コラム

年をとるということ

 先日、とあるロックバンドのライブに行きました。彼らはテレビの音楽番組に出演することがほぼなく、音楽チャートの順位も世間の知名度も決して高くはありません。かといって、まったく無名のマイナーバンドというわけでもなく、多くの有名なアーティストが彼らへのリスペクトを表明しています。彼らは今年で結成27年を迎えるのですが、27年間ずっと「売れていないなかでは売れている」という独自の地位に立ち続けている、ある意味稀有なバンドと言えるでしょう。
 前に彼らを見たのは、かれこれ十数年前、京都の小さなライブハウスでした。私はまだ大学生で、彼らを見るのはそのときが初めてでした。ステージの中央でライトを浴びながら熱唱していたボーカルの男性は、「最高の夜にしようぜ!」「お前らついてこい!!」などと呼びかけ、拳を振り上げて観客を煽っていました。彼の表情は自らの才能への確信と、それを理解しない大衆への苛立ちに満ちていました。私はそんな彼の姿に激しくときめき、周りの観客と同じように拳を振り上げ、ステージ上の彼に届けとばかりに喉が枯れるまで叫んでいました。
 それから随分時が経って、彼らの音楽を聴かない時期もありました。しかし最近、友人に薦められて新しいアルバムを手にとってみたところ、耳に飛び込んできた最初の一音から、彼らの世界にぐいぐいと引きずり込まれました。ほぼ反射的に「ライブに行きたい」と思い、チケットをとりました。「売れていないなかでは売れている」というくらいのバンドなので、とろうと思えばいつでもチケットがとれるのです。

 ライブ当日、大阪のそこそこ大きいライブハウスで開演を待ちながら、私はだいぶ薄れてしまった十数年前の記憶を、小さくなった飴をなめるように繰り返し反芻していました。現在の彼らは、いったいどんな進化したパフォーマンスを見せてくれるのだろう。そんな期待が膨らむなか、客席の照明が消えました。
 ステージに現れたボーカルの彼の顔は、老けていました。歌声の力強さこそ変わらず、見た目も実年齢からすれば若いものの、経た年月の分、確実に老いていました。何曲か歌った後、演奏がやんで、彼がおもむろに「実は…」と口を開きました。私は固唾を飲んで彼の言葉を待ちました。
「告白するけど…、俺たち、昔は若かったんだよ」
 自虐的なその言葉に、会場はさざなみのような笑い声に包まれましたが、私は心の底から「せやな」と頷いていました。年をとった彼は、曲と曲のあいだ休憩するためにわざと長い時間をかけてギターをチューニングし、怪我をしないように非常に緩やかに客席にダイブし、そして再びステージに戻るときも若干まごつきながら登っていました。「四十後半で、こんなに人前で汗かく仕事をしているなんて」と苦笑いながら次の曲に移る彼、そんな彼をにやにやしつつ見守るメンバーも、おっさんそのものでした。

 同時に私は気づきました。彼らが老いたのと同じだけ、私もまた老いていることに。今の私には「最前列にいく!」という気概もないし、無我夢中でステージに腕を振ったり、ぴょんぴょん跳びはねたり、きゃーきゃー叫んだりすることも減りました。体がつらいからです。さらには体だけでなく、心もそう簡単にはときめかなくなっているからです。
 しかし、普段ならちょっとブルーになってしまうようなそうした事実が、そのときはそんなに嫌ではありませんでした。やたらと長い時間待った後のアンコールでは、メンバー全員が缶ビールを飲みながら現れ、演奏もせずにどうでもいいことをだらだらとしゃべっていました。ゆるい空気のなかでぐだぐだと笑い合う彼らは、以前よりもずっと自由に見えました。そしてそれを聞いている私も、2時間立ちっぱなしで疲れた体を休ませつつ、ただ口を開けて笑っていました。
 最後に1曲、彼らが少し昔の曲を演奏してくれました。変わらない音と歌声にしばし心が弾み、若返った気分ではしゃぐことができました。翌日には喉が枯れていたし、本格的な筋肉痛が一日遅れでやってきたので、やはりブルーにはなったのですが、こうやってバンドもファンも一緒に年をとっていくのは、悪くないものだな、と思いました。

学生サポートルームカウンセラー