コラム

時間についてのいろいろ

 もう3月・・別れと出会いの季節。一年の節目であり、一つの年が終ってまた新しい年がはじめる季節ですね・・。春夏秋冬と季節はめぐります。春には鮮やかに花々が色づき、まぶしく強い光の夏、秋風が吹いたと思ったら、雪がちらついて・・。そんなふうに、毎年同じように、季節は過ぎていきます。
そんな季節と同じように、自分は単に同じことを繰りかえしているだけなのではないかといった嘆きに、時々出会うことがあります。何かに出会い心ときめいて、でもしばらく経つとときめきも色褪せて、いつの間にか気持がうせて・・。あるいは、いつも同じようなことに傷ついて、同じような対応をして失敗して、同じような反省をして・・。そんな風に、気がつくと同じことを繰りかえしてばかりで全く成長していない、と。
かくいう私も、自分は小さいころと同じような心の物語を、いまだに繰りかえしながら生きているなぁ、とか感じることもあります。・・人生そんなものかもしれません。
でも同じようなことを繰りかえしているように見えて、それは単なる同じ円なのではなく、螺旋なんじゃないかと思います。真上から見ると同じ円周の周りをぐるぐると回っているだけ・・に見えて、実は横から見てみると1周回るたびに階を一段昇っている螺旋階段・・。そうやって見てみると励みになる気もします。
 連想が少し飛びますが、以前ある本(出典忘れました、すみません)でこんな風に時間を直線ではなく円環として捉える考え方に出会いました(いやむしろ、私たち日本人にとっては、仏教の輪廻転生の考え方や、60年で一回りする十干十二支の方になじみが深く、時間は当然円環的なもの、なのかもしれませんが・・)。
 時間を直線と捉えると、未来はまだ見ぬもの、未規定なものです。ゆえにまだ見ぬ未来に対する期待や希望があり、目標を設定し、その夢を実現して行くという生き方が自然なものとなります。その本ではこのような世界観や人生観を能動的能動と表現していました。
 対照的に、時間を円環として考えると、未来とは過去にすでに起こったことの繰り返しであると捉えられます。ニーチェでいうところの永劫回帰です。そこには、時間は同じことの繰り返しでしかないという諦念を超えて、終わりのない円環とは即ちいつの時点もスタートラインにできるのだという実存的契機があります(直線的時間・・キリスト教的時間には始まりと終りがあります)。そこに立ち現れるのは、受動的能動という世界観、人生観です。そこでは、未来に向かって何かを実現していくということよりも、自分に訪れるものを引き受けて行くということが生き方となります。わかりやすい例としては、子どもを授かることや授かった子どもを育てていく行為があげられます。性別をはじめとしてどのような子どもを授かることになるか、能動的に選択することなど出来ませんが、人は授かった子どもを引き受け育てていきます。
 そんな風に考えると、実は既に私たちは様々なものを、引き受けて生きているし、これからも様々なものが訪れて、それを引き受けていかないといけないということでしょう。けれども、時に、引き受けるには大きすぎる出来事、背負うには重すぎる宿命といったものも、ありますね。カウンセラーとはそういう辛さ、苦しさに対して、なにもできないかもしれないけど寄り添ってそばにいる、そんな側面もあるような気がします。

 螺旋、直線、円環。どれも正しいような気もしますし、その時々に自分にフィットする時間観から生きるヒントを得られればと思います。もうすぐ年号が変わって一つの時代が終わります。新しい時代も皆さんにとっていい時代でありますように。

学生サポートルームカウンセラー