コラム

迷う

 迷うことの多い人生を送ってきました。
 小4の時、友人4人で友人宅近くの裏山を抜けるとどこに行くのか探検しようという話になり、深く考えずにそれとなく踏み固められた道を「埋蔵金のありかに繋がっていたらどうする!?」と、あり得ない空想話をしながら登っていきました。埋蔵金の使い道について話していると突然視界が開け、舗装された山道へと繋がり、埋蔵金という淡い野望は打ち砕かれました。とはいえ今度は当初の目的「この道はどこに繋がっているのか?」を確認しようと、日が差し込む明るい山道を心躍らせて登っていきました。徐々に山道は下り始め、日がかげるひんやりとした山道が続くと、この世とは違うところに通じているのではないかとドキドキし始めました。さらに、日が暮れて辺りが暗くなったことで不安をいっそう募らせた4人が、ハイテンションで“CHA-LA-HEAD-CHA-LA”を歌っていると、ぼんやりオレンジ色に灯る光が飛び込んできました。
 オレンジ色の光は少し先の集落のある民家から漏れており、その民家に駆け込んで初対面のおばさんに事情を説明し、快く電話を貸してもらいました。親切なおばさんと電話、友人の親の車という文明の利器によって少年4人は難を逃れました。こうして探検という名の迷子は幕を閉じました。

 しかしながら、歴史は繰り返すものです。
 GPSで現在地や目的地までの道程を把握できるスマホという文明の利器が発達してからも何かにつけ迷っています。
 数年前のこと。沖縄の宮古島に行きました。夕食後に浜辺で酒を飲みながら星を見ようという話になり、友人と2人、宿から一番近い浜辺を目指しました。googleマップによると10分で着くとのこと。『10m先、右方向です』という機械的な女性の声を疑うこともなく、音声案内通りに歩きました。でも、10分経っても20分経っても、海や砂浜が見えるどころか潮の香りもしません。なんなら私たちがいるはずの場所がマップ上に表示すらされないのです。スマホへの信頼を失った2人はとにかく明るい方向を目指しました。タクシー会社という看板が飛び込んできました。が、タクシーは出払っていていません。その後も大きいと思われる道を歩いていると、運よくタクシーが通りかかりました。乗車し運転手さんに「どこどこの浜辺に行きたい」と伝えてから、スマホを頼りに歩いたが迷ったこと、宿はどこそこだと話していると、運転手さんは一言。「反対方向さぁ~」…。
 ようやく辿り着いた浜辺に座って、星を見ながら酒を飲むという至福の時間を過ごしていました。すると…ぼんやりとオレンジ色がかった明かりが、真っ暗な水平線に浮かんできました。見てはいけないものを見ているのでは…?さっきの運転手さん、実は…?恐るおそる友人に告げてみました。友人にも見えていたのでちょっと安心しましたが、その正体がしばらく分かりませんでした。徐々にその光が水平線より高く浮かび上がるにつれ、妖艶かつ儚げで、いざなうように水面に映るその光は三日月によるものだと分かりました。日の出ならぬ、月の出を見ていたのです。
 迷ったものの人の温かさに助けられした。迷って必要以上に時間とお金をかけて、運転手さんが浜辺まで運んでくれたおかげで、抜群のタイミングで神秘的な月の出を見ることができました。迷うことの多い人生を送ってきて、その上この文章の落としどころも迷ってはいますが、要は迷うことで得られるものもあるんじゃないか、とも思っているのです。
 詩人ゲーテも「人は努力する限り迷うものだ」と書いています。大学生という期間、進路や就職、友人や恋人、家族などの人間関係、自分とは何か…と何かにつけて迷うことが多い時期だと思います。迷う、迷っているということは何かを求めているのでしょう。迷うことの多かった私としては、そうした時、他の人に“Help!”を求めるのも、カウンセラーに相談するのも、ひとつの方法ではないかなと思います。 

学生サポートルームカウンセラー