白川静名誉所長について
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  1. TOp
  2. 研究所について
  3. 白川静名所教授について

名誉所長・白川静

名誉所長・白川静

白川静は日本と中国とが東アジア地域において文化的類型性をもつという広い視野に立ち、中国最古の文字資料である殷・周の甲骨文や金文に対して体系的な研究を行い、中国および日本の古代文化について独創的な研究を築き上げた。その学説は世に「白川文字学」と称され、内外の学界から高い評価を得た。数万片の甲骨資料をすべてトレースして書き写すという、余人にはなしがたい基礎作業を通して、漢字の原義を字形学的に体系化、甲骨文字や金文といった草創期の漢字の成り立ちにおける宗教的、呪術的背景を字形分析から明らかにした。

 その真意を解明した独自の学説は、1900年もの長い間、字源研究の聖典として権威をもった後漢の許慎『説文解字』の誤りを指摘した。六十余年におよぶ漢字研究の成果を、独力で大冊3部の辞書(『字統』『字訓』『字通』)に編纂し、漢字文化の豊かな世界を広く世人に理解せしめ、今後の文字表現のあるべき道を示唆した。

 白川の研究は、もともと日本の古代を考察することに端を発しているが、比較研究の必要性から中国の古代に広がり、漢字文化圏全体に亘る壮大な研究になっている。その結果、広く東アジアの漢字文化圏の文化に対して多大の研究成果を挙げた。1998(平成10)年11月、文化功労者として顕彰され、2004(平成16)年11月文化勲章が授与された。2006(平成18)年10月死去。

サイ 「サイ」の発見

 「口」を持った漢字の多くは、「くち」と解釈したのでは意味が通らず、神事に関すると考えて始めてその漢字の持つ意味が浮かび上がる。「口」の原形は「サイ」。白川は神に対して載書(祝詞)をあげるときの供えの器を象徴したものと解く。「サイ」はト辞(亀甲・獣骨を焼いたそのひび割れで占った内容や吉凶を、それに刻んで記した文)では「載(おこなう)」の意味に用いるので、白川はこれを「サイ」と名づけた。

 例えば「告」は、『説文解字』では「牛は人を突くので、角に横木を取り付けて、それで人につげ知らせたもの」と解釈する。しかし白川は、その象形「 」を見て、「」は榊の枝葉、「口」はサイで、器に榊の枝葉を掲げて神への報告やおつげを待つときのスタイルを表すと解く。漢字の起源は民間の暮らしではなく、神事と政治に関わりがあった。漢字の形成を通して古代人の思想が浮き彫りになる。

『説文解字』と白川説との対照例

漢字 『説文解字』 白川説
「夕」は暗い夜の意。
暗夜は相手の顔が見えないから、口で自分から名乗る。
「夕」は肉の省略形。
神に祭肉を供え、祝詞をあげて子どもの成長を告げる儀式を行い、
そのとき名をつける。
士人(立派な人)の言には、捨てるべきものがない。 「士」は鉞の頭部。
「サイ」の上に小さい鉞を置き、祝詞に害がないよう守る。

鳥が飛ぶ稽古をする。「白」は音を表す。 下部は「曰」。
「サイ」に繰り返し羽で擦りつけて、祈りの効力を刺激する。

白川静略年譜

年齢 出来事
白川静 立命館 社会
1910
(明治43)

福井市に生まれる。 1913
「財団法人立命館」設立
1910
韓国併合
1917
(大正6)
7 福井市立順化尋常小学校(現順化小学校)入学 1922
大学令による「立命館大学」設置
1917
ロシア革命
1923
(大正12)
13 順化尋常小学校卒業。
姉の住む大阪に出る。
1923
専門学校令準拠の立命館大学を「立命館大学専門学部」に改める
1923
関東大震災
1924
(大正13)
14 広瀬徳蔵の事務所に住み込み夜学に通う。
仕事の合間に広瀬の蔵書に親しみ、漢籍の基礎を独学する。


1927
(昭和2)
17 病気療養のため、一時帰郷。 1927
専門学部に文学科を設置
1927
金融恐慌
1930
(昭和5)
20 大阪府京阪商業学校(現大阪府立芦間高等学校)第二本科卒業。
教職と中国学を志す。

1931
満州事変
1933
(昭和8)
23 立命館大学専門学部文学科国漢学科入学。
小泉苳三(国文)、橋本循(漢文)に師事。
1933
京大事件で辞職の教授らを招聘
1933
国際連盟脱退
1934
(昭和9)
24 文部省中等教育国語科免許を受ける。

1935
(昭和10)
25 倉橋勇蔵の勧めにより、
専門学部三年に在学のまま立命館中学教諭となる。漢文・国語担当。


1936
(昭和11)
26 立命館大学専門学部文学科国漢学科卒業。 1940
西園寺公望死去
1936
二二六事件1939第二次世界大戦
1941
(昭和16)
31 立命館大学法文学部漢文学科入学。 1941
大学法経学部を法文学部に改組
1941
真珠湾攻撃
1943
(昭和18)
33 立命館大学法文学部漢文学科卒業。
立命館大学予科教授となる。


1944
(昭和19)
34 立命館大学専門学部教授となる。
学徒勤労動員の付添として
舞鶴第三海軍火薬廠と豊川海軍工廠に赴く。(~1945)
1944
中川小十郎総長死去
1944
独伊降伏
1945
(昭和20)
35
1945
末川博、大学長に就任
1945
日本降伏
1946
日本国憲法公布
当用漢字表告示
1948
(昭和23)
38 文学部助教授となる。
ト辞の本質」を『立命館文学』に発表。
1948
新制「立命館大学」設置
1951
「学校法人立命館」に改組
1951
サンフランシスコ講和条約
1954
(昭和29)
44 文学部教授となる。
このころから台湾・中国の研究者との交流が始まる。


1955
(昭和30)
45 甲骨金文論叢』刊行。
撲社の会始まる。


1960
(昭和35)
50 興の研究」(『稿本詩経研究別冊』)、
立命館大学文学部研究室より油印。

1960
日米安全保障条約
1962
(昭和37)
51 「興の研究」を京都大学に博士論文として提出、
文学博士の学位を受ける。


1964
(昭和39)
53 金文通釈」を発表し始める。(~1984)
1964
東京オリンピック
1969
(昭和44)
59 説文新義』(五典書院)刊行。 1969
大学紛争の中「わだつみ像」破壊される

1970
(昭和45)
60 漢字』(岩波新書)、『詩経』(中公新書)刊行
※初めての一般書

1970
大阪万博
1972
(昭和47)
62 孔子伝』(中公叢書)、『甲骨文の世界』(東洋文庫)刊行
1972
日中国交正常化
1973
ベトナム戦争終結
1976
(昭和51)
66 定年退職、文学部特別任用教授となる。 1977
末川博名誉総長死去

1978
(昭和53)
68 『漢字百話』(中公新書)刊行。

1979
(昭和54)
69 初期万葉論』(中央公論社)刊行。
『中国古代の文化』(講談社)刊行。


1980
(昭和55)
70 『中国古代の民俗』(講談社)刊行。

1981
(昭和56)
71 名誉教授の称号を受ける。 1981
立命館大学、衣笠へ完全移転
1981
常用漢字表告示
1982
(昭和57)
72 中國藝文研究會を組織

1984
(昭和59)
74 字統』(平凡社)刊行。
「毎日新聞出版文化特別賞」受賞。


1987
(昭和62)
77 字訓』(平凡社)刊行。

1991
(平成3)
81 「菊池寛賞」受賞。 1992
国際平和ミュージアム設立
1993
びわこ・くさつキャンパス開設
1991
ソ連解体
1993
EU発足
1995
(平成7)
85 後期万葉論』(中央公論社)刊行。
1995
阪神・淡路大震災
1996
(平成8)
86 字通』(平凡社)刊行。

1997
(平成9)
87 「朝日賞」受賞。

1998
(平成10)
88 文化功労者として顕彰される。

1999
(平成11)
89 「勲二等瑞宝章」受章。
「文字講話」を始める。(~2005)


2000
(平成12)
90 『回思九十年』(平凡社)刊行。
「井上靖記念賞」受賞。
2000
立命館アジア太平洋大学開学
2001
米国同時多発テロ
2002
(平成13)
92 『白川静著作集 別巻 第Ⅰ期』(平凡社)刊行。
※『説文新義』の復刊。


2003
(平成15)
93 常用字解』(平凡社)刊行。

2004
(平成16)
94 「文化勲章」受章。
『白川静著作集 別巻 第Ⅱ期』(平凡社)刊行。
※『金文通釈』『殷文札記』の復刊。
2005
白川静記念東洋文字文化研究所開設

2006
(平成18)
96 10月30日死去。 2006
第1 回立命館白川静賞表彰

白川静ことば抄

「白川静ことば抄」は、数多くの白川先生の著作の中から、学問的に重要なことばや特に印象的なことばなどを抜き出し、主に若い読者からの感想やコメントを加えたものです。大海のような白川先生の著作から抜き出した短いことばですが、いずれも小さな水滴のようにきらきらと輝いています。その内容に関心を持たれましたら、白川先生の著作という深く広い海に飛び込んで、さらにそのことばを味わって頂ければと思います。

第91回~第100回

第100回

「文字逍遙」

[『文字逍遙』(平凡社 1987)]

 これは、白川先生の著書『文字逍遙』の書題であるが、本書のあとがきに次の ようにある。「漢字の歴史は古く、漢字による文化的集積は、比類を絶するほど にゆたかである。……漢字には漢字文化というべきものがあり、文字の世界があ る。その文字の世界に逍遙するという意味で、この書を〔文字逍遙〕と題する」 と。 また、アイザック・ニュートンは自らを回顧して、「私が世界にどう映ってい るかわからないが、私自身は浜辺で遊んでいる子供のように思える。真理の大海 は私の前にまだ発見されずにいるのに、時々より丸い石や、より綺麗な貝殻を見 つけて楽しんでいるようなものに過ぎなかったのだ。」と言っている。 これらの言からも、楽しむことがいかに大事なことであるかがわかるだろう。 日本人は勤勉であると評されるが、時に深刻に考えすぎるきらいがあるのではな いか。対象は何でもよい。深刻にならずに、しかし真剣に、とことん楽しめばよ いのである。そうすればその先に、見えてくるもの、得られるものが必ずあると 思うのである。

第99回

「われわれの責任というものは、ただ現在に生きるというだけではない。現在に 生きることによって、将来の歴史の作用に耐える、歴史の美化に耐える、そうい う文化、そういう社会、そういう政治、そういう国でなければならないと、私は 思う。」

[『続文字講話』第四話「金文についてIII」(平凡社 2007)]

 孔子は西周を理想の時代として崇めた。しかし実際の西周が、孔子が夢みたよ うな理想的社会であったかは定かではない。「歴史というものは、あとから考え ると美しくみえるもの」である、と白川先生は述べておられる。ただし、「歴史 的に美しく変容されるというものは、本来そのような可能性をもっている」ので ある。理想的とまではいかなかったかもしれないが、西周は後世理想と仰がれる ようなものを残す社会であったのだ。白川先生は中国の古代王朝のことを研究し ながら、常に日本の、国家の在るべき姿、現在の人のあるべき姿を考えておられ た。先生は「歴史は常にのちの時代の鏡である」と述べられた。後世、“あの時 代から進む道が狂いはじめたのだ”と評価されないように、我々は、先人たちの 歩いた道に学びながら、後世に伝える道を考え今日を生きなければならない。

第98回

「だいたい古代王権の条件は、自分の文字をもたなければならないのです。エジ プトの古代王権はヒエログラフをもっていた。オリエントでは楔形文字をもって いた。中国では甲骨文字をもっていた。日本もだいたい同じ条件ですから、文字 をもつべきだった。ところが、わが国では文字が生まれる前に、漢字が来てしも うたのであります。仕方がないから使うことにしたのであって、決してこちらか らいただいたと卑下することはないのです。」

[『続文字講話』第一話「甲骨文について」(平凡社 2007)]

 白川先生は、この後で次のように述べられる。日本人が使っている漢字は中国 歴代の音のみならず、訓も備わっている。中国人は漢字を読み下すことがないの で、わが国では漢字を「国字」と読んでもよい。そして、日本人は漢字を使いこ なし、国語の表現力を豊かにしてきたのだ、と。 明治期に翻訳語として作られた「経済」「哲学」「芸術」などの言葉は、その 後中国に伝わり、現代中国語として完全に定着している。この事実は「漢字を使 いこなし、国語の表現力を豊かにしてきた」わが先賢の造語能力の高さを物語る だろう。我々も、漢字による優れた造語を行いたいものである。

第97回

「校讐の学が重要視されるに至ったのは清に入ってからであって、清代の考証学 はまず書の源流を考え本文を正すということから出発したものであるから、校讐 は最も厳密なることが要求された。」

[『白川静著作集』巻12、文献学(平凡社 2000)]

 漢文を読むにあたって、原本に近いテキストを底本とし、他本と「校讐」(校 勘)しながら本文を定めていくという作業は、家に喩えるならば土台作りである。 だが驚くべきことに中国における本格的な本文の校勘は、「校讐の学が重要視さ れるに至ったのは清に入ってから」という白川先生のご指摘にあるように、予想 以上に遅い。 「校讐」は地味な作業であり、かつその書の源流をたどっていくことも容易で はない。だが、先にも示したように「校讐」は土台である。土台をおろそかにす れば、その上に作られるものは必ずや脆弱なものとなる。ましてや漢字の性質を 考えるならば、たった一字の異同が、文意に大きく影響するはずである。このこ とから、我々は漢字の性質を再確認したうえで、「校讐」の持つ重要性を今一度 考え直していかなければならないのではないだろうか。

第96回

「我が眼守る計器の針の揺れ乱れやがてま白き画面となりぬ (中略) 意識絶えて今はの言は聞かざりしまた逢はむ日に懇ろに言へ 臨終のときに傍にいて、思わず口ずさむように出た数首につづけて、しばらく歌 日記のようなつもりで記しておいたものがこれである。見られるように、歌とい うべきものではないが、文章として書くと長くなるので、この形式で書きとめて おくことにした。それぞれ一篇の文章として書くべきことの、いわば見出しのよ うなものである。それからのちも、何かと多忙であった。追憶は私の記憶の中に とどめておく外はないが、せめてこの見出しの文句のようなもので、その霊を送 りたいと思う。」

[『桂東雑記III』 卯月抄(平凡社 2005)]

 卯月抄には先生の歌が七十首収めれられており、夫人と連れ添った七十年の思 い出が綴られている。臨終の際のこと、戦時中のこと、家での何気ない生活の模 様など、綴られる思い出は様々であるが、そのどれもが先生にとって大事な記憶 であることは、歌の端々から感じ取ることができる。学問の世界において先生は 「孤詣独往」であったが、普段の生活においてそうではないことが、この卯月抄 を見ると分かるだろう。先生を語る人の中には「孤高の存在」を強烈に印象付け る人もいるが、それは「白川静」の一側面であり、決して先生の全てを表すもの ではないことを忘れてはならない。

第95回

「一つの語が一つの文字で表記されるのであるから、文字はことばの数だけ必要 なわけである。社会生活が複雑となり、概念の分化が進み、表現の方法も詳しく なるにつれて、文字の数もこれに対応して増加するのは自然の趨勢であった。」

[『白川静著作集』巻12 中国学研究法(平凡社 2000)]

 最近は、日本語とか漢字がはやっているようで、テレビ番組でもこれらをとり あげたものをよく見かける。これは、人々の関心の高さを表すものであり、また 関心を喚起するという点では、よいことだろう。しかしとりあげられる言葉の中 には、いわゆる若者言葉のような奇妙なものも多い。日々進歩の著しい自然科学 や科学技術など、分野によっては新しい言葉が多く生まれている場合もあるだろ うが、若者言葉や流行語といったものは、必ずしも社会の複雑化や概念の分化に よって現れたものばかりでもないだろう。これを、言葉の乱れととらえるか、言 葉の変化ととらえるか、分かれるところであると思うが、日本語は、造語力に優 れる、外来語の受容が容易であるなどの特徴があり、柔軟に対応していくことも 大事なことではないかと思うのである。

第94回

「およそ唯一神を信ずる信仰というものには、必ず排他性をともなう。これは、 世界の平和の為には良くない。ただしかし、あらゆる神秘なものを神として信仰 するというだんになれば、これは世界が一致できるはずですね。」

[『文字講話I』第五話「自然と神話」(平凡社 2002)]

 日本には実に多くの寺社仏閣が存在する。特に神社は大小の違いはあれ少し歩 けば見つけることができるだろう。白川先生はそれを日本において自然がそのま ま一種の神聖性をもって残っている証拠だと述べられている。戦時中それは精神 的な支柱として軍国主義に利用されてしまったために信仰としての神道に対する 信頼は失われてしまったが、それでも神社への参拝者は途絶えることなく、道す がらでも習慣のように手を合わせる人も少なくない。知らず知らずに私たちは昔 からの自然、すなわち人知を超えたものへの信仰を受け継いでいるのである。白 川先生はこの講義の最後に「日本人にとって信仰とは何かという問題を、考える 必要があるのではないか。」と結ばれた。神話は中国では思想に変わり、ヨーロ ッパではキリスト教の出現により駆逐されて正しからざるものとされてしまった。 私たちは日本に残るこの自然への信仰をあらためて考え、大事にしていかなけれ ばならない。

第93回

「訓みを定めることは一つの創作ともいうべき事業であった。〔詩経〕の場合に は、まだそういう作業が完成していないのである。古典をよむことは、ある意味 ではつねに一つの創作であるが、〔詩経〕の場合には特にそのことがいえるよう に思う。」

[『白川静著作集』卷9 詩経 「詩篇の伝承と詩経学」(平凡社 2000)]

 柿本人麻呂の有名な作品「東 野炎 立所見而 反見為者 月西渡」は、現在 「東の野に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ」とよまれる。しかし、その 「訓み」は契沖・賀茂真淵らの辛苦を経て初めて実現できたのである。同様に 「訓み」の定まらぬ作品が『詩経』には多く存在しており、白川先生は精力を傾 けて訓詁の解決を試みた。その成果は、『詩経国風』『詩経雅頌1』『詩経雅頌 2』(いずれも平凡社東洋文庫)として結実している。 従来の訓詁や解釈に疑問を覚えれば、白川先生に習って刻苦勉励を厭わず考究 すべきだろう。古典の読解はすぐれて創造的な知の営みであり、古人の心に直接 触れることのできる精神活動でもある。そのことを肝に銘じ、我々は古典文学研 究を進めてゆくべきだろう。

第92回

「私は早くから辞書に興味をもち、友人と議論するときにも、辞書説の是非にま で及ぶというようなこともあった。」

[『白川静著作集』巻12、字通に寄せる(平凡社 2000)]

 文献を読み進めるにあたって辞書は必要不可欠なものである。周知のことなが ら、辞書というものは完全なものではない。辞書の説を信用しすぎたために、か えって間違った解釈を生むということもある。 上にもあるように、白川先生は若いときから「辞書説の是非」まで考えられて いたという。このような姿勢があってこそ、先生は後に字書三部作を生み出すこ とができたのだろう。この一文を読むと、あくまで辞書は参考であり、最終的に は自分自身で判断しなければならないと戒められる思いがするのである。

第91回

「質問:菊は音読みですが、訓読みはないのでしょうか。菊は外来の花だと聞き ましたが、日本にはもともとない花なのでしょうか。 回答:菊という字は音読みだけで、訓読みはありません。それは菊は中国から渡 来したもので、古い時代にはわが国にはなかったものだからです。外来のものに は、その原名がそのまま国語化されていることが多いのです。・・・」

[『桂東雑記I』「文字答問」(平凡社 2003)]

 「文字答問」というのは、文字講話中の質疑や手紙などで寄せられた質問など に先生が回答したものである。この「文字答問」の項は桂東雑記IからVまでの全 てに設けられており、その全ての質問に対して先生は丁寧な解を寄せておられる。 質問は多岐にわたっており、先生の知見を信頼されている方も多いということが 分かる。 子供は「なぜ・・・」という質問をすることが多いが、多くの大人はその質問 に対し真摯に向き合うことができず、お茶を濁す形で回答する。その不信のため か、大人になるにつれてそのような質問を周囲の者にすることは無くなっていく。 だが、そういった知的探究心が年をとる事で無くなる訳ではなく、「何故」とい う疑問は常に持っているのだろう。故に、先生のような、問題に対して真摯に向 き合い解を出してくれる大人に対して、読者の方々は子供の頃の気持ちそのまま に、安心して質問を投げかけているのではないだろうか。

第81回~第90回

第90回

「詩経]の詩篇からは、叙景詩は生まれなかった。自然を観照の対象として歌う ものは、六朝期の謝霊運まで下らなければならない。西洋ではほとんど近代には いってからのことである。ひとりわが国では、古代歌謡の時代にすぐつづいて、 むしろそれと重なり合いながら、叙景歌が生まれてくる。このふしぎな事実は、 比較文学としてもきわめて注目すべき課題であるといわなければならない。」

[『白川静著作集』巻11、古代歌謡の世界(平凡社 2000)]

 先生によると、日本人はきわめて古くから「自然を観照の対象として」とらえ ており、これは他の文明と比べても随分早いものであるという。世界を見れば、 頻繁に氾濫する大河、乾燥した砂漠地帯、高温多湿の森林、氷に閉ざされた酷寒 の地、移動も困難な高地等、厳しい自然環境の中で暮らす人々も多い中、わが国 は比較的穏やかな自然環境に恵まれた。日本人は、自然をただ畏れ、戦い、押さ え込むのではなく、自然の中で共に生き、親しみ、愛しむことができた。「ふし ぎな事実」を生み出した理由のひとつに、このことが挙げられるだろう。我々は、 そのような自然に囲まれていることを自覚しなければならないし、そのような自 然に囲まれていることを自覚したとき、世界は違って見えるのではないだろうか。

第89回

「今すべて文化や生活の面でも、グローバルという言葉で、地域の独自性を尊ば ないというやり方をしているけれども、これはアメリカ的な考え方でしょう。ほ んとうはグローバルなものはそれぞれの地域性が確立された上で、お互いの理解 の上に一種の通時性、時代的な共通の理解というものが生まれて、初めてグロー バルである。」

[『回思九十年』「古代と現代の架橋」(平凡社 2000)]

 交通・輸送手段の発達によりここ数十年で世界の国々の距離は縮まり、経済的 な必要性から世界標準――グローバル・スタンダードというものが言われるよう になった。しかしいわゆるグローバルとは、結局強者による弱者への押しつけに 他ならない。世界が近くなることは歓迎すべきことであるが、グローバルという 名の下に少数派を否定するのではなく、その独自性を尊重した上で共通の規準を 作るべきである。近年東アジア共同体の構想がもちあがっているが、白川先生の 言われた真の意味での「グローバル」がそこで実現されることを期待する。

第88回

「日本人は昔からよほど学問が好きであったと見えまして、書物を大事にします わね。」

[『回思九十年』「日本人と漢字世界」(平凡社 2000)]

 引用文に続いて、白川先生は以下のように説明される。平安期に中国から伝わ った書物は『日本国見在書目録』に記録される。該書に記される一割ほどの漢籍 は中国では失われた。後世来日した楊守敬が中国で既に散逸した多くの書が日本 に現存することを知り、中国に持ち帰って『古逸叢書』『続古逸叢書』として出 版した、と。この一事で、日本人が漢籍をどれほど大事に扱ってきたかが分かる だろう。 現在インターネット上で貴重書の文字データが大量に公表されるが、それは先 人が書物を保存してくれたお陰である。かように便利になった今だからこそ、先 人への感謝を忘れてはいけない。

第87回

「最初に『字統』という字源辞書を作った。あれはカルチャーショックを与える 衝撃的な本なんです。読んだ人はたぶんびっくりしたでしょうな。今までの字書 ではおおよそ思いつかんような書です。」

[『桂東雑記Ⅲ』「漢字教育について」(平凡社 2005)]

 白川先生の字書三部作の冒頭を飾るのが『字統』である。 従来「字源辞書」といえば、後漢の許慎による『説文解字』が長らく権威とさ れてきた。この『説文解字』のように、一度権威的な書として認知されると、そ こには疑問を挟む余地がなくなりがちである。だが、白川先生は許慎の字書に不 足する甲骨文字の研究成果を取り入れ、通説に果敢に疑問を投げかけ、新たな解 釈を生み出し、『字統』などの字書として世に問われた。こうした姿勢は『説文 解字』だけにとどまらず、経書である『詩経』に対してもまた同様であった。 権威として認められてきた書物や通説をそのまま受け入れるのではなく、それ らを果敢に批判し、新たな解釈を生み出していくという白川先生のような学問に 対する姿勢があってこそ、学問は進歩していくものなのではないだろうか。われ われも白川先生のご姿勢を忘れずにいきたいものである。

第86回

「論語に『芸に遊ぶ』という語があり、孔子はそれを人生の至境とした。この芸 は六芸、中国の古代の学芸のことである。学芸の世界も、また遊びの場であった。 私も久しい間、その世界に遊んだ。その世界に遊ぶことが、私の夢であった。し かし一生の間、世俗の遊びをしなかったわけではない。」

[『回思九十年』私の履歴書 遊び(平凡社 2000)]

 その学識の高さと残された研究の大きさを見れば分かるように、先生が学問の 世界に生きてこられたことは間違いない。しかし、先生を単なる研究一筋の堅物 として見てはいけない。先生は趣味として、囲碁や将棋をされ、能を見、謡曲を 聞かれていたというし、晩年にいたってはゲーム機で囲碁などを楽しまれていた という。また、本人は話すことが苦手だと言っておられるが、対談や講演録を見 れば分かるように、人と話すことを大いに楽しんでおられる。 先生は研究者である以上、研究のみによって評価され、語られることが当然な のかもしれないが、先生の著作を読むとき、こういった姿も頭の片隅に入れてお くと、先生の残された研究をより一層楽しむことが出来るのではないだろうか。

第85回

「従来の漢字の字源説には、疑わしいところが多い。字形学的な字書として唯一 のものであり、その聖典とされる後漢の許慎の〔説文解字〕にも、実に誤りが多 いのである。……このような字説の誤りは、字の初形についての知識の不足を、 思弁や推測で補おうとすることから生れたもので、基本的には、古い文字資料の 不足に帰すべきことであった。許慎の時代には、……文字の最古の資料である甲 骨文は、まだ地下深く埋もれたままであった。」

[『字統』字統の編集について(平凡社 1994)]

 以前このコラムで筆者は、子供の頃「『山』は『やま』の形」「『川』は『か わ』の形」などと教わったことから漢字に興味を覚えた旨のことを書いたが、そ の際「『ほし』は『日(太陽)』から『生』まれるから『星』」とも聞いた記憶 がある。「星」は『説文解字』には「萬物之精、上為列星(萬物の精、上りて列 星と為る)」とあり、『字統』には「玉光の星々たるをいう」とあって、許慎と 白川先生では説を異にしている。ここで両説の正誤を論じることはできないが、 筆者が聞いた「『ほし』は『日』から『生』まれるから『星』」という説はどう やら誤りのようである。しかし漢字や漢字の成り立ちに関心を持つきっかけにな ったのである。そう考えると、正しいことが良く、誤りが悪いとは、必ずしも言 えないのではないか。きっかけが間違ったことであっても、関心を持って調べる ことで、それが間違いであったことに気づいたり、正しいことや新しいことが分 かったりすることができる。きっかけは何でもよい、関心を持つことが大切だと 思うのである。

第84回

「町衆も参加して、京都では大きな祭りがいくつも行われる。ああいう祭りが長 い間継承され、しかも町衆が非常な力をもち、殆ど無報酬でこの祭典のためにさ さげる、奉仕をするというような形態の祭りは、きわめてすぐれた文化のあり方 であるというふうに、私は思うのであります。それで単なる競技形式でなしに、 やはり神とともにうち興じて、勝敗も何もなしに楽しみ合うというものが、本当 の祭りであると思う。」

[『文字講話Ⅱ』第七話「祭祀について」(平凡社 2003)]

 京都に限らず、全国各地で年中を通して様々な祭りが行われている。それが 我々の日常の中にあり、ニュースでどの祭りが何処其処で行われたと報じられる と「ああ、そういう季節になったな」と感じる、いわば風物詩となっている。た だ祭りの楽しさに興じるだけでも、我々はその文化の継承の一端を担っているの だ。小学生の時に社会科などで近所の寺社や祭りの由来を調査した経験を持つ人 も多いと思う。中には新しいものもあろうが、その起源を遡ってみるとだいたい 古いものが多い。起源や意味がわかると祭りの違う面も見えてくる。これから多 くなる春の祭りに向けて、そういったことを調べてみるのも面白いのではないだ ろうか。

第83回

「地名はわが国に残されている重要な歴史的財産である。古い地名・氏族名・神 社・寺の名前などは、歴史の名前を蘇らせてくれる貴重な遺産です。」

[『文字講話Ⅰ』第三話「身分と職掌」(平凡社 2002)]

 簡便さを第一に「〇〇番地」のように地名を改めるべきだ、と主張する人たち がいる。無論、番号化によるメリットは十分承知しているが、これまで使用され ていた地名を全く廃止するというならば断固反対する。何故なら、普段我々が何 気なく目にする地名は、数多くの事柄を雄弁に語ってくれる「歴史の証人」だか らだ。皆さんも一度ご自身がお住まいの地名の由来を調べてみてはどうだろう。 意外な発見があるかもしれない。

第82回

「唐宋において文学の主流を占めていた詩文は、もはやその様式のうちで自己を 発展させることができなかった。それは詩文が読書人・官僚の文学であり、その 階層に新しい発展がなかったことを意味する。」

[『中国文学史第三編・近世文学第二部・明清文学』第一章・第二節 文学の傾向 (立命館大学中国文学研究室 油印、昭和三十年代)]

 白川先生は、『中国の古代文学』(『白川静著作集』巻8所収)において、古 代から六朝までの文学史を論じられているが、元来は中国文学史の講義用に執筆 されたテキストであった。これらは、古代・中世・近世の三編で構成されている が、刊行されたのは『中国の古代文学』のみで、残りの二つは未刊であり、刊行 が望まれる。 明清時代の詩文には新たな「発展」がなかった。その理由を、白川先生は文学 の担い手である「読書人・官僚」の精神に着目されて考察されている。すなわち、 唐宋の士人は、従来の門閥貴族に変わる「新しい社会的役割」と「新しい意識形 態」(同章参照)を持っており、これらが「詩文の文学の背景を成していた」が、 明清時代は政治の安定と腐敗のため、これらに乏しく、発展が見られなかったと いうことである。 中国の文学の主な担い手は、社会と強い関わりを持った士人層である。このよ うな特徴を持つ中国の文学史を論じるにあたっては、社会史の側面に着目する必 要は言うまでもない。だが、白川先生の考察のように、さらに進んで文学の担い 手の精神の違いにも着目することで、文学史の理解は更に深まるのではないだろ うか。

第81回

「白川でございます。大変お待たせ致しまして恐縮に存じますが、今回は文字文 化研究所の第四十八回の講演に当たります。……気がついてみますと、私ももう いい加減な歳になっておりますので、この際機会をいただいて文字のお話をした い、できればシリーズにして少しまとまったことをお話したいということを、皆 さんにお図り致しまして、このようなシリーズを開くということになった次第で あります。何回か予定を致しておりますので、第一回は「文字以前」という題に 致しました。」

[『文字講話』第一話「文字以前」(平凡社 2002)]

 平成十一年三月十四日、この言葉から先生の文字講話は始まった。講演はおよ そ年四回のペースで計二十四回行われ、多くの人々の関心を集める中、惜しまれ つつ幕を閉じることとなったのである。 この多くの聴衆を集めた背景には、文字に対する一般の方々の関心の高さがあ ったことは間違いない。しかし、長い研究生活の中で歩んできた広大な文字の世 界を分かりやすく伝える、先生の教育者としての魅力が聴衆をひきつけたことも 忘れてはならないだろう。先生は、その研究姿勢から孤高の研究者としての側面 が強いように感じられるが、晩年はその膨大な研究成果を世に伝える教育者とし ての活動が多い。先生のことを語るとき、研究のことにばかり比重を置くと、誤 った人物像を描き出してしまうことになるだろう。

第71回~第80回

第80回

「エジプトの文字でありますと、たとえば人の形にしても、だいたい輪郭的に書 くのです。・・・・・・ところが漢字では、人を書くにも、たった二画で、これ でもう人を表す。・・・・・・まあ抽象というか、デッサンみたいに極度に簡略 化して、ちょっとした一点一画の違いで、表すものが異なる。」

[『回思九十年』「漢字 古代と現代の架橋」(平凡社 2000)]

 文字の起源とはおおむねこういうものであろう。アルファベットであっても、 元は絵文字であり、表意文字であったというから、漢字以上に簡略化されたのか もしれない。ところが、多くの文字が表音文字化していったのに対して、漢字は 表音文字化することがなかった。現在は世界的に太陽暦であるグレゴリオ暦が用 いられており、公式には中国もこれに従っているが、過去、中国では陰陽暦を用 いていた。中国ほど陰陽暦が発達した国はほかに見られない。表意文字・表音文 字とか、陰陽暦・太陽暦というのは、文明や科学の発展度合いとは必ずしも直結 しているわけではなく、優劣の比較でもない。古いものを高度に改良してきた文 明、新しいものを取り入れてきた文明。そういう視点で世界をとらえるのも面白 いのではないかと思うのである。 ところで、漢字は「一点一画の違いで、表すものが異なる」ために難解である という声もあるが、漢字のこの特徴は、かえって興味深いと思うのであるが、い かがだろうか。

第79回

「一国の命運が問われるとき、必ずその回帰するところの原点というものがある。 これは非常に大事なことです。国の歴史を綴っていく場合、いろんなことがあろ うかと思うのですが、そういうときに必ず帰るべき原点をもつということ、たと えば明治ならば、維新というのが一つの時代の理念になっている。「維新の精 神」によって、明治の時代にはあのように充実した、立派な時代を、その歴史を 築くことができた。国家の運命を左右するものは、私はそのような建国の理念、 あるいは時代精神の帰属すべき原点というようなものを、もつかもたぬかという ことにあると思う。戦後六十年のこの悲しむべき現実は、そのような意味での原 点をもたぬがゆえではないかと思うのです。」

[『続文字講話』「第四話 金文について蝖」(平凡社 2007)]

 これは周代の国運や社会に関する銘文に必ず使われている「文武受命」という 語に関して説明されたときの言葉である。神聖国家ではない周は、それまで神の 子孫を名乗っていた殷王朝を倒し王朝を建てるとき、中心となる理念を必要とし た。そこで天の有する大命を文王が受け、武王が文王を嗣いでその徳を認められ 国を作ったという「文武受命」を肇国の理念とし、その言葉が周の滅亡まで使わ れた。周王朝は、後に孔子がそれを理想として長きにわたる“伝統”として大成 させる礼教文化をつくりあげた。 白川先生は文字を通じて古代社会に思いを馳せながら、いつも今の社会を見つ め、疑問を投げかけておられた。今の日本に果たしてそのような理念や原点があ るかと問われれば、答えられる人はいるだろうか。世界が身近なものになってグ ローバル化が叫ばれる昨今、我々の“帰属すべき原点”とは何なのか、考えてみ る必要があろう。

第78回

「殷の王朝が、大量の奴隷を所有し、その生殺与奪の権をもち、その搾取と虐使 の上に繁栄を築いたとみるべき証跡は、ほとんどない。」

[『白川静著作集』巻4、甲骨文の世界(平凡社 2000)]

 「白川文字学」は単なる文字の考察に留まらず、その文字が使われた時代の社 会構造と人々の思惟形式をも解明したところに魅力がある。例えば、従来の説で は甲骨文字が使われた殷王朝には奴隷制があると信じて疑われなかった。しかし、 白川先生は多くの文字資料の分析によってその通説が誤りだと論じられたのであ る。 このように、幅広い成果を伴った研究活動が先生の学問の特徴だが、それは研 究者としての心構えに起因するのではないか。「何事も根こそぎ研究することが 肝要だ。」先生は常々そう仰って研究を続けられたそうである。我々の研究がど れほどのスケールを持ち得るかは分からないが、少なくとも「根こそぎ研究す る」気構えだけは忘れずに持ち続けたいものである。

第77回

「三曹の周辺に、七子とよばれる文学の徒があった。かれらは曹操の幕下であるが、ときには賓客であり、謀臣であり、書檄の作者であり、また清友であった。臣従という関係以外に、文を以て交わるという一面がある。そのような人間関係は、従来の君臣の秩序のうちにはなかったものである。」

[『白川静著作集』巻8 中国の古代文学(2) 七子の徒(平凡社 2000)]

 曹操、曹丕、曹植の「三曹」のもとには、「建安の七子」とよばれる臣下が仕えていた。「建安の七子」とは、王粲、陳琳、阮禹、徐幹、劉楨、孔融、応瑒の七人を指す。彼らは「文学の徒」と言われるだけに、徐幹を除き、その作品はみな『文選』に収められている。 最近、中国で曹操の墓が発見されたようであるが、曹操というと、『三国志』での仇役の姿から、武人というイメージを抱く方も多いのではないだろうか。だが、ここに示されるように、「文を以て交わる」君臣関係を初めて構築した君主であり、武人のイメージを持つ方には意外な、文人曹操という一面があったのである。ひょっとすると、その墓内からあるいは曹操の愛読書が発見されるかもしれない 。

第76回

「わが国の国字政策では、字形上の問題のあるものは、すべて『康煕字典』に依 拠することを原則としていますが、『康煕字典』には、時にこのような偏見の例 もあり、清代考証学の興る以前の編述であるので、十分な文字学的な用意のもと に編集されたものではありません。」

[『桂東雑記Ⅳ』「文字答問 丸の正字」(平凡社 2006)]

 これは、「丸」という字形が『康煕字典』では俗字、『字通』では正字になっ ていることに関する一般読者からの疑問に対する、白川先生のお答えの一節であ る。このお答えの中で先生は、『康煕字典』の解釈にかなり乱暴な手法がとられ ていることを挙げ、批判されているが、一般の人がそこに気付くことはまず無い。 一般の人にとって「字典」は「字典」であり、それぞれの編纂に関する問題点を 意識することは無いだろう。しかし、専門家の目から見れば、その問題は大きな ものであり、看過することが出来ないものである。では、漢字の専門家でないも のはどうすればよいのか。もちろん、漢字一字が生活に大きな問題となることは 無いので無視するということも出来る。しかし、自分が普段使う文字を正確に把 握しておきたいというのであれば、当たり前のことではあるが、信頼の置ける字 典を探すほか無い。ただ、その選別の際には、字典という書物の向こう側にいる、 編纂した人物に思いを馳せてみる必要があるかもしれない。

第75回

「自分の姓や名前、住んでいる地名とか、近所の人の姓とか、「なんでこの形な のかな」とか「なんで、こんな字が使われているのかな」と考えるようになりま す。この「なぜか」を導き出すことが、漢字指導の上ではいちばん大事です。」

[『桂東雑記』Ⅱ「理想の漢字教育」(平凡社 2004)]

 この言は「理想の漢字教育」と題された白川先生の対談の中での言であるが、 これは、ひとり「漢字教育」についてのみ言えることではない。情報化社会と言 われるようになって久しいが、インターネットに代表される通信技術の発達と普 及によって、情報化どころか膨大かつ玉石混交の情報の氾濫している現代、真に 有益な情報を見極めることさえ困難になっている。このような中では、真に問題 を解決するために、常に「なぜか」「これで良いか」と考えておく必要があるだ ろう。先生はこの言の後「子どもたちの『なぜか』という疑問に答えられる正し い知識が、先生がたをはじめ、周囲の大人たちにないと、せっかくの『なぜか』 が生かされません」と言われている。教壇に立つ者は、心に刻んでおかなければ ならない言葉であろう。そうでなくても我々は、情報に限らず、日々の生活の中 で目にし、耳にすることがらについても、常に関心を持ち、問題意識を持つこと が大切であると思うのである。

第74回

「私は必ずしも日本文化の将来を悲観しておりません。今のように教育が荒廃し、 社会が乱れた時代であっても、能楽堂では六百年も昔に生まれた能が演じられ、 ほとんど満席になっておる。しかも、観客がそれを理解した上で批評もできる。 それだけの底の厚い文化を持った国なのです。また、和歌や俳句を作る人が、日本中に何百人といて、多くの結社が毎月のように百頁近い雑誌を出している。こ んな文学的な民族は、どこにもありません。」

[『桂東雑記』Ⅲ「文字を奪われた日本人」(平凡社 2005)]

 白川先生はこうも仰っている、「日本人は自分たちが生み出してきた文化、言 葉にもっと誇りを持つべきである」と。日本人は中国から伝わってきた漢字を自 分たちのものにして自分たちの文化を築き上げてきた。伝統芸能や文学はともす れば経済活動や生活とは無縁の余暇的なものと思われがちだ。しかし、昔の人は 苦境にあってこそ人間を見つめ思索を深め、それを言葉にして表現し優れた文学 作品を生んできたのである。現代に生きる私たちも思索を深め自らを表現するた めに、豊かな日本語・日本文化の知識を自分の中に土台として作っておくことが 必要である。例えば、いつも機械的に書き、また見ている年賀状の賀詞の意味や 由来などをじっくり考えてみたことがあるだろうか。休みの間に、辞書を引きな がら少しそんなことを考えてみるのもいいと思う。

第73回

「歴史的な集積の中で、自己というものができ、自己というものがあってはじめ て創作もできるわけです。しっかりした自己の根拠をつくるには、自分の国につ いての、文化についての十分な知識をもたなければならぬ。古典をしっかり読む ことによって、自分を養うことができるんです。」

[『桂東雑記Ⅲ』 漢字教育について(平凡社 2005)]

 白川先生は著述・対談・講演の中で「漢字は我が国の国字であり、漢字で記さ れた古典は我が国の文化の土台である」と度々説かれた。同時に、漢字文化が荒 廃してゆく現状も強く憂慮されていた。高度情報化の進んだ今の社会において、 時代の最先端を行く技術を習得することは不可欠である。しかし、流行をひたす ら追いかけて自国文化の根幹たる古典を疎かにしてしまえば、愚の骨頂だと断罪 されて当然だろう。時代がどんなに移り変わろうと、我々は「自己の根拠をつく る」べく、漢字文化を継承すると共に発展させなければならないのである。

第72回

「古詩十九首]は、魏晋以来の詩人たちが、珠玉のように愛惜してやまないものである。」

[『白川静著作集』巻8、中国の古代文学(2) 古詩十九首(平凡社 2000)]

 『文選』所収の古詩十九首は古来名作とされてきた。明の陳祚明は『采菽堂古 詩選』において、その理由を以下のように言及する。「古詩十九首が千年以上に もわたって名作であるのは、誰もが抱く感情を巧みに言い表しているからである (十九首所以千古至文者、以能言人同有之情也)」、と。ここでは古詩十九首か ら幾つかを取り上げて、陳祚明の主張を実感してみよう。「世を去った人とは関 係が薄らいでいくけれど、生きている人とは日に日に親しくなるものだ(去者日 以疎、来者日以親)」(其十四)、「人生は百年に満たないというのに、人は千 年先ものことを心配してしまうものだ(生年不満百、常懐千載憂)」(其十五)。 この二例だけをみても、誰もが同じ感情を抱くのではなかろうか。そのほかにも 古詩十九首には、このような「同有之情」が沢山ちりばめられており、まさに 「珠玉」というにふさわしいのではないだろうか。

第71回

「私は若年のとき甚だ虚弱であって、兵隊検査のときには丙種合格であった。丙 種でも合格というのは「蜻蛉蝶々も鳥のうち」という扱いかたである。それでど こまでやれるかということが、常に私の課題であった。その「どこまで」が、つ いに今日に連なっている。」

[『桂東雑記Ⅳ』 生物(平凡社 2006年)]

  先生は若いころ虚弱であったというが、文字講話などの講演で齢九十を超えて もなお衰えぬ声量をもって、聴衆に向かい活き活きと文字の話をする姿を拝見さ れた方には、「虚弱」などという言葉を想像することはできないだろう。しかし ながら、先生は虚弱であったという。では何故、その虚弱であった人が晩年に至 るまで研究に打ち込むことができたのか。先生がされてきた膨大な研究結果を見 ると、「どこまでやれるか」という想いからではなく、文字という大きすぎる テーマに出会い、その研究に情熱を傾け続けるうち、虚弱などという些細なこと を忘れてしまったからではないかと思えてならない。

第61回~第70回

第70回

「私が最初に手にした辞書は、[言海]であった。……私にとって特に興味深かっ たのは、その語源説であった。どの語にも、必ずといってよいほど執拗に、語源 の探求が試みられており、それを読むのが何よりの楽しみであった。……当時、 その語源説の当否について考える力もない私であったが、語には語源があるべき であるという意識が、この書によって与えられたのであろう。語源の探索は、私 にとって、甚だ興味のある課題となった。」

[『字書を作る』、字通に寄せる(平凡社 2002年)]

 今でこそ文字学・漢字学の大家として知られる白川先生であるが、『万葉集』 や『詩経』に関する著述も多い。しかし、語源に対する興味とその重要性から、 甲骨文・金文の研究を進められた。その結果、数々の業績を残された訳だが、そ れは、若き日に手にした[言海]より始まっていると言える。書物に限ったことで はない。初めてそれを手にしたり目にしたりしたときに、感動し興味を覚えた何 かが、誰しもあることだろう。何もそれによって偉業を成さねばならないという ことはなく、それを大切に抱き温め続けることで、日々の暮らしをより豊かなも のにできると思うのである。

第69回

「研究の順序としては、まず正しい資料を正しくよむということからはじめるべ きである。これは極めて平凡な主張であり、また容易なことに思われやすいが、 実際にはこういう平凡で自明と思われることが、最も実践のむつかしいものである。」

[『白川静著作集』巻12、中国学研究法 第三章研究法(平凡社 2000)]

 『中国学研究法』は昭和36年(1961年)、中国文学専攻入学者のために書かれ たものである。50年近く前のものではあるが、その内容は少しも古いものではな い。むしろ、情報が氾濫する現在の我々こそ読むべき書であろう。ここにある “正しい資料”については、第二章の「文献学」で解説されている。諸書や文献 資料がどのように成立し、伝えられてきたかを理解し、よく考察した上で扱わね ばならない。そうしてこそ初めてスタート地点に立てるのである。これは中国文 学だけではなく、他の学問についても言えることである。今日、様々な形態の情 報が比較的簡単に手に入るようになったが、この“平凡で自明と思われること” を忘れずにいたい。

第68回

「人間の運命を主題とするこの偉大な史書は、その問題に解決と慰めを与えるも のではなく、この書に示されたようなさまざまな運命に生きることを、その運命 の実践を、むしろ将来の人びとに課したのであった。人びとは、その史伝中の人 びとのように生きることを典型として与えられ、義務づけられたのである。」

[『白川静著作集』巻8、中国の古代文学(2) 史記の世界(平凡社 2000)]

 引用文中の「偉大な史書」とは司馬遷の名著『史記』を指す。該書では、多種 多様の人間が運命に翻弄されながらも懸命に生きる様子が描かれる。それは、 「腐刑」という屈辱的な刑罰を受けた司馬遷の人生経験と密接に関連していよう。 そして、彼自身畢生の書を完成させる過程において己の運命に向き合うことがで きた、と言えるかもしれない。昨今、自分に課せられた運命から逃げようとする 人が増えている様に見受けられる。しかし、逃避は問題を先送りするだけであり、 根本的な解決は到底望めまい。白川先生のお言葉を目にして、『史記』を手にと り人間と運命との関係について今一度考えるべきではないか、と強く思った次第 である。

第67回

「陶謝と並称される謝霊運は、山水の間に自己の世界を求めた。いずれも圏外に生きようとした人である。ただその山川は、かれにとって必ずしも安心の場ではなかった。その自然に対する耽溺は、むしろ自己投棄に近いものであった。(中略)すでに前朝の人である以上、劉宋とうまくゆくはずはない。かつての嵆康、阮籍と同じような立場にあるのである。しかし、壮心の挫折はかれに癒しがたい傷痕を与える。かれはその憤懣のすべてを自然に投げかけ、ひたすらに山川の幽寂を求めた。」

[『白川静著作集』巻8 中国の古代文学(2) 謝霊運と山水詩]

 文学史上、謝霊運といえば第一に山水詩の祖と想起される。その作品では、山水の情景に仮託して自己の思いが述べられているが、難解な語句が多く、真意を汲み取ることは容易ではない。しかし、彼の山水に対する向き合い方を、「自己投棄に近い」と指摘された白川先生の見解は、謝詩の意を解するうえで大変参考になる。 先生は謝霊運と同じ立場の士人として阮籍と嵆康とを引き合いに出しておられるが、彼らの自然に対する向き合い方にも「自己投棄に近い」ものがあると考えられるのである。ここでは、試みに阮籍を取り上げ、彼の自然に対する向き合い方を見てみよう。『晋書』阮籍伝を読むと、いかに阮籍が自然に対して鬱屈した思いを持っていたのかが見て取れる。謝霊運に限らず、人は誰でも山水に遊んだりするようで、阮籍も山に登り川を眺め、自然に接すると帰るのも忘れて一日中没頭していたらしい(「或登臨山水、経日忘帰。」)。以下に示す彼の行動も、一見すると奇行のようであるが、自然に対する鬱屈した思いの表出と見て取れる。阮籍は時々、思うに任せて馬を駆けめぐらせ、道が途絶えたところに来ると、声をあげて号泣した(「時率意独駕、不由径路、車迹所窮、輒慟哭而反。」)という。この行為は一体何を意味するのか。これは政権交代期を生き、常に鬱々とした思いを抱いていた阮籍が、自然に接し、一時的にその思いを晴らそうとしていたということである。道が途絶えて泣いたというこの一件も、記述はないが、おそらく山に向かって馬を駆けたものであろう。このように、自然に対して身をゆだねた阮籍であったが、彼にとってもまた自然は「安心の場」とはなり得なかったようである。

第66回

「梅雨どきで大変鬱陶しい日が続いておりますが、こういう梅雨どきの消化法と いたしまして、私はなるべく根をつめた仕事をするということにいたしております。」

[『文字講話』第十八話「文字の構造法について」(平凡社 2005)]

 じめじめした梅雨の季節、普通の人であれば、不快さを理由に楽な仕事に逃げ てしまいがちである。それを逆に普段以上の仕事をする。普通とは全く別の姿勢 を先生は有しておられる。先生の研究においては、しばしば文字研究の方法論が 着目されてきた。実際、先生の研究法は文字学を大きく発展させるものであった が、先生の研究において、注目すべき点はどのような場合においても研究姿勢を 変えず、取り組み続けていくその姿にあるように、この講話の中で語られた何気 ない仕事への姿勢から感じ取れる。このような先生の仕事に対する取り組み方か らは、研究に携わるものでなくとも見習うべき点が多いのではないだろうか。

第65回

「漢字は決して学習に困難なものではありません。……漢字の本来の姿から考え ますと、その成り立ちが非常によく分かる。その考え方、語原や字原が非常によ く分かる。要するに学ぶに方を以てすれば、きわめて容易に学ぶことができる。 そしてまた、一度学べばその形象性がきわめてはっきりしている、印象がはっき りしている。それだけに記憶しやすい。また利用しやすい。」

[『文字講話』第十八話「文字の構造法について」(平凡社 2005)]

 最近、テレビのクイズ番組等でも漢字が多くとりあげられているが、その多く は全く当てものであって、必ずしも漢字の知識とは直結したものであるか疑わし い。クイズの番組であるのだから、それはそれで構わないのだが、中には中学の 入試問題からとってきたものもあるようだ。こうなると、教育現場で当てものク イズのような形で国語力が測られているのかと心配になってくる。クイズの形を とれば楽しく漢字を覚えられるだろうという意図もわからなくはないが、これは 漢字を暗記科目としてしまったところに問題があるのではないか。上の言は、白 川先生が2003年7月13日の第十八回文字講話で、象形、指事等の文字の構造法に ついて話された後、述べられたものである。筆者自身を顧みればまさにこの通り で、授業の中で「これは『やま』の形」「これは『かわ』の形」などと教わった ことから、漢字に興味を覚えたものである。学ぶ際だけでなく、教えるにも「方 を以てす」ることが必要だと思うのである。

第64回

「古代文字のお話を申し上げますけれども、単に中国の古代文字がこうであった ということを、いくらか興味的にお話をするというのではなくて、アジアの古代 王朝として、中国と日本が、いかなるかかわり方をもったか、それぞれの古代文 化を、どのように形成してきたか、そこにどのような東洋の世界が展開されてき たかと、そういうことをテーマとして、考えてゆきたいと思うのであります。」

[『文字講話』第一話「文字以前」(平凡社 2002)]

 『文字講話』は1999年より2005年まで開催された。開始当時白川先生は既に御 歳89でいらっしゃったが、毎回きっちりと資料を用意され、板書をしながら長時 間ずっと立ったままで講演された。その内容は単に文字の成り立ちを説くという ものではなく、文字を通じて中国・日本の文化の根本を考え、そこに繋がる様々 な問題を論じるというものであった。深い内容でありながら、白川先生は親しみ やすい口調で噛み砕いて説明され、質疑応答の時間にはどんな質問にも丁寧に回 答されていた。その先生のお姿を思い出すと、気持ちがひきしまる思いである。

第63回

「詩経学の停滞を破るには、新しい視点と新しい資料が必要である。」

[『白川静著作集』巻9 詩経(平凡社 2000)]

 『詩経』は中国最古の歌謡集である。この書は古来より経典として扱われた為、 その作品解釈は儒教的な観点によって歪められ、結果として詩経学も停滞する嫌 いがあった。しかし、長年解明されなかった「興」(詩篇における発想法)を民 俗学的観点から究明するという「新しい視点」を採用し、諸詩篇と同時代に製作 された青銅器の銘文(金文)という「新しい資料」を活用することによって、白 川先生はこれまでの詩経学の停滞を打破できたのだった。 このように、およそ文学研究とは「新しい視点」と「新しい資料」があってこ そ進歩を遂げることができる。白川先生のお言葉を目にし、新視点の創出と新資 料の発見を課題として研究活動に従事する大切さを、改めて実感した次第である。

第62回

「粲の[七哀詩]は曹操の[苦寒行]とともに、新しい創作詩への道を開くものであった。」

[『白川静著作集』巻8 中国の古代文学(二) 七子の徒]

 魏の三曹(曹操、および息子の曹丕・曹植)のもとには七人の文人が仕えてい た。彼らを総称して「建安七子」という。実際に作品を鑑賞してみればわかるこ とであるが、七子の中でも王粲の文学は、当時主流であった悲憤慷慨型の作風と 比べれば、まことに「新しい」趣きを感じさせるものがある。王粲の代表作の 「七哀詩」や「登楼賦」は、彼が董卓の乱を避けて荊州に赴く道中、または荊州 での作であるが、いづれの作品も、兵乱による凄まじい光景を生々しく描いてい る点が特徴的である。例えば「七哀詩」(『文選』所収)の、「門を出づれば見 る所無し、白骨平原を蔽ふ。路に飢ゑたる婦人有り、子を抱きて草間に棄つ」な どの句は、その凄まじい光景がありありと浮かびあがってくるようである。白川 先生が同章において「七哀詩」を「きびしい写実の精神に貫かれたものである」 と評されているように、この「写実の精神」こそ、王粲が七子や、当時の詩人た ちと比べて一際傑出している点であり、また一歩新たな「創作詩への道」へと向 わせたものにほかならない。

第61回

「私はしばしば漢字学者として紹介される。しかし私の本心は東洋学者として紹介してほしい。」

[『桂東雑記Ⅲ』 わが国の漢字―漢字と国字(平凡社 2005)]

 先生ご自身がおっしゃるように、世間で「白川静」といえば漢字学者として知 られている。それは、先生の名が世に広く知られる要因となったものが字書三部 作に代表されるような漢字研究にあることに由来するからであろう。ただ、先生 の著書を読み進めていくと、先生の研究対象は漢字そのものではなく、漢字研究 という方法によって見えてくる東洋の源流であることが分かる。今後、先生のこ とを紹介するときには漢字学者などとせず、東洋学者とすることは先生のご遺志 に沿うだけでなく、学者「白川静」を評する上でも適当なことであろう。

第51回~第60回

第60回

「「山」 象形。高い山々が連なっている形。中国の山は火山活動によってでは なく、地殻の変動や水の浸食によってできた山が多いので、山が連なっている形 に作られている。火山の爆発によってできた富士山のような一つの高い峰の形で はない。山の美しい姿は、主峰があり、その左右に山容が連なっている形で、そ れが山という字となった。」

[『常用字解』「山」項(平凡社 2003年)]

 古代中国人にあっては、主峰の周囲に山々が連なっている様を美しいととらえ たようだ。これは、地理的に中国には連峰が多いためであるという。文明の発 生・発達と、地理や動植物等の自然環境とが、極めて密接な関係があることは、 多くの言を俟つまでもなく明らかである。異なる条件下で発展した文明や民族の 価値観や美意識も同じであるはずはないが、しかしわが国の富士山の稜線の美し さは世界に誇って良いだろう。古代中国人が富士山のような山を目にしていたら、 あるいは、富士山を望む地域で文字が発達していたら、「やま」はどのように表 されていただろうか。歴史に「もし」はないとはよく言われることだが、このよ うに想像することもまた楽しい。このように考えたとき、悠久の時間の流れの中 にあっては、我々は実に小さな存在であることを実感する。しかし同時に、我々 は確かにその中に居るのだと気付くのである。

第59回

「批判は同じ次元での、自己分裂の運動とみてよい。それは自他を区別しながら、 新しい我を形成する作用であるが、しかし果たして、人は真に自他を区別しうる であろうか。他と自己の全き認識ということはありうるのであろうか。それぞれ の思想の根源にある究極のものを理解することは、それと同一化することとなる のではないか。それゆえに批判は、一般に、他者を媒介としながらみずからをあ らわすということに終る。それは歴史的認識を目的とするいまの研究者にとって も、いいうることである。」

[『白川静著作集』巻6 孔子伝(平凡社 1999)]

 孔子の思想に対して、墨子の学はその思想を批判するという形で発展した。孟 子は墨子の学を批判し、荀子はその孟子を正統ではないと批判した。戦国諸子百 家の学はこのようにして多くは批判から出発し、発展を遂げた。しかし墨子が孔 子の思想の極限のところを理解していたかというと、そうではない。墨子の提唱 した"兼愛"は結局孔子の"仁"に対立するものではなかった、と白川先生は述 べておられる。人は他を批判するとき、自らを高いところに置いて客観的に述べ ているつもりになりがちである。しかし実際のところそれは単に"みずからをあ らわすことに終わ"ってはいないだろうか。本当に客観的な材料を揃えて対象を 理解しようとしているだろうか。何かを批判しようと思うとき、白川先生のこの 言葉を思い出したい。

第58回

「私達の若いときには、ずいぶんませた文章、大人の文学というようなものを読 みました。それで大人になった。古典も読み、大人の読みものを読んで、はじめ て大人になるのであって、それをいつまでもあてがわなければ、大人になり損ね てしまいます。」

[『桂東雑記Ⅳ』 文字教育について(平凡社 2006)]

 今の若者たちは、「大人になり損」なってはいないか。そうした危惧を抱く白 川先生は、ご自身の体験を交えつつ古典と大人の読み物とを読む重要性を説かれ る。「読書百遍」とある様に、たとえ難解な古典でも何度も繰り返し読めば、書 かれた内容はおのずと理解できる。そして自分の中で内容を咀嚼し消化する過程 が、大人になることに他ならない。先生はそうお考えになっていた。昨今若者の 「古典離れ」が指摘される中、白川先生のこの言葉を噛み締めつつ、教育におけ る古典の効用について今一度考えてみたい。

第57回

「かれ(注、阮籍)の[大人先生伝]は、世の礼俗の士に対するその立場を示したものである。」

[『白川静著作集』巻8 中国の古代文学(2) 阮籍の詠懐詩]

 阮籍の時代は大変生きにくい時代であった。折しも曹氏の魏を司馬氏が武力で簒奪し、新たに晋を建てようとするその渦中のことであり、政治に携わる阮籍もまた少なからぬ影響を受けた。司馬氏に反する些細な言動ですら身の危険を招き、阮籍の友人の嵆康などは死刑に処せられた。こうした世情であったために、阮籍や嵆康をはじめとする所謂「竹林の七賢」は老荘や易などの思想を駆使し、婉曲的で難解な談義を行なわざるを得なかったようである。つまり、当時の人々は世情を鑑み、言動を制約せずにはおられなかったのである。このような世情を最も反映しているといえるのが、阮籍の代表作の「詠懐詩」八十二首である。この「詠懐詩」には婉曲的な表現が多く、難解である。『文選』(巻二十三・阮嗣宗詠懐詩十七首)の顔延年の注では、「阮籍は不安定な時代に仕え、自分自身が禍に遭うことを恐れてこのような作品を作った」、「生命を憂える嘆きがみられる」といった解釈がなされている。顔延年注にいうように、「詠懐詩」は全篇を通して嘆きや憂いが見て取れ、読む者に鬱々とした感じを与えるものがある。婉曲的で、「終身薄氷を履(ふ)む」(「詠懐詩」其三十三)がごとき「詠懐詩」に対し、「大人先生伝」は大きく趣きを異にする。「大人先生伝」の内容は、簡単に言えば世の儒者に対する批判である。「大人先生伝」において阮籍は、全てを超越した「大人」に自己を仮託し、儒者の言動の特徴的なものを逐一取り上げ、痛烈に批判する。筆者は最近、改めてこの「大人先生伝」を読み返し、「詠懐詩」に一貫する思想や姿勢、または『晋書』などにみられる阮籍の生き方とは、大いに異なるものを窺い知った。白川先生が「大人先生伝」を「世の礼俗の士に対するその立場を示したもの」といわれたことは確実で的確ある。これに多少補足するならば、「詠懐詩」とは大きく趣を異にする「大人先生伝」を、阮籍の思想の一側面として広く見ていく必要もあるのではないかと考える。

第56回

「写しているうちに『この形は、この時代の人がこういう意識を持ってこういう 形を与えたのだな』というふうに、字の形の意味が手を通じてわかるのです。頭 でわかるのではなくて、体でわかってくる。」

[『桂東雑記Ⅳ』 文字の世界に遊ぶ(平凡社 2006)]

 先生は甲骨文の資料をノートに書き写し、整理することを独力で行われ、頭の 中だけで考えをめぐらすだけでは気付き得ないことに気付かれ、多くの研究結果 を残されてきた。このように「書き写す」という方法は研究において重要なイン スピレーションに深く関わるもののひとつではあるが、大変な労力を必要とする ことから、誰もが行うような研究方法ではない。とりわけ、現在の研究者はコ ピー機や電子テキストの普及に伴って、自らの手で資料を書き写すということは 少なくなってきた。結果として、資料に埋もれるだけの研究が増え、革新的な研 究が少なくなってきていることは事実である。このような現状を考えると、先生 がされてきた書き写すといった地味に見える研究方法こそが、研究というものの 本質を表していることが分かるのではないだろうか。

第55回

「一介の孝廉から身を起こし、「贅閹の遺醜」と罵られながら覇権を掌握したかれには、世の顕門名流とおのずから異なる心情がみられる。かれは士卒らと、人馬ともに飢える苦寒を分ち、その悲涼を歌うことに、むしろある喜びを感じている。(中略)[三国志]中の名賢君子よりも、曹操の方がはるかに人間的であったのではないかと思う。それでここにおいてのみ、文学が開花するのである。」

[『白川静著作集』巻8 中国の古代文学(2)(平凡社 2000年)]

 『三国志』の英傑・曹操といえば、少なからず残虐非道という「奸雄」としてのイメージが付き纏う。小説『三国志演義』等の影響から、必然的に曹操は悪役・敵役として扱われてしまう運命にあり、蜀(劉備)贔屓の傾向にある日本に於いては、尚の事である。しかし、史実の曹操は当時の建安文学の第一人者としての、文人としての側面をも持ち合わせており、そこから彼が単なる「天下に執着するだけの武将・政治家」でなかった事が窺い知れるのである。
先生は曹操の最も有名な作の一つとして「苦寒行」(『文選』巻27所収)一首を例に挙げ、「そこにはあの驕慢な権力者の姿はない。むしろ運命的に老いてなお戦いつづける武将の悲壮な心情と、その孤独さが歌われている。」と述べておられる。
時に傑出した才智と謀略に長けつつ、一人間としての心情を素直に顧みる事の出来る人であったからこそ、彼の生き様とその文学は面白い。そこには英雄か奸雄か、などという議論は取るに足らぬ、些細な問題となるだろう。

第54回

「「辰(大火)と参とは東西に相対するもので、同時にみえることのない星宿である。それで参、辰相闘うという説話を生んだのであろう・・・・・。」

[『白川静著作集』巻6 中国の神話(平凡社 1999年)]

 白川先生の言に補足といっては僭越ではあるが、この辰と参に関してエピソー ドをひとつ紹介したい。
まず、この辰と参の話は『春秋左氏伝』(昭公元年)に子産の言として記載さ れている。その概略は、「高辛氏に閼伯と実沈という二子があったが、仲が悪く 争いばかりしており、后帝はこれを快く思わず、閼伯を商丘に遷して辰星を祀ら せ、実沈を大夏に遷して参星を祀らせた」というものである。辰星と参星は天球 上でほぼ180度離れており、一方が見えるときもう一方は地平線下にあって同時 に見ることができない。このことから、閼伯と実沈の説話のほか、別離のたとえ として文学作品の中にもよく見られる。
現行の星座でいえば、辰星はさそり座、参星はオリオン座に当たる。ギリシア 神話では、オリオンは腕の良い猟人であったがうぬぼれが強く、これを懲らしめ るため神々は一匹のさそりを放ちオリオンを刺させた。このためオリオン座はさ そり座が昇ってくると、これを恐れ地平線下に逃げるように沈んで行くのだとい う。
遠く離れた東洋と西洋でこのような伝説があるのは、大変興味深いことだと思 うのである。

第53回

「人は、一人の偉人を作るために、しばしば多くの犠牲を惜しまないものである。しかしまた、人を偉大ならしめようとする努力が、どんなに滑稽を伴うものであ るかをも、この「郷党篇」は示している。」

[『白川静著作集』巻6 孔子伝(平凡社 1999年)]

 『論語』郷党篇に記されている孔子の日常における仔細な記録は、後世の聖人孔 子の理想像であり、実際の人間孔子とは異なったものである。白川先生は丹念に『論語』や他の歴史資料を読み込むことによって粉飾された部分と孔子の精神を 正しく継承している部分とを分析され、人間孔子の実像を浮かび上がらせた。今日、我々は何かに対して、他者の概説や批評などを読むだけで頭の中にイメージ を作ってしまいがちである。しかしやはり自分で実物を見、分析して粉飾を取り除いていかなければ、真実の姿は見えてこない。情報が氾濫している現在におい てその作業はいっそう重要である。

第52回

「すべての学問は、その時代の意識をどのように正確に把え、それに対える営み を為しうるかということによって、その価値が決定されるといってよい」

[『白川静著作集』巻1「呉大澂の文字学」(平凡社 1999)]

 呉大澂は近代文字学の先駆けであり、若き日の白川先生の文字学研究に影響を与えた人物でもある。彼が生きた清朝末期には、西洋の近代文明の科学技術を導入して国力の増強を図る「洋務運動」が起こっていた。彼の文字解釈は、著しく 合理的・科学的な方法に基づいて行なわれており、それは洋務運動によってもたらされた時代の精神と何かしらの関係がある、と先生は推測されている。
充実した研究とその時々の社会思潮とは、不可分の関係にある。研究者たる者よ、呉大澂に倣って時代の意識を汲み取る、そんな研究を行なうべく努力せよ。かような激励のお言葉を白川先生から頂戴した気がする。

第51回

「先生は晩年に、養生の法を、食生活と精神生活の上から、いろいろと説かれる ことが多かったが、私は先生の長寿の秘訣は、よく歩かれたことにあったと思う」

[『白川静著作集』巻12 蘆北先生遺事(平凡社 2000)]

 白川先生ご自身も大変な長寿であったが、師の橋本循先生も長寿であった。そ れだけでなく、両先生ともに共通の健康法をお持ちであったようだ。自宅から大学まで徒歩で通われた橋本先生、若いときには山歩きを、晩年にはご自宅の周り を散歩されていた白川先生(同章参照)という具合に、歩くという点において共通しているところが実に興味深い。こうした文章から、白川先生が御退職後、精 力的に書物を世に送り出していかれた背景には、健康に留意しそれを維持しておられたという一面があることが分かるのである。

第41回~第50回

第50回

「言語はわれわれにとって所与的なものである。われわれは生れると同時に、われわれを待ち受けている既存の言語体系の中に包まれてしまう。われわれはその与えられた言語体系の中で生長し、これを通して思惟し、また自らの思想を形成してゆくのである。」

[『白川静著作集』巻1 訓詁に於ける思惟の形式について(平凡社 1999)]

 誤解されがちだが、言語に関する問題というのは、今を生きる我々だけの問題ではない。これから生れてくる子供たちにも大きな影響を及ぼす重要な問題でも ある。先生はたびたび漢字制限の問題に関して苦言を呈されてきたが、このような考えが根底にあったことを考えると、先生は現在のこと以上に、これから生れ てくる子供たちのことを心配されていたように思われる。
先生はともすれば漢字の研究者としてのみ捉えられがちだが、先生のことを正しく理解しようとするなら、教育者としての側面も見る必要があるのではないだろうか。

第49回

「『黄帝内経素問』は二十四巻八十一篇、『其の天年を盡終して百歳に度りて乃 ち去る』としている。その永世不死への希望が、のち神仙の思想を生んだ。」

[『文字講話Ⅲ』 生活と医術(平凡社 2003)]

 白川先生は、今日様々な社会問題がある中で一番憂慮すべき問題は、長寿社会的な事象であると考えておられた。九十二歳になられる(2002)年には、自分のことを老人というふうには思っていない、老人という意識をまず改め、自分はやがて老人介護を受ける身分になるというような観念を捨てること、生涯介護はう けないというぐらいの気持ちになることが大切である、と述べておられる。この言葉の通り、先生は九十六歳でお亡くなりになる直前まで「生涯現役」でおられた。
『黄帝内経』とは中国最古の医書とされているものである。そこで人の天年は百年であるとされている。先生はその通り、まさしく百年を生きられたのである。 伝説の医書と生き方を同じくするような先生の生き様に、改めて頭が下がる思いである。

第48回

「万葉の様式における中国の思想や文学との関係を、特定の作者の文学的体験にのみ本づけるのでなく、たとえば漢字の使用によってその表現意識の基盤に底深く養われてきたもの、あるいはその生活感情を規定した当時の文化や、政治的社会変動の中に、より根源的な課題を見出だそうとするのが、私の意図するところであった。」

[『白川静著作集』巻11 万葉集と中国思想(平凡社 2000)]

 使用頻度に多寡はあっても、それぞれの漢字には「底深く養われてきたもの」があり、それは主に義という形で表れている。義はその漢字の歴史であり、思想であり、血肉であると言ってよい。
人名などを見てみても、音(ここでは音読み・訓読みの両方を指す)に重点が置かれ、義はあまり考慮していないのではないかと思える名前が多い。また、同 じ音でも義はニュアンスが異なる場合が多く、その場に合った漢字を選択することが肝要である。義に注意を払わないということは漢字の特質を活かしきれてい ないということである。現代中国語の場合、外国の企業名などに漢字をあてる際には褒義字を用いることが多い。もっとも、響きの美しさということも大事な要 素であり、一概に否定はしないが、ただ、漢字文化圏に生きる者として、義に敏感になることで言語生活がより豊かになると思うのである。

第47回

「難しければ辞書をひいて調べたらいいのですよ。見ただけでわかろうなんでい うのは横着な話。」

[『回思九十年』「漢字の素晴らしさを伝えたい」(平凡社 2000)]

 白川先生はたびたび文字制限を批判されている。文字制限によって日本語と漢字が持つ多様な表現が規制され、言葉が少なくなることを先生は危惧された。わ からなければ辞書をひく、調べて覚える、そして自分の知識とする。先生は「知識は無限でなけりゃいかん」とも仰っている。漢字はただ音をあてはめるだけの 記号ではない。そこには歴史があり、文化が表わされている。辞書をひけばその語の意義・語源を知ることが出来るのと同時に、その語を発端として繋がるもの が次々と出てきて、知識が広がってゆく。そうした発見の楽しさを、現在の我々は忘れがちである。

第46回

「全て学問の体系をうかがいながら、それによって自分を養っていく、それによってそれをさらに発展、展開させていく、というのが後の学者の仕事でなければな らんわけであります。」

[「京都の支那學と私」、『學林』第33号(中國藝文研究會 2001)]

 若き日の白川先生は、王国維・内藤湖南など一流の学者から多大な影響を受けながら文字学研究を進められた。最終的に彼らの学説を厳しく批判するに至った が、それは新資料が発見・解読され、新しい学問の体系が生まれてきたからだ、と説明される。そして、先賢の学恩を先生が決してお忘れにならなかったことは、 講演録を読めばはっきりと分かることである。
白川先生のこの短いお言葉の中に、学者のあるべき姿が端的に述べられていよう。我々も研究活動を行なってゆく上で、先人の業績に尊敬と感謝の念を忘れず、 しかしその学説を妄信することなく批判的に継承してゆきたい。それこそが、「後の学者の仕事」である。

第45回

「(しかも)[詩品]は陶詩を中品に列している。その詩はこの時期の修辞主義の風尚にあわぬもので、その真趣は当時の一般の人に十分理解されることがなかったのであろう。」

[『白川静著作集』巻10 中国の古代文学(2)(平凡社2000年)]

 陶詩とは陶淵明の詩のことである。中国の詩人といえば、李白や杜甫といった、 いわゆる唐代の詩人がまず思い浮かぶことであろう。しかし、唐以外の詩人となればこの陶淵明を挙げる人も少なくないと思われる。これは、陶淵明の詩篇のみ ならず、「帰りなんいざ、田園まさに蕪(あ)れなんとす」より始まる「帰居来の辞」を著し、それまでの役人生活と決別したのち、郷里の田園に退いて、そこ に真意を求めたということでも大変有名な彼の生涯が、古くから我々日本人に親しまれてきたことをよく表しているといえよう。現在ではこれほどまでに良く知 られている陶淵明であるが、実のところ当時の評価はあまり芳しくないものがあった。例えば、白川先生が指摘されているように、当時の詩人を上・中・下に分 けて評価する『詩品』という書物では、陶淵明は「中品」の評価である。また、『詩品』以外の資料として、当時の権威的な詩文集であった『文選』においては、 山水詩人として有名な謝霊運の詩が四十首も採録されている一方で、陶淵明の詩は八首のみが収められるばかりであり、ここからも当時の陶淵明の評価の一端が 垣間見られることであろう。このように、『詩品』における評価のみならず、『文選』での陶詩の採録状況を含めて考えると、白川先生の「その真趣は当時の 一般の人に十分理解されることがなかった」という言葉のように、現在は大変に有名な陶淵明でも、当時はその良さが十分に理解されていなかったということが でき、なかなか興味深いものがある。

第44回

「経学の伝統はあまりにも重く、古代歌謡をその閉鎖の中から解放することは、この国の伝統の中からは不可能であったのであろう。」

[[『白川静著作集』巻9 詩篇の伝承と詩経学 (平凡社2000)]

 これは詩経を文学として研究しようとする方法論が、中国において開拓されなかったことに対しての言である。詩経は中国最古の歌謡集であるが、孔子の編纂ということで経学に組み込まれ、長く歌謡としての本質から離れた所で論じられてきた。近年に至り、伝統の重責を持たない外国人によって詩篇は歌謡として捉えられ、文学作品として解されることとなったのである。このように、伝統の中にあり続けると本質から離れ、伝統に振り回されてしまうことがある。
先生は中国の伝統的な経学が色濃い日本にありながら、伝統を軽んずることなく、柔軟な発想を持ち、歌謡としての詩経の本質を研究され、結果として詩経学にひとつの足跡を残された。ただ、先生の残された足跡も重要ではあるが、先生の対象への向き合い方から見て取れる研究者のあるべき姿の方が、研究を行うものにとっては重いように思える。

第43回

「書物はあくまでも資料であり、その資料を用いて研究するためのものである。そこで最も重要なことは、いかに読みいかに考えるかということ、すなわち研究法の問題でなければならぬ。」

[『白川静著作集』巻12 文献学(平凡社2000)]

 研究者にとって、文献資料なくして研究は成り立たない。しかし更に重要となるのが、それらに基づいてどのように考えを発展させていくのか、という事である。換言すれば、如何にして資料を読みとくかが研究の根幹を成すと言っても過言ではない。
近年、漢文資料の電子テキスト化が進み、漢学研究の世界にも少なからず影響を及ぼしてきている。我々研究を志す者も、一昔前に比べれば、随分と簡単に膨大な文献資料を検索、あるいは閲覧できることが可能となった。しかし、研究の根幹である読解と解釈に重きを置かなければ、結局はその膨大な資料に振り回さ れるだけで終わってしまう。どのような資料をどのように読み解いていくのか。あらためて、先生のこの言葉を己自身に言い聞かせなければならぬと感じた。

第42回

「古代にあっては、ことばはことだまとして霊的な力をもつものであった。しかしことばは、そこにとどめることのできないものである。高められてきた王の神聖性を証示するためにも、ことだまの呪能をいっそう効果的なものとし、持続させるためにも、文字が必要であった。」

[『白川静著作集』巻1 漢字(平凡社 1999)]

 霊力や神聖性などと大げさなことを言うつもりではない。しかし、ことばを文字として残すことができるおかげで、我々はその人の意思をいつでも振り返ることができる。白川先生のように膨大な意思を残した人物もいるだろう。また、ほとんど残さない人物もいるだろう。しかし、わずかでも残した意思があるなら、いつでも、何度でも、その人物と対話できるのである。それを手にするときよぎるのは、必ずしも喜びばかりではないだろう。しかし、それを手にすることができる者は、やはり幸いだと思うのである。

第41回

「形のみでなく、音のみでなく、両者を含めて、その上に同時代的な意味の体系を追求すること、そこに古代文字学が成立する。」

[『字書を作る』 字通に寄せる(平凡社 2002年)]

 白川先生は七十三歳のとき、かねてより意図していた字源字書の編纂にとりかかられた。それまでの内外のどの字書にも満足されなかったからである。白川先生は、字の起源と、その背景にある古代の社会・文化を考え、その表象は字形的表現全体の中で理解すべきだとされている。それは長年膨大な甲骨文・金文資料の文字を手でひとつひとつ抄写し、当時の社会背景とあわせ体系的に把握されていた先生だからこそ強く感じられたことであろう。漢字の成り立ちを考えるとき、つい形や音だけにとらわれてしまいがちだが、そこには深い歴史と文化が刻まれているのである。

第31回~第40回

第40回

「孔子を歴史的な人格としてとらえ、その歴史性を明らかにすること、それが孔子の生命のいぶきをよみがえらせる、唯一の道である。」

[『白川静著作集』巻6 孔子伝(平凡社 1999年)]

 孔子は偉大な人物であり、東アジア文化圏に及ぼした影響は計り知れない。従って、孔子の現代における意義を考えることは重要な課題だといえる。しかし、引用文より前の箇所で「論者の史観に合うような、任意の孔子像」を求めるべきでない、と白川先生は述べられる。つまり、あくまでも資料に基づいて孔子の人となりを考えるべきであり、それでこそ孔子を正当に評価したことになる、というのが先生のお考えであった。
実際、『孔子伝』では資料を大量に引用することによって、「歴史的な人格」としての孔子が実証的に考察されている。諸国を漂泊する際に弟子たちと共に苦労し、挫折を経験する姿を活写する所は、聖人君子のイメージを色濃く有する従来の孔子伝とは大きく異なっていよう。 膨大な量の資料を収集してその是非を検討し、精密な筆致で文章を執筆する所に白川先生の学問の特質がある。先生の学問の精髄が随所に見られる『孔子伝』、この書から我々が学ぶことは多いはずである。

第39回

「宴席はよいものだが、やはり節度がほしい。当時の貴族たちには、わが国の酒乱者のように、乱れるのを酒のみの特権とでも思う人が、やはりあったようである。」

[『白川静著作集』巻10 詩経(平凡社 2000年)]

 これは『詩経』小雅の「賓之初宴」の一節を解説されたものである。『詩経』といえば近付き難い印象があるが、西周の貴族たちにも現在の我々と共通した一面を持っていたことを知ると、『詩経』に対して親しみを持てるのは筆者だけではあるまい。
西周の貴族たちは盛んに宴席を催し、太平の世を謳歌していたのであったが、こうした時代はやはり長くは続かないもので、遂に「衰落」(同章参照)の時代を迎えることになるのであった。
白川先生の著作を読むと、学問に対して戒められることが多いが、今回の文章のように、学問を通して人としての生き方を諭し、導いてくださっているように感じられるものもあり、白川先生の学問の幅の広さには驚嘆するばかりである。

第38回

「[詩]の学は古くして新しい。」

[『白川静著作集』巻10 詩経研究通論篇 序(平凡社 2000)]

 [詩]は前六百年前後に制作されたと考えられる。その後、[詩]は伝承の過程を経る中、さまざまな人々に受容され、理解されることとなり、その時代ごとに大きな研究結果を残しながら現在に至っている。ただ、現在までにおよそ二千六百年の時を経ているのだが、一向に研究の尽きる気配がないのは何故であろうか。その理由は恐らく、二千六百年も前のものを扱う学問に新しさを見出すことができる人々が各々の時代に存在したからであろう。
一般の方々の目には古典も古典を扱う人々も古臭いものとして映るかもしれない。しかしながら、古典を扱う人間がすべて古臭いというわけではない。現代に生き、先進的な感性を有している人々もいる。その感性を以って古典という対象に向き合うことで現代に通じる新しい何かを発見していくのであり、先生もそういった発見をされた一人である。
現在、古臭いという理由から古典を学ぶ人は少なくなっているが、古典に新しさを見出すことができない人というのは、実のところ硬直した感性しか持たない古臭い人間ということなのかもしれない。古典に新しさを見出す人々を見るとそう思えてくる。

第37回

「地球は、この僅か百年ほどの間に、著しくその相貌を変えた。現代の人は、儵(しゅく)と忽とのように、その眼を穿ち、その鼻を穿ち、地球は今異常な息吹をしているようである。」

[『桂東雑記Ⅳ』 渾沌について(平凡社 2006)]

 『荘子』「応帝王篇」の「渾沌、七竅(きょう)に死す」寓話についての言葉である。南海の帝である儵と北海の帝である忽が、中央の帝である渾沌と巡り会う。人間には七つの竅(あな)<眼2、耳2、口1、鼻2の七つ>があり視聴食息するが、渾沌にはその竅が一つもない。そこで儵と忽が、渾沌の為にと、七つの竅を鑿(ほ)ってやることにした。一日に一つの竅を穿ち、七日目に七つ全ての竅が穿たれ、ようやく人間らしくなったと思ったら、渾沌はただの屍と化していた…という寓話である。
先生は、高度経済成長の著しい「激動の二十世紀」、百年を生きられた方である。今や、環境破壊・自然破壊などという言葉が耳に入ってくるのは日常茶飯事だ。我々はこのまま儵と忽のように、地球にとって良からぬ「竅」を穿ち続けるしかないのだろうか。先生はこの条の最後を「渾沌をして渾沌たらしめよ。そこに自然の大摂理が看取される。」という言葉で締め括っておられる。今一度、これらの言葉を胸に、人と自然の在り方について思いを馳せてみるべきなのかもしれない。

第36回

「近くに彙文堂があり、(中略)私は学校への途中、時間があればここに立寄り、思うままに書物を見せてもらった。高くて買えない本が多かったが、手に合う程度のものは、その都度一、二冊ずつでも求めた。」

[『回思九十年』「私の履歴書」(平凡社 2000)]

 京都御苑南東の「彙文堂」という古書店をご存知であろうか。この書店の店頭には内藤湖南の揮毫による立派な扁額があり、古くから京都の中国学者に親しまれてきた。かつての立命館広小路学舎からも近く、白川先生ご自身もよく通われていたことがこの一文からも明らかであろう。昨今は書店に行かずともインターネット上にて書物を購入することも可能であり、その利便性も高いが、思いがけない本と遭遇できたり、本の背表紙を眺めて書名を目にするだけでも知識の蓄えが増えるなど、書店で購入することにはインターネットでの購入にはない良さがあると思うのである。単なる利便性だけにとらわれない書物購入のあり方を、今一度見直してみてもよいのではないだろうか。

第35回

「([風俗通義]によりますと、)上寿なるものは百二、三十歳とあり、本当の天寿は百二十歳と申します。中寿が百歳、八十歳が下寿、一番下の年寄り、私はまだ九十一歳、この四月に九十二歳になりますけれども、まだまだ中寿まで、間があるのです。勿論老人というふうには自分では思っておりません。」

[『白川静文字講話Ⅲ』「生活と医術」(平凡社 2003)]

 いつまでも、年齢を感じさせないご活動をされていた白川先生。そんな先生の、衰えない意欲を感じさせる、若い我々からすれば、頭が下がらずにはおれないお言葉である。
近年、社会の価値観は経済活動が中心となり、年を取ること、成熟することが、軽視されているように感じられる。短期的な結果を追い求めるばかりではなく、長期的な、一生をかけてのぞむというような目的意識を、この不況の折に、今一度、誰もが見直すべきではないかと思う。

第34回

「人は他の人物を論じながら、しばしば多くみずからを語るものである。」

[『白川静著作集』巻6 周公旦(平凡社 1999)]

 これは、郭沫若氏が岩波講座の[東洋思潮]に発表した[天の思想]で、周書の諸篇に周公の政略的意図を見ようとしている背景に、自身の策謀家としての側面が影響していることについて述べた文であり、先生自身も周公を論ずるに当たっては、「私のかこうとする周公の像も、要するに私の観想のなかにあるものにすぎないであろう」と断りを入れている。
先生の言葉通り、人が他者を論じる際には必ず自分というものが出てくる。それ故に、一人の人物に対して多くの見方が出てくるわけである。どの見方が正しいのかといえば、それは自分で考えなければならない。しかしながら、自分で考えるということは、そこに自分が現れてくることになり、正しい姿から離れてい ってしまう。これは、研究者にとって解決不能なジレンマであり、人が他者を論じる際には完璧な答えがないということの現れである。ただ、それでも完璧な答えを探求し続けることが研究者としての正しい姿であろう。

第33回

「うん、夢は持っておらんといかん。どんな場合でもね。」

[『回思九十年』古代文字を探る(平凡社 2000)]

 平成5(1993)年、白川先生が83歳の時、『後宮小説』・『墨攻』等の著作で知られる酒見賢一氏との対談で語った言葉だ。先生の夢は、自分の義務を終えたという時がきたら、『大航海時代叢書』正続を読み、その中で、世界を旅してみたい、という事だった。しかし「老後の楽しみ」としての書物の旅は、実現されることはなかった。先生のご自宅の二階には、『大航海時代』第Ⅰ期・第Ⅱ期37冊が置かれたままになっていたそうだ。
先生のこの短いお言葉の中に、「夢」をどんな場合でも持ち続けるには、確かな目標と日々の努力が必要なのだ、と強く感じた。「夢や理想を抱く」ことは簡単に出来るかも知れない。しかし本当に「夢を持ち続け」られるのは、目前の自分が為すべき事を正面から見据え、日々邁進している人なのではないか。「夢」や「理想」を語る前に、自分の成すべき事をする。全てはそれからなのだ。「夢を持ちにくい時代になった」と言う。そんな時代だからこそ、先生のこのお言葉は重い。

第32回

「名のつけ方は時代とともに変わる。平安以後には好字をえらび、名告(なの)りに一定の方式があった。今は好尚も多様化し、あまり字義に拘泥しないことが多い。しかし名はその人の人格形成に深くかかわるもので、親の趣向で軽々しくつけてよいというものではない。」

[『桂東雑記Ⅲ』「人名漢字表の追加について」(平凡社 2005)]

 近年では、画数などを依りどころにして、子供の名前をつける人が多いようだ。子を思う親心は、古来変わらぬものかもしれないが、いささか親心が空回りしている場合もある。
たとえば子供の名前に、「腥」字を使いたいという要望が多いらしい。「腥」の字義は「なまぐさい」、月と星では決してない。白川静・津崎幸博『人名字解』(平凡社 2006年)で、一度漢字の意味を調べてみるのも親心だ。

第31回

「暗誦していますと、古い時代の故事熟語、そういうふうなものがみな頭の中に入る。今言いました王勃の作品(注、「滕王閣の序」)の一句一句がね、すべて故事来歴があるのですよ。それが大体頭の中にある、そうすると他のものを読むとき、辞書を引かなくても大体わかる。」

[文字講話』Ⅳ 漢字の将来(平凡社 2005)]

 中国の古典文学には典故表現が多く、漢賦における『楚辞』という具合に、基づく作品や表現が必ずあり、『楚辞』を理解していなければ漢賦の理解は難しいとされている。このように、一つの作品を理解するにも、いくつもの基づく作品にあたって多くの典故表現を知らなければならず、その煩わしさに悩まされることも少なくはない。そのためか、労を惜しみ、関連する典故表現が出てくれば、その部分だけを調べて良しとしてしまうこともある。しかし、本当にその文学作品を理解しようとするならば、白川先生のように作品一つをすべて「暗誦」し、それを知識として使えるくらいにする必要があるのではないかと、先生のこの文章を読み、日頃の怠けた気持ちが戒められる思いがするのである。

第21回~第30回

第30回

「韓国にしましても中国にしましても、将来これは日本の与国として、同盟国として、必ず手を結ばねばならん国です。私は特に漢字・漢文をやっておりますから、そういう漢字文化圏という歴史的な意味あいからも、この文化圏の持つ歴史的な意味を、失うべきではないと考えておるのです。」

[『白川静文字講話』Ⅱ 戦争について(平凡社 2003)]

 ただ単に同じように漢字表記を用いた、というだけではない。漢字文化圏は、中国を中心に、文化の深い部分で繋がっていると言える。今、日本と、中国や韓国との間には、簡単には埋められそうにない巨大な溝が存在する。東洋文化を知り、研究するとういう行為は、日本文化の根底を知ることであり、同時に国家間の溝に橋を架ける行為であるという点で、大きな価値を有している。白川先生は、その研究成果を発表することで、「漢字文化圏の復権」をも考えておられた。

第29回

「漢字を単なる借り物である、と思うのは、非常な間違いです。漢字はいまや、日本人の血脈である。」

[『白川静著作集』巻2 漢字の思考(平凡社 2000)]

 漢字は中国からもたらされたものであり、本来の意味での国字ではない。しかしながら、万葉集にも見えるように奈良の頃より漢字は国字のように用いられてきた。そして、漢字の持つ特性は膠着語たる日本語の欠点を補い、日本語は近代語としても十分な機能を果たすことができたのである。にもかかわらず、日本人は自国の文化の根底にある漢字を捨てようとしている。漢字に対して思い入れのない人にとって先生の言葉は漢字学者ゆえの言葉と思われるかもしれない。ただ、人間の思考の構成要素のひとつは言語である。それを制限されることは、思考の自由を奪われることに等しいのではないか。先生の漢字制限に対する危機感がどれほどのもであったかは、残された言葉の端々から読み取ることしかできないが、深いものであったことは想像に難くない。

第28回

「果たして中国古代における共同体の基本構造を、実証的に追求することは不可能であろうか。こういう問題は、中国の古代研究の資料である甲骨文や金文・経籍、およびおびただしい考古学的な遺物の細心な研究の末に、はじめて決定できる問題であり、そういう努力の払われる前から結論を予定すべきではない。困難がどんなに大きくても、中国の古代社会の研究は、まずこれらの資料を克服し、そこに社会史的事実を発掘する、ということからはじめるべきであると考える。」

[『白川静著作集』巻4「中国古代の共同体」(平凡社 2000)]

 中国の古代共同体社会を、実証的に求めてゆくこと、先生はそれを回避して研究はあり得ないと考えておられた。この課題に対しては、はじめから不可能な事であると決定づけ、他の諸民族の歴史や未開社会のうちに認められる諸事実に本づいて、理論的に中国における古代社会を構成することが、唯一の可能な方法で あると考えている研究者もいたほどだ。
しかし白川先生がその困難な道を敢えて突き進み、多大なる結果を残された事はあらためて言うまでもない事実である。聳え立つ高い壁に直面した時、人はその壁を越える事を諦めるか、または回り道をして避けて通ろうとする。誰しもが挑まぬ事に、苦難を覚悟の上で尽力する。本物の研究というものは、器用に苦難 を回避する如才なさから育つのではなく、こういった困難に敢えて立ち向かおうとする気概から生まれるものかもしれない。

第27回

「中国古代の観念によると、宇宙は、上に円形のドームをなす空があり、下には水平な大地がある。これが彼らの考えていた宇宙像である。つづめていうと、それは「天円地方」である。そしてその「天円地方」を象徴するものは、亀のあの異様な姿である。背甲は隆起してその肢体をおおい、腹甲には地文があって大地についている。その安定した姿から、古代人は容易に宇宙の姿、われらが住む大地の姿を連想した。」

[『白川静著作集』巻4「卜辞の世界」(平凡社・2000年)]

 うらないに亀の甲羅が用いられるようになったのは、なぜか。白川先生は推測に過ぎないと断りながら、以上のような仮説を立てておられる。
実証的な裏づけを得られない問題には、豊かな想像力を駆使して、その真相に迫る。また一方では証拠を積み重ねることで、実証的な結論を導きだす。このふたつの絶妙なバランスが、ひとつの巨大な体系を織り成している。だから白川文字学はすごいのだと思う。

第26回

「立命館の夜学に入学して、その先生(注、小泉苳三先生)に邂逅したということが驚きであり、奇遇という感じであった。」

[『桂東雑記Ⅲ』苳三先生遺事(平凡社 2005)]

 人と人との出会いや繋がりは、実に不思議なものである。
当時、立命館の文学科は存亡の危機にあり、白川先生の入学された年に教員資格の検定試験に失敗すれば、廃科と決められていた。もとより中学の国語科の資格を得ることが目的であった白川先生も、この検定試験を受けて、その志を遂げられ、本学文学科もまた無事に存続と相成ったのであるが、この時白川先生をはじめ、立命館からの受験者を「猛特訓」(同章参照)されたのが、長野高等女専から招聘された小泉苳三先生であった。小泉苳三先生は歌人でもあり、『詩経』と『万葉集』の比較研究を目標とされていた白川先生は、以前から『短歌講座』という雑誌において小泉先生が書かれた論文を見ておられ、強烈な印象を受けておられたとのことである。しかし、まさかこのような形で「邂逅」することになるとは、思いもよらなかったことであろう。この白川先生と小泉先生との出会い一つを取り上げてみても、人と人との出会いの不思議さや運命的なものを感じずにはおられないのである。

第25回

「学問をする以上は、単なる紹介というようなものであってはならん。単に自分が理解し咀嚼するということで終わるものであってはならん。そこから何らかの意味において、新たなものを生み出し、そしてその源泉に向かってそれを寄与するというものでなくてならん。」

[「『學林』二十年に寄せる」、『學林』第三十八号(中國藝文研究會 2003)]

 新年を向かえ、新たな目標を立てた方も多かろうと思う。白川先生が残してくださったお言葉に、改めてお力を頂きながら、本年も自らを奮い立たせ、それぞれの信念を貫くべく、邁進していきたいものである。

第24回

「東洋の黎明を開いたこの古代文化の研究は、東洋を考え、東洋を愛し、その可能性を追求しようとする人びとにとって、ゆたかな問題領域をもつ世界ではないかと思うのである。」

[『白川静著作集』巻5 金文の世界(断代と編年)(平凡社 2000)]

 甲骨金文というのは、まさしく文化の黎明期の産物である。しかしながら、学問としての甲骨金文学というのは古い伝統があるものではなく、まだまだ新しい分野のものである。それ故か、この言葉からは新しい世界に想いを馳せる活き活きとした感情が伝わってくる。先生は亡くなる際まで精力的に活動されてこられたが、その活力の源泉は文字の可能性を信じる少年のような気持ちだったのかもしれない。

第23回

「漢字の体系は、この文化圏における人類の歩みを貫いて、その歴史を如実に示す地層の断面であるといえよう。」

[『白川静著作集』巻1 象形文字の論理(平凡社 1999)]

 先生はこのように、漢字の体系を地層の断面に喩えておられる。地層とはほとんどの場合、掘り起こしてみなない限り人目に触れることも無く、常に我々の足元に隠れ眠っている。まして運よく発見する事が出来たとしても、知識ある人でなければただの「層の文様」である。恐らく先生は、漢字の体系を分かりやすく換言し、「地層の断面」と喩えたに過ぎないのだろう。しかし通常の人ならば省みない足元の「土」を掘り起こしてそれを読み解く、先生は正しく「漢字体系の発掘者」と言えるのではないか。

第22回

「中国の文学史は、詩・文・戯曲の分野では、明らかに新旧文学の上に断点がある。ただ一つ小説においてのみ、それはかなり密接な関係でつづいている。それは小説という様式が、近代文学の殆ど唯一の様式となっているその後の展開からも考えられるように小説こそ近代文学に堪えうる要件を備えたものであったからである。」

[『中国文学史第三編・近世文学第二部・明清文学』
(立命館大学中国文学研究室油印・昭和30年代)]

 白川先生は甲骨学の専家であるが、文学史を講じるために、古代から清代にまで至る文学史を編んでいる。今回引用したのは、その文学史の最終段からである。その幅広い学識によって、ご自身の見解を交えながら、連綿と続く中国文学の流れを読み解かれている。
いまや一口に中国文学と言っても、その中には細分化され分裂した専門分野が多数存在しており、その全容を束ねようとする文学史の試みは、一層困難になってきている。
しかし、一点を凝視する専門知とともに、俯瞰的な全体知もまた、兼ね備えなければならない。そうでなければ専門が無数に枝分かれするにつれて、相互不理解が進行するだけだ。この甲骨学の専家から見た中国文学史のように、様々な専家が文学史を編むようになれば面白い。

第21回

「『楚辞』の「離騒」はかなりの長編ですが、原文を写して暗誦するように努めました。「離騒」の一篇を覚え込んでいると、この系統の辞賦の表現法が理解できます。のち『文選』などを読むとき大変役に立ちました。」

[『回思九十年』雲山万畳、猶ほ浅きを嫌ふ(平凡社 2000)]

 白川先生は大阪での書生時代のみならず、京都に出て本学の漢文学科で学ばれてからも、『楚辞』の「離騒」などを書き写し、暗誦することで学ばれたという。書き写し、暗誦するという学問の方法は、一見すると大変地味な方法である。しかし、同章において白川先生が「書いていると、文の構造など文法的なことも理解することができるように思いました」と書き写すことの効能について言われているように、大変有益な学問の方法であることがわかるであろう。後に白川先生が甲骨文の研究を始められたときも、まず最初に行なったことは、甲骨文の拓本をトレースすることであった(同書、「私の履歴書」参照)。独自の壮大な学問の世界を築かれた白川先生のことであるから、何かしら特別な学問の手法を持っておられたのではないかと思われなくもない。しかし、先生の学問の基礎が書き写し、暗誦することにあったということを知ると、当然のことながら学問には地道な努力が必要であるということを改めて思い知らされるのである。

第11回~第20回

第20回

「腐敗した文明社会が、その腐敗を自ら救いえないかぎり、結局は野蛮主義の社会の蹂躙に委ねられてしまうことは、東西の歴史を貫いて見られる、一の普遍的事実である。しかしこの腐敗した社会が、二千数百年前と同じように、必ず民衆の殺戮と混乱の犠牲なくしては、ついに改善しえないものとするならば、人間の理性はその進歩が余りにも遅く、余りにも無力に過ぎるといわなければならない。」

[『白川静著作集』巻8 屈原の立場(平凡社 2000)]

 最近、無慈悲で痛ましい事件が、毎日のようにメディアをにぎわせている。そのような事件の背景として、「社会の歪み」を指摘する声は多い。我々はこの「歪み」を、理性的に、文明的に解決していくことはできるのだろうか。
少なくとも、安易に全体主義的考えに同調することは危険に思える。確かな知識と志に裏打ちされた、知者の言葉にこそ耳を傾けるべきであろう。 

第19回

「嚴(いか)つかりし手のやさしさよ指細り細りたる手を靜かに握る」

[『桂東雑記Ⅲ』 卯月抄(平凡社 2005)]

 先生は学問に生きた人であり、寸暇を惜しんで研究を進められてきた。結果として大きな成果を残され、学問の世界に留まらず白川静という名は知られることとなった。ただ、研究という孤独な作業を絶え間無く続けることができたのは、その傍に夫人のつるさんの存在があったからだと、夫人と連れ添った七十年という月日が、そのまま先生の研究生活と言えることからもわかるだろう。そして、そのことを誰よりも強く先生が感じていたことは夫人の臨終の際に先生が詠まれたこの一句に表れている。今日、「白川静」の研究成果を享受できる背景に先生の家族の存在があることを心に留めておきたい。

第18回

 「問題の出発点は、適用すべき理論の選択ではなくて、まず必要な社会史的事実関係を、資料に即して解明するということにある。」

[『白川静著作集』巻10 農事詩の研究(平凡社 2000)]

 『詩経』詩篇研究を語る上で、先生はまずその詩篇を成立せしめた社会的基盤の解明を試みられた。中国の古代社会については、大体において二つの支配的な見解「奴隷制説」と「封建制説」とが存在していた。しかし先生は、いずれも中国の古代社会にそのままには適合しない概念であり、それらを以て社会史的体系を構成しようとするところに、根本的な疑問を抱いておられた。そこで『詩経』中の農事詩からその生産関係を明らかにし、それらの資料に基づいて当時の時代と社会を見ようとされたのである。
今日の我々は、世間に既に存在している見解に答えを重ねがちである。ある物事について、既に二つの大きな見解が提示されていた場合、右でもなく左でもなく、イエスでもノーでもなく、もう一度出発点に立ち返り、第三の可能性を探せる人間でいたい。

第17回

「滑沢なまでに磨き上げられている亀版卜片の象面は、一見して極めて無機的な抽象性を示している。それはもとより玉石という感じではない。玉潤というには遥かに遠く、また石の冷重という感じとも異なったものがある。一切の形質を捨象された死せる形相、生命的なすべての陰翳をとどめることのない極度の抽象性が、この無機的な象面を形成しているように見える。生ける形相が捨てられ、顕在的なものがすべて背後に隠されていることを以て抽象と呼ぶならば、それはまたこの抽象を通して、自由に神秘的な世界を回復する可能性をもつ、ということでもある。」

[『白川靜著作集』巻4 卜辞の本質(平凡社 2000)]

 白川文字学の端緒を開いた処女論文「卜辞の本質」。その冒頭部分では、亀版卜片を「一見」した所の瑞々しい印象がまず語られる。意味を与え、整理し、分類する以前の、こうした無垢な印象をいつまでも保持し続けられる人は、そうそういない。白川先生を「3000歳の青年」と評した人もいるほどだ(中野美代子「平凡社ライブラリー『文字逍遥』解説」平凡社・1994)。こうした先入観にとらわれない無から、あの壮大な白川文字学の体系は構築された。「卜辞の本質」には、これから行われる白川文字学のすべてが予告されていたと言えよう。 

第16回

「中国の古典には、人生のエッセンスが凝縮されておる。」

[『桂東雑記Ⅲ』文字を奪われた日本人(平凡社 2005)]

 中国の古典文学が一体どのようなものであるのかを全く知らずに、勝手な思い込みだけでそのイメージを抱いている人が少なくない。多くは堅苦しい、役に立たないなどと考えるのではあるまいか。しかし、そのような言葉では片付けられないところがあるように思われるのである。同章において「中国の文学者の多くは、政治や社会と深くかかわり、その現実のただなかで、人はいかに生きるかという問いかけをなし、表現や思索を深めてきました」と白川先生が言われたように、中国文学の担い手は現実の社会や政治と密接な関わりを持っていたのである。しかも、現実の政治理論にとどまらず、人間としていかに生きるべきかと絶えず問い続けてやむことがない。こうした性格を持つ中国の古典文学を「人生のエッセンスが凝縮」されていると言わずして何と言いえようか。珠玉とも言うべき先人の生き方や物の考え方を中国の古典文学から学ぶことは、必ずや我々の人生にとって有益な示唆となるに違いない。

第15回

「ことばはやはり、過去と未来とをつなぐものでなければならない。ことばの上でも、歴史を回復しなければならない。現在の振幅が、過去の共鳴をよび起す。そしてまた、未来を導き出すのである。」

[『白川静著作集』第三巻 国語雑感 (平凡社 2000) ]

 先生は、法による言語の規制、漢字制限の問題に大きな危惧を抱いておられた。日本語は万葉の昔から絶えず漢字を用い、豊かな表現がなされてきた歴史がある。そこに継承されてきた文化が途絶え、未来につながらないとすれば、それはやはり大きな損失と言わざるをえないだろう。近代化の進む今日、「ケータイ小説」といった不思議な文字世界も生まれているようだが、日本のことばは今後、どのような未来を歩んでいくことになるのだろうか。

第14回

「人に遭遇の差があるように、学術の研究にもまた運と不運とがあるようである。」

[『白川静著作集』別巻 白鶴美術館誌の刊行について (平凡社2006)]

 先生の代表的な研究成果たる金文通釈は、樸社という会での講義が元になっている。それが、白鶴美術館の支援によって館誌として世に出るに至り、その縁によって説文新義もまた刊行されることになった。いかに優れた研究であっても世に広く知られぬまま終わることがあることを考えれば、このような機縁が廻ってきたことが幸運であることは間違いない。ただ、機縁というものが運のみに左右されていないことは周知のとおりである。

第13回

 「東洋の古典を読むことは、大人の世界を学ぶことにほかならない。」

[『桂東雑記Ⅲ』文字を奪われた日本人(平凡社 2005)]

 漢文、古典の授業を激減させてしまった戦後日本の教育方針に対し、先生は強い憤りを抱いておられたようである。先生の世代の人々は、子供の頃から漢籍の世界への親しみが深く、先生はそれを「(漢籍に親しむことは)大人の世界をのぞき、大人の価値観を次第に身につけることであった。昔の人は、背伸びをしてでも大人の仲間に入りたいと思っていた。(中略)大人になりたいと思い、大人ぶって、そして本当に大人になっていったのです。」と述べておられる。漢籍への理解を半ば放棄し、欧米への歩み寄りへと舵を取った日本は、先人が積み上げてきた日本人における「大人としての在り方」と「大人になる方法」の確たる選択肢の一つを喪失してしまったのかもしれない。

第12回

 「手書きの文字は、まだ自己の一部である。それは脳細胞に直結した指先を通じて、指先の感触と視覚とが結び合うところに、一つの軌迹として生まれる。文字に逍遥することも、そのような世界でのことである。今後もなお、私と同じように、このような文字の世界に遊ぶ人があるのであろうか。」

[『白川静著作集』巻三 あとがき(平凡社 2000)]

 『白川静著作集』巻三に収められている『文字逍遥』は、文字世界を自分の手で写し取り、自己の一部としようとする、そうした姿勢に根ざした随筆である。文字は「書く」ものから、「打つ」ものへ、パソコンの普及によって急速にその筆記法を変化させた。書いたことはないが、打ったことのある漢字が、これからますます増えるかもしれない。複雑な心境の中、いまこの文章を打っている。

第11回

 「ただ受業の門下として、先生(注、橋本循先生)の学術に近づき、それを学ぼうとする努力は怠るべきではないから、私はつとめて先生の文章に接し、その学術を考え、その真髄をえたいと思った。先生は、自らはその学問や方法について、直接語られることは殆んどなかった。すべて師承のことは、「視て識るべし」という方針をとられていたように思う。」

[『白川静著作集12雑纂』蘆北先生遺事(平凡社 2000)]

 「蘆北」とは、白川先生の恩師・橋本循先生の雅号のことである。橋本先生は本学文学部の基礎を築かれた方であり、また白川先生と同じく福井県のご出身でもある。
白川先生は「すべて師承のことは、『視て識るべし』というような方針をとられていたように思う」と橋本先生のことを回想しておられる。白川先生はこうした橋本先生の方針を肌で感じ取り、それを早くから実践に移しておられたようである。「すべて師承のことは、『視て識るべし』」、要するにこの言葉は、学問を修めるにあたっては、その人自身が主体的に学び取ろうとする姿勢が何より大切であると伝えたかったのではないだろうか。

第1回~第10回

第10回

「『読書千巻、冷生涯』(逵雅堂先生の詩句)といわれる研究者の生活のなかにも、外にあらわれぬ思いはある。学術の問題を論じているときにも、その意識の底に連なる何らかの現実がある。」

[『孔子伝』文庫版あとがき(中央公論社 1991)]

 先生は、遠い古代のことを研究していながら、同時に現代に生きるものとしての問題意識を、常にその根底に置いておられた。だからこそ、先生の御論著には、魂がこもっているように感ぜられるのではないか。我々も、現実に生きている以上、現実に背を向けて生きることはできない。どのような生き方をするにせよ、常にその流れを見据えていたいものである。

第9回

「その最初に買いました書物は、これはどなたかから教えて頂いたのかもしれんと思うのでありますけれども、大槻文彦の『言海』という、国語の辞書であります。」

[『桂東雑記Ⅰ』読書の思い出 (平凡社 2003)]

 三つの辞書を作った根底に、先生が初めて買われた『言海』の存在があったと仰られている。よき人との出会いは言うに及ばず、よき書との出会いもまた、人の醸成に欠くべからざるもののようである。ただし、出会いの幸いを漫然と受け流すのではなく、一つの出会いを大切にする真摯な姿勢こそが重要であることは、長い月日の後に結実した先生の研究からも分かるだろう。

第8回

「漢字には明らかに文化があり、世界がある。しかも創成のときの形態を以て、今もなお霊妙な活力を持続している、生きている歴史であるといえよう。」

[『文字講話Ⅰ』まえがき (平凡社 2002)]

 白川先生は更に、このような漢字を、音訓両用、自在に国語として駆使することのできた日本人の資質に至っては、何びとも驚嘆することを禁じえないであろう、と述べておられる。我々は日々、このような生きている歴史をごく当たり前のように駆使し、互いに意思伝達を行っているわけである。果たして、生きた歴史を用いてどのような事を誰かに伝えられるのか、あるいは残すことが出来るのか。偉大なる業績を残された先生に、天から問われているような気がする。

第7回

「やどかりは、おのれの身に合う殻を求めて生きる。それを安住の地とするのである。外からみていくらか不相応な殻であっても、意に介することはない。ただその身に合わせて、殻をとりかえることがある。」

[『桂東雑記Ⅱ』やどかりの弁 (平凡社 2004)]

 白川先生が詩歌を愛誦することは、まるでやどかりが殻をとりかえるような具合であったらしい。中野逍遥・夏目漱石・陶淵明・蘇軾など。やどかりは殻がなくては生きられない。八十歳を過ぎてからは、陸遊の詩を好まれたようである。

第6回

「漢籍は骨董品の扱いをされ、その三千年の蓄積のなかに秘められている貴重な叡智と体験、比類のないすぐれた表現は、うち捨てられたままである。私はこの書(注『字通』)の語彙の引例に、かれらが苦心して成就したそのような表現の一斑を、文意の完結した形で提供したいと思った。」

[『字書を作る』「字通に寄せる」(平凡社  2002)]

 白川先生は76歳まで本学の特任教授を務められた後、字書三部作の作成に取りかかられた。その第三作目が『字通』である。白川先生は、ご自身が長い年月をかけて中国古典から得られた「叡智と体験」、「すぐれた表現」を、字書の作成によって広く一般にまで還元させようと意図されたのである。学問の蓄積を自己の内側だけにとどまらせておくのではなく、世の中に還元させるという姿勢に、白川先生の学問に対する一面が伺えるようである。

第5回

「生きることは一種の狂である。」

[『文字遊心』あとがき (平凡社 1990)]

 白川先生によるとこの「狂」は、「理性の対極」にあり、不可欠の精神活動である。「狂」は権威を否定し、その否定から理性が生まれ、理性に呼応して再び「狂」が生まれる。この「螺旋的」な循環が、人間の創造・発展の原動力となる。

 先生はこの言葉の後、「一生を終えるまで書物の中で遊んで暮らすのは、一生幼稚園で遊んでいるのとほぼ同じ」であり、「これも一種の狂」と書いておられる。先生の最後まで衰えることのなかった精力は、まさにこの「狂」を楽しむところに、その源泉があったのであろう。

第4回

「論語に「芸に遊ぶ」という語があり、孔子はそれを人生の至境とした。」

[『回思九十年』私の履歴書 (平凡社 2000)]

 探求者として一人孤独に進まれてきた先生だが、学芸の世界にあっては多くの人や書と交わり遊んだことが九十年目の言葉からうかがえる。人生の至境というのは孔子のころより古今変わらぬようである。

第3回

「知識は、すべて疑うことから始まる。疑うことがなくては、本当の知識は得がたい。疑い始めると、すべてが疑問にみえる。それを一つずつ解き明かしてゆく ところに、知的な世界が生まれる。」

[『回思九十年』私の履歴書 (平凡社 2000)]

 白川先生が、東洋の理想を求め志を抱いて出発された時、世の中は先生のお考えとは逆の方向に向かってしまった。世間では当たり前の事とされている事柄に、先生は敢えて疑問を投げかけたのである。この簡潔なお言葉の中に、およそ他人 では計り知れないような、先生の苦悩と格闘の日々が隠されているような気がする。今存在する情報に満足し、安易な安全地帯に留まることは、知識への扉を自ら閉ざしてしまっている行為に他ならない。あらためて身が引き締まる思いであ る。

第2回

「私の本来の志は、中学校の教師として、気ままな読書の生活を楽しむことにあったが、学部に籍を置くことになれば、そのようなわがままが許されるわけはない。」

[『回思九十年』私の履歴書 (平凡社 2000)]

 白川先生が、立命館大学文学部助教授に就任された折の回想である。志の赴くままの気ままな読書が、やがて収斂されて、白川先生の独創的な研究に結実したのでではないだろうか。

第1回

「学術の研究は、自己の内発的な要求に発するものであり、そのための条件を他 に俟つべきものではない。すでに志があるならば、ことは果敢に行なうべきである」

[「創刊の辞」、『學林』第一号 (中国藝文研究会 1983)]

 白川先生のことばは簡潔で、またそれゆえにしばしば激しく読む者の心を揺り動かす。本学文学部中文専攻の機関誌創刊に際して寄せられたこのことばは、志 を抱いていながら悩み、具体的な行動を起こすことに逡巡しているすべての人々を鼓舞してやまないであろう。
本コラム「白川静ことば抄」では、白川先生の多くの著作の中から、学問的に重要なことばや特に印象的なことばなどを抜き出して、皆様に紹介する。一週間ごとの更新を目指して、「果敢に行な」っていきたい。

白川静字説抄

「白川静字説抄」は、『字通』や『常用字解』等から抜き出した白川先生の字説を紹介し、コメントを附したものです。漢字の成り立ちは、多くの日本人にとって関心の深いテーマですが、先生の字説を読んだときの、「こんな意味があったのか」という新鮮な驚きや、「なるほど、だからこんなかたちなのか」と納得したりした気持ちを書いてみました。でもそれはあくまでも執筆者個人の感想であり、読者の皆様それぞれにいろいろな思いを抱かれることと思います。ぜひお読み頂いて、白川先生の字説からさまざまな思いを広げてみて下さい。

第91回~第96回

第96回

音(ショウ・ドウ)
訓(あこがれる)

【解説】
形声。
音符は童(どう)。童に撞、鐘(しょう)の声がある。〔説文〕十下に「意定まらざるなり」とあって、心の不安定な状態を言う。また昏愚の意がある。憧憬は遥かなものに思いをはせること。〔玉篇〕に憬を「遠行の兒なり」とする。

[『字通』(平凡社 1996)]


日本語で「あこがれる」というと、目をキラキラさせて遠くを見つめてうっとりする…といった状態を思い浮かべがちだが、解説にもあるように、もともと「心の不安定な状態」を指すとは少し意外である。ただ、「あこがれる」というのは要するに何かに心引かれたり、それを思ったりすることであるから、気になっていることや好きな人がいる時のそわそわした、落ち着かない感じが「心の不安定な状態」とも言えるかもしれない。 普段使う言葉でも、その字の起源を知ったり、意味の広がりを考えたりするだけで、その言葉に対するイメージがより奥行きのあるものになる。

第95回

音(エイ)
訓(よむ うたう)

【解説】
形声。
音符は永。永は水の流れが合流して、その水脈【みお】(水路)の長いことをいう。強く長く声をのばして詩歌【しいか】(漢詩と和歌)を歌いあげることを詠といい、「うたう」の意味となる。また「詩歌を作る、よむ」の意味に用いる。わが国で、声を長く引き節をつけて詩歌を歌うことを「詠【なが】む」というのも、その意味であろう。

[『常用字解』 (平凡社 2006)]


古来人々は歌を「詠」んできた。和漢の古典籍において詩歌を「朗詠」する場面は頻見し、現在でも詩吟を嗜んで珠玉の名句を「吟詠」される方がいらっしゃる。また、三国・魏の阮籍による「詠懐詩」八十二首は、深い思索に基づく格調高い作品群として著名である。このように記すと、「詠」は古典の詩歌にのみ関連する言葉と思われるが、「詠」とは「強く声をのばして」「歌いあげる」ことだ、との白川先生の【解説】に従えば、カラオケでの熱唱も一種の「詠」だとみなせよう。 つまり、古典の詩歌も現代のカラオケも「詠」という共通点があり、古典の詩歌が実は我々にとって身近な存在だと分かるのである。

第94回

音(カイ)
訓(おもう・いだく・なつく)

【解説】
形声。
旧字は「懷」に作り、?声。?は死者の胸もとに?(涙)を垂れて、その死を哀惜する喪葬の儀礼を示す字で、懐の初文。金文に「率?」「?刑」「神?」などの語があり、みな懐の意である。〔説文〕八上に?を侠の義とし、「衣に從ひ、?聲、一に曰く、?なり」とするが、声義ともに合わない。懐は死者を懐念する意より、わが心に懐うこと、ある情念。情操を心に懐包し、懐蔵することをいう。〔詩、召南、野有死麕〕「女あり春を懷ふ」は懐春である人を恋うる意、〔周頌、時邁〕「百神を懷柔す」は、神意を柔らげることである。

[『字統』 (平凡社 1984)]


ある程度の年齢の方には自明のことであるが、「ナツメロ」という言葉は、「懐かしのメロディー」というテレビ番組に因んだものである。人はしばしば歌を聞いて往時を思い出し、時には涙を流すこともあるだろう。懐かしむことと落涙とは、密接な関係があるのである。こうした涙は、「?」の字義の説明にもあるように、元来は亡き人を思いしのんで流したものであった。それは、人が最も懐かしく感じられ、そして涙を誘うものが人の死であるからであろう。 最近NHKで「花は咲く」という歌がよく流れているが、この歌を聴いて懐かしい人を想い、涙を流す方も多いのではないだろうか。

第93回

音(キュウ)
訓(きわめる・きわまる・くるしむ)

【解説】
会意。
穴と躬を組み合わせた形。穴の中に躬をおく形であるから、窮屈(心身の自由が縛られて、思うようにできないこと)の意味となる。極度に狭い所に身を折り曲げて入り込むので、「きわまる」という意味になる。躬は身をかがめた形で究と音・意味が近く、窮極(きわまり。はて)とはもと狭い所に身をかがめるという意味であった。それで極限の状態にあることを窮といい、「きわめる、きわまる」の意味となる。生活に「くるしむ」という意味にも使う。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


時代の閉塞感からであろうか、この「窮」という漢字を目にすることが多くなったように思う。 使われ方を見ても、身体的なものであることはほとんど無く、精神的なものばかりである。このような現状で選挙も近くなってきたせいであろうか、政治家の中には「救国」を叫び始めるものもいる。いままでの政治のありようを見ていると、「窮国」の間違いではないかと皮肉の一つも言いたくもなる。とはいえ、政治家を選ぶのは我々であるから、しっかりと見定めなければならない。私などは、「窮則變、變則通、通則久(窮すれば則ち變じ,變ずれば則ち通じ,通ずれば則ち久し)」[周易・?辭下傳]という言葉を実践する方に投票したいと思っている。 決して、「小人窮斯濫矣(小人窮すればここに濫す〈取り乱す〉)[論語・衛靈公]の言葉に見える「小人」を選択することの無いようにしたいものである。

第92回

音(トウ)
訓(しま)

【解説】
会意。
鳥の省略形と山とを組み合わせた形。山は海中に突出している岩島で、無人の岩の島には海鳥が多く集まるものであるから、そのような「しま」を島という。岩の島の大きなものを島、小さなものを嶼(しま)という。

[白川静『常用字解』(平凡社 2003)]


隣国と二つの島(諸島)の領有権を巡り、最近の日本は特に騒がしい。これらはすべて現在無人島だそうだが、領有権を主張する各国を尻目に、海鳥達が悠々と島の上空を飛んでいる映像や写真を目にすることもしばしばだ。 この字義が示すように、はじめは純粋に海鳥が集まるという光景から「島」という字が出来たのであろう。しかし、領有権を獲得することで国際的に保障される漁業範囲が拡大されたり、海底の資源を探り当てる技術までをも手に入れてしまった近現代の人々にとって、もはや島というものは海鳥が集まる自然の情景の一部ではなく、より多くの利益を得るための「縄張り争いの要地」に変わってしまった。 だからといって、そのことが愚かしいなどというつもりは全くない。領土の明確化は国家の一大責務であり、それを軽んじることは国民の安全を軽んじるのと同等と言っても過言ではない。しかしその元来の字義を知ると、なんとも複雑な思いを抱かずにはいられないのも事実である。

第91回

音(エイ)
訓(はな・すぐれる)

【解説】
形声。
声符は央(おう)。〔説文〕一下に「艸(くさ)榮(はなさ)きて實らざる者なり」とあり〔爾雅、釈草〕に「榮かずして實るを秀、榮きて實らざるを英と曰ふ」による。央に盛大の義があり、〔詩、小雅、白華〕「英英(あうあう)たる白雲」、〔呂氏春秋、古楽〕「其の音英英たり」のように、そのゆたかにしてさかんな状態をいう。花の美しいこと英といい、また人の俊英をいい、〔淮南子、泰族訓〕に「智、万人に過ぐる者、之(これ)を英と謂ふ」とみえる。

[新訂『字統』 (平凡社 2004)]


ロンドン五輪開催中は、日本選手の活躍に見とれてつい夜更かしをしてしまったという方も多かったことであろう。メダルの獲得数も気になったが、時差もあれば気候も違う英国で、力強く活躍した選手達には自然に頭が下がる。さて、この英の字義が花が咲いて実がつかないことであるとは私も調べるまで知らなかった。英吉利と当て字を考えた人が帝国主義全盛期のイギリスに対して含むところがあったのかは分からないが、なにも五輪に限らず、華だけでなく實につながる夏をすごしたいものである。

第81回~第90回

第90回

音(ヒツ)
訓(ふで・かく)

【解説】
会意。
竹と聿とを組み合わせた形。聿(ふで、のべる)は筆の形と又とを組み合わせた形。又は手の形であるから、聿は筆を手に持つ形で、ふでの意味となる。聿が筆のもとの字である。筆は竹材で作ることが多く、聿に竹をそえた筆は「ふで、ふででかく、かく」の意味となる。

[白川静『常用字解』 (平凡社 2003)]


近年は情報端末の普及により、手紙や文章を書く際に筆を手に取る機会が少なくなっている。筆の歴史は古く、文字が作られた時代からあったと言われる。筆は紙・墨・硯と共に文房四宝と呼ばれ、書道を嗜む人にとっては大切なものである。 便利なものが次々と出回る今日、時には筆を手に取り、お世話になった人、友人に一筆差し上げるのはいかがだろうか。

第89回

音(サツ)
訓(あきらか・みる・かんがえる)

【解説】
会意。
察も「察(み)る」とよむ字である。宀(べん)は廟、廟中に祖霊を祭ることを示す字である。廟中に祭って、神霊が感応し、その神意を示すことを「察(あきら)か」という。その神意を感得することを「察(み)る」といい、察知することをいう。察の音は?祭と同じく、おそらく直接的に、触れ合う意味であろう。際も神の陟降する聖梯の前で祭ることを示す字で、そこが神人の際、神と人との相会するところである。祭は人が神と相会するための儀礼であった。

[『文字逍遥』(平凡社 1987)]


この字を使う言葉として「洞察」「考察」などがあり、これらの熟語から「察」一字のイメージを考えてみると一応「鋭く感知する」という程度のことが思い浮かぶ。「みる」などの訓読みは常用漢字表には無く、従って日常でも使われないのだが、本来「みる」という訓読みがあることを知れば、字の起源・熟語の意味どちらにおいても、なるほど、と思う。現在では、熟語そのものだけで意味を覚えて使うことが多いが、白川先生は、常用漢字で本来の読みを制限していることが文字や熟語の理解の弊害となることを大変憂いておられた。このような例は他にも多くあるだろうが、言葉や文字を正しく理解する上で、日本の訓読みの価値が大きいものだということがわかる。

第88回

音(ロン)
訓(はかる いいあわそう とく)

【解説】
形声。
音符は侖。侖に次序を以て全体をまとめる意がある。〔説文〕三上に「議(はか)るなり」、また言地条に「論難するを語と曰ふ」とあって、討論することをいう。討は検討。是非を定め、適否を決することをいう。

[『字通』 (平凡社 1996)]


「論」は日常的に用いる漢字であり、その語義もさほど難しくないと思われる。ただ、「議論」の場でこの字の原義を体現できている人間がどれほどいるだろうか。例えば、国会のテレビ中継を見ていると、相手の揚げ足を取ることに専念する議員、あるいは武断的な言葉を延々と並べ続ける議員があまりに多く、しばしば暗澹たる気分に襲われることがある。また、日常生活での様々な「議論」の場でも、同じような光景をよく目にする。実り多き「討論」を行うには何が必要なのか。白川先生の【解説】を頼りに、お互い一度は熟考したいものである。

第87回

音(ロ)
訓(つゆ・うるおす・あらわれる・もれる)

【解説】
形声。
声符は路。〔説文〕一一下に「潤澤なり」、〔玉篇〕に「天の津液、萬物を潤す所以なり」とあり、雨露は万物を生育するものとされる。また暴露はさらされる意。本意のあらわれることを、露見・露呈、かくさぬことを露骨という。また人生の無常にたとえ、古楽府〔薤露行〕は挽歌で、「薤上の露 何ぞ晞き易き」とそのはかなさを歌う。

[『字統』 (平凡社 1984)]


この時期、植物が大雨などによって盛んに生い茂っているさまを目にする。こうした植物を見ると、「雨露は万物を生育するもの」という解説の言葉が改めて実感させられる。植物は、言ってみれば露によって生命力を与えられるのである。ところで、文学における露となると、はかないものに喩えられ、生命を与える存在として用いられることは少ない。これは、おそらく、人間が悲哀に深い共感を覚えることと無関係ではないだろう。

第86回

音(サイ・サ)
訓(ふたたび・ふたつ)

【解説】
象形。
組紐の形。組紐を組むとき、その器具(冉)の上下に一を加え、そこから折り返して、また組み続ける形であることを示す。折り返すことから「ふただび」の意味になる。再び織り返して織るの意味であるから、「ふたつ」の意味ともなる。冉を上下に組み合わせると冓(くむ)となる。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


最近、政治家が「○○再生」という言葉を口にすることが多くなったように思う。現状の国や地方のありように対して不満を持ち、在りし日への回帰を望む方が多いことを背景に、それに応える形でこの言葉を口にする政治家が多くなったのだろう。ただ、果たしてこの言葉の意味を正しく理解している人がどれだけいるだろうか。どうも、多くの方が「新生」と同義に捉えているように思えてならない。「再生」と言いながら、実際に行っているのは現状を徹底的に破壊した後に新しいものを作る行為であり、それを「再生」と捉えている政治家が多いように思われる。ここでお断りしておくと、私は破壊と創造を否定しているのではない。不要なものを壊し、新しいものを作るというのは必要な行為であると思っている。だからといって字義を無視し、前述のような行為を「再生」と表現することを黙認できないのである。
「再」の字が持つ原義は組紐を折り返し編み続けていくことである。国民が政治家に「再生」を望んでいるとすれば、それは連綿たる時間の中で編み続けられたものを、誤りがあれば根気よく繕い、後世に向けて折り返し折り返し編み続けていく行為ではないだろうか。うまくいかないからといって癇癪をおこし、全てを無かったことにしようとする子供のような行いを、国民が政治家に求めている「再生」とは思いたくないものである。

第85回

音 (エイ)
訓 (ながれ・ながい)

【解説】
象形。
水の流れる形。〔説文〕十一下に「水の長きなり。水の坙理の長永なるに象るなり」という。坙理とは水脈、ハイ(派字の?を取った部分)は分流、永は合流のところ。水勢の急疾なるところである。

[『字通』 (平凡社 1996)]


絶えることなく続く水(川)の流れから、実際の物質的長さを表すとともに、時間の長さを言う場合にも使われる字である。古代から川というものは我々の身近にあるものであり、より良い生活を営む為に必要不可欠なものであった。美空ひばりの歌謡「川の流れのように」も正に、時代の流れを川の流れに例えているが、その身近にある大いなる自然を時間的なものに例えるという作業は実はこの字が完成した頃から存在していたようである。

第84回

音 (ボウ {バウ})
訓 (さまたげる・そこなう)

【解説】
形声。
声符は方。方は架屍の形。これを呪禁として防ぎ守る意がある。[説文]十二下に「害するなり」とあり、〔六書故〕に「女人、他の進むを妨ぐるなり」とするが、巫女(ふじょ)をもって防遏(ぼうあつ)の術を施さしめた、古代の呪的な方法のなごりであろう。方は架屍、曷(かつ)は屍骨を用いて呪禁とする方法であった。方に従う字のうちには、そのような古い呪的方法のなごりを残しているものがある。

[新訂『字統』 (平凡社 2004)]


妨げるという字に、死体を呪術に用いるという恐ろしい意味が本来あったということに驚く。普段何気なく妨害という言葉を使うが、その妨の字形は本来の意味としての恐るべき呪術の痕跡をいまだに残しているのである。呪詛や怨霊を表むき恐れない我々ではあるが、これらの漢字は古代から続く人間の持つ暗い側面や恐怖を、もはやその自覚を失った現代人に代わってこれからも記憶し続けてゆくのであろう。そういう様に思うと、漢字という文字の不可思議な豊かさをも感じられるのではないだろうか。しかし、そうはいっても死んでから自分の死体を呪術に使われるというのはぞっとしない。是非とも勘弁してもらいたいものである。

第83回

音(カン)
訓(たま・たまき)

【解説】
形声。
声符は?。?は死葬のとき、死者の復活を願い、玉環を胸元に置き、復活の象として目をその上に加えた形。その玉を環という。[説文]一上に「壁なり、肉と好(孔)と一の若き、之れを環と謂ふ」とある。金文の?は目+衣+○、その○が環の形であるという。

[白川静[『字通』 (平凡社 1996)]]


先日観測された金環日食をきっかけに、金環という言葉や響きに興味を持たれた方も多いであろう。当日天を仰いだ人の脳裏には、金環日食のロマンと共に、これほどの天文ショーはもう再びは見ることが叶わないであろうというはかなさも感じられたのではないだろうか。この世に生まれた奇跡、人との出会い、若くして逝った知人、人はこれらの巡り合わせに感謝し、自分の存在を確認するのである。時には美しい空を見上げ、時節の移ろいを感じながら自分と向き合う余裕を持ちたいものである。

第82回

音(シ)
訓(おもう・かんがえる)

【解説】
思の正字は?に従い、その形声の字である。〔説文〕一〇下に「容なり」とするが、〔繋伝〕には「(ふか)し」とあり、〔書、洪範〕「思にはしと曰ふ」の文によるもので、(ふか)く思う意とするものであろう。?は頭蓋の形であるから、くさぐさの思いに頭痛のするようなさまをいう。細ももと?に従う字で、くさぐさと乱れ紛うさまをいう字であった。思とは心に思いなやむことをいう字である。

[『文字逍遥』(平凡社 1987)]


日本語で「おもう」と読む漢字はいくつもある。今試みに漢和辞典を引いてみれば、思・想・意・懐・念・憶などの漢字がすぐに検索できる。だがそれぞれの漢字の「おもう」という意味について、特に意識して考えてみる機会は少ないであろう。しかし例えば、「遠くにいる恋人を」に続けるには「思う」よりも「想う」にしたくはならないだろうか。それは「思」と「想」の漢字になんとなくニュアンスの違いを感じているからである。漢字の起源を学ぶことは、そのニュアンスの違いを学ぶことでもあって、私たちが普段、文学作品を読んだり手紙を書いたりする時にも大いに活かせるのではないだろうか。

第81回

音(セキ)
訓(おしむ)

【解説】
形声。
音符は昔。〔説文〕十下に「痛むなり」とあり、痛惜の意とし、〔広雅、釈詁一〕に「愛(をし)むなり」とあって愛惜の意とする。昔字に数しげく乱れる意があり、いくたびも思いかえすような情をいう。

[『字通』 (平凡社 1996)]


「サヨナラダケガ人生ダ」との言葉が端的に示すように、人は生きていると多くの別れを経験する。そして数ある別れのうち、「死別」が一番哀切であるのは言うまでもない。訃報に接した時には勿論この上ない悲しみを覚えるが、日々の暮らしでの何気ない瞬間に、亡き人がどれほどかけがえのない存在であったかを改めて思い知った時の心痛もまた、辛いものである。そしてこの心痛こそが、今回取り上げた「惜」

第71回~第80回

第80回

音(ヒ)
訓(つかれる・ものうい・とぼしい)

【解説】
声符は皮。〔説文〕七下に「勞るるなり」とあり、苦労して病困することをいう。病・罷・憊など、みな声義の近い字である。兵書の〔六韜〕に「疲労は撃つべし」とあり、敵の困憊に乗じて撃つべきであるという。

[『字統』 (平凡社 1984)]


大型連休も終わり、そして五月も折り返しを迎えた今、四月からの疲労が溜まっている方も多いのではないだろうか。また、この時期は新社会人や新入生に五月病という一種のノイローゼが起こる頃でもある。ところで、興味深いのは解説に引用された『六韜』の用例である。「敵の困憊に乗じて撃つべきである」との解説がなされているように、敵が弱っている隙をねらって攻撃するというのである。弱みに付け込んだ惨酷な攻撃方法と思われるかもしれないが、大変効果的な作戦であることには違いない。心身ともに疲労の色が現れつつあるこの時期だからこそ、『六韜』の「疲労は撃つべし」という言葉を肝に銘じ、休憩をしながら身体を労っていきたいものである。

第79回

音(ケツ)
訓(むすぶ・しめる)

【解説】
形声。
音符は吉。吉にとじこめる意があり、結ぶということも、そこにある力をとじこめる意味をもつものであった。〔説文〕一三上に「締むるなり」とあって締結の意。紐を結び合うことは、古代の歌謡では愛情を約する行為として歌われており、後世にも結不解・結綢繆(結びまとう)のような呪飾が喜ばれた。転じて結交・結情・結社・結怨のようにいい、また結構・結宇のようにも用いる。

[『字統』 (平凡社 1984)]


世の中には目に見えない結びつきが数多く存在する。紐を固く結びつけたならばなかなか解けないものだが、ゆるく結んだだけではすぐに解けてしまう。固く紐を結ぶ為には、結んだ両方の紐を同時に力一杯引かねばならない。一方をきつく引っ張っても片方がそうでければ結び目は強固なものにはならない。より強い結びつきとは、互いがそれぞれ強い力を以て結ぼうと思わない限り、決して強くはならないのだ。人同士の結びつきとは正しくそういうものであると思う。

第78回

音(ラン)
訓(あらし)

【解説】
会意。
山と風とに従う。山の嵐気、また緑にうるおう山気をいう。嵐気・翠嵐を歌うものは謝霊運の山水の詩などにはじまる。江南の生活が興ってのち、その嵐影湖光の好風景が、詩文の世界に入るようになった。わが国では、はげしい嵐をいう。

[『字統』 (平凡社 1984)]


以前、立命館大学で講師をされていた中国人の女性に、「嵐」という名前の方がおられた。 私のような日本人の感覚からすると、この「嵐」という漢字は激しい暴風の意味と考えるので、どうして親御さんはそのような名前を付けたのかと思ったものである。ただ、この字を『字統』で調べてみると、上記のような解説が附されている。考えてみれば、日本でも京都の「嵐山」という景勝地があることに気付くだろう。この地名も決して激しい嵐の起こる山ということでは無く、緑にうるおう山気に満ちた地であることを表している。そこで改めて「嵐」という名前を見ると、子供に対する両親の深い愛情が感じられる、とても美しい名前であることが分かる。

第77回

音(チョク・ジキ)
訓(ただちに・なおす・なおる・ただしい・なおい・ただ)

【解説】
会意。
省と?とを組み合わせた形。省は目の呪力(まじないの力)を強めるために眉に飾りをつけ、地方を巡察して不正を取り締まることをいう。?は塀などを立てている形で、隠れるの意味がある。直はひそかに調べて不正をただすという意味であろう。それで「ただす、ただしい」の意味となり、ただすので「なおい、まっすぐ、すなお」の意味となる。また「ただちに」の意味に用い、但と通じて「ただ」、宿直(宿泊して夜の番に当たること)のように「あたる」の意味にも用いる。国語では「なおす、なおる」とよみ、寸法を直す、故障が直るのようにいう。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


「直」は、現在では直線、直下などのようにまっすぐの意味で捉えられる事が多いが、先生の解説によると本来はひそかに調べて正すという意味であったらしい。誰も見ていないと思っていても誰かが見ていたり聞いていたりして、その事が調べあげられて問題になることも多い。だからこそ、誰かが見ているかもしれない、しっぺ返しを食らうかもしれない、などと意識する事で、悪事を行う事への誘惑をはね除けることができるのではないだろうか。ひそかに調べられても自分はやましいことはしていないと誇れるように、真っ直ぐ生きて行きたいものである。

第76回

音(カツ(クヮツ)・コツ)
訓(すべる・なめらか)

【解説】
形成。
音符は骨。骨に猾(わるがしこい)の音がある。骨の表面はきわめてなめらかであるので、水に濡れて「なめらか、すべる」状態を滑という。滑稽はもと酒器の名で、酌めども尽きぬものだという。それで転じて、よどみなく話すことをいう。またおどけて言うことが多いので、「おどけ」の意味となる。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


「滑」という文字は、その字の属する分類や意味をあらわす記号(「滑」の場合は?)と発音をあらわす記号(「滑」の場合は骨)の組み合わせによってつくられる、形声という造字法に属している。ただ、この字の場合「骨」は音をあらわすだけではなく、意味にも深く係ってきているようだ。現代では、骨の表面のなめらかさを実感する経験は、ほとんど無いが、甲骨を使用する古代なら、あたりまえの認識だったかもしれない。古代の世界に想像を膨らませながら、漢字の成り立ちを考えるのも、おもしろいのではないだろうか。

第75回

音(シン)
訓(すすむ・すすめる)

【解説】
形成。
音符は隹。隹に隼(はやぶさ)の音がある。隹は鳥の形で、鳥占いによって軍の進退を決め、進軍させることを進といい、「すすめる、すすむ」の意味となり、薦めるの意味にも用いる。[詩経、小雅、常棣]に、「脊令(鳥の名)原に在り 兄弟に急難あり」とあり、脊令は尾を振って波状に飛行し、ただならぬ気配を感じさせるので、急難の前ぶれとされた。隹は音符であるが、隹という意味をも含むところがあり、そのような関係を亦声という。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


 新年度が始まって、新たな生活をスタートさせた方も多いだろう。慣れない環境でのこれからの一年、少しでも前に進めるようにとの思いを込めて、この「進」という字を選んだが、その由来はすこし意外な内容である。みなさんは占いを信じるほうだろうか。情報番組や雑誌の占いコーナーをつい見てしまう、という程度の人が多いのではないだろうか。今の時代、軍隊や人生の進退という重大なことを占いで決定することはありえないし、当然、自分の進む道は自分で決めるものだと思う人が大多数だろう。しかし古代世界における占いは、今とは比べ物にならないほど重要な役割を果たしていたのである。そして、いま日常的に使う漢字からそれが読み取れるというのも興味深い点である。

第74回

音(シン)
訓(かい・はまぐり)

【解説】
形成。
音符は辰。辰は象形で蜃の初文。その肉は呪的な意味を持つものとして、祭儀や予兆のことに用いられた。またその殻は蜃器、耕耘の器として古くから農耕に用いられた。(中略)異説も多いが、鳥が水に入って貝となるという古い伝承があったことは疑いない。蜃は蜃気楼の話などもあって、殊に霊異のものとされていたようである。蜃器はまた祭器の飾りにも用いた。(中略)蜃は古く呪的な意味を持つものであり、辰に従う字形のうちに、なおそのなごりを残している。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


 ここで言う「蜃気楼の話」というのは、古代には蜃気楼は蜃が気を吐いて楼閣を作り出していると考えられていた、というものである。蜃とは、訓にもある通りはまぐりを指し、はまぐりが蜃気楼を起こしているのだという伝説をご存知の方もいるかもしれない。李時珍は『本草綱目』で「蜃與蛟蜃之蜃、同名異物(蜃(はまぐり)と蛟蜃(みずち)の蜃とは、名称は同じだが別のものである)」と言い、同書で「蛟之屬有蜃、其状亦似蛇而大、有角如龍状……能吁氣成樓臺城郭之状、將雨即見、名蜃樓、亦曰海市(みずちの一種に蜃というものがあって、外形は蛇に似て大きく、角があって龍のようである……気を吐いて楼台城郭を形成でき、雨の降りそうなときに現れ、これを蜃楼または海市と言う。)」と言っている。このように、蜃を蛇または龍だとする説もある。いずれにしても、蜃気楼は現代では原理の知られた自然現象であるが、その名称に古代の伝説の名残があるのは興味深い。

第73回

音(ケイ)
訓(かたむく・かたむける・あやうい)

【解説】
形成。
音符は頃。頃は上から降りて来る神を迎え、姿を正し、身をかがめて拝む形。身を前に傾けて礼をするので、頃にかたむくの意味がある。頃に人をそえた傾は、その神を迎えて拝む人の姿勢をいっそう明確にした形であり、「かたむく、かたむける」の意味となる。身を傾けることから、「あやうい」の意味となる。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


 「傾」字の由来は古代人の宗教的な行動様式にある、との白川先生の【解説】に興味を覚えた方も多いだろう。ただ、「かたむく」と「あやうい」とが共に「傾」字の訓になっていることにも注目したい。例えば、人間たるもの、何かに情熱を「かたむける」ことは大切である。しかし、自己の現状を客観視できずにバランスを失えば、おのずと「あやうい」状態に陥るだろう。「傾」字の訓からはこのような先人の訓戒が見て取れるが、皆さんはいかがお考えだろうか。

第72回

音(シュウ・ジュ)
訓(つく・つける・なる・おわる)

【解説】
会意。
京と尤とを組み合わせた形。京は出入口がアーチ形の都の城門の形。上に望楼(ものみやぐら)のある大きな城門で、京観という。尤は殪れている犬の形で、この字では犠牲(いけにえ)として用いる。京観の築造が終わり落成式を行うとき、犠牲の犬の血をふりそそいで祓い清める釁礼を行うことを就という。これによって京観の築造が成就する(完成する。実現する)ので「なる」の意味となり、成就することによってことが始まるので「つく(ある地位や状態に身を置くこと)」の意味となる。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


 解説に「京観の築造が終わり落成式を行うとき、犠牲の犬の血をふりそそいで祓い清める」とあることから、古代中国の習慣を残酷だと思われる方も多いのではないだろうか。確かに、人間に身近な動物の犬をいけにえにすることには抵抗を覚える。だが、物事の成就のうらには何かしらの犠牲がある可能性にも思いを致す必要がある。現代の豊かな文明社会の実現には、多くの生命や自然の犠牲があることを決して忘れてはならない。

第71回

音(デイ)
訓(どろ・なずむ)

【解説】
形声。
音符は尼。尼は尸と匕とを組み合わせた形で、二人がもたれあって親しみなじむことをいう。土が水を含み、水となじんでいる状態を泥といい、「どろ、ぬかるみ、なじむ、なずむ」の意味に用いる。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


友達と泥遊びをして、全身泥まみれで帰ってきた子供を頭ごなしに叱るのは少し待って欲しい。土と水がなじんで出来上がっていく泥のように、誰かと親しみなじめるのならば泥遊びも決して悪くはない。都市部では、子供達が自然と接する機会が少なくなったという危惧の念から、体験学習と称して積極的に泥いじりをさせる事もあるそうだ。自然と触れ合うだけでなく、そこにいる仲間達と馴染む為の「子供同士の社交手段」の一つとして、泥遊びというものを捉えてみてはどうか。

第61回~第70回

第70回

音(ガ)
訓(め・きざす)

【解説】
形声。
もとの字はに作り、音符は牙。牙は獣の牙で、強くて鋭く曲がった形をしている。草や木の芽も、そのような力を含んで生えてくるので、草かんむりをつけて芽といい、「め、芽ぐむ、きざす」の意味に用いる。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


まだ雪が残る地域もあるだろうが、徐々に春の気配が感じられるようになってきたのではないだろうか。いままで枯草で覆われていた場所や、秋に葉を落として枝のみとなっていた木々に、鮮やかな新緑の芽吹きが見え始める。草かんむりに牙という、考えてみればおかしなつくりをしているこの「芽」という漢字の成り立ちも、新芽の持つ生命力の強さと勢いを見れば理解することが容易なのではないだろうか。

第69回

音(ビ)
訓(そぐ、かすか、ひそか)

【解説】
形声。
もとの字は微に作り、音符はび〔微に彳を取った字〕。〔微に彳を取った字〕は長髪の巫女〔微に彳と攵を取った字〕に攴(攵。うつの意味)を加えている形で、敵方の巫女を殴って敵の呪力(まじないの力)をなくする呪術をいう。彳は行(十字路の形)の左半分であるから、道路において〔微に彳を取った字〕の呪術を行うことを微といい、「なくする、そぐ、よわめる」の意味となる。なくする、よわめるの意味から「かすか、ほのか、ひそか」の意味となる。敵軍の眉飾りを加えた巫女を捕えて殺し、その呪力を失わせることをベツ〔蔑の戌の部分が伐になっている字〕といい、「ないがしろにする、はげすむ」の意味となる。〔蔑の戌の部分が伐になっている字〕はのちに蔑に作る。微・蔑は相似た呪的な行為をいう字である。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


微という文字は微雨、微々、微風などから、少しだけあるというプラスの方向性を持つ意味で捉える方も多いと思うが、先生の解説によれば、微は道路において呪力をなくす呪術を行うことから、よわめるなどのどちらかというとゼロへと向かうマイナスの方向性を持つ意味であった。このように同じ漢字でも、古代と現代ではニュアンスが変化するものもあり、古代と現代の感覚の違いを知るということも歴史や文学を学ぶ上でのおもしろさの一つであろう。

第68回

音(シン・ジン)
訓(つかえる・おみ)

【解説】
象形
上方を見ている目の形。大きな瞳を示している。殷王朝では王子の子を小臣といい、神事につかえるべき者とされた。神につかえる者には眼睛(瞳のところ)をことさらに傷つける者があり、?は臣(大きな瞳)に又(手の形)を入れて眼睛を傷つけ、視力を失わせることをいう。そのようにして視力を失った瞽者(盲目の人)が神につかえる臣とされた。神につかえる者の意味から、のち君につかえる「おみ、けらい」の意味となり、さらに他につかえる者すべてをいうようになり、「つかえる」の意味に用いる。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


臣という文字が、目の形をかたどっていることから、臣下は皇帝や人民に目を配って政治を行うものである、という解釈を聞いたことがあるが、どうやらそれは間違っているようだ。君につかえる「おみ、けらい」の意味以前に、神につかえる瞽者(盲目の人)が臣という文字であらわされていたらしい。われわれが一般的に使用する意味だけではなく、漢字が作られた当時の風習・文化を把握することで、漢字のもつ奥深さを、より深く理解できるのだと改めて感じた。

第67回

音(イン(ヰン)・エン(ヱン)・ウン)
訓(まるい・かず)

【解説】
象形
古い字形は、円い鼎(もと煮炊きするための青銅器で、祭器として用いる。貝は鼎の省略形)の上に、口の部分が円いことを示す○(口)を加えたもので、円鼎をいい、「まるい」の意味となる。またその全体をまるく包んで圓(円)の字が作られた。員はもと円鼎の数を数えたので、「かず」の意味に用いる。のち圓(円)とは別の字となり、「かず、かずに入る人」の意味に使われるようになった。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


現在、定員・会員・店員などの語に使う「員」の字は、「かず、かずに入る人」の意味で用いており、もともと持っていた「まるい」の意味ではふつう用いない。このような意味の変転、意味が派生して増えたり逆に使われなくなって消滅したりすることは、文字、言葉の世界では当たり前に起こることである。例を挙げればキリが無い程であろうが、このことは一つの文字や言葉がいくつもの意味を含むということであり、その文字、言葉に奥行や深みを与えている。この点が(特に文学においては)言語というものの面白さであり、同時に難しさでもあるだろう。普段当たり前に使う言葉に対してもこのような視点をもってみると、日常の見え方が変わってくるかもしれない。

第66回

音(キュウ(キウ))
訓(たま)

【解説】
形声。
音符は求。求は剥ぎ取った獣の皮の形で、裘(皮衣)のもとの字である。求はくるくると巻いて丸くすることができるものであるから、丸いものをいう語となり、球とは丸い「たま」をいう。古くは王の位を象徴するものとして小球・大球の授受が行われた。球は精気によって生まれ、霊の象徴とされるもので、わが国では「たま」といい、霊(たましい)と語源が同じで、霊の乗り移るものと考えられたようである。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


昨年12月10日、皆既月食があった。観望された方も多いと思う。言うまでもないことだが、普段の月の満ち欠けと違って、月食で月が欠けて見えるのは、月面に地球が影を落としているからである。その影の縁はまるく、改めて地球がまるいことを知ることができる。ところで球は、無重力状態で水滴が球形になるように最も安定した形状であり、表面積が同じであれば最も体積が大きくなる立体である。全くの比喩であるが、我々も心身ともにこのように安定し、多くの知識や情緒を内包した人間になりたいものである。古人が球を「霊(たま)」と言ったのは偶然であろうか。

第65回

音(チョウ)
訓(ながい・かしら・たけ)

【解説】
象形。
長髪の人を横から見た形。長髪であるから「ながい、ながさ、たけ」の意味となる。長髪の人は老人であり、氏族の指導者としてたっとばれたので「かしら、たっとぶ」の意味となり、長者(徳のすぐれている人。また、年上の人。また、金持)・長上(目上の人)・長老(年をとった人を尊敬していう語。指導的な立場の人)・会長(会を代表する人)・社長(会社を代表する最高責任者)のようにいう。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


「長」には「ながい」と「かしら」の訓があるが、その関係をご存知でなかった方は、白川先生の明快な説明で理解できたと考える。ところで、昨今各種団体の「長」の資質を問う報道をしばしば見聞する。ある記事では「長」の指導力不足を嘆き、ある記事では独断専行の「長」の在り様に憤る、といった具合である。ただ、批判の対象となる「長」が、我々の中から選ばれたことを決して忘れてはなるまい。「長」を選ぶとは、我々の見識が試されることに他ならないのである。

第64回

音(ショウ)
訓(まつ)

【解説】
形声
音符は公。公に頌(たたえる)・訟(うったえる)の音がある。「まつ」をいう。常緑の木で、節が多く、高くそびえる姿が愛されてめでたい木とされていたのであろう。[詩経、小雅、斯干]に「竹の茂るが如く松の茂るが如く(松の栄えるように)」、[詩経、小雅、天保]に「松柏(松と柏)の茂るが如く」のように、古くから祝頌(祝いたたえること)の語に用いている。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


松は長寿の対象として祝い事によく用いられ、我々になじみ深い植物の一つである。ではなぜ長寿の対象としてもてはやされるのかというと、解説に引かれる『詩経』の用例のように、生命力に富むためである。ところで最近、そうした松の特質を改めて痛感させられたことがある。それは先日の東北大震災の際、海岸の松原が壊滅的な被害を受けた中、唯一生き残った岩手県陸前高田市の「太郎松」の報道である。この松は今や人々の心の支えとなっているという。松といえば祝い事を連想することのほうが多いかもしれない。だが、今回取り上げた「太郎松」のように復興のシンボルともなり得ているのは興味深い。

第63回

音(ネン)
訓(とし・みのる)

【解説】
会意
禾と人とを組み合わせた形。禾はいねの形をした被りもので、稲魂(稲に宿る神霊)の象徴であろう。田植のとき、豊かな稔りを願って田の舞をする男の人の形を年といい、「みのり」の意味となり、禾は一年に一度稔るので「とし」の意味となる。甲骨文に「年を受(授)けられんか」と占う例が多い。禾を頭に被って低い姿勢でしなやかに舞う女の姿は委で、豊年を祈って男女二人が舞い祈った。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


解説にもあるように、この「年」という漢字は豊かなみのりを祈念する人間を表している。ただ、多くの人はこの「年」という漢字を暦の上の一定の期間としての意味であると理解し、その本来の意味を知っている方は少ないように思う。新しい年を迎えた今、この「年」という漢字の本来の意味を知ったうえで、豊かなみのりある一年であるよう祈念してみては如何だろうか。

第62回

音(シュウ)
訓(おわる・おえる・おわり・ついに)

【解説】
形声。
音符は冬()。冬は編み糸の末端を結びとめた形で、終のもとの字である。冬を四季の名の冬に専用するようになって、糸の末端を示す意味で糸へんを加えて終の字が作られた。糸の末端を結んで終結(おわり)とすることで、すべてことの「おわり」、ことが「おわる」、ことを「おえる」の意味となる。始めから終わりまで全部を終始といい、また「ついに」の意味にも用いる。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


「終わる」という語を聞くと、人はそれぞれ様々な事柄の「終わり」を想像することだろう。一年の終わり、辛い事の終わり、あるいはその逆・・・。しかし、終わったという状況を客観的に見られているうちは、それに続く「始まり」が期待できる状況であると言っても過言ではない。生き続ける限り、たとえ一つの事柄がどのような形で終わったとしても、それは次の始まりへの節目でしかないのだ。今年も終わりに近づいている。あともう少しで終わるではなく、あと少しでまた新たな事が始まる、という心持ちで前向きに過ごしたいものである。

第61回

音(ゼン)
訓(よい・ただしい)

【解説】
会意
もとの字は譱に作り、羊と?とを組み合わせた形。羊は神判(神が裁く裁判)に用いる解?と呼ばれ羊に似た神聖な獣。?は両言。言は口(サイ)(神への祈りの文である祝詞を入れる器の形)の上に辛(刑罰として入れ墨をするときに使う大きな針の形)を置き、もし誓約を守らないときは、この針で入れ墨の刑罰を受けますと誓う神への誓いの言である。?は神判にあたって神に誓いをたてた原告と被告で、譱は原告と被告の前で神判を受け、善否を決することを示す。譱(善)は解?を中心に、原告・被告の誓いのことばをしるした字で、裁判用語であったが、のち神の意思にかなうことを善といい、「よい、ただしい」の意味となる。また「すぐれう、たくみな、したしむ」などの意味に用いる。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


古代では神というのは見えない存在であり、人々に畏怖されるものであった。その神に対して誓うというのは並みの覚悟ではできないことであったろう。だからこそ人々が恐れる神の前で約束を違えたら入れ墨の刑を行うと誓い、リスクを負うことで正しさを証明したのである。生きているとどうしても様々な誘惑に悩まされる。魅力的な誘惑に対して、悪いと思いながらも手を染めようとしてしまうことも多いであろう。だが、人と約束をするからこそ守れることも多いと思う。もし、誘惑されるような状況に陥ったのなら、畏怖する人物の怒った顔を思い浮かべてみるとよいかもしれない

第51回~第60回

第60回

音(セン)
訓(さき・まず)

【解説】
会意
止と人(儿)とを組み合わせた形。止は足あとの形で、古い字形は之(ゆく)と同じで、ゆくの意味となる。人の上に止を加えて、行くという意味を強調し、先行(他より先に行くこと。先頭を行くこと)の意味となる。甲骨文によると、殷代には異民族の人を先行させて道路の安全を確かめる儀礼があった。未知の地には邪霊がいると考えられ、道路を祓い清める儀礼が行われたことは、途・道などの字によって知られる。先行の儀礼をいう先は、のち「さき・まえ・さきに・まず」の意味となり、その意味を時間の関係に移して「むかし・以前」の意味となり、先賢(昔の賢人。先哲)・先祖(家系の初代。また、初代以後、現存者以前の人々)という。また未来のことについても、先見(将来のことを見通すこと)・先知(前もって知ること)のようにいう。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


「先」が、止と人(儿)とを組み合わせてできた文字だということは、解説を見て、初めて分かるのではないだろうか。さらに、異民族を先に歩かせ、道路の安全を確かめる儀礼が、のちに「さき・まえ・さきに・まず」の意味となったことも、解説を読んで、初めて知る方がほとんどだと思う。文字の成り立ちにおける宗教的、呪術的背景を指摘された、白川先生だからこそできる解説だと、改めて感じた。白川先生のような独自の見識を備えるということは、一朝一夕にできることではないが、少しでも自分の考えが持てるように、たゆみない努力をしていきたいものだと思う。

第59回

音(コウ(クヮウ)・オウ(ワウ))
訓(き・こ)

【解説】
象形。
甲骨文字の字形は火矢(火を仕掛けて射る矢)の形で、その火の光から「き、きいろ」の意味となるのであろう。金文の字形は佩玉(腰をしめる革帯につり下げた玉)の形とみられ、傍らに玉をそえた字形もあるが、それは?(佩玉の玉)の象形とみてよい。腰に帯びる佩玉の組み合わせた形があたかも黄の字形になり、またその薄い飴色が黄色とされた。五行説では黄色は中央の色であるから、天子(君主)の位にたとえ、黄門(宮門)のようにいう。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


中国で縁起の良い色といえば赤と黄である。解説にもあるように黄は皇帝の色でもあるので、京劇などでもふつう皇帝役は黄色の衣装を着ている。 字の起源であるが、甲骨文字で火矢の火から黄色の意味となったというのは興味深い。現代人なら「黄」の字を見ても誰も火の色とは連想しないので、意外に思われるだろう。色に関する感覚というのは当然時代や国によって大きく変わってくる。色に限ったことではないが、私たちが歴史や文学を学ぶ上での重要かつ面白い点の一つは、このような昔の人の感覚を探ることではないだろうか。

第58回

音(ハチ・ハツ)
訓(やつ・や・やっつ・よう)

【解説】
指事。
左右にものが分かれる形。もと算木(数を数えるときに使う道具)で数を示す方法であり、数の「やつ」を示す。半(半)は犠牲(いけにえ)として供える牛を真中で二つに分ける形で、「わかつ、わける、なかば」の意味となる。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


「魚」が「余(あり余る・余裕がある)」と通じ、「猪」が「儲(蓄える)」と通じるため縁起がよいとして好まれるが、中国では同音や近似音による連想が主になっていることが多いように思われる。「四」などは日中で「死」に通じるとして嫌われるが、これは両国ともに音による連想である。「八」は、中国では「発財(裕福になる・お金持ちになる)」の「発」と通じるとして大変好まれ、日本では「末広がり」ということで縁起がよく好まれる。これなどは、一方では音による連想、一方では形による連想と、発想が異なっているにもかかわらず、ともに「縁起のよい象徴」となっているところが興味深い。

第57回

音(ジュウ)
訓(あてる・みちる・こえる)

【解説】
象形。
肥満した人の形。とくに腹部が肥満した人の姿のようである。肥えている人は体力・気力は充溢している(満ちあふれている)とされて、充満(いっぱいになること。満ち足りること)の意味となる。盥に入って水をあびる人の股がもりあがっているのを盈(みちる)という。充盈(満ち足りること)とは、もと人の肥満している姿をいう。「みちる、みたす」のほかに、充当(ある目的や用途にあてること)のように、「あてる」の意味にも用いる。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


【解説】にある通り「充」は「みちる」「あてる」の意味であり、好ましい状態を示す場合が多いようである。ところで、「充」字が「腹部が肥満した人の姿」に由来するとの説明に驚いた読者諸姉兄もいるだろう。「メタボリック症候群」という言葉に代表されるように、現代社会において肥満は好ましくない状態だが、昔は寧ろ肯定的に評価された。何故なら、食糧事情の悪い古代社会では、肥満は権力や富の象徴でもあったからである。このように、社会状況の変化を踏まえて文字の釈義を読むのも、漢字学習における楽しみの一つである。

第56回

音(キュウ・グ)
訓(もとめる・かわごろも)

【解説】
象形
剥ぎ取った獣の皮の形。その皮をなめして(毛と脂肪を取り去って柔らかくして)毛皮の服にしたものが裘で、求は裘(かわごろも)のもとの字である。求は古く「もとめる」の意味に使われる。それはこの獣の持つ霊の力によって祟りを祓い、望むことが実現するように求めるからである。もし災いを免れようとするときは、この獣の皮を殴って災いが減少することを求めた。それを救といい、救済する(すくう)の意味である。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


解説に「獣の持つ霊の力によって祟りを祓い」、「獣の皮を殴って災いが減少することを求めた」とあることから、霊的な力にすがることで災いを免れようとするのは今も昔も変わらないようである。ところで、現在と比べ科学技術も未発達な古代中国において、こうした習慣はどれほど人々の心を慰めたことだろうか。おそらく、単なる気休め程度ではなかったはずである。というのも、古代中国においては現在の我々とは比較にならないほど霊的な力を意識し、それが他の漢字の解説にも少なからず反映されているからである。

第55回

音(シ)
訓(かみ)

【解説】
形声
音符は氏。「かみ」をいう。[説文]十三上に「絮(わた)一苫なり」とあり、古くは古わたなどを笘(すの子)ですいて板に張り、紙を作った。それで紙は糸へんとなっているが、古くは帋とかかれ、布を字の要素とする字であった。紙は二世紀初めの後漢時代に蔡倫が発明したとされるが、蔡倫は樹膚(木の皮)・麻頭(麻くず)・敝布(ぼろ布)・魚網の類を用いて紙を作った。紙の名は蔡倫以前にすでにあったが、蔡倫はその製法を大きく改善させた蔡倫紙を作り、その紙は蔡倫紙とよばれて珍重された。唐軍とイスラム軍が戦った七五一年のタラスの戦いで捕虜になった中国人がアラビア人に紙すきの方法を教え、紙すきの技術はアラビア人の手を経てやがてヨーロッパにも伝えられた。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


私たちが普段何気なく手に取る書籍は、そのほとんどが千年以上も前から紙で作られている。それは、記録媒体として紙が優れた特性を有していたからである。紙が発明されるまで用いられていた石版や動物の骨、木簡や竹簡などは生産量も低く、筆記にも適さず、また紙に比べ重くかさばるものであった。そのため生産性も高く、軽くて筆記しやすいという利便性を持つ紙が記録媒体の主役になったのである。そして、千年以上の長きにわたって紙が用いられた結果、数多くの先人たちの言葉を今尚受容することが出来るのである。
ただ、近年に至って紙は記録媒体としての役割を終えようとしている。紙よりも利便性が高い記録媒体が現れたからである。また昨今は書籍に関しても、徐々に電子化が進んできている。そう遠くない未来、紙媒体の書籍に会うこともなくなるのだろう。時代の流れとして、より利便性の高いものに人々の関心が向くのは仕方のないことかもしれない。ただ、手に取ったことを証明する汚れが一切付かない書籍に、寂しさを感じるのは私だけであろうか。

第54回

音(セン)
訓(えらぶ・そろう)

【解説】
形声
もとの字はセン(?+)に作り、音符は(巽)。は神前の舞台で、二人の者が並んで舞う形。このようにして神に舞楽を献ずることを撰(そなえる、えらぶ)という。[詩経、斉風、猗嗟]に「舞へば則ち選ふ」(舞えばそろう)と、そろうことをいう。二人の者がそろって舞うことから「そろう」の意味となり、神前で舞う者は撰ばれた者であるから「えらぶ」の意味となる。神に供える主食を饌(そなえる、たべもの)という。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


来月下旬、とある大都市で選挙が行われることとなり、目下世間の注目を集めている。立候補した者の中で特に注視されている二名は、立場は違えど元々は協力し合い、歩みよろうとしていた関係であったそうだ。「選」の字義は、もとは二人の者がそろって舞い、その神前で舞う者は撰ばれた者であることから「えらぶ」という意になったという。二人そろっているはずの「舞」の状態が、更に一人に選ばれる為の選挙戦の舞台を「舞う」ことになるとは…。それぞれに選ばれた二人が良い方向へと歩みを揃える、という事も大事ではないだろうか。おそらく叶わぬであろうが、願わくば今回の立候補者にこの字義を見てもらい、今一度原点に立ち返って市民の為に良い方向へと「舞って」欲しいものである。

第53回

音 ヘン
訓 かわる・かえる・あらためる・みだれる

【解説】
会意。
もとの字は變に作り、?と攴(攵)とを組み合わせた形。言は神への誓いのことばで、その誓いのことばを入れた器の左右に糸飾りをつけた形が?。攴にはうつの意味があるから、誓いのことばの入った器をうつことを變といい、神への誓いを破り、改めるの意味となる。それで「あらためる、かえる、かわる、みだれる」の意味に用いる。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


解説によると神への誓いを破り、改めるという意味が変であるとされている。当時、神に対しての誓いを破り改めるというのは相当のものであっただろう。変わるということはそれだけの覚悟が必要なのかもしれない。今日でも考えを変えると人の信頼を裏切ったと判断されてしまうことが多い。神と人との違いこそあれ誓いを破るという心理は古代から変わらず、変化というものはそういうリスクを負うものだと心の内に留めておきたい。

第52回

音(シュウ(シウ))
訓(あき)

【解説】
会意
もとの字は龝に作り、禾と龜(亀)と火(?)とを組み合わせた形。禾はいね、穀物で、龜の部分はいなごなどの虫の形。秋になるといなごなどが大発生して穀物を食い、被害を受けるので、いなごなどの虫を火で焼き殺し、豊作を祈る儀礼をしたのであろう。その儀礼を示す字が龝で「みのり」の意味となる。のち虫の形の龜を省略して火だけを残し、秋となった。甲骨文字に虫の類を火で焼く形の字があるが、この儀礼と関係があろう。この儀礼は秋の虫害に関係があるので、季節の「あき」の意味に用いられるようになったのであろう。甲骨文字には、四季の名の春・夏・秋・冬を示す資料はない。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


解説で述べられているように、もともと「秋」という文字は、豊作を祈る儀礼を示すものであったが、後代になって季節の「あき」の意味に転化されていったようだ。こうして見てみると、「秋」という文字は、気候や自然の風景の変化などの情緒的な要素を持つ字を組み合わせて作り出されたものではなく、収穫という、より現実的な生活に即して生み出されたことに気づく。漢字一つを取ってみても、古代の人々の暮らしぶりや考え方を垣間見ているようで、非常に面白い。

第51回

音(キョウ(キャウ))
訓(おどろく・おどろかす)

【解説】
形声
音符は敬。敬は祈りをする者(苟)を殴って、これを?めるという意味である。馬はとくに驚きやすい動物であるから、?められて(注意されて)驚く馬が驚で、「おどろく」という意味を示した。驚駭(おどろくこと)の駭(おどろく)も、馬がおどろくというのがもとの意味であった。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


漢字の意味とは一見無関係そうな「馬」という字がどうして「驚」の中に入っているのか、解説を読むと納得する。このように、漢字のもとの成り立ちと現在の意味の関係や、古代人の発想に驚かされることが多々あり、意外なことを発見しては驚くものである。この驚きこそ、もっと知りたいという知的好奇心の源ではないだろうか。そう考えると、学習や勉強というのは、驚きの連続であるのかもしれない。またこれは、勉強に限らず日々の自分自身の成長につながるものでもあるだろう。ささいなことにでも驚き、少しでも学びのある毎日にしたい。

第41回~第50回

第50回

音(フ・ブ・ヒ)
訓(はなぶさ・ず・しからず)

【解説】
仮借。
否定・打消の「ず、しからず」に仮借して用いる。もと象形の字で、花の萼柎(萼としべの台)の形であるが、その「はなぶさ、へた」の意味に使用することはほとんどない。金文では「不(おほ)いに」と、「丕」と通じて「おおきい」の意味に用いる。否定「ず」の意味はその音を借りる仮借の用法であるが、甲骨文以来否定の意味に使用されている。不のしべのふくらみ始めた形が丕、しべの台の部分が実になった形が否、実が熟して剖れようとする形が?(はい)、?を刀(?(りっとう))で二つに分けることを剖という。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


漢字の成り立ちは、その造字の法則によって6種類に分けられ、これを「六書」という。本稿で仮借(かしゃ)の文字を紹介するのは初めてであるが、この仮借も六書の一つである。造字の法則と言ったが、厳密には、六書のうち仮借と転注は造字法と言うより用法である。仮借とは、既成の文字の本来の意味とは関係なく、その文字の音を借りて異なる意味を表す用法である。この「不」をはじめ否定詞や代名詞など、文字で表しにくい言葉を表す場合、仮借の用法であることが多い。「文字で表しにくい言葉」も文字化しなければ、事象を記録できないわけだが、とはいえ「文字で表しにくい言葉」を文字化するのは困難であったろう。個人の力で短期間に制作・定着したものではないとはいえ、古代人の発想力には驚かされる。

第49回

音(リ)
訓(おさめる・すじ・きめ)

【解説】
形声
音符は里。[説文]一上に「玉を治むるなり」とあり、[韓非子、和氏]に「王乃ち玉人(玉を磨く人)をして其の璞(粗玉)を理めしむ」とあり、玉を磨きあげて、玉の表面のすじをあらわすことを理といい、「おさめる、みがく、ただす」の意味となる。皮膚のきめ、皮膚の細かいあやを肌理といい、「きめ」の意味にも用いる。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


現在の日本社会では、「理性」の力が試される場面が増えていると見受けられる。例えば、様々な情報が氾濫する中で、その情報の真偽や価値を正しく見極めるには、一人ひとりの「理性」の助けが必要である。従って、「玉を磨きあげる」かのように、自分の「理性」を向上させることが肝要なのではなかろうか。事象の表層にばかり捉われるのではなく、本質を見抜けるような「理性」をお互い身につけたいものである。

第48回

音(ニン・ジン)
訓(しのぶ・しのばせる)

【解説】
形声
音符は刃。[説文]十下に「能くするなり」とあり、忍耐(たえしのぶこと)の意味とする。忍は靭(じんたい)と関係があり、靭帯は骨と骨とを結び付ける強い繊維の束で、その強靭(しなやかで強いこと)の意味を人の心の上に移して、「たえる、しのぶ、がまんする」の意味となる。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


およそ「忍耐」という言葉から、固い印象を受ける方も多いのではないだろうか。ところが、これと相反するかのごとく、「忍」の字には靭帯のしなやかさと関係があるというのだから興味深い。なるほど、よくよく考えてみると樹木が風雪に耐えられるのも柔軟性があるからである。このように、「忍」という一字を取り上げてみても、漢字の成り立ちには深い納得を伴う意味があることに改めて気づかされるのである。

第47回

(音)ジュウ・ジフ・ジッ
(訓)とお・と

【解説】
指事
数を数えるときに使う算木で数を表し、横一本は一、縦一本のⅠが十であった。「とお」の意味に用いる。金文ではⅠの中央に肥点(・)を加え、のち十の字形となった。二十は縦に二本並べて廿(じゅう)、三十は十を三つ組み合わせて卅(そう)とかく。ひと十人、また詩十篇、いえ十家を一組にしたものは什、五家を一組にしたものは伍である。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


字の成り立ちが算木で数を表す形からきているもので、現代と字形がほとんど変わらないものが、第四一回の「一」の解説でも触れられている「一、二、三」と今回解説したこの「十」という漢字である。今も生活の中で何気なく使われる漢数字の一つだが、その原形が甲骨・金文の時代からほとんど変化していないわけである。シンプルなものほど時代の変遷によらず残り続けるということが実感できるのではないだろうか。

第46回

(音)イ
(訓)かこむ・かこう

【解説】
形声
もとの字は圍に作り、音符は韋。韋は囗(都市をとりかこんでいる城壁)の上下に止(足あとの形)が左にめぐり、右にめぐる形で、「違(めぐ)る」の意味である。都市を守るための行為ならば、「衛る」となり、都市をかこんで攻める行為ならば「圍む」となる。それで「かこむ、めぐる、まもる」の意味に用いる。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


都市を護衛すること・あるいは敵を攻める際の形から来る字である。ところで現在ではもっと身近な場面で、人が人を守る際にも「囲う」という表現が使われることがある。今現在、この国の中心にいる人達は、しばしば己の保身や欲の為に「囲う」という作業をするようだ。「囲う」とは本来は国(都市)を守るべき物を指すというのに、つまらぬ保身のための「囲い」によって時に国が危機的状況に追い込まれるとは、実に嘆かわしいことである。

第45回

音(セイ・ジョウ)
訓(まこと)

【解説】
形声
もとの字は誠に作り、音符は成。成は作り終えた戈に飾りをつけて祓い清めることを示す。そのように清められた心で約すること、神に誓うこと、またその誓うときの心を誠という。言は神への誓いのことば。それで「まこと、まことにする、まごころ」の意味となる。 [中庸]に「誠なる者は天の道なり」とあり、誠が天と人との道を貫くものであるとしている。誠を重要な徳目であると盛んに主張したのは儒家の孟子である。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


誠とは清めた心で神に対し、誓い、約束するものであるという。神というものは目に見えない存在であり、人々はそれを畏怖してきた。そのため、神に誓いをたて、その約を違えた場合の恐ろしさも並のものではなかったであろう。そのようなリスクを追ってでも誓うからこそ真心が生まれるのかもしれないし、またその真心が人々の胸を打つのだろう。 このように昔の人々は、目に見えず、予測のつかないものに誓いを立てて戒めてきたのであるが、昨今の原発のやらせ問題などを見ていると、同じく目に見えないものであっても結果が予想できるのに、やらせなどをして自分の責任から逃れようとし、しかもその事により事態を悪化させている。昔の人々のように誓いを立てて戒めたうえで行う行動こそが、自身にも周りにも良い作用を与えるのではないだろうか。今はこの誠という言葉を改めて考える必要があるように思える。

第44回

音(カイ)
訓(うみ)

【解説】
形声
音符は毎(?)。毎に悔(くいる)・晦(くらい)の音がある。毎は多くの髪飾りをつけた女の姿で、頭上が鬱陶しいような状態をいう。「うみ」の意味に用いる。中国で四海というのは、四方が海であるという意味ではなく、中華(文明の進んだ中国)に対して四方は未開の国であるという意味である。海はまた知られざる暗黒の世界であった。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


連日のうだるような暑さに嫌気がさし、海水浴に出かけてさっぱりしたいと思っているのは、おそらく私だけではないだろう。われわれが「海」と聞いてイメージするのは、それこそ海水浴や海の幸といった、楽しい、嬉しいものが多いのではないだろうか。しかし、「海」という漢字は、また違ったイメージを喚起させるようである。『論語』を典拠とした四字熟語に「四海兄弟」というものがある。真心と礼儀を尽くして他者と交われば、四海(世界中)の人々は、みな兄弟のように仲良くなれるという意味である。上記の解説にもあるように、文明化された中国に対立する概念として、その周辺に位置する野蛮な地域が四海とよばれたようで、「海」は、よく分からないもの、恐ろしいものの象徴だったのだろう。このように同じ漢字でも、社会の状況や価値観が異なれば、違った印象を受けるのは、おもしろいことではないだろうか。

第43回

音(シン)
訓(まこと)

【解説】
会意
人と言とを組み合わせた形。言はサイ(神への祈りの文である祝詞を入れる器の形)の上に、刑罰として加える入れ墨用の大きな針を置いて神に誓いをたてることばをいう。神に誓いをたてた上で、人との間に約束したことを信という。それで「まこと、まことにする」の意味となる。また「しるし」の意味にも用い、訊と通用して「たより、つかい」の意味にも用いる。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


解説を読むと、この字のもともと持つ意味が大変重いものであることがわかる。一生消えない罪人の証である入れ墨を用意した上での、また神に誓いを立てた上での約束事はそう簡単に破られるべきものでは当然ない。この字は現在、信用や信頼の信としてよく使われるが、このように漢字本来の成り立ちを見てみると、信用や信頼を裏切るようなことはあってはならないと改めて思う。一度失ってしまった信用や信頼を再び取り戻すことは容易ではないし、それこそ一生消えない入れ墨のように、ずっと不名誉がついてまわる。約束したことは、必ず実行できる人間でありたいものである。

第42回

音(メイ・ミョウ(ミャウ))
訓(あかり・あかるい・あかるむ・あからむ・あきらか・あける・あく・あくる・あかす)

【解説】
会意
もとの形は?につくり、?と月(月)とを組み合わせた形。?は窓の形。窓から月明かりが入りこむことを明(?)といい、「あかり、あかるい、あきらか、あける、あかす」などの意味となる。古い時代の中国北部の黄土地帯では半地下式の住居が多く、竪穴を中心に作られた部屋の窓は一つであり、そこから入る窓明かりを神の訪れとみたてて窓のところに神を祀った。それで神のことを神明という。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


この字は、「太陽(日)と月で明るい」と説明されることもあるが、左側の「日」は太陽ではなく窓である。文字本来の意味に注意せず、現在の字形によって誤った説明がなされる例は、これまでにもいくつか挙げたが、この「明」もそのひとつである。このような例は今後もとりあげてみたい。しかしそれにしても、「専門に研究するわけでもなく、単なる覚え方なのだからいいではないか」と思われるかもしれないが、歴史の年号を語呂合わせで覚えるのとは違って、漢字は実に体系的なものであるので、一部を疎かにするとつじつまの合わないことも起こってくる。そのため、できる限り本来の意味や成り立ちを理解することが大事なのである。もっとも、その「本来の意味や成り立ち」が未だ明らかでない漢字も多く、それらを解明していくことも研究の楽しさであると思うのである。

第41回

音(イツ・イチ)
訓(ひとつ・ひと・はじめ・もっぱら)

【解説】
指事
数を数えるときに使う算木という木一本を横さまにおいた形。一本の算木によって数の一を表し、「ひとつ」の意味となる。甲骨文字では数を数えるのに算木を使い、二・三・四はその算木を重ねた形である。一は数のはじめであるから「はじめ」、また全体をまとめるので「すべて、みな」の意味にも用いる。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


画数が最も少なく漢字学習の最初に出会う文字、それがこの「一」字である。意味もさほど難しくない様に思えるが、「一」の付く熟語は実に多く、古来より伝わる名言・格言にもこの「一」字がよく用いられている。例えば、『論語』里仁篇の「吾が道は一以て之を貫く(わが道は一つのことで貫かれている)」は、特に有名である。諸姉兄におかれては、お手元の漢和辞典で「一」を使った熟語・故事成語がどれだけあるかを確認されたい。夥しい数の熟語・成語の存在にきっと驚かれることだろう。

第31回~第40回

第40回

音(カ)
訓(ひま・いとま)

【解説】
形声
音符は?。?は岩石を切り取る形で、まだみがいていない原石のままのものをいう。それで未知数のものであるとか、遠い、大きいなどの意味をふくんでいる。時間の関係でいえば「暇」となり、「ひま、いとま」の意味に用いる。距離の関係でいえば「遐か」となり、事実の関係でいえば「假(仮)」となる。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


何事かを成し遂げようとするとき、時間に余裕があることが必ずしも良いとは限らない。本居宣長は、学問と時間との関係について、以下のように述べている。「詮ずるところ学問は、たゞ年月長く倦(うま)ずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて……大抵は、不才なる人といへども、おこたらずつとめだにすれば、それだけの功は有るものなり……又暇のなき人も、思ひの外、いとま多き人よりも、功をなすものなり。」(『うひ山ぶみ』)。つまり、時間がない人でも怠らず学問に励みさえすれば、時間のある人よりも成果をあげることが可能だということである。決して容易なことではないが、この学問論を教訓に、たとえ忙しくとも地道な努力を怠らないようにしたい。

第39回

音(ジュ)
訓(もとめる・まつ)

【解説】
会意
雨と而とを組み合わせた形。而は頭髪を切ってまげのない人の形で、巫祝(神に仕える人)をいう。ひでりのときの雨乞いは巫祝たちによって行われ、需とは雨を需(もと)め、需(ま)つことをいい、需は「もとめる、まつ」の意味となる。その雨乞いをする巫祝を需という。祈りを捧げる巫祝を焚いて雨乞いをすることもある。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


じめじめとした梅雨も終わりを迎えるこの季節、肌に張り付くような湿気から解放されることに喜ばれている方もいるのではないだろうか。ただ、夏も本番を迎えると、雨が降らないことによる水不足から節水を余儀なくされる地域が出始める。それでも、近年の日本においては水不足が人々の命に直結するような事態になることはない。まして、雨乞いのために人の命を奪うような儀式が行われることなどありえない話である。しかし、人の命を捧げてでも雨を需めようとした時代があったことは事実である。降りしきる雨に辟易された方もおられるだろうが、時には感謝の念をもって雨を迎えてみては如何だろうか。

第38回

音(リョウ)
訓(すずしい・すずむ・うすい・さびしい)

【解説】
形声
音符は京。京に□(※□の字は、「旡」の右に「京」)(かなしむ)・諒(まこと)の音がある。[説文]十一上に「薄きなり」とあり、次の淡に「薄き味なり」とあって、薄い味をいう。[周礼、天官、漿人]の[鄭司農注]に、「涼とは水を以て酒に和するなり」とあるから、いわゆる水割りの意味である。涼風(すずしい風)・清涼(清らかで涼しいこと。すがしいこと)のように、「すずしい」の意味に用い、すずしいことから、荒涼(ものさびしいこと)・悲涼(もの悲しくさびしい様子)のように、「さびしい」の意味に用いる。国語では「すずむ」とよみ、木陰で涼む、夕涼みという。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


日々うだるような暑さが続く今日この頃、今年は節電対策も相まって、「涼」を得るのが困難になってきている。それにしてもこの「涼」という字義の一つが、古代の飲料の一つを指すとは興味深い事である。しかもそれが「水割り」というのだから尚のことだ。もちろん、当時の水割りが現在で言う所の水割りと全く同じ意義である、という事ではないのは言うまでもない。しかし、古代の人々も現代の我々と同じく、酒を水で割って少しでも「涼」を得ようと考えたのであろうか。今も昔も、時代は大きく変わったとは言っても、人間の求め考えることなど土台変わらぬのかも知れない。

第37回

音(ボウ・モウ)
訓(のぞむ・ねがう)

【解説】
形声
音符は(亡)。甲骨文字の字形は、つま先で立つ人を横から見た形(壬の下の部分を土にした文字)の上に臣(上方を見ている目の形で、大きな瞳)をかく形(上に臣、下に壬の下の部分を土にした文字)で、つま先だって遠くを見る人の形であり、象形の字。これに音符の亡を加えた望は形声の字。遠くを望み見ることから、「のぞむ、まちのぞむ、ねがう」の意味に用いる。つま先立って大きな瞳で遠方を見ることは、雲気を見て占う行為であり、また目のもつ呪力(まじないの力。呪いの力)によって敵を押えつけて服従させる呪的な行為であった。甲骨文に望乗という氏族名がみえ、軍隊に従っているが、目の呪力によって敵状を知り、敵を服従させることを職務としていた。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


今日では何かを願う意味で使われる事の多い望という字であるが、古代は相手の雲気を見て占い、敵を押さえつけるという極めて呪的なものであり、それだけ古代では呪の力が強いと考えられていたであろうことがわかる。だが、目の呪力によって敵状を知り、敵を服従させるということは、現在においてもとても重要な事に感じられる。何かについて結果を望むのであればまずはその事について知らなければならない。そのために一番手っ取り早いのは見ることである。今日の原発問題のように内部状況を見て、判断し、その対策を行う事ができなければ良い結果が得られないことを身に染みて感じた。何かしらの結果を望むには、まずはそれを見て状況を知る必要があるということを、心の内に留めておきたい。

第36回

音(ム・ボウ)
訓(ゆめ・ゆめみる)

【解説】
会意
「カン」(?に?を加えた字)と夕とを組み合わせた形。「カン」(上記と同様)は眉を太く大きく描いた巫女(神に仕える女)が座っている形。祖先を祭る廟(みたまや)の中で、その巫女がお祈りしている形が寬(寛)である。夢は睡眠中に深層心理的な作用としてあらわれるものとされるが、古くは呪術を行う巫女が操作する霊の作用によって夜(夕)の睡眠中にあらわれるものとされた。それで夢は「ゆめ、ゆめみる」の意味となる。[周礼、春官]には占夢の職があり、夢の判断をした。また年末には、一年間の夢を調べ、堂贈という鬼やらいの儀式を行い、夢送りの行事をしてその年の悪夢を祓った。高貴な人が死ぬことを薨(しぬ)というが、薨とは夢魔によって死ぬことで、高貴な人には夢魔の危険が多かったのであろう。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


何年も連絡を取り合っていない人が、夢のなかに、ふっと姿を現すということがある。「どこかでうわさ話でも耳にしたか」「無意識のうちにも、平素から気に掛けていたのではないか」そんな取りとめもないことをいろいろ考え、勝手気ままな空想に耽っていく。このような経験は誰しも有ると思うが、夢を見るということは、自分に原因があるのであって、けっして夢に現れた人が自分を思うがゆえではなく、まして他人によって夢を見させられるなど、思いもよらないというのが、現代人の一般的な感覚であろう。ところが、夢という漢字の成り立ちを見てみると、古代の人々は、どうやら巫女によって操作された霊の作用によって、夢を見させられていると感じていたようである。そうすると、いつぞやの私が見たあの子の夢も、巫女の祈祷のおかげなのだろうか。今夜も手が空いていたら、夢のなかであの子に会えるように、ぜひ祈祷していただきたい。

第35回

音(シン)
訓(もり・しげる)

【解説】
会意
木を三本組み合わせた形。木を三本組み合わせて、「もり、しげる」の意味となる。林は人の生活する場に近い木立であるが、森は木々が深く茂った所、人の入らぬような樹海、原始林であった。森は神の住むところとされ、社も古くは「もり」とよまれた。それで神の気配を感じるようなおごそかな様子を、森巌という。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


「パワースポット」という言葉をよく耳にするが、解説を見ると、「森」とはまさに古代人にとっても「パワースポット」であったのだろう。ただ古代においては、そのような場所や神から豊かな恵みを頂くというばかりではなく、災害なども神の力によるものであると信じられていたから、自然を恐れ敬う感情というのは当然現代よりも強いであろう。古今東西、様々な自然神や自然崇拝の形があると思うが、しかし天変地異を神の御業ではなく科学で解明できる現代においても、パワースポットに赴き、神妙なる気を吸収するというのは、人々がそれを求めているからである。日本人は無宗教と言われるが、人智を超えた力を欲し、それによって自らを律するのはいつの時代も変わらないのかもしれない。

第34回

音(ドウ)
訓(はたらく)

【解説】
形声
音符は動く。動は力(耒の形)に従い、もと農耕に従事することをいう。働はわが国で作られた字であるが、明治以後の欧米語の翻訳語に使用したものであろう。稼働(はたらくこと。また、機械を動かすこと)・労働(はたらくこと)のように「はたらく」の意味に用いる。のち中国でも使用されるようになった。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


国字にも歴史の古い文字もあるが、近代社会や近代科学などの概念を表すために明治期にも多くの国字が作られた。この「働」もそのひとつであろう。右側の「動」は、もと「農耕に従事すること」を表していたが、「働」では農耕に限らずはたらくこと全般を表すようになっている。この字を説明するのに、「人のために動くことを働くという」などど言われることが多い。明治期のこの字を作った人物(個人の手によるものかは不明であるが)、あるいはこの字が定着していった経緯などはわからないが、なかなか言い得て妙であるといえよう。生計を立てるために「働」いているのであって、「人のために動く」などというのは理想に過ぎる、という向きもあるだろう。それだけに、各種ボランティアに携わっている人々などは、まさに「働」を体現しており、頭の下がる思いである。

第33回

音(シツ)
訓(うしなう・あやまる)

【解説】
象形
手をあげて舞い踊る人の形。巫女(神に仕える女)が手をあげて舞い踊り、我を忘れてうっとりとした状態になることをいう。気を「うしなう」というのがもとの意味であるが、すべてのことについて、「うしなう」の意味に用いる。うっとりとした姿で楽しむことを佚(たのしむ)、巫女が頭を傾け、身をくねらせて舞う姿を夭(くねらす)といい、妖(あでやか)のもとの字である。巫女があるいは低くあるいは高く、激しく舞うことを迭(たがいに)という。また過失(あやまち)・失火(過って火災を起こすこと)のように、「あやまる」の意味にも用いる。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


人間は大事なものを「失」い、取り返しのつかない事態に至って初めて悔いるものである。特に大震災を経験して、そのことを痛感した方も多いだろう。しかし、「得失」という言葉からも分かるように、人間にはかけがえの無いものを手にする機会も与えられている。「失」ったものを悲しむばかりでなく、手に入れたものへの喜びを感じる、そういう心態を忘れずに日々を過ごしてゆきたい。

第32回

音(シャク・セキ)
訓(ものさし・ちいさい)

【解説】
象形
手の指の、拇指と中指とをいっぱいに広げて、下向けにした形。上部は手首の部分、下部の八の部分が両指を広げた形。一本の指の幅が寸で、寸の十倍の長さが尺である。それで「しゃく、十寸の長さ、ものさし、しゃくの長さのもの、小さい、わずか」の意味となる。わが国の古語では「あた」といい、八咫の鏡(大きな鏡。三種の神器の一つ)のようにいうが、寸にあたる語はなく、四本の指の幅を「つか」という。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


この「尺」の字を見ると、『易』の尺取虫の話が思い起こされる。「往くとは屈するなり。来るとは信(の)ぶるなり。屈信相感じて利生ず。尺蠖の屈するは、以て信(の)びんことを求むるなり。」(繋辞下)とあるように、尺取虫が屈することと進むこととは表裏一体の関係にある。一見すると、尺取虫の歩みは遅いように思われるかもしれない。だが、着実に前進しているのである。物事がうまくいかないときには、この尺取虫の話を思い出し、いつかは「屈」が「信」になると信じて努力を続けていきたいものである。

第31回

音(カン)
訓(あまい・あまえる・あまやかす・かぎ)

【解説】
象形
錠をして鍵をかけた形。「かぎ、嵌入する(はめこむ)」というのがもとの意味である。口をとざすことを拑といい、首にはめる首枷を鉗という。甘を「あまい」の意味とするのは、?(根にあま味がある草である甘草)の意味からとったものであろう。甘は刑罰の道具である手錠や首枷の形と同じである。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


この「甘」という字に、広く知られる「甘味」という意味からかけ離れた別の意味があることに、驚かれた方も多いのではないだろうか。ただ、一般に通用する漢字の中には、長い歴史の中で別の意味が付与されていったものが少なからず存在する。このような言語の柔軟性を楽しみながら、今後漢字に触れてみては如何だろうか。意外な発見に驚かされることだろう。

第21回~第30回

第30回

音(ウン)
訓(はこぶ・めぐる)

【解説】
形声
音符は軍。軍に暈の音がある。軍の古い字形は、車の上に旗がなびく形である。将軍の乗る兵車の旗の動きによって軍の行動は指揮された。全軍はその旗の動きによって兵車を運らし、移動させるのである。「めぐらす、めぐる、うごかす、はこぶ」の意味に用いる。暈(かさ)は日や月のまわりをめぐってできる円いかさである。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


物事がうまく運ぶかどうかによって、我々は時に「運が向いてきた」とか「ついていない」という感情を抱く。元々の字義が「将軍の旗の動きによって、全軍の行動が指揮され、運らせる」ことから「めぐる、めぐらす」等の意味に用いられるのであるならば、その「めぐりあわせ」は、己自身の旗の動きによって左右するのか、それとも他人の旗の下に運ばされるのか…。自身の人生に於ける重要な岐路に立たされた時、見えない力によってめぐり合わされるのを俟つのではなく、願わくば己の力によって事を運べるよう努力したいものである。

第29回

音(ブ・ム)
訓(たけし・もののふ)

【解説】
会意
戈と止とを組み合わせた形。止は趾(あしあと)の形で、甲骨文字の字形は之(ゆく)と同じで、行く、進むの意味がある。戈(ほこ)を持って進む形が武で、それは戈を執って戦うときの歩きかたであるから、「いさましい、たけし、つよい」の意味となる。また戈を持って進む「もののふ、武士」の意味に用いる。武は文と並ぶ徳の名とされ、文徳に対して勇を重んじる武徳をいい、文武と対称される。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


『説文解字』には、楚の荘王の言として、「夫れ武は、功を定め兵を?(をさ)む。故に戈を止むるを武と為す」とあり、現在の訓にあるような「たけし・もののふ」とは反対の説明がなされている。『説文解字』は本字説抄でもたびたび引用したが、後漢の許慎が西暦100年に著した最古の字書で、今日に至るまで文字学の基礎となってきた書である。しかし当時はまだ甲骨文字の存在が知られておらず、その解釈には甲骨文字の字形が反映されていない。そのため、甲骨文字の発見以来、許慎の説もずいぶん改められてきた。この「武」もそのひとつである。『説文解字』のこの解釈は、当時の字体からみたもので、当時の倫理観、あるいは理想が表れている。争うだけが「武」ではなく「戈を止むる」ことこそが「武」であるという解釈は、甲骨文字の字体からみれば誤りであっても、絶妙であり捨て難い気持ちにならないだろうか。

第28回

音(ゼン)
訓(つめきる・すすむ・まえ・さき)

【解説】
会意
正字は?、あるいは?に刀を加えた形。止+舟+刀。止は趾(あし)ゆび。舟は盤。盤中の水で止(あし)を洗って、刀で爪を剪り揃えるのである。前は趾指の爪を切る意の字であるが、前後の意から前進、また往昔などの意となる。……(中略)……[史記、蒙恬伝]に「公旦(周公)自ら其の爪を揃(き)り、以て河に沈む」とあって、爪切ることは修祓の儀礼。その爪を河に投ずるのは、自己犠牲としての意味をもつことであった。喪礼のときにも、蚤(そう)(爪切り)・?(せん)(髪切り)をする俗があった。

[『字通』(平凡社 1996)]


前とは不思議な字である。「すすむ」意もあれば、後ろに歩んできた「往昔」の意味も指す。人は悲しく辛いとき、不安で思い悩むときなどに、「前向き」にならなければならないと言う。しかしその「前」とは何処なのか。時間は放っておいても勝手に未来にすすむ。無理に気持ちをすすめなくても、立ち止まって「往昔」に向いてそれを大事にすることも必要なのではないか。そのあとで「往昔」を抱いて「すすむべき方向」へ繋げていくことができればよいと思う。

第27回

音(キ・ケ)
訓(おくりもの・くうき)

【解説】
形声
もとの字は氣に作り、音符は气。气は雲の流れる形で、雲気をいう。气は生命の源泉、おおもととされ、米(穀類)はその気を養うもとであるというので、气に米を加えて氣となった。また?(き)ともかき、氣が?(おくりもの)のもとの字である。気はすべての活動力の源泉であり、大気(地球を取り巻く空気の全体)・元気(活動のみなもととなる気力)として存在し、人は気息(呼吸)することによって生きる。また、人にあらわれるものを気質(気だて。気性)・気風(集団や同じ地域の人々が共通に持っているとみられる気質)という。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


この一か月、耳を疑うニュースばかりが巷にあふれ、心身共に安らげない日々を送る方々も多いと推察する。確かに、現状では解決すべき問題が山積し、復興には長い年月と強靭な忍耐力が欠かせない。かような時こそ我々が「気」を集結させ、協力して事に当たることが肝要ではなかろうか。いついかなる状況下でも「元気」と「勇気」とを忘れずに、あらゆる困難と対峙してゆきたい。

第26回

音(ボウ)
訓(いそがしい)

【解説】
形声
音符は亡。[列子、楊朱]に「子産忙然として、以て之れに應ふる無し(言い返すことができなかった)」とあり、ぼんやりの意味とする。「いそがしい、あわただしい」の意味に使用するのは、唐代(七世紀~九世紀)以後のことであるらしい。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


新年度が始まり、毎日を忙しく過ごされている方も多いのではないだろうか。ところで興味深いのは、白川先生が引用された『列子』の用例である。「ぼんやりの意味」とあるように、およそ現在使われる「忙」の字とは全く反対の意味である。忙しい中にも、ときにはこの字の古い意味を思い出し、「ぼんやり」とする時間を持ちたいものである。

第25回

音(ジョ)
訓(たすける・たすかる・すけ)

【解説】
会意
且と力とを組み合わせた形。且は?(すき)の形。力は耒(すき)の形。?は草を切るもの、耒は土を掘り起こして砕くもので、合わせて耕作を助けるの意味となる。のち農耕のことに限らず、すべて協力して人を「たすける」の意味に用いる。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


助の意味は農耕に由来するものであり、互助という意味合いが強く、決して一方的な施しの意味を持つものではない。だが、今回のような大規模災害の折には、被災者を助ける行為を偽善と謗る者や、独り善がりな「助け」を被災者にぶつける者が現れる。ただ、本来「助ける」という行為は、一人では出来ないことを周りの人間がお互いに協力し達成するために行うことである。周囲の人間にとって助け合うことは当たり前のことであり、そこに善悪というものはそもそも存在しない。また、お互いにすべきことが分かったうえで行動するので、相手の迷惑になるような一方的な押し付けというものはない。今一度、「助」という言葉の本来の意味を見つめなおし、今後の行動を考えてみては如何だろうか。

第24回

音(ミン)
訓(たみ・ひと)

【解説】
象形
目を刺している形。金文の字形は眼睛(ひとみ)を突き刺している形で、視力を失わせることをいう。視力を失った人を民といい、神への奉仕者とされた。臣ももと視力を失った神への奉仕者であり、合わせて臣民(君主に従属する者としての人民)という。民は神に仕える者意味であったが、のち「たみ・ひと」の意味に用いる。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


神への奉仕者という言葉だけをみれば大した感想も持たないが、「民」とは元々両眼を突かれ視力を奪われた奴隷を指すという。先日起きた「東北関東大震災」から、現在も原発問題で日本が揺れている。被災者の方々への支援、原発への対処、その他総てに於いて後手後手に回る政府の対応に、国民は憤りを隠せない。我々「国民」とは一体何なのか。日本国の民とはどういうことなのか。少なくとも戦後の我々は、「民」の字義のような視力を奪われ強制的に従属させられている「奴隷」ではないし、政治に対しての「見る目(眼力)」を失っているわけでもないはずである。
しかしひょっとすれば、そう思い込んでいるのは、平和に慣れてしまった我々だけなのではないだろうか。その実この字義のように、国民はいつまで経っても国にとって都合の良い一奉仕者に過ぎないのかも知れない。表面上の視力はあったとしても、真実を見せられず、隠蔽された事柄の中でいいようにあしらわれようとしている我々は、ともすれば古代の「民」と何ら変りないのではないか。

第23回

音(セイ・ショウ(シャウ))
訓(ほし)

【解説】
形声
音符は生。古い字形には上部を晶に作るものがある。日はこの字の場合は、太陽の形ではなく星の形で、晶は多くの星の光が輝く形である。それで星は「ほし」の意味となる。星の知識は[詩経]に織女星(琴座のアルファ星ベガ)や北斗七星のことがみえるが、詳しい知識は西方から伝えられたことが多く、木星の知識などもオリエント(西南アジアとエジプト)から伝えられた。木星を歳星名とする赤奮若(丑の歳の異名)や摂提格(寅の歳の異名)はオリエント地方の言語の音訳である。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


『説文解字』には、「萬物の精、上りて列星と為る」とある。白川文字学では「萬物の精」については触れていないが、概ね同様の説である。子供向けに「「ほし」は「太陽(日)」から「生」まれるので「星」と書くのだ」と説明されることがあるが、それはもちろん誤りである。このような、漢字の成り立ちや覚え方について、「これは覚え方・書き方を言ったもので成り立ちを説明したものではなく、歴史の年号を語呂合わせで覚えるようなものだ」「皆がみな研究者になるわけではないし、熱心な者はいずれ自分で調べて正解にたどりつく」とか、あるいは、「単なる覚え方・書き方だからといって、成り立ちとして誤っているものを教えるべきではない」「自分で調べない者は誤った知識を持ったままになる」など、意見は様々であろう。しかしひとつ言えることは、「古い字形には上部を晶に作るものがある」とあるように、物事を考えるときには、表面的なこと、現在見えていることだけを考えるのではなく、根源まで探ってよく考えることが大切なのではないかということである。

第22回

音(ソツ・シュツ)
訓(しぬ・おわる・ついに)

【解説】
象形
衣の襟(えり)をかさねて、結びとめた形。死者の卒衣をいう。死没するとき、死者の襟もとを重ね合わせて結び、死者の霊が迷い出るのを防ぐのである。[説文]八上に「人に隷して事を給する者の衣を卒と為す。卒衣とは題識有る者なり」という。受刑者などが服役するときの、法被(はっぴ)のような仕事服と解するものであるが、卒の原義は死卒、死喪のときの儀礼を示すものであるから、終卒また急卒の意に用いる。

[『字通』(平凡社 1996)]


卒業式の時期なので「卒」の字を選んでみたが、原義を見ると縁起の良い字とはいいがたいかもしれない。「卒業」は仕事を終える、学業をとげるの意味で「卒」は「おわる」である。進学して引き続き学業に就く人もいれば、仕事などに就く人もいるだろう。いずれにせよ、今までの生活とは訣別して新たな道を歩むことになる。死者の霊が迷い出るがごとく未練や遺恨を残さないよう、衣の襟もとを結び、生まれ変わる気持ちで前に進んでほしいと思う。

第21回

音(ケン)
訓(すこやか・たけし・つよし)

【解説】
形声
音符は建。建は壁に囲まれた儀礼の場所で方位や地相を占い、測量をして建築の基準をつくることをいう。外から乱されることがなく、拠点が守られている状態を、人体の上に及ぼして健という。それで健は「すこやか、たけし、つよい」の意味となる。筋肉と骨とを結びつけている強いすじを腱という。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


今回は「健」字を取り上げた。「建」が音符を示すことは既にご存知だったと思うが、「健」と「建」との意味のつながりまで理解されていた方は少ないかもしれない。お互い、いつまでも「健康」で日々を過ごしてゆきたいものである。ところで、諸姉兄におかれては、漢字の成り立ちと音・訓に関する解説に本コラムの大きな特色があることは既にお気づきだろう。それは、形・音・義を系統的に知ることが漢字の理解において最も重要である、との先生の確固たる信念に基づくからである。今後も白川先生の字説を案内役として、漢字の世界を心ゆくまで散策して頂きたい。

第11回~第20回

第20回

音(カ・ケ)
訓(いえ・や)

【解説】
会意
宀と豕とを組み合わせた形。家を示す宀(建物の屋根の形)の下に、犠牲(いけにえ)として殺された犬を加える。家とは先祖を祭る神聖な建物である廟のことである。そのような建物を建てるときには、まず犠牲を埋めて、その土地の神が怒らないように鎮めるために地鎮祭を行うのである。古い字形では犬は殺されたものとして、尾を垂れた形に書かれている。今の字形では宀の下が豕(豚)であるため、昔は人も豚も同じ屋根の下にいっしょに住んだのであるなどと説明されていた。甲骨文字や金文の字形によって、宀の下は犬であり、建物の前に奠基(地鎮)として埋められたものであることが明らかとなってきた。家はもとは祖先を祭る廟であるが、これを中心として家族が住んだので、人の住む「いえ、住居」の意味となった。家族によって家柄が構成されるので、住居としての建物の意味だけでなく、家族・氏族のあり方をも含めて家という。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


今回取り上げた「家」という字には「家庭」「家族」などの熟語が示すように、暖かくおだやかないわれがあるのかと思うことだろう。そういった点において「宀の下が豕(豚)であるため、昔は人も豚も同じ屋根の下にいっしょに住んだ」とする旧説のほうが、平和的な解釈で納得しやすいのではないだろうか。一方、白川先生の場合は、甲骨文字や金文まで遡り「豕」を「犠牲(いけにえ)として殺された犬」と捉えられ、なかなか残酷さを覚えるものがある。今でこそ家族の一員のように扱われる犬であるが、この「家」の字の解釈をみるに、中国古代における犬には現在とは異なる側面を持っており、それらは往々にして古代の祭祀を中心とした文化を強く反映してるようで興味深い。

第19回

音(カク)
訓(かわ・あらためる)

【解説】
象形
獣の革の形。頭から手足までの全体の皮をひらいてなめした形である。皮は獣の皮を手(又)で剥ぎ取る形で、合わせて皮革という。皮をなめし(毛・脂肪を取り去って柔らかくする)、仕上げた形が革で、「かわ」の意味となる。生の皮とすっかり異なるものとなるので、革は「あらたまる、あらためる」の意味となり、改革(あらためてより良いものにすること)という。さらに一般の改革のことに及ぼして、革命(王朝が代わること。国家や社会の組織を急激に変えること)のように使う。韋(なめしがわ)は皮をなめすとき、木に懸けて乾かす形であるので、合わせて韋革(なめしがわ)という。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


政治家がこぞって使うせいか、「改革」という言葉をニュースなどで耳にすることが多くなった。しかし、当たり前のように使われるためか、この改革という言葉に何故、「革」という漢字が用いられているのか、その理由に疑問を持つ方はあまり多くないように思う。また、そこに疑問を持った方でも、「革」という漢字を辞書で調べ、一般的な「かわ」という意味以外に、「あらたまる」という全く別の意味があるのだと分かった時点で納得してしまっているのではないだろうか。もちろん、普段の生活の中で生まれる素朴な疑問の解消ということで考えれば、辞書に記された意味をそのまま受け入れるだけで充分だろう。ただ、今回のように一見無関係のように見える二つの意味に、密接なつながりがあることも少なくない。今後は漢字の意味を調べるとき、その意味の成り立ちにも思いを巡らしてみては如何だろうか。

第18回

音(アン)
訓(つくる・かんがえる)

【解説】
形声
音符は安。木を偏(きへん)にしないで下部におく形の漢字は、栄(榮)・架・某など、例が多い。案はものをおく台、「つくえ」をいう。はじめは、食事用のもので脚のあるものを案、ないものを槃(たらい)といった。のち書物をおいて考案する(工夫して考え出す)こと、考察することに使うので、「かんがえる」ことを案という。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


ある物事に対し「案」をひねり出す、という作業は日常の我々にもよくあることである。「何か良い妙案はないものか?」と、他人から或いは己自身に対して答えを問い掛ける事も少なくない。しかし忙しい日々の生活の中にあっては、机に向かうこともせずに、ついついその場で安易な答えを導き出してしまいがちである。もしも納得のいく案が思いつかなければ、もう一度この「案」という字義に立ち返り、「書物をおいて考案する」という事を実行してみてはどうだろう。机の前に座り、落ち着いて熟考してみると、新たな「案」が見つかるかも知れない。

第17回

音(オウ)
訓(きみ)

【解説】
象形
大きな鉞の頭部の形。柄をつけた全体の形は戉(鉞)である。鉞の頭部の刃の部分を下にして、実用品の武器としてではなく、王位を示す儀礼用の道具として、玉座(王の座る席)の前においた。それは王のシンボル(象徴)であるから、「きみ、君主」の意味となる。小さな鉞の頭部を刃を下にしておいた形が士で、戦士階級の身分を示す。王と士とは鉞の大小の差である。

[『常用字解』(平凡社 2003)]


この漢字は、画数も少なく、小学一年生で学習する漢字であり、意味も分かりやすい。そのため、教育現場でも、学習後の日常生活の中でも、この漢字がなぜ「きみ、君主」の意味を表すのか、深く考えたことのある人は、筆者を含めほとんどいないのではないだろうか。『説文解字』には「董仲舒曰はく」として「古の造文は、三画して其の中を連ね、これを王と謂ふ。三とは天地人なり。而して参通の者、王なり。」とある。「王」の3本の横画は天地人(上から順に言えば天人地か)を表し、これを縦画によって連ね束ねる者が「王」であるという。それなりに理のある説ではあるが、『説文解字』が書かれた当時、甲骨金文の存在は知られていなかった。そこで白川先生は甲骨金文によって旧説を問い直し、「王」は本来、鉞であるとされた。しかし白川先生の業績は、このように漢字ひと文字ひと文字について字義を問い直しただけでなく、全体として体系だった学説を構築された点にあるといえよう。

第16回

音(ジン・ニン)
訓(ひと)

【解説】
象形
人の側身形。『説文』八上に、「天地の性、最も貴き者なり」とし、字形について「此れ籀文(ちうぶん)、臂脛(ひけい)の形に象る」という。卜文・金文はみなこの形に作り、匈(きょう、胸)・包・身など、みなこの形にしたがう。

[『字通』(平凡社 1996)]


昔から「人という字は人と人がささえあっている」と言われてきたものだが、金文などを見ると、腕を下にだらりと下げた人の腕と足の部分を横から見た形である。つまり自分の足で立つ姿である。社会は人と人がささえあって成り立つものであるが、依存するものではなく、やはり個々は責任を持って自立する存在でなければならない。一月に成人式を迎えた人はこの「人」の字から「成人」の意味を考えてみるのも良いと思う。

第15回

音(オン)
訓(めぐむ・いつくしむ)

【解説】
形声
音符は因。因は茵席(むしろ。敷物)の上に人が寝ている形で、むしろ・敷物をいう。その敷物は常に使用し親しむものであるから、因に心をそえた恩は、「いつくしむ(大切にする、かわいがる)」という意味となり、愛情を受けることをいう。

[『常用字解』 (平凡社 2003)]


「恩」とは人間に備わる基本的な心性である。しかし、文字の由来を調べてみると「むしろ・敷物」と関係するというのは非常に興味深い。このように、日ごろ使い慣れる漢字も、その成り立ちを見てゆくと予想もできなかったものと関係することがあり、それを発見することが、文字学の面白さを体感する第一歩となる。実際に辞書を手に取り、説明を詳しく読み進めて行くことを皆さんにお勧めしたい。

第14回

音(ヤ)
訓(よ・よる)

【解説】
会意
大と夕を組み合わせた形。大は手足を広げて立つ人を正面から見た形。夕は夕方の月の形である。人の腋の下から月が現れている形で、月が姿を現すような時間帯を夜といい、「よる、よ」の意味に用いる。

[『常用字解』 (平凡社 2003)]


小・中学校の漢字学習を思い返すと、書き取りを何度も行なうことで字を覚えるようにしていた印象が強い。ところで「夜」という字の成り立ちを見てみると、「月が姿を現すような時間帯」であるから「よる、よ」の意味に用いる、と素朴でありながらも、なかなかインパクトの強い説明がなされ、記憶に残りやすいものがある。現在では福井市をはじめとして、白川先生の漢字研究の成果を漢字学習に用いている学校があるが、まだ一部に過ぎない。今後の漢字学習では機械的に覚えさせるよりも、こうした漢字の持つ意味やイメージを生かして覚えさせる学習に転換していく必要性があるのではないかと考える。

第13回

音(ガ)
訓(いわう・よろこぶ)

【解説】
会意
加と貝とを組み合わせた形。加は力(耒の形)に[サイ](神への祈りの文である祝詞を入れる器)をそえて、すきをは祓い清めて虫の害を防ぐ儀礼をいう。貝は子安貝の形で、生産力を象徴するものと考えられた。それで賀は生産力を高めるために行う儀礼であり、新しい生命を「いわう」儀礼となる。賀はもとは農耕儀礼を意味する字であったが、すべて生命や生産について、祈り祝うの意味に使う。また、「よろこぶ、よろこび」の意味に用いる。

[『常用字解』 (平凡社 2003)]


この「賀」という漢字を目にする機会が最も多いのは、年始のこの時期であろう。年始の挨拶状としての「年賀状」はもちろんのこと、祝いの言葉として「謹賀新年」「賀正」「賀春」などを用いた人も多いのではないだろうか。しかし残念なことに、これらの言葉が年始の挨拶文として定型化されているため、この「賀」という漢字が持つ、「いわう・よろこぶ」という訓と「よろこび祝福する」という意味を知らずに使っている人も多いのではないだろうか。まして、漢字の成り立ちまで理解している人などはほとんどいないであろう。
ただ今回を機に、白川先生の解説をもう一度読み返し、「賀」の成り立ちと本来の意味を覚えてみては如何だろうか。おそらく、ただの年始の挨拶程度に認識していた言葉が、新しい年を迎えることへの喜びと祈りの気持ちに溢れているものであることが分かるはずである。

第12回

音(ゲイ)
訓(むかえる)

【解説】
形声
音符は?。?は人が向かい合う形である。?を前後の関係とすると、前方の人を迎えるという意味となる。道を歩くと言う意味の?(?・?)を加えて、向こうから来る人を「むかえる」ことを迎という。?は大(立っている人を正面から見た形)を逆さまにした形で、向こうから来る人を上から見た形。これに?を加えて、逆は逆(むか)えるの意味となる。ただ逆は正逆の逆(さからう、そむく)の意味に使う。?が上下に向かい合うときは、下からいえば仰(あおぐ)、上からいえば抑(おさえる)となる。

[『常用字解』 (平凡社 2003)]


今年も残すところあと僅かとなり、新年を迎える準備に追われる方も多いと思われる。「?」が「人が向かいあう形」を表すのであれば、歓迎する相手を、また迎え入れられる側も、きちんと「向かい合う」事が必要である。「迎える」とは、正しく人と人が向かい合ってこそ、はじめて成り立つ行為なのだろう。口先だけの「歓迎」では、迎えたことにも迎え入れることにもならないのである。この事を念頭に、新しい年と、また新たに出会うであろう人達を「迎え」てみてはどうだろうか。 

第11回

音(ショ)
訓(あつい)

【解説】
形声
もとの字は暑に作り、音符は者(者)。日は日光。日に照らされて「あつい」の意味となる。者は集落を囲むお土居(土の垣)の中に呪禁(悪邪を祓うまじない)として曰(神への祈りの文である祝詞を入れる器であるサイの中に、祝詞のある形。お札にあたる)を埋めておく形である。音符としては、者よりも庶(煮炊きするの意味)のほうがふさわしいが、者と庶とは音が近いために両者が交替して用いられることがある。

[『常用字解』 (平凡社 2003)]


先日、京都市の清水寺で発表された、財団法人日本漢字能力検定協会公募の今年の漢字がこの「暑」であった。今夏が記録的な猛暑であったことが、主な選考理由だということである。まさに「日に照らされ」た感のあった夏であった。暦の上ではまもなく冬至である。寒さは、暑さとは違って衣類で調節しやすいとはいえ、夏が暑かった年の冬は寒さが厳しくなるそうである。日々の健康管理や体力作りを心がけ、体も心も健やかに過ごしたいものである。

第1回~第10回

第10回

音(ゴ)
訓(かたる・かたらう・ことば)

【解説】
形声
音符は吾。吾はサイ(神への祈りの文である祝詞(のりと)を入れる器の形)の上に、サイ形の木の蓋(ふた)を置き、祈りの効果を守るの意味で、語は祈りの「ことば」をいう。言はサイの上に刑罰として入れ墨をするときに使う辛(はり)を置く形で、裁判や盟約を結ぶときに、もし誓いを守らないときにはこの辛で入れ墨の刑罰を受けますと神に誓うことばをいう。このような誓いの仕方をするのは、自分の正しいことを神に対して強く主張する姿勢を示すためである。言語(ことば)と連ねて用いるが、言は攻撃的なことばであるのに対して、語はそのような攻撃から祈りを守ろうとする防禦(ぼうぎょ)的なことばといえる。「かたる」の意味にも用いる。

[『常用字解』 (平凡社 2003)]


インターネットや携帯電話などの発達により一昔前に比べ自分のことばを発信しやすい環境になり、ことばが氾濫する世の中になった。同時に、ことばに対する価値・信用が薄れてきたようにも感じられる。本来ことばとは神に祈りを捧げるものであり、誓いを立てるものであった。人はことばを使って神に祈り、他人・他国との交流をはかり、礼を尽くし友好を保ってきた。しかし時にはことばが人の命を奪い、果ては国家の存亡に関わる事件を引き起こすこともある。まさにことばは諸刃の剣である。ことばを発しようとするときにはこの「語」字の入れ墨の辛が置かれていることを思い、慎重にしたいものである。

第9回

音(カン)
訓(みる)

【解説】
会意
手と目とを組み合わせた形。目の上に手をかざしてものを「みる」の意味である。「みる」とよむ字に、見・省・看・相・視(視)・診・察・睹・監・覧(覽)・瞻・観(觀)などの字があり、それぞれの見方がある。看は手をかざして遠くを見る、また、しげしげと見るの意味である。よく見て見ぬけよというときは看取せよ、見つくすことを看殺す、看破すという。

[『常用字解』 (平凡社 2003)]


今回は「看」字を取り上げた。ここで注意したいのは「みる」という訓に当てはまる漢字の多さである。白川先生の【解説】では、「みる」という訓を持つ十二の漢字を挙げ、「それぞれの見方がある」と述べる。日常生活でこの「見方」の違いを意識することはまずないが、時間に余裕があるときにその違いを調べてみてはいかがだろう。漢字の原義を知り、細かいニュアンスの違いを知ることで、漢字世界の奥深さを体感できるかもしれない。

第8回

音(トウ・ズ・ツ)
訓(まめ・たかつき)

【解説】
象形
脚の高い食器の形。[説文]五上に「古、肉を食するの器なり」とあるが、儀礼のときに塩物や飲み物を入れる器であった。儀礼に使用した豆は木や瓦で作ったものであった。のち荅(あずき)と通じて、「まめ」の意味に用いる。

[『常用字解』 (平凡社 2003)]


「豆」は豆腐、みそ、しょうゆをはじめとして、我々の食生活に欠かせないものである。ところが、白川先生によると、この「豆」の字は元来「儀礼のときに塩物や飲み物を入れる器」であるという。このように「豆」の字をはじめとして、漢字の成り立ちには、古代の習慣、とりわけ祭事と関係が深く結びついているものが少なくないように思われる。それは中国の古代社会が祭事と深い関わりを持っていたことをよく示しているのではないだろうか。

第7回

訓(はた・はたけ)

【解説】
国字(日本で作った漢字)。火と田とを組み合わせた形で、焼畑の意味となる。水田に対して草を焼いて開墾した「はた、はたけ」をいう。水田は田という。また畠ともかく。畑として利用されている土地を畑地といい、その畑地に作物を作ること、また、その作物を畑作という。

[『常用字解』 (平凡社 2003)]


日本で使用されている漢字の全てが中国生まれというわけではない。今回紹介した「畑」だけではなく、「峠」や「働」なども日本で作られた国字である。このような国字が生まれた背景を考えてみると、日本人が長い時間をかけて漢字を外国語としてではなく、日本語として自らの文化の中に組み込み、その中で自分たちの文化に必要な文字を新たに生み出すに至ったのだと推察できる。普段、何気なく使う漢字の中に日本生まれの国字があるということの意味を考えると、日本における漢字の存在の大きさを実感することが出来るのではないだろうか。

第6回

音(セイ・ショウ)
訓(いきる・いかす・いける・うまれる・うむ・おう・はえる・はやす・き・なま)

【解説】
象形。草の生え出る形。草が発芽し、生長する(そだつ)ことから、人が「うまれる、そだつ、いきる、いのち」の意味となり、また人以外の動植物などについてもいう。「生まれたまま、なま」の意味にも用いる。金文にみえる「百生(ひゃくせい)」は百姓(多くの民)の意味で、生を早くから「たみ、ひと」の意味に用いている。国語では「はやす、いける、き」とよみ、ひげを生やす、花を生ける、生糸などという。

[『常用字解』 (平凡社 2003)]


「理不尽な介入によって生命の危険に晒されなくなった」現代の我々は、「生きる」事が当たり前になり、「生きていること」を改めて実感しなくなっている人も少なくないのではないか。腹が鳴れば空腹を満たす為に食物を食べ、咽が渇けばその渇きを潤そうと水へと手を伸ばす。しかし、何気ない一挙一動が、総ては「生きる」為への行為の積み重ねであることを忘れてはいけない。つまり、何気ない普段の行いが、その人の「生」へと影響を及ぼして、逆に己を労わらない不摂生な行為が、じわりじわりと「生」の状態を蝕んでいるのである。「草の生え出る形、成長すること」の象形が「生」であるという。草は「水」と「栄養」・そして何より「日の光」に当たらねば良く発育しない。日々忙殺される我々は、時にこの「日の光を浴びる」という行為を蔑ろにしがちである。「生」という字が「草」の生え出る形から生まれたという事を時折思い出し、己にとって少しでも良い「栄養」「水」を与え、そして「日の光を浴びる」という行いを怠ってはならぬのではないか。

第5回

音(コウ・ク)
訓(くち)

【解説】
象形。口の形。甲骨文字や金文には、人の口とみられる明確な使用例はなく、みな神への祈りの文である祝詞を入れる器の形の〔サイ〕である。古・右・可……告・害・史・兄……などに含まれる口はみな〔サイ〕と解することによって、初めてその字形の意味を理解することができる。もとより人の口の字もあって、およそ二千数百年前の古い書物である[詩経]や[書経]にもみえている。口と〔サイ〕との異同を確かめることはできない。

[『常用字解』 (平凡社 2003)]


「口」は、従来は『説文解字』で「人所以言食也(人の言食する所以なり)」と言っているように〔くち〕と解釈されているが、これではうまく説明できない文字も多く、白川字説ではさまざまな宗教儀式の際に用いる祝詞を入れる容器〔サイ〕と解釈する。こうすることで、これまで牽強付会的な解釈をされていた文字の多くが、無理なく解釈できるようになった。その例は、今後触れていくことになろう。この「〔サイ〕字説」は、白川字説の最も重要な学説のひとつである。しかしこの説は、内外から賛否両論多々あり、その当否についてはいまだ決着をみないが、それだけに文字学において極めて重要なテーマのひとつとなっている。白川先生は多くの業績を残されたが、このように未解決の問題も残っている。これは我々に残された宿題でもあり、本稿を読まれている読者諸氏の中からこの宿題を解く方が現れるかもしれない。

第4回

真(眞)

音(シン)
訓(ま・まこと)

【解説】
会意
もとの字は眞に作り、匕(か)と県(けん)とを組み合わせた形。匕は人を逆(さか)さまにした形で、死者の形。県は首を逆さまに懸けている形で、眞は?死者(てんししゃ)、不慮の災難にあった行き倒れの人をいう。このように思いがけない災難にあって命を落とした人の怨霊(おんりょう、うらみを持って死んだ人の霊)は強い力を持つ霊として恐れられた。……(中略)……真は死者で、それはもはや変化するものではないから、永遠のもの、真の存在の意味となり、「まこと」の意味となる。真が「まこと」の意味となるのは、人の生は一時(ひととき、わずかの間)、仮(かり)の世であるが、死後の世界は永遠であるという古代の人びとの考えによるものである。それは人の死体を後ろから支えている形の久が、ひさしい、永久の意味となったのと同じである。

[『常用字解』 (平凡社 2003)]


「真」という字には「真実」「真摯」など、良い印象がある。名前にもよく使われる字だ。しかしそれが起源は行き倒れの死者だと聞いて、ぎょっとする人も多いだろう。そしてその奥深さに驚かされる。なお、『字統』の説明によると、この「眞(真)」の字は經籍にはほとんど見えず、『老子』『荘子』の書にいたってはじめてみえるという。白川先生は「存在の根源、その根源に達したものの意に用いるのは、おそらく宗教者の立場においてえられたものであろう。」とし、「真は中国の古代思想が達しえた、最もすぐれた理念の一」と述べられ、後に道教の徒によって世俗的なものとなってしまったことを惜しまれている。

第3回

音(シ)
訓(こころざす・こころざし・しるす)

【解説】
形声
音符は士。字の上部の士はもと之の形である。之は行くの意味であるから、心がある方向をめざして行くことを志といい、「こころざす(こころがある方向に向かう。心に思い立つ)、こころざし」の意味となる。[詩経、大序]に「詩は志の之く所なり。心に在るを志と為し、言に発するを詩と為す」とあり、志は古くは心に在る、心にしるすの意味であった。志は誌(しるす)と通用する。

[『常用字解』 (平凡社 2003)]


白川先生の【解説】にあるように、志とは「心がある方向をめざして行くこと」を指した。古来より、志は人間にとって行動の源泉であり、艱難辛苦を乗り越える為の拠り所でもあった。昨今、世情は不安定で我々を取り巻く環境は必ずしも理想的とは言えないが、だからこそ自分の心のめざす方向を見極め、行動してゆくことが肝要なのではないか。「すでに志があるならば、ことは果敢に行なうべきである」とは白川先生の言葉である(コラム「白川静ことば抄」第一回を参照)。今一度この言葉を噛み締めて、自分の「志」とは何かを見定めたい。

第2回

音(キョウ・ケイ)
訓(みやこ)

【解説】
象形
出入口がアーチ形の城門の形。甲骨文字や金文の字形によって、その門の形を知ることができる。上に望楼(ものみやぐら)があって、この城門を京観という。大きな城門であり、都をその門で守ったので、京は「みやこ」の意味となり、大きいの意味となる。この城門には、戦場に棄てられた屍体(死体)を集めて塗りこみ、呪禁(まじない)とした。門には寺院の山門のように、外界に対する呪禁の意味があったのである。

[『常用字解』 (平凡社 2003)]


「京都」の言葉で我々になじみの深い「京」の文字を、甲骨文字や金文まで遡ってみると、なるほど門の上の物見やぐらのように見えて興味深い。このように甲骨文字や金文にまで遡り、視覚的に字義を考えれば、より深い文字の理解ができるのではないだろうか。また、一般的に「みやこ」といえば華やかな印象があるが、「戦場に棄てられた屍体(死体)を集めて塗りこみ、呪禁(まじない)とした」という一文を踏まえると、古代の「みやこ」というものは、現在の印象とは異なり、生々しい一面も持っていたということが垣間見れるようである。

第1回

音(ジョウ・ショウ)
訓(うえ・うわ・かみ・あげる・あがる・あがる・のぼる・のぼせる・のぼす・たてまつる・たっとぶ)

【解説】
指事
掌の上に指示の点をつけて、掌の上を示し、「うえ」の意味を示す。下は掌を伏せ、その下に指示の点をつけて、掌の下を示す。のち指示の点は縦の線となって?・?の形となり、さらにその傍らに点を加えて上・下の形となった。掌の上の意味から、すべてのものの「うえ、うえのほう」の意味となり、上に「あげる、のぼる」の意味となる。場所的に「かみ」、時間的に「はじめ、むかし」の意味となり、人間関係では「めうえ、たてまつる、たっとぶ、すぐれる」の意味となる。

[『常用字解』 (平凡社 2003)]


「上」という文字は、掌の上に指示の点をつけた形がそのまま文字となった指事文字である。文字の成り立ちも意味もとてもシンプルであり、その使われ方も現代と変わらない。ただ、訓読みを見ると、その内包するところの意味は単に方向としてだけではなく、場所、時間、人間関係にまで及んでいることが分かるだろう。根はシンプルであったものが、長い時間、多くの人々に使われるなかで複雑に枝葉を伸ばし成長していく。この「上」という漢字は、文字が生きているのだということを実感させてくれる文字のひとつなのではないだろうか。