素敵な偶然
2017年03月06日
コラム
先日魚好きの我が子と一緒に映画『ファインディング・ドリー』のDVDを観ました。その中でドリーのあるセリフが心に残りました。それは「一番素敵なことは偶然起きるの。それが人生よ」というものでした。
考えてみれば私の人生においても『素敵』かは別として、様々な局面で偶然の出来事が大きく影響しています。あの時あの大学に不合格になっていなかったら、今の職業についてはいなかっただろうなぁとか、あの時あの友人の飲みの誘いに乗らなかったら、今関西に住んでいることもなかっただろうなぁとか・・。素敵な偶然や不幸な偶然など、様々な偶然の出来事が寄せ集まって、今の私が出来上がっているように思います。そしてまた、後からそうした偶然を振り返る時、あたかもそれが起こるべくして起こった運命であったかのような不思議や、ひとつひとつの偶然が何か一つの物語として繋がっているように感じたりもします。つまりそうした偶然に対する驚きに心奪われた時、人はそこに物語性や神秘性のようなものを感じたりするのでしょう。
カウンセリングの中でも、このような驚くべき偶然ともいうべき出来事に時々出くわします。全くの偶然の重なりが新しい発見の契機となったり、AかBかで悩んでいるときに全く予想だにしなかったCという要素が偶然現れて、事態を大きく好転させたり・・。あたかも隠れたシナリオライターがいるのではないかと思わせられるような、そういう意味の感じられる偶然に出くわした時、人が生きていくことの不思議さや趣深さを感じずにいられません。
逆に人生に偶然の出来事が絡まず全て必然の予定調和だったとしたらどうでしょうか。
それはなんとも味気ない世界であるように、私には感じられそうです。あるいは完全な自由はむしろ自由と感じられないといった逆説的な倦怠や、それともあらゆる全てが自分で選んだ結果であるという事態はあまりに重たすぎて耐え難い、といった感覚に私だったら苛まれるかもしれません。
しかし冷静に考えてみればその様な事態はあり得ないことでしょう。なぜなら人は自分で意図してこの世に生まれてくるものではなく、ある日気づいたらこの世界の中に存在していたわけです。生まれる時代や国や性別やなどなどを、選べるわけではなく、つまりは存在の始まりの部分に大きな偶然が横たわっていると言えるでしょう。人間のこうした事態を『被投性』という言葉で表すこともあります。人はまさにこの世界に『投げ込まれて』いる存在なのだと。
もしかすると、偶然にまつわる驚きに心奪われるということは、自分の存在の根幹が自分の意図や意思によって作られているものではなく、自分の意思を超えたところにあるということや、まさに無力にもこの世界に投げ込まれているということに気づき、その不思議を味わい、またそこから自分なりの物語を作っていくといったことの、契機としての意味も持っているものなのかもしれません。
話がちょっとややこしい方向に行ってしまいましたね。
ドリーの素敵なセリフと出会ってからほんの数日後、「人生において重大なことは偶然の出来事だ」といった異口同音の発言を、ある社会学者の対談の中で私は『偶然』目にしました。彼はまたそのことに関して「この次のページを開くとどんな事が起こるだろうというワクワク感があるから、人生のページを開き続けるのだ」といった意味のことを話していました。
二つの言葉との出会いが偶然に重なったことに私なりに意味を感じ、今回このテーマを書いてみました。全ての『偶然』に対して、『ワクワク感』や『一番素敵なこと』と捉えるのは難しいようにも思います。けれども、先のややこしい方向の存在の不思議な感覚と一緒に、そういうポジティブな偶然もあるから捨てたもんじゃないという気持を持ち続けたいなと思っています。
考えてみれば私の人生においても『素敵』かは別として、様々な局面で偶然の出来事が大きく影響しています。あの時あの大学に不合格になっていなかったら、今の職業についてはいなかっただろうなぁとか、あの時あの友人の飲みの誘いに乗らなかったら、今関西に住んでいることもなかっただろうなぁとか・・。素敵な偶然や不幸な偶然など、様々な偶然の出来事が寄せ集まって、今の私が出来上がっているように思います。そしてまた、後からそうした偶然を振り返る時、あたかもそれが起こるべくして起こった運命であったかのような不思議や、ひとつひとつの偶然が何か一つの物語として繋がっているように感じたりもします。つまりそうした偶然に対する驚きに心奪われた時、人はそこに物語性や神秘性のようなものを感じたりするのでしょう。
カウンセリングの中でも、このような驚くべき偶然ともいうべき出来事に時々出くわします。全くの偶然の重なりが新しい発見の契機となったり、AかBかで悩んでいるときに全く予想だにしなかったCという要素が偶然現れて、事態を大きく好転させたり・・。あたかも隠れたシナリオライターがいるのではないかと思わせられるような、そういう意味の感じられる偶然に出くわした時、人が生きていくことの不思議さや趣深さを感じずにいられません。
逆に人生に偶然の出来事が絡まず全て必然の予定調和だったとしたらどうでしょうか。
それはなんとも味気ない世界であるように、私には感じられそうです。あるいは完全な自由はむしろ自由と感じられないといった逆説的な倦怠や、それともあらゆる全てが自分で選んだ結果であるという事態はあまりに重たすぎて耐え難い、といった感覚に私だったら苛まれるかもしれません。
しかし冷静に考えてみればその様な事態はあり得ないことでしょう。なぜなら人は自分で意図してこの世に生まれてくるものではなく、ある日気づいたらこの世界の中に存在していたわけです。生まれる時代や国や性別やなどなどを、選べるわけではなく、つまりは存在の始まりの部分に大きな偶然が横たわっていると言えるでしょう。人間のこうした事態を『被投性』という言葉で表すこともあります。人はまさにこの世界に『投げ込まれて』いる存在なのだと。
もしかすると、偶然にまつわる驚きに心奪われるということは、自分の存在の根幹が自分の意図や意思によって作られているものではなく、自分の意思を超えたところにあるということや、まさに無力にもこの世界に投げ込まれているということに気づき、その不思議を味わい、またそこから自分なりの物語を作っていくといったことの、契機としての意味も持っているものなのかもしれません。
話がちょっとややこしい方向に行ってしまいましたね。
ドリーの素敵なセリフと出会ってからほんの数日後、「人生において重大なことは偶然の出来事だ」といった異口同音の発言を、ある社会学者の対談の中で私は『偶然』目にしました。彼はまたそのことに関して「この次のページを開くとどんな事が起こるだろうというワクワク感があるから、人生のページを開き続けるのだ」といった意味のことを話していました。
二つの言葉との出会いが偶然に重なったことに私なりに意味を感じ、今回このテーマを書いてみました。全ての『偶然』に対して、『ワクワク感』や『一番素敵なこと』と捉えるのは難しいようにも思います。けれども、先のややこしい方向の存在の不思議な感覚と一緒に、そういうポジティブな偶然もあるから捨てたもんじゃないという気持を持ち続けたいなと思っています。
学生サポートルームカウンセラー