コラム

ある舞台を観て思うこと

 先日、京都劇場で『家族のはなし』という舞台を観てきました。休日にのんびりと観にいきたかったのですが、チケットが取れた平日の夜、仕事の後にバタバタと慌てて劇場に向かい、何とか間に合って2階席の後ろのほうに座りました。舞台は2部構成になっており、第1話では家のリビングを舞台に、犬役の主人公が、飼い主夫妻と客人2人とのやり取りを繰り広げていました。犬なので、人の言葉が分からない設定なのですが、実際に演出も、照明の色で犬目線と、人間目線に切り替えられます。犬目線の時には人間は何を話しているのか分からない言葉で話していました。「ごはん」「ダメ」「さんぽ」「ラッキー(犬の名前)」以外の言葉はすべて訳がわかりません。犬は、話しかけられる度に、必死に飼い主たちが何を言っているのか考えますが、やはり何を言っているかわかりません。声の大きさやトーンで、『これは怒っている!』、『笑っている、いい感じだ』、『これは嫌だ』などと感じ取って行動します。
 この場面を観ていて、犬が見聞きしている世界について考えていました。確かに人間の言葉をすべて分かっているわけではないかもしれません。舞台と同じように人間が耳から聞くのとは違う音として聞いているのでしょうか。それとも、理解できないだけで同じように聞こえているのでしょうか。犬は鼻の感度が人間よりずっといいそうですから、もしかしたら耳の聞こえ方も違っているのでしょうか。
 カウンセリングでさまざまな人と会っていると、人の感覚の違いに気づくことがあります。同じ世界に生きていても、見ている世界が違う、感じている感覚が違うと。たとえば食感。どうしても肉を食べると、その食感が気持ち悪いと感じてしまい、子どもの時から出されたものを食べるのが苦痛だったという人がいます。肉好きな私からすると理解が難しいところです。実際、感覚から来る苦痛は、他人に理解してもらいづらく、好き嫌いとして、幼いころに矯正の対象となることが多かったようです。無理やり食べるように強いられる経験は、自分の感覚を否定されるようなつらい体験になることもあります。他にも、音にとても敏感すぎて細かな音まで拾ってしまう耳を持っている人もいます。外国語のリスニング能力が高かったり、音楽も一度聞くだけで正確に覚えられたり、場面によっては、才能として活かされる能力でも、大講義室など賑やかな人の多い場所では、授業を受けることに支障をきたすような場合もあります。これもまた、賑やかな場所でも、話している相手の声を聞くことを難なく出来ている人には、理解しがたい感覚かもしれません。
 自分が感じている世界を、皆が同じように感じている訳ではないということを考えると、不思議な感覚に囚われることがあります。一方で、演劇や小説や映画などはそういった自分には感じ取れない世界を疑似体験できる面白さがあるように思います。犬と人のコミュニケーションとまでは行かなくても、誰かと話していてコミュニケーションがずれる感じや、うまく行かなさを感じることはあるかもしれません。相手の感覚は自分のそれとは違うかもしれない、という想像力が、相手を理解する上では大切なのかもしれないと舞台を見て感じたカウンセラーでした。
学生サポートルーム カウンセラー