コラム

つれづれ映画評
第一回「この森で、天使はバスを降りた」

 先日、夜遅く一人で観た映画が心に残っているので、そのことを書きます。
 その映画はタイトルを「この森で、天使はバスを降りた」といって、’98年(日本国内)リリースとやや古い作品なのですが、そのあまりに透明感あふれるタイトルに気圧されてこれまでは手に取ることができませんでした。観たい観たいとは思っていたのですがついスルーしてきたのです。しかし歳をとって少し鈍感になってきたのか、今回ようやく恥ずかしがらずにレンタルできました。

 しかし驚いたことに、作品本編は邦題が漂わせる透明感とは全く別のところで勝負していました。冒頭のシーンによく表れていると思うのですが、それは“淡々とした電話の受け答え、機能性の低そうな事務室、たばこの煙”という、とてもタイトでソリッドな要素で構成されています。その後も実に重くシリアスな展開が用意されていて、天使とか森とかいう言葉に備えていた心をどんどん裏切ってくれます。と言って昨今の映画にありがちな、無駄に残虐だったり陰鬱だったりする作りではありません。むしろ登場人物の多くは少しでも良い生活をと望んでいるのに、なぜか少しずつ事態が良からぬ方に進むという昔ながらのメロドラマ的な作り方をしています。

 前回のコラムで「自分はこれでよいという感覚を獲得して社会に出ていくこと」という言葉がありました。その意味で、この映画はとても悲しい作品です。登場人物の多くが、自分はこのままでよいと思うことができないでいるのです。舞台は米国メイン州の小さな寂れた町ですが、そこに流れ着いた主人公はたやすく人には喋れない秘密を抱えていて、何とか人生をやり直そうとしています。彼女は町の保安官のはからいでとある軽食堂(その名前が”Spitfire Grill”と言い、これが本来の映画タイトルにもなっています)に住み込みで働くことになるのですが、その店の女主人もまた人に言えない秘密を持っています。町自体がそもそも、このままでは寂れる一方なのにこれという産業が何もないという、閉塞感や無力感を抱えているのです。

 このままではいけない。今の自分を認めることができない。そういった罪の意識にも似た悲しみがこの作品の奥底に流れています。淡々とした展開の中で時折その流れが表に出てくるのですが、なかなか解決には至らないまま物語はクライマックスへと向かいます。エンディングについては賛否両論あると思うのですが、それは、誰にとってもいくつになっても、ありのままの自分でよいと認めることがいかに難しいかを伝えているのかもしれません。

 これだけ書くと何だか堅苦しい映画に思われてしまいそうです。まあ、だからふわっとした邦題にしたんでしょうね。けれどもこの作品は老若男女を問わず、自分の今のあり方について考えてみたい人にはお勧めの映画です。機会があれば、ぜひ手に取ってみてください。

 「この森で、天使はバスを降りた」”The Spitfire Grill”
監督:リー・デヴィッド・ズロトフ
キャスト:アリソン・エリオット エレン・バースティン ウィル・パットン他



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