コラム

外国語学習とカウンセリングの関係について

 私の趣味の一つは、外国語学習です。私は台湾人の友人と、毎週1回Skypeを用いてお互いの言語(日本語と中国語)を学び合っています。毎回、冒頭に近況報告や雑談をした後、自分たちで決めた本を少しずつ読んでいきます。歴史好きの友人が勧めてくれたのが、龍應台著「大江大海1949」(邦訳「台湾海峡1949」天野健太郎訳)という本です。このコラムではこの本について紹介します。

戦後日本の台湾統治が終わり、主権が中華民国に移譲されました。「国共内戦」*¹の戦火から逃れようと、中国大陸から多勢の人が台湾に押し寄せてきました。日本統治を経験した台湾人(本省人)と、戦後台湾に渡ってきた中国人(外省人)との間では、考え方や行動様式が異なり、言葉も通じませんでした。両者の文化の衝突は、やがて「二・二八事件」*²、そして台湾人が大量に虐殺された「白色テロ」*³へと繋がっていきます。歴史の大きな流れの中で、外省人である「国民党政権とその軍は、戦後台湾を権力と暴力で支配した強者」(訳者)として語られてきました。しかし、この本は、「故郷を失ったひとりひとりの弱者として」外省人を描くとともに、「受け入れた台湾人の痛み」をも描いたものです。

 作者は、戦後台湾に移ってきた中国人の両親の元に、台湾で生まれ育ちました。この物語は、中国を舞台に、作者の家族のストーリーから始まります。作者の母親は気丈な女性でした。ある日彼女はいつものように「すぐ戻る」と言って中国の実家を出ました。この時、二度と戻れないことになるとは夢にも思いませんでした。ましてや、数年後にダム開発によってその歴史ある美しい街全体が湖底に沈むとも。彼女は遠方で憲兵をしていた夫に会うため長い汽車の旅に出ます。車両はすし詰め状態で、幼い子どもを連れて行くには危険だったため、しばらく夫の実家に長男を預けました。半年後再び会いに行った時、作者の兄に当たる長男はすっかり母親のことを忘れ父方祖母に懐いてしまっていたため、自分を連れて行こうとする母親に抵抗して泣き叫び、どうしても離れなかったため、仕方なく長男を置いていきました。そして、軍隊と共に台湾に渡りました。内戦終結後は約40年に渡って台湾と中国の間の行き来が禁じられていたため、家族は離ればなれになったままでした。往来が解禁され台湾生まれの作者が中国にいる兄に会いに行った時、兄は、自分が学校で先生や同級生から内戦の敵の子だと言われたこと、悲しくても慰めてくれる母親がいなかったこと、かすかな記憶しかないが似た人を見ると母親ではないかと何度も思ったことを語り、泣きました。作者の父親は中国で戦争で命の危険に晒され、何とか難を逃れて台湾で家族と合流できました。父親は戦争の体験や祖母との別れの悲しみを子ども達に聞かせようとしても、平和な時代に生まれ育った作者やきょうだい達は誰一人真剣に聞こうとせず父親を茶化しました。作者はこの本の執筆のため様々な資料を読み込み、人の話を聞き、実際に中国で戦闘があった場所を訪れて、初めて父親が受けた心の傷が何であったのかを知ることとなりました。これは父親が亡くなって5年経ってからのことです。

 物語には様々な国籍、立場の人が登場します。その中から国共内戦中に疎開した学生の話を紹介します。中国では全寮制の学校が多いのですが、ある地方の、寮で共同生活を送っていた教師と中高生約5000人の集団が、疎開するため汽車に乗り込みました。車両に乗り込めずドアや屋根につかまっていた者も少なからずいました。トンネルを通過した時は、必ず何人かが亡くなっていました。生き残った者は、連結部などにひっかかった遺体を踏み台にしてよじ上りました。各地を転々としながら、落ち着いた場所を見つけては授業をしました。戦火が拡大し、移動するごとにどんどん人数が減っていきます。戦乱に巻き込まれ亡くなった学生は少なくありませんでした。生き残って何とか台湾に逃れられた学生の中には、強制的に軍隊に入れらた人達もいました。中国の家族には手紙を書くことすら許されませんでした。

 台湾といえば、東日本大震災の時多額の募金を送ってくれたり、コロナの際にも質のいいマスクを寄附してくれました。昨年流行したタピオカの原産地として知っている人も少なくないでしょう。その台湾には、一見しただけではわからない複雑な歴史的な背景があります。歴史の「敗者」だけでなく、「勝者」や「強者」と言われた人達もまた様々な心の痛みや悲しみを抱えて生きてきたことがこの本を読んでわかりました。

 筆者はできるだけ自身の熱さを抑え、冷静な記述に努めたといいます。内戦やその混乱で、おびただしい数の人々が亡くなりました。私はカウンセリングで家族や親しい人を亡くした悲しみを聞くことが少なくありませんので、「戦闘で数万人の若者が亡くなった」、「亡くなって列車の連結部に引っかかった遺体は同級生の踏み台にされた」というような記述を見た時、その一人一人に家族があり、どれだけの人が悲しんでいるのか、もしくは生死不明のため悲しむことすらできずにいるのかと想像せずにはいられません。

 子どもが言語を獲得する過程と大人の外国語学習は異なる点も多くあります。それでも、外国語を話していると、ふとした瞬間に、子どもの頃の気持ちを思い出すことがあります。外国人と一対一で話していたらわかるのに、外国人が複数でしゃべっていると聞き取れない時、子どもの頃大人達の話が難しくてわからなかった情景が浮かびました。また、言いたいことがいえなくてもどかしい時、先生や友人からそれを表すのにふさわしい言葉を教えられると、そのもやっとした気持ちに「名前がつけられた」とも言えます。私は幼い頃日本語を自然と身に着けたように感じていましたが、きっとこのようにして初めは家族から、その後は学校で学ぶことにより、自分の感情や考えを言葉で表せるようになってきたのでしょう。この過程は、カウンセリングにおいてカウンセラーと来談者の対話でも起こりうることです。来談者がそれまで誰にも言えないかった話をカウンセラーに話すことで、そこにある未知の考えや感情に名前がつき、言葉を得ることで、やがて来談者自身が自分で考えられるようになっていくのです。

 カウンセリングでは、一見「強い人」と思われる人の心の内にある弱さや、ある話題になると強い言葉や怒りを表現する人の心の中にある傷つきに触れることがしばしばあります。対話を重ねるうちに、相談者自身全く忘れていたような事柄を思い出し、驚くこともあります。相談者の親、祖父母の世代の顧みられていない傷つきや悲しみを相談者が気づかないうちに担っていることもあります。前述した、作者の父親が子どもたちに自分の傷つきを伝えようとした場面のように、その心の傷は誰かに聞かれ、理解されることを求めていたのでしょう。

心の不調を抱えた時、時には複雑に入り組んでいてわかりにくいかもしれませんが、もしかすると、それは誰にも読み取ってもらえない物語が心の中に潜んでいるサインかもしれません。そのような時には、学生サポートルームを訪ねてきてください。

 

*1 国共内戦 中国国民党と中国共産党の内戦。第一次(1927~37年)、第二次(45~49年)を経て、中華人民共和国政府が成立。(コトバンク)

*2 二・二八事件 第2次世界大戦後、日本に代わり台湾を統治した国民党による民衆弾圧事件。1947年2月27日夜、台北市でやみたばこ売りの台湾人老女を取締官が虐待したことを機に、民衆の国民党統治への不満が噴出。翌28日、抗議デモに警備兵が発砲し、各地で人々が蜂起したが、国民党が中国大陸から送り込んだ軍隊に鎮圧された。国民党の一党独裁と厳戒令で真相は封殺されたが、90年代以降の民主化や政権移行で追悼や賠償が進んだ。犠牲者は台湾当局の推計で1万8千~2万8千人とされている。(コトバンク)

*3 白色テロ 広義には1947年の二・二八事件から1987年に戒厳令が解除されるまでの期間を指す。台湾では二・二八事件以降、中国国民党は国民に相互監視と密告を強制し、反政府勢力のあぶり出しと弾圧を徹底的に行った。白色テロの期間、蒋介石率いる国民党に対して実際に反抗するか若しくはそのおそれがあると認められた140,000名程度が投獄され、そのうち3,000名から4,000名が処刑されたと言われている。大半の起訴は1950年から1952年の間に行われた。訴追された者のほとんどは中国共産党のスパイを意味する「匪諜」のレッテルを貼られ罰せられた。 国民党支配に反抗したり共産主義に共鳴したりすることを恐れ、国民党は主に台湾の知識人や社会的エリートを収監した。(ウィキペディア)


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