部分が伐になっている字〕はのちに蔑に作る。微・蔑は相似た呪的な行為をいう字である。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


微という文字は微雨、微々、微風などから、少しだけあるというプラスの方向性を持つ意味で捉える方も多いと思うが、先生の解説によれば、微は道路において呪力をなくす呪術を行うことから、よわめるなどのどちらかというとゼロへと向かうマイナスの方向性を持つ意味であった。このように同じ漢字でも、古代と現代ではニュアンスが変化するものもあり、古代と現代の感覚の違いを知るということも歴史や文学を学ぶ上でのおもしろさの一つであろう。

第68回

音(シン・ジン)
訓(つかえる・おみ)

【解説】
象形
上方を見ている目の形。大きな瞳を示している。殷王朝では王子の子を小臣といい、神事につかえるべき者とされた。神につかえる者には眼睛(瞳のところ)をことさらに傷つける者があり、?は臣(大きな瞳)に又(手の形)を入れて眼睛を傷つけ、視力を失わせることをいう。そのようにして視力を失った瞽者(盲目の人)が神につかえる臣とされた。神につかえる者の意味から、のち君につかえる「おみ、けらい」の意味となり、さらに他につかえる者すべてをいうようになり、「つかえる」の意味に用いる。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


臣という文字が、目の形をかたどっていることから、臣下は皇帝や人民に目を配って政治を行うものである、という解釈を聞いたことがあるが、どうやらそれは間違っているようだ。君につかえる「おみ、けらい」の意味以前に、神につかえる瞽者(盲目の人)が臣という文字であらわされていたらしい。われわれが一般的に使用する意味だけではなく、漢字が作られた当時の風習・文化を把握することで、漢字のもつ奥深さを、より深く理解できるのだと改めて感じた。

第67回

音(イン(ヰン)・エン(ヱン)・ウン)
訓(まるい・かず)

【解説】
象形
古い字形は、円い鼎(もと煮炊きするための青銅器で、祭器として用いる。貝は鼎の省略形)の上に、口の部分が円いことを示す○(口)を加えたもので、円鼎をいい、「まるい」の意味となる。またその全体をまるく包んで圓(円)の字が作られた。員はもと円鼎の数を数えたので、「かず」の意味に用いる。のち圓(円)とは別の字となり、「かず、かずに入る人」の意味に使われるようになった。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


現在、定員・会員・店員などの語に使う「員」の字は、「かず、かずに入る人」の意味で用いており、もともと持っていた「まるい」の意味ではふつう用いない。このような意味の変転、意味が派生して増えたり逆に使われなくなって消滅したりすることは、文字、言葉の世界では当たり前に起こることである。例を挙げればキリが無い程であろうが、このことは一つの文字や言葉がいくつもの意味を含むということであり、その文字、言葉に奥行や深みを与えている。この点が(特に文学においては)言語というものの面白さであり、同時に難しさでもあるだろう。普段当たり前に使う言葉に対してもこのような視点をもってみると、日常の見え方が変わってくるかもしれない。

第66回

音(キュウ(キウ))
訓(たま)

【解説】
形声。
音符は求。求は剥ぎ取った獣の皮の形で、裘(皮衣)のもとの字である。求はくるくると巻いて丸くすることができるものであるから、丸いものをいう語となり、球とは丸い「たま」をいう。古くは王の位を象徴するものとして小球・大球の授受が行われた。球は精気によって生まれ、霊の象徴とされるもので、わが国では「たま」といい、霊(たましい)と語源が同じで、霊の乗り移るものと考えられたようである。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


昨年12月10日、皆既月食があった。観望された方も多いと思う。言うまでもないことだが、普段の月の満ち欠けと違って、月食で月が欠けて見えるのは、月面に地球が影を落としているからである。その影の縁はまるく、改めて地球がまるいことを知ることができる。ところで球は、無重力状態で水滴が球形になるように最も安定した形状であり、表面積が同じであれば最も体積が大きくなる立体である。全くの比喩であるが、我々も心身ともにこのように安定し、多くの知識や情緒を内包した人間になりたいものである。古人が球を「霊(たま)」と言ったのは偶然であろうか。

第65回

音(チョウ)
訓(ながい・かしら・たけ)

【解説】
象形。
長髪の人を横から見た形。長髪であるから「ながい、ながさ、たけ」の意味となる。長髪の人は老人であり、氏族の指導者としてたっとばれたので「かしら、たっとぶ」の意味となり、長者(徳のすぐれている人。また、年上の人。また、金持)・長上(目上の人)・長老(年をとった人を尊敬していう語。指導的な立場の人)・会長(会を代表する人)・社長(会社を代表する最高責任者)のようにいう。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


「長」には「ながい」と「かしら」の訓があるが、その関係をご存知でなかった方は、白川先生の明快な説明で理解できたと考える。ところで、昨今各種団体の「長」の資質を問う報道をしばしば見聞する。ある記事では「長」の指導力不足を嘆き、ある記事では独断専行の「長」の在り様に憤る、といった具合である。ただ、批判の対象となる「長」が、我々の中から選ばれたことを決して忘れてはなるまい。「長」を選ぶとは、我々の見識が試されることに他ならないのである。

第64回

音(ショウ)
訓(まつ)

【解説】
形声
音符は公。公に頌(たたえる)・訟(うったえる)の音がある。「まつ」をいう。常緑の木で、節が多く、高くそびえる姿が愛されてめでたい木とされていたのであろう。[詩経、小雅、斯干]に「竹の茂るが如く松の茂るが如く(松の栄えるように)」、[詩経、小雅、天保]に「松柏(松と柏)の茂るが如く」のように、古くから祝頌(祝いたたえること)の語に用いている。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


松は長寿の対象として祝い事によく用いられ、我々になじみ深い植物の一つである。ではなぜ長寿の対象としてもてはやされるのかというと、解説に引かれる『詩経』の用例のように、生命力に富むためである。ところで最近、そうした松の特質を改めて痛感させられたことがある。それは先日の東北大震災の際、海岸の松原が壊滅的な被害を受けた中、唯一生き残った岩手県陸前高田市の「太郎松」の報道である。この松は今や人々の心の支えとなっているという。松といえば祝い事を連想することのほうが多いかもしれない。だが、今回取り上げた「太郎松」のように復興のシンボルともなり得ているのは興味深い。

第63回

音(ネン)
訓(とし・みのる)

【解説】
会意
禾と人とを組み合わせた形。禾はいねの形をした被りもので、稲魂(稲に宿る神霊)の象徴であろう。田植のとき、豊かな稔りを願って田の舞をする男の人の形を年といい、「みのり」の意味となり、禾は一年に一度稔るので「とし」の意味となる。甲骨文に「年を受(授)けられんか」と占う例が多い。禾を頭に被って低い姿勢でしなやかに舞う女の姿は委で、豊年を祈って男女二人が舞い祈った。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


解説にもあるように、この「年」という漢字は豊かなみのりを祈念する人間を表している。ただ、多くの人はこの「年」という漢字を暦の上の一定の期間としての意味であると理解し、その本来の意味を知っている方は少ないように思う。新しい年を迎えた今、この「年」という漢字の本来の意味を知ったうえで、豊かなみのりある一年であるよう祈念してみては如何だろうか。

第62回

音(シュウ)
訓(おわる・おえる・おわり・ついに)

【解説】
形声。
音符は冬()。冬は編み糸の末端を結びとめた形で、終のもとの字である。冬を四季の名の冬に専用するようになって、糸の末端を示す意味で糸へんを加えて終の字が作られた。糸の末端を結んで終結(おわり)とすることで、すべてことの「おわり」、ことが「おわる」、ことを「おえる」の意味となる。始めから終わりまで全部を終始といい、また「ついに」の意味にも用いる。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


「終わる」という語を聞くと、人はそれぞれ様々な事柄の「終わり」を想像することだろう。一年の終わり、辛い事の終わり、あるいはその逆・・・。しかし、終わったという状況を客観的に見られているうちは、それに続く「始まり」が期待できる状況であると言っても過言ではない。生き続ける限り、たとえ一つの事柄がどのような形で終わったとしても、それは次の始まりへの節目でしかないのだ。今年も終わりに近づいている。あともう少しで終わるではなく、あと少しでまた新たな事が始まる、という心持ちで前向きに過ごしたいものである。

第61回

音(ゼン)
訓(よい・ただしい)

【解説】
会意
もとの字は譱に作り、羊と?とを組み合わせた形。羊は神判(神が裁く裁判)に用いる解?と呼ばれ羊に似た神聖な獣。?は両言。言は口(サイ)(神への祈りの文である祝詞を入れる器の形)の上に辛(刑罰として入れ墨をするときに使う大きな針の形)を置き、もし誓約を守らないときは、この針で入れ墨の刑罰を受けますと誓う神への誓いの言である。?は神判にあたって神に誓いをたてた原告と被告で、譱は原告と被告の前で神判を受け、善否を決することを示す。譱(善)は解?を中心に、原告・被告の誓いのことばをしるした字で、裁判用語であったが、のち神の意思にかなうことを善といい、「よい、ただしい」の意味となる。また「すぐれう、たくみな、したしむ」などの意味に用いる。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


古代では神というのは見えない存在であり、人々に畏怖されるものであった。その神に対して誓うというのは並みの覚悟ではできないことであったろう。だからこそ人々が恐れる神の前で約束を違えたら入れ墨の刑を行うと誓い、リスクを負うことで正しさを証明したのである。生きているとどうしても様々な誘惑に悩まされる。魅力的な誘惑に対して、悪いと思いながらも手を染めようとしてしまうことも多いであろう。だが、人と約束をするからこそ守れることも多いと思う。もし、誘惑されるような状況に陥ったのなら、畏怖する人物の怒った顔を思い浮かべてみるとよいかもしれない

第60回

音(セン)
訓(さき・まず)

【解説】
会意
止と人(儿)とを組み合わせた形。止は足あとの形で、古い字形は之(ゆく)と同じで、ゆくの意味となる。人の上に止を加えて、行くという意味を強調し、先行(他より先に行くこと。先頭を行くこと)の意味となる。甲骨文によると、殷代には異民族の人を先行させて道路の安全を確かめる儀礼があった。未知の地には邪霊がいると考えられ、道路を祓い清める儀礼が行われたことは、途・道などの字によって知られる。先行の儀礼をいう先は、のち「さき・まえ・さきに・まず」の意味となり、その意味を時間の関係に移して「むかし・以前」の意味となり、先賢(昔の賢人。先哲)・先祖(家系の初代。また、初代以後、現存者以前の人々)という。また未来のことについても、先見(将来のことを見通すこと)・先知(前もって知ること)のようにいう。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


「先」が、止と人(儿)とを組み合わせてできた文字だということは、解説を見て、初めて分かるのではないだろうか。さらに、異民族を先に歩かせ、道路の安全を確かめる儀礼が、のちに「さき・まえ・さきに・まず」の意味となったことも、解説を読んで、初めて知る方がほとんどだと思う。文字の成り立ちにおける宗教的、呪術的背景を指摘された、白川先生だからこそできる解説だと、改めて感じた。白川先生のような独自の見識を備えるということは、一朝一夕にできることではないが、少しでも自分の考えが持てるように、たゆみない努力をしていきたいものだと思う。

第59回

音(コウ(クヮウ)・オウ(ワウ))
訓(き・こ)

【解説】
象形。
甲骨文字の字形は火矢(火を仕掛けて射る矢)の形で、その火の光から「き、きいろ」の意味となるのであろう。金文の字形は佩玉(腰をしめる革帯につり下げた玉)の形とみられ、傍らに玉をそえた字形もあるが、それは?(佩玉の玉)の象形とみてよい。腰に帯びる佩玉の組み合わせた形があたかも黄の字形になり、またその薄い飴色が黄色とされた。五行説では黄色は中央の色であるから、天子(君主)の位にたとえ、黄門(宮門)のようにいう。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


中国で縁起の良い色といえば赤と黄である。解説にもあるように黄は皇帝の色でもあるので、京劇などでもふつう皇帝役は黄色の衣装を着ている。 字の起源であるが、甲骨文字で火矢の火から黄色の意味となったというのは興味深い。現代人なら「黄」の字を見ても誰も火の色とは連想しないので、意外に思われるだろう。色に関する感覚というのは当然時代や国によって大きく変わってくる。色に限ったことではないが、私たちが歴史や文学を学ぶ上での重要かつ面白い点の一つは、このような昔の人の感覚を探ることではないだろうか。

第58回

音(ハチ・ハツ)
訓(やつ・や・やっつ・よう)

【解説】
指事。
左右にものが分かれる形。もと算木(数を数えるときに使う道具)で数を示す方法であり、数の「やつ」を示す。半(半)は犠牲(いけにえ)として供える牛を真中で二つに分ける形で、「わかつ、わける、なかば」の意味となる。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


「魚」が「余(あり余る・余裕がある)」と通じ、「猪」が「儲(蓄える)」と通じるため縁起がよいとして好まれるが、中国では同音や近似音による連想が主になっていることが多いように思われる。「四」などは日中で「死」に通じるとして嫌われるが、これは両国ともに音による連想である。「八」は、中国では「発財(裕福になる・お金持ちになる)」の「発」と通じるとして大変好まれ、日本では「末広がり」ということで縁起がよく好まれる。これなどは、一方では音による連想、一方では形による連想と、発想が異なっているにもかかわらず、ともに「縁起のよい象徴」となっているところが興味深い。

第57回

音(ジュウ)
訓(あてる・みちる・こえる)

【解説】
象形。
肥満した人の形。とくに腹部が肥満した人の姿のようである。肥えている人は体力・気力は充溢している(満ちあふれている)とされて、充満(いっぱいになること。満ち足りること)の意味となる。盥に入って水をあびる人の股がもりあがっているのを盈(みちる)という。充盈(満ち足りること)とは、もと人の肥満している姿をいう。「みちる、みたす」のほかに、充当(ある目的や用途にあてること)のように、「あてる」の意味にも用いる。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


【解説】にある通り「充」は「みちる」「あてる」の意味であり、好ましい状態を示す場合が多いようである。ところで、「充」字が「腹部が肥満した人の姿」に由来するとの説明に驚いた読者諸姉兄もいるだろう。「メタボリック症候群」という言葉に代表されるように、現代社会において肥満は好ましくない状態だが、昔は寧ろ肯定的に評価された。何故なら、食糧事情の悪い古代社会では、肥満は権力や富の象徴でもあったからである。このように、社会状況の変化を踏まえて文字の釈義を読むのも、漢字学習における楽しみの一つである。

第56回

音(キュウ・グ)
訓(もとめる・かわごろも)

【解説】
象形
剥ぎ取った獣の皮の形。その皮をなめして(毛と脂肪を取り去って柔らかくして)毛皮の服にしたものが裘で、求は裘(かわごろも)のもとの字である。求は古く「もとめる」の意味に使われる。それはこの獣の持つ霊の力によって祟りを祓い、望むことが実現するように求めるからである。もし災いを免れようとするときは、この獣の皮を殴って災いが減少することを求めた。それを救といい、救済する(すくう)の意味である。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


解説に「獣の持つ霊の力によって祟りを祓い」、「獣の皮を殴って災いが減少することを求めた」とあることから、霊的な力にすがることで災いを免れようとするのは今も昔も変わらないようである。ところで、現在と比べ科学技術も未発達な古代中国において、こうした習慣はどれほど人々の心を慰めたことだろうか。おそらく、単なる気休め程度ではなかったはずである。というのも、古代中国においては現在の我々とは比較にならないほど霊的な力を意識し、それが他の漢字の解説にも少なからず反映されているからである。

第55回

音(シ)
訓(かみ)

【解説】
形声
音符は氏。「かみ」をいう。[説文]十三上に「絮(わた)一苫なり」とあり、古くは古わたなどを笘(すの子)ですいて板に張り、紙を作った。それで紙は糸へんとなっているが、古くは帋とかかれ、布を字の要素とする字であった。紙は二世紀初めの後漢時代に蔡倫が発明したとされるが、蔡倫は樹膚(木の皮)・麻頭(麻くず)・敝布(ぼろ布)・魚網の類を用いて紙を作った。紙の名は蔡倫以前にすでにあったが、蔡倫はその製法を大きく改善させた蔡倫紙を作り、その紙は蔡倫紙とよばれて珍重された。唐軍とイスラム軍が戦った七五一年のタラスの戦いで捕虜になった中国人がアラビア人に紙すきの方法を教え、紙すきの技術はアラビア人の手を経てやがてヨーロッパにも伝えられた。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


私たちが普段何気なく手に取る書籍は、そのほとんどが千年以上も前から紙で作られている。それは、記録媒体として紙が優れた特性を有していたからである。紙が発明されるまで用いられていた石版や動物の骨、木簡や竹簡などは生産量も低く、筆記にも適さず、また紙に比べ重くかさばるものであった。そのため生産性も高く、軽くて筆記しやすいという利便性を持つ紙が記録媒体の主役になったのである。そして、千年以上の長きにわたって紙が用いられた結果、数多くの先人たちの言葉を今尚受容することが出来るのである。
ただ、近年に至って紙は記録媒体としての役割を終えようとしている。紙よりも利便性が高い記録媒体が現れたからである。また昨今は書籍に関しても、徐々に電子化が進んできている。そう遠くない未来、紙媒体の書籍に会うこともなくなるのだろう。時代の流れとして、より利便性の高いものに人々の関心が向くのは仕方のないことかもしれない。ただ、手に取ったことを証明する汚れが一切付かない書籍に、寂しさを感じるのは私だけであろうか。

第54回

音(セン)
訓(えらぶ・そろう)

【解説】
形声
もとの字はセン(?+)に作り、音符は(巽)。は神前の舞台で、二人の者が並んで舞う形。このようにして神に舞楽を献ずることを撰(そなえる、えらぶ)という。[詩経、斉風、猗嗟]に「舞へば則ち選ふ」(舞えばそろう)と、そろうことをいう。二人の者がそろって舞うことから「そろう」の意味となり、神前で舞う者は撰ばれた者であるから「えらぶ」の意味となる。神に供える主食を饌(そなえる、たべもの)という。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


来月下旬、とある大都市で選挙が行われることとなり、目下世間の注目を集めている。立候補した者の中で特に注視されている二名は、立場は違えど元々は協力し合い、歩みよろうとしていた関係であったそうだ。「選」の字義は、もとは二人の者がそろって舞い、その神前で舞う者は撰ばれた者であることから「えらぶ」という意になったという。二人そろっているはずの「舞」の状態が、更に一人に選ばれる為の選挙戦の舞台を「舞う」ことになるとは…。それぞれに選ばれた二人が良い方向へと歩みを揃える、という事も大事ではないだろうか。おそらく叶わぬであろうが、願わくば今回の立候補者にこの字義を見てもらい、今一度原点に立ち返って市民の為に良い方向へと「舞って」欲しいものである。

第53回

音 ヘン
訓 かわる・かえる・あらためる・みだれる

【解説】
会意。
もとの字は變に作り、?と攴(攵)とを組み合わせた形。言は神への誓いのことばで、その誓いのことばを入れた器の左右に糸飾りをつけた形が?。攴にはうつの意味があるから、誓いのことばの入った器をうつことを變といい、神への誓いを破り、改めるの意味となる。それで「あらためる、かえる、かわる、みだれる」の意味に用いる。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


解説によると神への誓いを破り、改めるという意味が変であるとされている。当時、神に対しての誓いを破り改めるというのは相当のものであっただろう。変わるということはそれだけの覚悟が必要なのかもしれない。今日でも考えを変えると人の信頼を裏切ったと判断されてしまうことが多い。神と人との違いこそあれ誓いを破るという心理は古代から変わらず、変化というものはそういうリスクを負うものだと心の内に留めておきたい。

第52回

音(シュウ(シウ))
訓(あき)

【解説】
会意
もとの字は龝に作り、禾と龜(亀)と火(?)とを組み合わせた形。禾はいね、穀物で、龜の部分はいなごなどの虫の形。秋になるといなごなどが大発生して穀物を食い、被害を受けるので、いなごなどの虫を火で焼き殺し、豊作を祈る儀礼をしたのであろう。その儀礼を示す字が龝で「みのり」の意味となる。のち虫の形の龜を省略して火だけを残し、秋となった。甲骨文字に虫の類を火で焼く形の字があるが、この儀礼と関係があろう。この儀礼は秋の虫害に関係があるので、季節の「あき」の意味に用いられるようになったのであろう。甲骨文字には、四季の名の春・夏・秋・冬を示す資料はない。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


解説で述べられているように、もともと「秋」という文字は、豊作を祈る儀礼を示すものであったが、後代になって季節の「あき」の意味に転化されていったようだ。こうして見てみると、「秋」という文字は、気候や自然の風景の変化などの情緒的な要素を持つ字を組み合わせて作り出されたものではなく、収穫という、より現実的な生活に即して生み出されたことに気づく。漢字一つを取ってみても、古代の人々の暮らしぶりや考え方を垣間見ているようで、非常に面白い。

第51回

音(キョウ(キャウ))
訓(おどろく・おどろかす)

【解説】
形声
音符は敬。敬は祈りをする者(苟)を殴って、これを?めるという意味である。馬はとくに驚きやすい動物であるから、?められて(注意されて)驚く馬が驚で、「おどろく」という意味を示した。驚駭(おどろくこと)の駭(おどろく)も、馬がおどろくというのがもとの意味であった。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


漢字の意味とは一見無関係そうな「馬」という字がどうして「驚」の中に入っているのか、解説を読むと納得する。このように、漢字のもとの成り立ちと現在の意味の関係や、古代人の発想に驚かされることが多々あり、意外なことを発見しては驚くものである。この驚きこそ、もっと知りたいという知的好奇心の源ではないだろうか。そう考えると、学習や勉強というのは、驚きの連続であるのかもしれない。またこれは、勉強に限らず日々の自分自身の成長につながるものでもあるだろう。ささいなことにでも驚き、少しでも学びのある毎日にしたい。

第50回

音(フ・ブ・ヒ)
訓(はなぶさ・ず・しからず)

【解説】
仮借。
否定・打消の「ず、しからず」に仮借して用いる。もと象形の字で、花の萼柎(萼としべの台)の形であるが、その「はなぶさ、へた」の意味に使用することはほとんどない。金文では「不(おほ)いに」と、「丕」と通じて「おおきい」の意味に用いる。否定「ず」の意味はその音を借りる仮借の用法であるが、甲骨文以来否定の意味に使用されている。不のしべのふくらみ始めた形が丕、しべの台の部分が実になった形が否、実が熟して剖れようとする形が?(はい)、?を刀(?(りっとう))で二つに分けることを剖という。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


漢字の成り立ちは、その造字の法則によって6種類に分けられ、これを「六書」という。本稿で仮借(かしゃ)の文字を紹介するのは初めてであるが、この仮借も六書の一つである。造字の法則と言ったが、厳密には、六書のうち仮借と転注は造字法と言うより用法である。仮借とは、既成の文字の本来の意味とは関係なく、その文字の音を借りて異なる意味を表す用法である。この「不」をはじめ否定詞や代名詞など、文字で表しにくい言葉を表す場合、仮借の用法であることが多い。「文字で表しにくい言葉」も文字化しなければ、事象を記録できないわけだが、とはいえ「文字で表しにくい言葉」を文字化するのは困難であったろう。個人の力で短期間に制作・定着したものではないとはいえ、古代人の発想力には驚かされる。

第49回

音(リ)
訓(おさめる・すじ・きめ)

【解説】
形声
音符は里。[説文]一上に「玉を治むるなり」とあり、[韓非子、和氏]に「王乃ち玉人(玉を磨く人)をして其の璞(粗玉)を理めしむ」とあり、玉を磨きあげて、玉の表面のすじをあらわすことを理といい、「おさめる、みがく、ただす」の意味となる。皮膚のきめ、皮膚の細かいあやを肌理といい、「きめ」の意味にも用いる。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


現在の日本社会では、「理性」の力が試される場面が増えていると見受けられる。例えば、様々な情報が氾濫する中で、その情報の真偽や価値を正しく見極めるには、一人ひとりの「理性」の助けが必要である。従って、「玉を磨きあげる」かのように、自分の「理性」を向上させることが肝要なのではなかろうか。事象の表層にばかり捉われるのではなく、本質を見抜けるような「理性」をお互い身につけたいものである。

第48回

音(ニン・ジン)
訓(しのぶ・しのばせる)

【解説】
形声
音符は刃。[説文]十下に「能くするなり」とあり、忍耐(たえしのぶこと)の意味とする。忍は靭(じんたい)と関係があり、靭帯は骨と骨とを結び付ける強い繊維の束で、その強靭(しなやかで強いこと)の意味を人の心の上に移して、「たえる、しのぶ、がまんする」の意味となる。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


およそ「忍耐」という言葉から、固い印象を受ける方も多いのではないだろうか。ところが、これと相反するかのごとく、「忍」の字には靭帯のしなやかさと関係があるというのだから興味深い。なるほど、よくよく考えてみると樹木が風雪に耐えられるのも柔軟性があるからである。このように、「忍」という一字を取り上げてみても、漢字の成り立ちには深い納得を伴う意味があることに改めて気づかされるのである。

第47回

(音)ジュウ・ジフ・ジッ
(訓)とお・と

【解説】
指事
数を数えるときに使う算木で数を表し、横一本は一、縦一本のⅠが十であった。「とお」の意味に用いる。金文ではⅠの中央に肥点(・)を加え、のち十の字形となった。二十は縦に二本並べて廿(じゅう)、三十は十を三つ組み合わせて卅(そう)とかく。ひと十人、また詩十篇、いえ十家を一組にしたものは什、五家を一組にしたものは伍である。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


字の成り立ちが算木で数を表す形からきているもので、現代と字形がほとんど変わらないものが、第四一回の「一」の解説でも触れられている「一、二、三」と今回解説したこの「十」という漢字である。今も生活の中で何気なく使われる漢数字の一つだが、その原形が甲骨・金文の時代からほとんど変化していないわけである。シンプルなものほど時代の変遷によらず残り続けるということが実感できるのではないだろうか。

第46回

(音)イ
(訓)かこむ・かこう

【解説】
形声
もとの字は圍に作り、音符は韋。韋は囗(都市をとりかこんでいる城壁)の上下に止(足あとの形)が左にめぐり、右にめぐる形で、「違(めぐ)る」の意味である。都市を守るための行為ならば、「衛る」となり、都市をかこんで攻める行為ならば「圍む」となる。それで「かこむ、めぐる、まもる」の意味に用いる。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


都市を護衛すること・あるいは敵を攻める際の形から来る字である。ところで現在ではもっと身近な場面で、人が人を守る際にも「囲う」という表現が使われることがある。今現在、この国の中心にいる人達は、しばしば己の保身や欲の為に「囲う」という作業をするようだ。「囲う」とは本来は国(都市)を守るべき物を指すというのに、つまらぬ保身のための「囲い」によって時に国が危機的状況に追い込まれるとは、実に嘆かわしいことである。

第45回

音(セイ・ジョウ)
訓(まこと)

【解説】
形声
もとの字は誠に作り、音符は成。成は作り終えた戈に飾りをつけて祓い清めることを示す。そのように清められた心で約すること、神に誓うこと、またその誓うときの心を誠という。言は神への誓いのことば。それで「まこと、まことにする、まごころ」の意味となる。 [中庸]に「誠なる者は天の道なり」とあり、誠が天と人との道を貫くものであるとしている。誠を重要な徳目であると盛んに主張したのは儒家の孟子である。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


誠とは清めた心で神に対し、誓い、約束するものであるという。神というものは目に見えない存在であり、人々はそれを畏怖してきた。そのため、神に誓いをたて、その約を違えた場合の恐ろしさも並のものではなかったであろう。そのようなリスクを追ってでも誓うからこそ真心が生まれるのかもしれないし、またその真心が人々の胸を打つのだろう。 このように昔の人々は、目に見えず、予測のつかないものに誓いを立てて戒めてきたのであるが、昨今の原発のやらせ問題などを見ていると、同じく目に見えないものであっても結果が予想できるのに、やらせなどをして自分の責任から逃れようとし、しかもその事により事態を悪化させている。昔の人々のように誓いを立てて戒めたうえで行う行動こそが、自身にも周りにも良い作用を与えるのではないだろうか。今はこの誠という言葉を改めて考える必要があるように思える。

第44回

音(カイ)
訓(うみ)

【解説】
形声
音符は毎(?)。毎に悔(くいる)・晦(くらい)の音がある。毎は多くの髪飾りをつけた女の姿で、頭上が鬱陶しいような状態をいう。「うみ」の意味に用いる。中国で四海というのは、四方が海であるという意味ではなく、中華(文明の進んだ中国)に対して四方は未開の国であるという意味である。海はまた知られざる暗黒の世界であった。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


連日のうだるような暑さに嫌気がさし、海水浴に出かけてさっぱりしたいと思っているのは、おそらく私だけではないだろう。われわれが「海」と聞いてイメージするのは、それこそ海水浴や海の幸といった、楽しい、嬉しいものが多いのではないだろうか。しかし、「海」という漢字は、また違ったイメージを喚起させるようである。『論語』を典拠とした四字熟語に「四海兄弟」というものがある。真心と礼儀を尽くして他者と交われば、四海(世界中)の人々は、みな兄弟のように仲良くなれるという意味である。上記の解説にもあるように、文明化された中国に対立する概念として、その周辺に位置する野蛮な地域が四海とよばれたようで、「海」は、よく分からないもの、恐ろしいものの象徴だったのだろう。このように同じ漢字でも、社会の状況や価値観が異なれば、違った印象を受けるのは、おもしろいことではないだろうか。

第43回

音(シン)
訓(まこと)

【解説】
会意
人と言とを組み合わせた形。言はサイ(神への祈りの文である祝詞を入れる器の形)の上に、刑罰として加える入れ墨用の大きな針を置いて神に誓いをたてることばをいう。神に誓いをたてた上で、人との間に約束したことを信という。それで「まこと、まことにする」の意味となる。また「しるし」の意味にも用い、訊と通用して「たより、つかい」の意味にも用いる。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


解説を読むと、この字のもともと持つ意味が大変重いものであることがわかる。一生消えない罪人の証である入れ墨を用意した上での、また神に誓いを立てた上での約束事はそう簡単に破られるべきものでは当然ない。この字は現在、信用や信頼の信としてよく使われるが、このように漢字本来の成り立ちを見てみると、信用や信頼を裏切るようなことはあってはならないと改めて思う。一度失ってしまった信用や信頼を再び取り戻すことは容易ではないし、それこそ一生消えない入れ墨のように、ずっと不名誉がついてまわる。約束したことは、必ず実行できる人間でありたいものである。

第42回

音(メイ・ミョウ(ミャウ))
訓(あかり・あかるい・あかるむ・あからむ・あきらか・あける・あく・あくる・あかす)

【解説】
会意
もとの形は?につくり、?と月(月)とを組み合わせた形。?は窓の形。窓から月明かりが入りこむことを明(?)といい、「あかり、あかるい、あきらか、あける、あかす」などの意味となる。古い時代の中国北部の黄土地帯では半地下式の住居が多く、竪穴を中心に作られた部屋の窓は一つであり、そこから入る窓明かりを神の訪れとみたてて窓のところに神を祀った。それで神のことを神明という。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


この字は、「太陽(日)と月で明るい」と説明されることもあるが、左側の「日」は太陽ではなく窓である。文字本来の意味に注意せず、現在の字形によって誤った説明がなされる例は、これまでにもいくつか挙げたが、この「明」もそのひとつである。このような例は今後もとりあげてみたい。しかしそれにしても、「専門に研究するわけでもなく、単なる覚え方なのだからいいではないか」と思われるかもしれないが、歴史の年号を語呂合わせで覚えるのとは違って、漢字は実に体系的なものであるので、一部を疎かにするとつじつまの合わないことも起こってくる。そのため、できる限り本来の意味や成り立ちを理解することが大事なのである。もっとも、その「本来の意味や成り立ち」が未だ明らかでない漢字も多く、それらを解明していくことも研究の楽しさであると思うのである。

第41回

音(イツ・イチ)
訓(ひとつ・ひと・はじめ・もっぱら)

【解説】
指事
数を数えるときに使う算木という木一本を横さまにおいた形。一本の算木によって数の一を表し、「ひとつ」の意味となる。甲骨文字では数を数えるのに算木を使い、二・三・四はその算木を重ねた形である。一は数のはじめであるから「はじめ」、また全体をまとめるので「すべて、みな」の意味にも用いる。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


画数が最も少なく漢字学習の最初に出会う文字、それがこの「一」字である。意味もさほど難しくない様に思えるが、「一」の付く熟語は実に多く、古来より伝わる名言・格言にもこの「一」字がよく用いられている。例えば、『論語』里仁篇の「吾が道は一以て之を貫く(わが道は一つのことで貫かれている)」は、特に有名である。諸姉兄におかれては、お手元の漢和辞典で「一」を使った熟語・故事成語がどれだけあるかを確認されたい。夥しい数の熟語・成語の存在にきっと驚かれることだろう。

第40回

音(カ)
訓(ひま・いとま)

【解説】
形声
音符は?。?は岩石を切り取る形で、まだみがいていない原石のままのものをいう。それで未知数のものであるとか、遠い、大きいなどの意味をふくんでいる。時間の関係でいえば「暇」となり、「ひま、いとま」の意味に用いる。距離の関係でいえば「遐か」となり、事実の関係でいえば「假(仮)」となる。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


何事かを成し遂げようとするとき、時間に余裕があることが必ずしも良いとは限らない。本居宣長は、学問と時間との関係について、以下のように述べている。「詮ずるところ学問は、たゞ年月長く倦(うま)ずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて……大抵は、不才なる人といへども、おこたらずつとめだにすれば、それだけの功は有るものなり……又暇のなき人も、思ひの外、いとま多き人よりも、功をなすものなり。」(『うひ山ぶみ』)。つまり、時間がない人でも怠らず学問に励みさえすれば、時間のある人よりも成果をあげることが可能だということである。決して容易なことではないが、この学問論を教訓に、たとえ忙しくとも地道な努力を怠らないようにしたい。

第39回

音(ジュ)
訓(もとめる・まつ)

【解説】
会意
雨と而とを組み合わせた形。而は頭髪を切ってまげのない人の形で、巫祝(神に仕える人)をいう。ひでりのときの雨乞いは巫祝たちによって行われ、需とは雨を需(もと)め、需(ま)つことをいい、需は「もとめる、まつ」の意味となる。その雨乞いをする巫祝を需という。祈りを捧げる巫祝を焚いて雨乞いをすることもある。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


じめじめとした梅雨も終わりを迎えるこの季節、肌に張り付くような湿気から解放されることに喜ばれている方もいるのではないだろうか。ただ、夏も本番を迎えると、雨が降らないことによる水不足から節水を余儀なくされる地域が出始める。それでも、近年の日本においては水不足が人々の命に直結するような事態になることはない。まして、雨乞いのために人の命を奪うような儀式が行われることなどありえない話である。しかし、人の命を捧げてでも雨を需めようとした時代があったことは事実である。降りしきる雨に辟易された方もおられるだろうが、時には感謝の念をもって雨を迎えてみては如何だろうか。

第38回

音(リョウ)
訓(すずしい・すずむ・うすい・さびしい)

【解説】
形声
音符は京。京に□(※□の字は、「旡」の右に「京」)(かなしむ)・諒(まこと)の音がある。[説文]十一上に「薄きなり」とあり、次の淡に「薄き味なり」とあって、薄い味をいう。[周礼、天官、漿人]の[鄭司農注]に、「涼とは水を以て酒に和するなり」とあるから、いわゆる水割りの意味である。涼風(すずしい風)・清涼(清らかで涼しいこと。すがしいこと)のように、「すずしい」の意味に用い、すずしいことから、荒涼(ものさびしいこと)・悲涼(もの悲しくさびしい様子)のように、「さびしい」の意味に用いる。国語では「すずむ」とよみ、木陰で涼む、夕涼みという。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


日々うだるような暑さが続く今日この頃、今年は節電対策も相まって、「涼」を得るのが困難になってきている。それにしてもこの「涼」という字義の一つが、古代の飲料の一つを指すとは興味深い事である。しかもそれが「水割り」というのだから尚のことだ。もちろん、当時の水割りが現在で言う所の水割りと全く同じ意義である、という事ではないのは言うまでもない。しかし、古代の人々も現代の我々と同じく、酒を水で割って少しでも「涼」を得ようと考えたのであろうか。今も昔も、時代は大きく変わったとは言っても、人間の求め考えることなど土台変わらぬのかも知れない。

第37回

音(ボウ・モウ)
訓(のぞむ・ねがう)

【解説】
形声
音符は(亡)。甲骨文字の字形は、つま先で立つ人を横から見た形(壬の下の部分を土にした文字)の上に臣(上方を見ている目の形で、大きな瞳)をかく形(上に臣、下に壬の下の部分を土にした文字)で、つま先だって遠くを見る人の形であり、象形の字。これに音符の亡を加えた望は形声の字。遠くを望み見ることから、「のぞむ、まちのぞむ、ねがう」の意味に用いる。つま先立って大きな瞳で遠方を見ることは、雲気を見て占う行為であり、また目のもつ呪力(まじないの力。呪いの力)によって敵を押えつけて服従させる呪的な行為であった。甲骨文に望乗という氏族名がみえ、軍隊に従っているが、目の呪力によって敵状を知り、敵を服従させることを職務としていた。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


今日では何かを願う意味で使われる事の多い望という字であるが、古代は相手の雲気を見て占い、敵を押さえつけるという極めて呪的なものであり、それだけ古代では呪の力が強いと考えられていたであろうことがわかる。だが、目の呪力によって敵状を知り、敵を服従させるということは、現在においてもとても重要な事に感じられる。何かについて結果を望むのであればまずはその事について知らなければならない。そのために一番手っ取り早いのは見ることである。今日の原発問題のように内部状況を見て、判断し、その対策を行う事ができなければ良い結果が得られないことを身に染みて感じた。何かしらの結果を望むには、まずはそれを見て状況を知る必要があるということを、心の内に留めておきたい。

第36回

音(ム・ボウ)
訓(ゆめ・ゆめみる)

【解説】
会意
「カン」(?に?を加えた字)と夕とを組み合わせた形。「カン」(上記と同様)は眉を太く大きく描いた巫女(神に仕える女)が座っている形。祖先を祭る廟(みたまや)の中で、その巫女がお祈りしている形が寬(寛)である。夢は睡眠中に深層心理的な作用としてあらわれるものとされるが、古くは呪術を行う巫女が操作する霊の作用によって夜(夕)の睡眠中にあらわれるものとされた。それで夢は「ゆめ、ゆめみる」の意味となる。[周礼、春官]には占夢の職があり、夢の判断をした。また年末には、一年間の夢を調べ、堂贈という鬼やらいの儀式を行い、夢送りの行事をしてその年の悪夢を祓った。高貴な人が死ぬことを薨(しぬ)というが、薨とは夢魔によって死ぬことで、高貴な人には夢魔の危険が多かったのであろう。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


何年も連絡を取り合っていない人が、夢のなかに、ふっと姿を現すということがある。「どこかでうわさ話でも耳にしたか」「無意識のうちにも、平素から気に掛けていたのではないか」そんな取りとめもないことをいろいろ考え、勝手気ままな空想に耽っていく。このような経験は誰しも有ると思うが、夢を見るということは、自分に原因があるのであって、けっして夢に現れた人が自分を思うがゆえではなく、まして他人によって夢を見させられるなど、思いもよらないというのが、現代人の一般的な感覚であろう。ところが、夢という漢字の成り立ちを見てみると、古代の人々は、どうやら巫女によって操作された霊の作用によって、夢を見させられていると感じていたようである。そうすると、いつぞやの私が見たあの子の夢も、巫女の祈祷のおかげなのだろうか。今夜も手が空いていたら、夢のなかであの子に会えるように、ぜひ祈祷していただきたい。

第35回

音(シン)
訓(もり・しげる)

【解説】
会意
木を三本組み合わせた形。木を三本組み合わせて、「もり、しげる」の意味となる。林は人の生活する場に近い木立であるが、森は木々が深く茂った所、人の入らぬような樹海、原始林であった。森は神の住むところとされ、社も古くは「もり」とよまれた。それで神の気配を感じるようなおごそかな様子を、森巌という。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


「パワースポット」という言葉をよく耳にするが、解説を見ると、「森」とはまさに古代人にとっても「パワースポット」であったのだろう。ただ古代においては、そのような場所や神から豊かな恵みを頂くというばかりではなく、災害なども神の力によるものであると信じられていたから、自然を恐れ敬う感情というのは当然現代よりも強いであろう。古今東西、様々な自然神や自然崇拝の形があると思うが、しかし天変地異を神の御業ではなく科学で解明できる現代においても、パワースポットに赴き、神妙なる気を吸収するというのは、人々がそれを求めているからである。日本人は無宗教と言われるが、人智を超えた力を欲し、それによって自らを律するのはいつの時代も変わらないのかもしれない。

第34回

音(ドウ)
訓(はたらく)

【解説】
形声
音符は動く。動は力(耒の形)に従い、もと農耕に従事することをいう。働はわが国で作られた字であるが、明治以後の欧米語の翻訳語に使用したものであろう。稼働(はたらくこと。また、機械を動かすこと)・労働(はたらくこと)のように「はたらく」の意味に用いる。のち中国でも使用されるようになった。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


国字にも歴史の古い文字もあるが、近代社会や近代科学などの概念を表すために明治期にも多くの国字が作られた。この「働」もそのひとつであろう。右側の「動」は、もと「農耕に従事すること」を表していたが、「働」では農耕に限らずはたらくこと全般を表すようになっている。この字を説明するのに、「人のために動くことを働くという」などど言われることが多い。明治期のこの字を作った人物(個人の手によるものかは不明であるが)、あるいはこの字が定着していった経緯などはわからないが、なかなか言い得て妙であるといえよう。生計を立てるために「働」いているのであって、「人のために動く」などというのは理想に過ぎる、という向きもあるだろう。それだけに、各種ボランティアに携わっている人々などは、まさに「働」を体現しており、頭の下がる思いである。

第33回

音(シツ)
訓(うしなう・あやまる)

【解説】
象形
手をあげて舞い踊る人の形。巫女(神に仕える女)が手をあげて舞い踊り、我を忘れてうっとりとした状態になることをいう。気を「うしなう」というのがもとの意味であるが、すべてのことについて、「うしなう」の意味に用いる。うっとりとした姿で楽しむことを佚(たのしむ)、巫女が頭を傾け、身をくねらせて舞う姿を夭(くねらす)といい、妖(あでやか)のもとの字である。巫女があるいは低くあるいは高く、激しく舞うことを迭(たがいに)という。また過失(あやまち)・失火(過って火災を起こすこと)のように、「あやまる」の意味にも用いる。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


人間は大事なものを「失」い、取り返しのつかない事態に至って初めて悔いるものである。特に大震災を経験して、そのことを痛感した方も多いだろう。しかし、「得失」という言葉からも分かるように、人間にはかけがえの無いものを手にする機会も与えられている。「失」ったものを悲しむばかりでなく、手に入れたものへの喜びを感じる、そういう心態を忘れずに日々を過ごしてゆきたい。

第32回

音(シャク・セキ)
訓(ものさし・ちいさい)

【解説】
象形
手の指の、拇指と中指とをいっぱいに広げて、下向けにした形。上部は手首の部分、下部の八の部分が両指を広げた形。一本の指の幅が寸で、寸の十倍の長さが尺である。それで「しゃく、十寸の長さ、ものさし、しゃくの長さのもの、小さい、わずか」の意味となる。わが国の古語では「あた」といい、八咫の鏡(大きな鏡。三種の神器の一つ)のようにいうが、寸にあたる語はなく、四本の指の幅を「つか」という。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


この「尺」の字を見ると、『易』の尺取虫の話が思い起こされる。「往くとは屈するなり。来るとは信(の)ぶるなり。屈信相感じて利生ず。尺蠖の屈するは、以て信(の)びんことを求むるなり。」(繋辞下)とあるように、尺取虫が屈することと進むこととは表裏一体の関係にある。一見すると、尺取虫の歩みは遅いように思われるかもしれない。だが、着実に前進しているのである。物事がうまくいかないときには、この尺取虫の話を思い出し、いつかは「屈」が「信」になると信じて努力を続けていきたいものである。

第31回

音(カン)
訓(あまい・あまえる・あまやかす・かぎ)

【解説】
象形
錠をして鍵をかけた形。「かぎ、嵌入する(はめこむ)」というのがもとの意味である。口をとざすことを拑といい、首にはめる首枷を鉗という。甘を「あまい」の意味とするのは、?(根にあま味がある草である甘草)の意味からとったものであろう。甘は刑罰の道具である手錠や首枷の形と同じである。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


この「甘」という字に、広く知られる「甘味」という意味からかけ離れた別の意味があることに、驚かれた方も多いのではないだろうか。ただ、一般に通用する漢字の中には、長い歴史の中で別の意味が付与されていったものが少なからず存在する。このような言語の柔軟性を楽しみながら、今後漢字に触れてみては如何だろうか。意外な発見に驚かされることだろう。

第30回

音(ウン)
訓(はこぶ・めぐる)

【解説】
形声
音符は軍。軍に暈の音がある。軍の古い字形は、車の上に旗がなびく形である。将軍の乗る兵車の旗の動きによって軍の行動は指揮された。全軍はその旗の動きによって兵車を運らし、移動させるのである。「めぐらす、めぐる、うごかす、はこぶ」の意味に用いる。暈(かさ)は日や月のまわりをめぐってできる円いかさである。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


物事がうまく運ぶかどうかによって、我々は時に「運が向いてきた」とか「ついていない」という感情を抱く。元々の字義が「将軍の旗の動きによって、全軍の行動が指揮され、運らせる」ことから「めぐる、めぐらす」等の意味に用いられるのであるならば、その「めぐりあわせ」は、己自身の旗の動きによって左右するのか、それとも他人の旗の下に運ばされるのか…。自身の人生に於ける重要な岐路に立たされた時、見えない力によってめぐり合わされるのを俟つのではなく、願わくば己の力によって事を運べるよう努力したいものである。

第29回

音(ブ・ム)
訓(たけし・もののふ)

【解説】
会意
戈と止とを組み合わせた形。止は趾(あしあと)の形で、甲骨文字の字形は之(ゆく)と同じで、行く、進むの意味がある。戈(ほこ)を持って進む形が武で、それは戈を執って戦うときの歩きかたであるから、「いさましい、たけし、つよい」の意味となる。また戈を持って進む「もののふ、武士」の意味に用いる。武は文と並ぶ徳の名とされ、文徳に対して勇を重んじる武徳をいい、文武と対称される。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


『説文解字』には、楚の荘王の言として、「夫れ武は、功を定め兵を?(をさ)む。故に戈を止むるを武と為す」とあり、現在の訓にあるような「たけし・もののふ」とは反対の説明がなされている。『説文解字』は本字説抄でもたびたび引用したが、後漢の許慎が西暦100年に著した最古の字書で、今日に至るまで文字学の基礎となってきた書である。しかし当時はまだ甲骨文字の存在が知られておらず、その解釈には甲骨文字の字形が反映されていない。そのため、甲骨文字の発見以来、許慎の説もずいぶん改められてきた。この「武」もそのひとつである。『説文解字』のこの解釈は、当時の字体からみたもので、当時の倫理観、あるいは理想が表れている。争うだけが「武」ではなく「戈を止むる」ことこそが「武」であるという解釈は、甲骨文字の字体からみれば誤りであっても、絶妙であり捨て難い気持ちにならないだろうか。

第28回

音(ゼン)
訓(つめきる・すすむ・まえ・さき)

【解説】
会意
正字は?、あるいは?に刀を加えた形。止+舟+刀。止は趾(あし)ゆび。舟は盤。盤中の水で止(あし)を洗って、刀で爪を剪り揃えるのである。前は趾指の爪を切る意の字であるが、前後の意から前進、また往昔などの意となる。……(中略)……[史記、蒙恬伝]に「公旦(周公)自ら其の爪を揃(き)り、以て河に沈む」とあって、爪切ることは修祓の儀礼。その爪を河に投ずるのは、自己犠牲としての意味をもつことであった。喪礼のときにも、蚤(そう)(爪切り)・?(せん)(髪切り)をする俗があった。

[『字通』(平凡社 1996)]


前とは不思議な字である。「すすむ」意もあれば、後ろに歩んできた「往昔」の意味も指す。人は悲しく辛いとき、不安で思い悩むときなどに、「前向き」にならなければならないと言う。しかしその「前」とは何処なのか。時間は放っておいても勝手に未来にすすむ。無理に気持ちをすすめなくても、立ち止まって「往昔」に向いてそれを大事にすることも必要なのではないか。そのあとで「往昔」を抱いて「すすむべき方向」へ繋げていくことができればよいと思う。

第27回

音(キ・ケ)
訓(おくりもの・くうき)

【解説】
形声
もとの字は氣に作り、音符は气。气は雲の流れる形で、雲気をいう。气は生命の源泉、おおもととされ、米(穀類)はその気を養うもとであるというので、气に米を加えて氣となった。また?(き)ともかき、氣が?(おくりもの)のもとの字である。気はすべての活動力の源泉であり、大気(地球を取り巻く空気の全体)・元気(活動のみなもととなる気力)として存在し、人は気息(呼吸)することによって生きる。また、人にあらわれるものを気質(気だて。気性)・気風(集団や同じ地域の人々が共通に持っているとみられる気質)という。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


この一か月、耳を疑うニュースばかりが巷にあふれ、心身共に安らげない日々を送る方々も多いと推察する。確かに、現状では解決すべき問題が山積し、復興には長い年月と強靭な忍耐力が欠かせない。かような時こそ我々が「気」を集結させ、協力して事に当たることが肝要ではなかろうか。いついかなる状況下でも「元気」と「勇気」とを忘れずに、あらゆる困難と対峙してゆきたい。

第26回

音(ボウ)
訓(いそがしい)

【解説】
形声
音符は亡。[列子、楊朱]に「子産忙然として、以て之れに應ふる無し(言い返すことができなかった)」とあり、ぼんやりの意味とする。「いそがしい、あわただしい」の意味に使用するのは、唐代(七世紀~九世紀)以後のことであるらしい。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


新年度が始まり、毎日を忙しく過ごされている方も多いのではないだろうか。ところで興味深いのは、白川先生が引用された『列子』の用例である。「ぼんやりの意味」とあるように、およそ現在使われる「忙」の字とは全く反対の意味である。忙しい中にも、ときにはこの字の古い意味を思い出し、「ぼんやり」とする時間を持ちたいものである。

第25回

音(ジョ)
訓(たすける・たすかる・すけ)

【解説】
会意
且と力とを組み合わせた形。且は?(すき)の形。力は耒(すき)の形。?は草を切るもの、耒は土を掘り起こして砕くもので、合わせて耕作を助けるの意味となる。のち農耕のことに限らず、すべて協力して人を「たすける」の意味に用いる。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


助の意味は農耕に由来するものであり、互助という意味合いが強く、決して一方的な施しの意味を持つものではない。だが、今回のような大規模災害の折には、被災者を助ける行為を偽善と謗る者や、独り善がりな「助け」を被災者にぶつける者が現れる。ただ、本来「助ける」という行為は、一人では出来ないことを周りの人間がお互いに協力し達成するために行うことである。周囲の人間にとって助け合うことは当たり前のことであり、そこに善悪というものはそもそも存在しない。また、お互いにすべきことが分かったうえで行動するので、相手の迷惑になるような一方的な押し付けというものはない。今一度、「助」という言葉の本来の意味を見つめなおし、今後の行動を考えてみては如何だろうか。

第24回

音(ミン)
訓(たみ・ひと)

【解説】
象形
目を刺している形。金文の字形は眼睛(ひとみ)を突き刺している形で、視力を失わせることをいう。視力を失った人を民といい、神への奉仕者とされた。臣ももと視力を失った神への奉仕者であり、合わせて臣民(君主に従属する者としての人民)という。民は神に仕える者意味であったが、のち「たみ・ひと」の意味に用いる。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


神への奉仕者という言葉だけをみれば大した感想も持たないが、「民」とは元々両眼を突かれ視力を奪われた奴隷を指すという。先日起きた「東北関東大震災」から、現在も原発問題で日本が揺れている。被災者の方々への支援、原発への対処、その他総てに於いて後手後手に回る政府の対応に、国民は憤りを隠せない。我々「国民」とは一体何なのか。日本国の民とはどういうことなのか。少なくとも戦後の我々は、「民」の字義のような視力を奪われ強制的に従属させられている「奴隷」ではないし、政治に対しての「見る目(眼力)」を失っているわけでもないはずである。
しかしひょっとすれば、そう思い込んでいるのは、平和に慣れてしまった我々だけなのではないだろうか。その実この字義のように、国民はいつまで経っても国にとって都合の良い一奉仕者に過ぎないのかも知れない。表面上の視力はあったとしても、真実を見せられず、隠蔽された事柄の中でいいようにあしらわれようとしている我々は、ともすれば古代の「民」と何ら変りないのではないか。

第23回

音(セイ・ショウ(シャウ))
訓(ほし)

【解説】
形声
音符は生。古い字形には上部を晶に作るものがある。日はこの字の場合は、太陽の形ではなく星の形で、晶は多くの星の光が輝く形である。それで星は「ほし」の意味となる。星の知識は[詩経]に織女星(琴座のアルファ星ベガ)や北斗七星のことがみえるが、詳しい知識は西方から伝えられたことが多く、木星の知識などもオリエント(西南アジアとエジプト)から伝えられた。木星を歳星名とする赤奮若(丑の歳の異名)や摂提格(寅の歳の異名)はオリエント地方の言語の音訳である。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


『説文解字』には、「萬物の精、上りて列星と為る」とある。白川文字学では「萬物の精」については触れていないが、概ね同様の説である。子供向けに「「ほし」は「太陽(日)」から「生」まれるので「星」と書くのだ」と説明されることがあるが、それはもちろん誤りである。このような、漢字の成り立ちや覚え方について、「これは覚え方・書き方を言ったもので成り立ちを説明したものではなく、歴史の年号を語呂合わせで覚えるようなものだ」「皆がみな研究者になるわけではないし、熱心な者はいずれ自分で調べて正解にたどりつく」とか、あるいは、「単なる覚え方・書き方だからといって、成り立ちとして誤っているものを教えるべきではない」「自分で調べない者は誤った知識を持ったままになる」など、意見は様々であろう。しかしひとつ言えることは、「古い字形には上部を晶に作るものがある」とあるように、物事を考えるときには、表面的なこと、現在見えていることだけを考えるのではなく、根源まで探ってよく考えることが大切なのではないかということである。

第22回

音(ソツ・シュツ)
訓(しぬ・おわる・ついに)

【解説】
象形
衣の襟(えり)をかさねて、結びとめた形。死者の卒衣をいう。死没するとき、死者の襟もとを重ね合わせて結び、死者の霊が迷い出るのを防ぐのである。[説文]八上に「人に隷して事を給する者の衣を卒と為す。卒衣とは題識有る者なり」という。受刑者などが服役するときの、法被(はっぴ)のような仕事服と解するものであるが、卒の原義は死卒、死喪のときの儀礼を示すものであるから、終卒また急卒の意に用いる。

[『字通』(平凡社 1996)]


卒業式の時期なので「卒」の字を選んでみたが、原義を見ると縁起の良い字とはいいがたいかもしれない。「卒業」は仕事を終える、学業をとげるの意味で「卒」は「おわる」である。進学して引き続き学業に就く人もいれば、仕事などに就く人もいるだろう。いずれにせよ、今までの生活とは訣別して新たな道を歩むことになる。死者の霊が迷い出るがごとく未練や遺恨を残さないよう、衣の襟もとを結び、生まれ変わる気持ちで前に進んでほしいと思う。

第21回

音(ケン)
訓(すこやか・たけし・つよし)

【解説】
形声
音符は建。建は壁に囲まれた儀礼の場所で方位や地相を占い、測量をして建築の基準をつくることをいう。外から乱されることがなく、拠点が守られている状態を、人体の上に及ぼして健という。それで健は「すこやか、たけし、つよい」の意味となる。筋肉と骨とを結びつけている強いすじを腱という。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


今回は「健」字を取り上げた。「建」が音符を示すことは既にご存知だったと思うが、「健」と「建」との意味のつながりまで理解されていた方は少ないかもしれない。お互い、いつまでも「健康」で日々を過ごしてゆきたいものである。ところで、諸姉兄におかれては、漢字の成り立ちと音・訓に関する解説に本コラムの大きな特色があることは既にお気づきだろう。それは、形・音・義を系統的に知ることが漢字の理解において最も重要である、との先生の確固たる信念に基づくからである。今後も白川先生の字説を案内役として、漢字の世界を心ゆくまで散策して頂きたい。

第20回

音(カ・ケ)
訓(いえ・や)

【解説】
会意
宀と豕とを組み合わせた形。家を示す宀(建物の屋根の形)の下に、犠牲(いけにえ)として殺された犬を加える。家とは先祖を祭る神聖な建物である廟のことである。そのような建物を建てるときには、まず犠牲を埋めて、その土地の神が怒らないように鎮めるために地鎮祭を行うのである。古い字形では犬は殺されたものとして、尾を垂れた形に書かれている。今の字形では宀の下が豕(豚)であるため、昔は人も豚も同じ屋根の下にいっしょに住んだのであるなどと説明されていた。甲骨文字や金文の字形によって、宀の下は犬であり、建物の前に奠基(地鎮)として埋められたものであることが明らかとなってきた。家はもとは祖先を祭る廟であるが、これを中心として家族が住んだので、人の住む「いえ、住居」の意味となった。家族によって家柄が構成されるので、住居としての建物の意味だけでなく、家族・氏族のあり方をも含めて家という。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


今回取り上げた「家」という字には「家庭」「家族」などの熟語が示すように、暖かくおだやかないわれがあるのかと思うことだろう。そういった点において「宀の下が豕(豚)であるため、昔は人も豚も同じ屋根の下にいっしょに住んだ」とする旧説のほうが、平和的な解釈で納得しやすいのではないだろうか。一方、白川先生の場合は、甲骨文字や金文まで遡り「豕」を「犠牲(いけにえ)として殺された犬」と捉えられ、なかなか残酷さを覚えるものがある。今でこそ家族の一員のように扱われる犬であるが、この「家」の字の解釈をみるに、中国古代における犬には現在とは異なる側面を持っており、それらは往々にして古代の祭祀を中心とした文化を強く反映してるようで興味深い。

第19回

音(カク)
訓(かわ・あらためる)

【解説】
象形
獣の革の形。頭から手足までの全体の皮をひらいてなめした形である。皮は獣の皮を手(又)で剥ぎ取る形で、合わせて皮革という。皮をなめし(毛・脂肪を取り去って柔らかくする)、仕上げた形が革で、「かわ」の意味となる。生の皮とすっかり異なるものとなるので、革は「あらたまる、あらためる」の意味となり、改革(あらためてより良いものにすること)という。さらに一般の改革のことに及ぼして、革命(王朝が代わること。国家や社会の組織を急激に変えること)のように使う。韋(なめしがわ)は皮をなめすとき、木に懸けて乾かす形であるので、合わせて韋革(なめしがわ)という。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


政治家がこぞって使うせいか、「改革」という言葉をニュースなどで耳にすることが多くなった。しかし、当たり前のように使われるためか、この改革という言葉に何故、「革」という漢字が用いられているのか、その理由に疑問を持つ方はあまり多くないように思う。また、そこに疑問を持った方でも、「革」という漢字を辞書で調べ、一般的な「かわ」という意味以外に、「あらたまる」という全く別の意味があるのだと分かった時点で納得してしまっているのではないだろうか。もちろん、普段の生活の中で生まれる素朴な疑問の解消ということで考えれば、辞書に記された意味をそのまま受け入れるだけで充分だろう。ただ、今回のように一見無関係のように見える二つの意味に、密接なつながりがあることも少なくない。今後は漢字の意味を調べるとき、その意味の成り立ちにも思いを巡らしてみては如何だろうか。

第18回

音(アン)
訓(つくる・かんがえる)

【解説】
形声
音符は安。木を偏(きへん)にしないで下部におく形の漢字は、栄(榮)・架・某など、例が多い。案はものをおく台、「つくえ」をいう。はじめは、食事用のもので脚のあるものを案、ないものを槃(たらい)といった。のち書物をおいて考案する(工夫して考え出す)こと、考察することに使うので、「かんがえる」ことを案という。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


ある物事に対し「案」をひねり出す、という作業は日常の我々にもよくあることである。「何か良い妙案はないものか?」と、他人から或いは己自身に対して答えを問い掛ける事も少なくない。しかし忙しい日々の生活の中にあっては、机に向かうこともせずに、ついついその場で安易な答えを導き出してしまいがちである。もしも納得のいく案が思いつかなければ、もう一度この「案」という字義に立ち返り、「書物をおいて考案する」という事を実行してみてはどうだろう。机の前に座り、落ち着いて熟考してみると、新たな「案」が見つかるかも知れない。

第17回

音(オウ)
訓(きみ)

【解説】
象形
大きな鉞の頭部の形。柄をつけた全体の形は戉(鉞)である。鉞の頭部の刃の部分を下にして、実用品の武器としてではなく、王位を示す儀礼用の道具として、玉座(王の座る席)の前においた。それは王のシンボル(象徴)であるから、「きみ、君主」の意味となる。小さな鉞の頭部を刃を下にしておいた形が士で、戦士階級の身分を示す。王と士とは鉞の大小の差である。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


この漢字は、画数も少なく、小学一年生で学習する漢字であり、意味も分かりやすい。そのため、教育現場でも、学習後の日常生活の中でも、この漢字がなぜ「きみ、君主」の意味を表すのか、深く考えたことのある人は、筆者を含めほとんどいないのではないだろうか。『説文解字』には「董仲舒曰はく」として「古の造文は、三画して其の中を連ね、これを王と謂ふ。三とは天地人なり。而して参通の者、王なり。」とある。「王」の3本の横画は天地人(上から順に言えば天人地か)を表し、これを縦画によって連ね束ねる者が「王」であるという。それなりに理のある説ではあるが、『説文解字』が書かれた当時、甲骨金文の存在は知られていなかった。そこで白川先生は甲骨金文によって旧説を問い直し、「王」は本来、鉞であるとされた。しかし白川先生の業績は、このように漢字ひと文字ひと文字について字義を問い直しただけでなく、全体として体系だった学説を構築された点にあるといえよう。

第16回

音(ジン・ニン)
訓(ひと)

【解説】
象形
人の側身形。『説文』八上に、「天地の性、最も貴き者なり」とし、字形について「此れ籀文(ちうぶん)、臂脛(ひけい)の形に象る」という。卜文・金文はみなこの形に作り、匈(きょう、胸)・包・身など、みなこの形にしたがう。

[『字通』(平凡社 1996)]


昔から「人という字は人と人がささえあっている」と言われてきたものだが、金文などを見ると、腕を下にだらりと下げた人の腕と足の部分を横から見た形である。つまり自分の足で立つ姿である。社会は人と人がささえあって成り立つものであるが、依存するものではなく、やはり個々は責任を持って自立する存在でなければならない。一月に成人式を迎えた人はこの「人」の字から「成人」の意味を考えてみるのも良いと思う。

第15回

音(オン)
訓(めぐむ・いつくしむ)

【解説】
形声
音符は因。因は茵席(むしろ。敷物)の上に人が寝ている形で、むしろ・敷物をいう。その敷物は常に使用し親しむものであるから、因に心をそえた恩は、「いつくしむ(大切にする、かわいがる)」という意味となり、愛情を受けることをいう。

[『常用字解』 (平凡社 2003)]


「恩」とは人間に備わる基本的な心性である。しかし、文字の由来を調べてみると「むしろ・敷物」と関係するというのは非常に興味深い。このように、日ごろ使い慣れる漢字も、その成り立ちを見てゆくと予想もできなかったものと関係することがあり、それを発見することが、文字学の面白さを体感する第一歩となる。実際に辞書を手に取り、説明を詳しく読み進めて行くことを皆さんにお勧めしたい。

第14回

音(ヤ)
訓(よ・よる)

【解説】
会意
大と夕を組み合わせた形。大は手足を広げて立つ人を正面から見た形。夕は夕方の月の形である。人の腋の下から月が現れている形で、月が姿を現すような時間帯を夜といい、「よる、よ」の意味に用いる。

[『常用字解』 (平凡社 2003)]


小・中学校の漢字学習を思い返すと、書き取りを何度も行なうことで字を覚えるようにしていた印象が強い。ところで「夜」という字の成り立ちを見てみると、「月が姿を現すような時間帯」であるから「よる、よ」の意味に用いる、と素朴でありながらも、なかなかインパクトの強い説明がなされ、記憶に残りやすいものがある。現在では福井市をはじめとして、白川先生の漢字研究の成果を漢字学習に用いている学校があるが、まだ一部に過ぎない。今後の漢字学習では機械的に覚えさせるよりも、こうした漢字の持つ意味やイメージを生かして覚えさせる学習に転換していく必要性があるのではないかと考える。

第13回

音(ガ)
訓(いわう・よろこぶ)

【解説】
会意
加と貝とを組み合わせた形。加は力(耒の形)に[サイ](神への祈りの文である祝詞を入れる器)をそえて、すきをは祓い清めて虫の害を防ぐ儀礼をいう。貝は子安貝の形で、生産力を象徴するものと考えられた。それで賀は生産力を高めるために行う儀礼であり、新しい生命を「いわう」儀礼となる。賀はもとは農耕儀礼を意味する字であったが、すべて生命や生産について、祈り祝うの意味に使う。また、「よろこぶ、よろこび」の意味に用いる。

[『常用字解』 (平凡社 2003)]


この「賀」という漢字を目にする機会が最も多いのは、年始のこの時期であろう。年始の挨拶状としての「年賀状」はもちろんのこと、祝いの言葉として「謹賀新年」「賀正」「賀春」などを用いた人も多いのではないだろうか。しかし残念なことに、これらの言葉が年始の挨拶文として定型化されているため、この「賀」という漢字が持つ、「いわう・よろこぶ」という訓と「よろこび祝福する」という意味を知らずに使っている人も多いのではないだろうか。まして、漢字の成り立ちまで理解している人などはほとんどいないであろう。
ただ今回を機に、白川先生の解説をもう一度読み返し、「賀」の成り立ちと本来の意味を覚えてみては如何だろうか。おそらく、ただの年始の挨拶程度に認識していた言葉が、新しい年を迎えることへの喜びと祈りの気持ちに溢れているものであることが分かるはずである。

第12回

音(ゲイ)
訓(むかえる)

【解説】
形声
音符は?。?は人が向かい合う形である。?を前後の関係とすると、前方の人を迎えるという意味となる。道を歩くと言う意味の?(?・?)を加えて、向こうから来る人を「むかえる」ことを迎という。?は大(立っている人を正面から見た形)を逆さまにした形で、向こうから来る人を上から見た形。これに?を加えて、逆は逆(むか)えるの意味となる。ただ逆は正逆の逆(さからう、そむく)の意味に使う。?が上下に向かい合うときは、下からいえば仰(あおぐ)、上からいえば抑(おさえる)となる。

[『常用字解』 (平凡社 2003)]


今年も残すところあと僅かとなり、新年を迎える準備に追われる方も多いと思われる。「?」が「人が向かいあう形」を表すのであれば、歓迎する相手を、また迎え入れられる側も、きちんと「向かい合う」事が必要である。「迎える」とは、正しく人と人が向かい合ってこそ、はじめて成り立つ行為なのだろう。口先だけの「歓迎」では、迎えたことにも迎え入れることにもならないのである。この事を念頭に、新しい年と、また新たに出会うであろう人達を「迎え」てみてはどうだろうか。 

第11回

音(ショ)
訓(あつい)

【解説】
形声
もとの字は暑に作り、音符は者(者)。日は日光。日に照らされて「あつい」の意味となる。者は集落を囲むお土居(土の垣)の中に呪禁(悪邪を祓うまじない)として曰(神への祈りの文である祝詞を入れる器であるサイの中に、祝詞のある形。お札にあたる)を埋めておく形である。音符としては、者よりも庶(煮炊きするの意味)のほうがふさわしいが、者と庶とは音が近いために両者が交替して用いられることがある。

[『常用字解』 (平凡社 2003)]


先日、京都市の清水寺で発表された、財団法人日本漢字能力検定協会公募の今年の漢字がこの「暑」であった。今夏が記録的な猛暑であったことが、主な選考理由だということである。まさに「日に照らされ」た感のあった夏であった。暦の上ではまもなく冬至である。寒さは、暑さとは違って衣類で調節しやすいとはいえ、夏が暑かった年の冬は寒さが厳しくなるそうである。日々の健康管理や体力作りを心がけ、体も心も健やかに過ごしたいものである。

第10回

音(ゴ)
訓(かたる・かたらう・ことば)

【解説】
形声
音符は吾。吾はサイ(神への祈りの文である祝詞(のりと)を入れる器の形)の上に、サイ形の木の蓋(ふた)を置き、祈りの効果を守るの意味で、語は祈りの「ことば」をいう。言はサイの上に刑罰として入れ墨をするときに使う辛(はり)を置く形で、裁判や盟約を結ぶときに、もし誓いを守らないときにはこの辛で入れ墨の刑罰を受けますと神に誓うことばをいう。このような誓いの仕方をするのは、自分の正しいことを神に対して強く主張する姿勢を示すためである。言語(ことば)と連ねて用いるが、言は攻撃的なことばであるのに対して、語はそのような攻撃から祈りを守ろうとする防禦(ぼうぎょ)的なことばといえる。「かたる」の意味にも用いる。

[『常用字解』 (平凡社 2003)]


インターネットや携帯電話などの発達により一昔前に比べ自分のことばを発信しやすい環境になり、ことばが氾濫する世の中になった。同時に、ことばに対する価値・信用が薄れてきたようにも感じられる。本来ことばとは神に祈りを捧げるものであり、誓いを立てるものであった。人はことばを使って神に祈り、他人・他国との交流をはかり、礼を尽くし友好を保ってきた。しかし時にはことばが人の命を奪い、果ては国家の存亡に関わる事件を引き起こすこともある。まさにことばは諸刃の剣である。ことばを発しようとするときにはこの「語」字の入れ墨の辛が置かれていることを思い、慎重にしたいものである。

第9回

音(カン)
訓(みる)

【解説】
会意
手と目とを組み合わせた形。目の上に手をかざしてものを「みる」の意味である。「みる」とよむ字に、見・省・看・相・視(視)・診・察・睹・監・覧(覽)・瞻・観(觀)などの字があり、それぞれの見方がある。看は手をかざして遠くを見る、また、しげしげと見るの意味である。よく見て見ぬけよというときは看取せよ、見つくすことを看殺す、看破すという。

[『常用字解』 (平凡社 2003)]


今回は「看」字を取り上げた。ここで注意したいのは「みる」という訓に当てはまる漢字の多さである。白川先生の【解説】では、「みる」という訓を持つ十二の漢字を挙げ、「それぞれの見方がある」と述べる。日常生活でこの「見方」の違いを意識することはまずないが、時間に余裕があるときにその違いを調べてみてはいかがだろう。漢字の原義を知り、細かいニュアンスの違いを知ることで、漢字世界の奥深さを体感できるかもしれない。

第8回

音(トウ・ズ・ツ)
訓(まめ・たかつき)

【解説】
象形
脚の高い食器の形。[説文]五上に「古、肉を食するの器なり」とあるが、儀礼のときに塩物や飲み物を入れる器であった。儀礼に使用した豆は木や瓦で作ったものであった。のち荅(あずき)と通じて、「まめ」の意味に用いる。

[『常用字解』 (平凡社 2003)]


「豆」は豆腐、みそ、しょうゆをはじめとして、我々の食生活に欠かせないものである。ところが、白川先生によると、この「豆」の字は元来「儀礼のときに塩物や飲み物を入れる器」であるという。このように「豆」の字をはじめとして、漢字の成り立ちには、古代の習慣、とりわけ祭事と関係が深く結びついているものが少なくないように思われる。それは中国の古代社会が祭事と深い関わりを持っていたことをよく示しているのではないだろうか。

第7回

訓(はた・はたけ)

【解説】
国字(日本で作った漢字)。火と田とを組み合わせた形で、焼畑の意味となる。水田に対して草を焼いて開墾した「はた、はたけ」をいう。水田は田という。また畠ともかく。畑として利用されている土地を畑地といい、その畑地に作物を作ること、また、その作物を畑作という。

[『常用字解』 (平凡社 2003)]


日本で使用されている漢字の全てが中国生まれというわけではない。今回紹介した「畑」だけではなく、「峠」や「働」なども日本で作られた国字である。このような国字が生まれた背景を考えてみると、日本人が長い時間をかけて漢字を外国語としてではなく、日本語として自らの文化の中に組み込み、その中で自分たちの文化に必要な文字を新たに生み出すに至ったのだと推察できる。普段、何気なく使う漢字の中に日本生まれの国字があるということの意味を考えると、日本における漢字の存在の大きさを実感することが出来るのではないだろうか。

第6回

音(セイ・ショウ)
訓(いきる・いかす・いける・うまれる・うむ・おう・はえる・はやす・き・なま)

【解説】
象形。草の生え出る形。草が発芽し、生長する(そだつ)ことから、人が「うまれる、そだつ、いきる、いのち」の意味となり、また人以外の動植物などについてもいう。「生まれたまま、なま」の意味にも用いる。金文にみえる「百生(ひゃくせい)」は百姓(多くの民)の意味で、生を早くから「たみ、ひと」の意味に用いている。国語では「はやす、いける、き」とよみ、ひげを生やす、花を生ける、生糸などという。

[『常用字解』 (平凡社 2003)]


「理不尽な介入によって生命の危険に晒されなくなった」現代の我々は、「生きる」事が当たり前になり、「生きていること」を改めて実感しなくなっている人も少なくないのではないか。腹が鳴れば空腹を満たす為に食物を食べ、咽が渇けばその渇きを潤そうと水へと手を伸ばす。しかし、何気ない一挙一動が、総ては「生きる」為への行為の積み重ねであることを忘れてはいけない。つまり、何気ない普段の行いが、その人の「生」へと影響を及ぼして、逆に己を労わらない不摂生な行為が、じわりじわりと「生」の状態を蝕んでいるのである。「草の生え出る形、成長すること」の象形が「生」であるという。草は「水」と「栄養」・そして何より「日の光」に当たらねば良く発育しない。日々忙殺される我々は、時にこの「日の光を浴びる」という行為を蔑ろにしがちである。「生」という字が「草」の生え出る形から生まれたという事を時折思い出し、己にとって少しでも良い「栄養」「水」を与え、そして「日の光を浴びる」という行いを怠ってはならぬのではないか。

第5回

音(コウ・ク)
訓(くち)

【解説】
象形。口の形。甲骨文字や金文には、人の口とみられる明確な使用例はなく、みな神への祈りの文である祝詞を入れる器の形の〔サイ〕である。古・右・可……告・害・史・兄……などに含まれる口はみな〔サイ〕と解することによって、初めてその字形の意味を理解することができる。もとより人の口の字もあって、およそ二千数百年前の古い書物である[詩経]や[書経]にもみえている。口と〔サイ〕との異同を確かめることはできない。

[『常用字解』 (平凡社 2003)]


「口」は、従来は『説文解字』で「人所以言食也(人の言食する所以なり)」と言っているように〔くち〕と解釈されているが、これではうまく説明できない文字も多く、白川字説ではさまざまな宗教儀式の際に用いる祝詞を入れる容器〔サイ〕と解釈する。こうすることで、これまで牽強付会的な解釈をされていた文字の多くが、無理なく解釈できるようになった。その例は、今後触れていくことになろう。この「〔サイ〕字説」は、白川字説の最も重要な学説のひとつである。しかしこの説は、内外から賛否両論多々あり、その当否についてはいまだ決着をみないが、それだけに文字学において極めて重要なテーマのひとつとなっている。白川先生は多くの業績を残されたが、このように未解決の問題も残っている。これは我々に残された宿題でもあり、本稿を読まれている読者諸氏の中からこの宿題を解く方が現れるかもしれない。

第4回

真(眞)

音(シン)
訓(ま・まこと)

【解説】
会意
もとの字は眞に作り、匕(か)と県(けん)とを組み合わせた形。匕は人を逆(さか)さまにした形で、死者の形。県は首を逆さまに懸けている形で、眞は?死者(てんししゃ)、不慮の災難にあった行き倒れの人をいう。このように思いがけない災難にあって命を落とした人の怨霊(おんりょう、うらみを持って死んだ人の霊)は強い力を持つ霊として恐れられた。……(中略)……真は死者で、それはもはや変化するものではないから、永遠のもの、真の存在の意味となり、「まこと」の意味となる。真が「まこと」の意味となるのは、人の生は一時(ひととき、わずかの間)、仮(かり)の世であるが、死後の世界は永遠であるという古代の人びとの考えによるものである。それは人の死体を後ろから支えている形の久が、ひさしい、永久の意味となったのと同じである。

[『常用字解』 (平凡社 2003)]


「真」という字には「真実」「真摯」など、良い印象がある。名前にもよく使われる字だ。しかしそれが起源は行き倒れの死者だと聞いて、ぎょっとする人も多いだろう。そしてその奥深さに驚かされる。なお、『字統』の説明によると、この「眞(真)」の字は經籍にはほとんど見えず、『老子』『荘子』の書にいたってはじめてみえるという。白川先生は「存在の根源、その根源に達したものの意に用いるのは、おそらく宗教者の立場においてえられたものであろう。」とし、「真は中国の古代思想が達しえた、最もすぐれた理念の一」と述べられ、後に道教の徒によって世俗的なものとなってしまったことを惜しまれている。

第3回

音(シ)
訓(こころざす・こころざし・しるす)

【解説】
形声
音符は士。字の上部の士はもと之の形である。之は行くの意味であるから、心がある方向をめざして行くことを志といい、「こころざす(こころがある方向に向かう。心に思い立つ)、こころざし」の意味となる。[詩経、大序]に「詩は志の之く所なり。心に在るを志と為し、言に発するを詩と為す」とあり、志は古くは心に在る、心にしるすの意味であった。志は誌(しるす)と通用する。

[『常用字解』 (平凡社 2003)]


白川先生の【解説】にあるように、志とは「心がある方向をめざして行くこと」を指した。古来より、志は人間にとって行動の源泉であり、艱難辛苦を乗り越える為の拠り所でもあった。昨今、世情は不安定で我々を取り巻く環境は必ずしも理想的とは言えないが、だからこそ自分の心のめざす方向を見極め、行動してゆくことが肝要なのではないか。「すでに志があるならば、ことは果敢に行なうべきである」とは白川先生の言葉である(コラム「白川静ことば抄」第一回を参照)。今一度この言葉を噛み締めて、自分の「志」とは何かを見定めたい。

第2回

音(キョウ・ケイ)
訓(みやこ)

【解説】
象形
出入口がアーチ形の城門の形。甲骨文字や金文の字形によって、その門の形を知ることができる。上に望楼(ものみやぐら)があって、この城門を京観という。大きな城門であり、都をその門で守ったので、京は「みやこ」の意味となり、大きいの意味となる。この城門には、戦場に棄てられた屍体(死体)を集めて塗りこみ、呪禁(まじない)とした。門には寺院の山門のように、外界に対する呪禁の意味があったのである。

[『常用字解』 (平凡社 2003)]


「京都」の言葉で我々になじみの深い「京」の文字を、甲骨文字や金文まで遡ってみると、なるほど門の上の物見やぐらのように見えて興味深い。このように甲骨文字や金文にまで遡り、視覚的に字義を考えれば、より深い文字の理解ができるのではないだろうか。また、一般的に「みやこ」といえば華やかな印象があるが、「戦場に棄てられた屍体(死体)を集めて塗りこみ、呪禁(まじない)とした」という一文を踏まえると、古代の「みやこ」というものは、現在の印象とは異なり、生々しい一面も持っていたということが垣間見れるようである。

第1回

音(ジョウ・ショウ)
訓(うえ・うわ・かみ・あげる・あがる・あがる・のぼる・のぼせる・のぼす・たてまつる・たっとぶ)

【解説】
指事
掌の上に指示の点をつけて、掌の上を示し、「うえ」の意味を示す。下は掌を伏せ、その下に指示の点をつけて、掌の下を示す。のち指示の点は縦の線となって?・?の形となり、さらにその傍らに点を加えて上・下の形となった。掌の上の意味から、すべてのものの「うえ、うえのほう」の意味となり、上に「あげる、のぼる」の意味となる。場所的に「かみ」、時間的に「はじめ、むかし」の意味となり、人間関係では「めうえ、たてまつる、たっとぶ、すぐれる」の意味となる。

[『常用字解』 (平凡社 2003)]


「上」という文字は、掌の上に指示の点をつけた形がそのまま文字となった指事文字である。文字の成り立ちも意味もとてもシンプルであり、その使われ方も現代と変わらない。ただ、訓読みを見ると、その内包するところの意味は単に方向としてだけではなく、場所、時間、人間関係にまで及んでいることが分かるだろう。根はシンプルであったものが、長い時間、多くの人々に使われるなかで複雑に枝葉を伸ばし成長していく。この「上」という漢字は、文字が生きているのだということを実感させてくれる文字のひとつなのではないだろうか。

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