コラム

夏の学び ~宝塚編~

宝塚にはまった。

これがこの夏私に起きた鮮烈な出来事であった。

酷暑もどこ吹く風、私はひたすら室内にて、フランスの、あるいはスペインの、はたまたアメリカやイギリス、ロシア、中国、もちろん日本も、世界各国のいろいろな時代のいろいろな境遇の人たちの物語を、女性たちが演じ踊るのを見ていた。
睡眠や食事の間も惜しむストイックさから、受験勉強に励む受験生のようだと評する人もいた。

宝塚とはもちろん、宝塚歌劇団のことである。

思えばこれまで、宝塚とは縁遠い人生だった。

音楽や映画、本、アートなど人間の創作活動には強い関心があり、それなりに好きなものを追いかけてきたつもりだったが、演劇や舞台に関してはあまり関心がもてず、かつ宝塚は男役の存在、トップスターがヒエラルキーの頂点に立つという制度、派手やかな化粧などの特異さから、リアリティの高い作品を好む私の嗜好からは遠い存在だった。

しかし、あるトップスターの雰囲気が好きで、かつその人が優れた人格者であることも教えてもらっていたので、なんとなく気にかける時間も増えてきていた。

そして、忘れもしない7月の終わり、あなたは見ただろうか?
地上波の歌番組で、宝塚のスターたちが踊っているのを。
信じられない頭身バランスで、惜しみなくウィンクをばら撒きながら、色気と魅力を画面越しにねじり込んできた彼女たちの姿を。

そこから、気が付けば宝塚について調べ、作品を観る日々が始まった。

宝塚で見る女性たちは、私がこれまで見たことのないものであった。

外見上の美しさはさることながら、男女という生物学上の性差を超えた、オリジナルな性別が存在していると思った。男役は、ワイルドでエレガントでセクシーななにか、であり、娘役は可憐で可愛くて美しくて時に包容力のあるなにか、であった。
そして、男役は決して男とは違う。

そこに存在するのは究極の虚構である。そして、宝塚に入団した人たちは、長い年月をかけて虚構を探究していく(ように見える)。

思えば夏、私は思い悩んでいた。
これからどこに行き何をすればいいのか。
もういい大人なのに、迷っている。しかも、大人だから誰も教えてくれない。
月明かりもない海を、動力のないままボートを漕いできたが、力尽きてぼんやりと浮遊しているような気分だった。
仕事には元気いっぱい取り組むことができるものの、自分のこころはガス欠状態だった。

そこに、宝塚の世界はさながら桃源郷のごとく、光り輝きながら姿を現してきた。
あまりにも美しく活力のある世界であるため、吸い寄せられるように私は迷い込みひと夏を過ごすことになったのだった。

宝塚は非常に厳しい世界である(というように見える)。
タカラジェンヌたちは、短い稽古時間の中で芝居を覚え、歌・踊りを覚え、刃物を研ぐように精度を上げていく。
若さや素朴さというありのままのその人の魅力を打ち出すわけにはいかず、宝塚という芸の世界で求められる姿を体現できるよう、タカラジェンヌたちは日夜努力を惜しまない。
そして、彼女たちは現実にはいない存在・世界を高い精度で目の前に見せてくれる。
そんな姿から徐々に、しかし確実に学んだのは、努力は(ある程度は)実るということだった。

また、熱心に宝塚をみる過程の中で、私は思春期のときの自分に再会した。
ここではないどこか、へ行って、私ではない誰か、になりたかった私だ。
思春期のときの私は性別を超えたかったし、外国人になりたかったし、ロックミュージシャンになりたかった。
そして、今そのどれもが実現しているわけではないが、さして不満があるわけでもないことに驚いた。
ひとつには自分がある程度はやりたいことをやれているから。
そしてもうひとつは、そうして虚構の世界をたゆまぬ努力によって体現し続けてくれているタカラジェンヌたちがいることを知ったからである。
宝塚が続く限り、私はどこかでなにかになりたい私の部分を捨てる必要はないし、あこがれ続けることもできる。

宝塚の光に照らされてもなお、明るく確実な航路がすぐに見いだされるわけではないが、私のこころのガス欠はましになりつつある気がする。

カウンセリングと呼ばれる面接の中で、趣味や、その人が好きなものを聞く機会は少なくない。私は目の前の人を知るために、好きなものについての語りに耳を傾けてきた。

しかし、自分の経験を経て、はたと気づいたのだ。
好きなものについて語るとき、その背後には迷いや苦しさや、そして好きなものに縋り、何を見いだそうとしている、そうした気持ちがあるかもしれないことを。
もちろん、いつでもそうであるとは限らないだろうが、私たちが何かにはまるとき、なにかを猛烈に好きになるとき、後ろには癒されるのを待っている傷があるかもしれないと思った。

そして、私が生まれて初めて宝塚の好きな演出家についてプレゼン資料を作ったように、好きなものは幾つになってもその人を変える可能性を孕んでいることを思い知った。

さて、この経験を経て、私の内なる聴力は少し精度が上がった(かもしれない)。
とにかく、私はいつでも本気で、あなたが語る好きなものについて耳を傾けている。
あなたも、これまでも、これからも好きなものを臆せず教えてほしい。

学生サポートルーム カウンセラー