立命館大学孔子学院関係者の皆様、また、本学院の諸活動に関心を持って頂いている皆様。2025年4月から学院長となりました立命館大学国際関係学部の特命教授、中川涼司です。前学院長の宇野木先生が2025年3月末で特命教授としての任期を終えられることに伴い、私が後を引き継がせていただくこととなりました。私は2000年に立命館大学国際関係学部に赴任し、2025年3月末でいったん定年退職となりましたが、引き続き、国際関係学部において特命教授として教育、研究活動に携わっており、それとともに、この孔子学院学院長の任に当たらせていただいております。
宇野木前学院長が出されていた学院長コラムも引きつがせていただくことなりましたが、名称を「チャイナ・インプレッションズ(中国断想)」とさせていただきました。私が中国および日中関係に関して思ったことなどを書かせて頂きたいと思っています。
今回は第1号ということで、私と中国の関わりについてご紹介したいと思います。
私は日本人でかつ、宇野木先生のように学生時代から中国に関わっていたということでもなく、私と中国とのかかわりは1990年代からになります。
1992年に初めて中国を訪問しました。その時私は中国の専門家でもなんでもなく、ただ、中国の専門家の同僚の話や、あるいは、勤務先に訪問されてくる中国人の方々との接触の中で中国について少し関心がでてきたので、ほぼ興味本位で知り合いからのお誘いにのったのみでした。しかし、その時の印象はその後の私の中国研究の出発点ともなるようなものでした。あちこちにゴミが散らばる雑然とした街に、すさまじい交通ラッシュ。悪臭ただよう川。想像を超える低賃金で働く大量の若き女性たち。私が子供の時に経験した日本の高度成長期を彷彿とさせるものでした。
その後、日系企業の海外進出先としての中国にも着目し、大阪の中小企業団体の訪中団の一員としてや、また、その他の繋がりで、中国を訪問し、とくに、部品や原材料などの関連・支援産業の発展度合いについての研究を進めました。ただ、その時はマレーシア、シンガポール、インドネシアなどにも関心を寄せており、中国だけを研究していたわけではありませんでした。
前任校で学外研究にいけそうだということとなり、行先を検討し、一番面白そうなのは中国ということで中国に行くことに決めました。34歳の時にまったく0から始めた中国語学習も本腰をいれることにしました。1997年、37歳のとき北京にある中国社会科学院工業経済研究所の客員研究員となりました。当初は日系企業、とくに修士論文以来ずっと重点的に研究している電子産業の中国進出について研究するつもりでいましたが、北京の中関村などで目撃した中国のコンピュータ産業の発展に関心をもち、中国のコンピュータ産業についての研究をすることにしました。
当時の中国のPCのトップブランドは「ノーブランド」。一種の形容矛盾かもしれませんが、店頭で、希望のスペックを言って部品を購入し、自分で組み立てるか、あるいは、そこで組み立て貰うものがもっとも多かったのでした。そのころの中関村は北京大学、清華大学付近の電子街を指すただの通称でしたが、後に正式な地域名になりました。中関村は日本でも中国の秋葉原などと報道されることもありましたが、活気があるが実に雑然とした街で、なんでもありの街でした。あるお店に行くと、PCを買ったらOSをつけてくれるというのですが、そのOSというのが「Windows97」。実に笑いました。正規版のWindows95の後継はWindows98でWindows97というものは存在しません。ベータ版か何かをWindows97としてサービスとして付けていたということです。Officeの正規版を買う人はほぼ絶無。のちに、研究費でおとすので、正規版を買うと、お前は本当にこんなにくそ高い正規版を買うのか、と怪訝な顔をされました。
そんなノーブランド品と海賊版が支配的な市場で、ブランド品としてはトップシェアをとってのが、レジェンド(聯想)でした。聯想は中国科学院からのスピンアウト企業で当初は事業経営の仕方に対する無知から大損をし、野菜を売ってしのぐなどのこともしていましたが、マーケット志向に方向転換し、ノーブランド品より少し高いだけの値段で、コンピュータに詳しくない人でも使えるようなアフターサービスを充実して、シェアを伸ばしていました。これは面白いと思いました。帰国後、さっそく学会でこの企業についての報告をしましたが、当時の日本人はだれもこの企業について知らず、「何その会社?」状態でした。その後、聯想はIBMのPC事業部を買収、ブランドおよび社名の英語表記もレノボに変更、世界最大のシェアを持つPC企業へと成長しました。
携帯電話(シーメンス)も買ってみました。当時の北京の人はまだまだポケベルが主流で、携帯電話は7000~1万元程度とかなり高く、北京の庶民には手が出ないものでした。まだ、アンテナがついていた携帯電話ですが、受信状態はかなり悪く、ちょっと郊外に出るとか、市内でも場所によっては受信できないとかと使えないしろものでした。
北京で一人の中国人女性と知り合い、北京に滞在している間に結婚しました。当時の中国は優生保護法的な考え方で、結婚前には病院で生殖能力に関する検査を受けなければならなかったのですが、それも今となっては思い出です。日本に帰国して、日本でも結婚の届け出をして、妻のビザ申請をして日本に迎えました。かくして、研究も中国、家庭も中国ということになりました。
2000年に立命館大学に赴任しました。その直前に中国のIT産業に関する章もある本を出していましたが、立命館大学に赴任後、中国のIT産業に特化した本を出すことにし、2004年度にこんどは妻と子供たちも連れて北京に1年間滞在して研究を進め、2007年に『中国のIT産業―経済成長方式転換の中での役割―』(ミネルヴァ書房)という本を出しました。これで勤務先の立命館大学から博士号(乙号)もとりました。
立命館大学に移ってからは大学院も担当し、研究指導も行うようになりましたが、次第に院生はほぼすべて中国人となりました。研究と家庭に加えて、教育も中国の比重が高くなりました。前期課程院生はちゃんと数えたことがないのですが、80人ぐらいの修了生のうちのほとんどは中国人です。後期課程院生は結局6人が博士号を取得(最後の一人は取得見込み)しましたが、全員が中国人で、うち4人が中国の社会保障研究でした。私の退職記念もあって博士課程修了生を中心に本を出すことにしましたが、テーマは社会保障として、『中国的福祉社会への道』(ミネルヴァ書房)が6月頃に出版見込みです。
孔子学院とのかかわりは、孔子学院主催の研究会に参加したり、一度大阪で大阪学堂の合同セミナーでの報告を行ったぐらいでしたが、学院長の宇野木先生とは同じ学会の理事として頻繁にやり取りはしておりました。学内役職としては、孔子学院の所轄部局でもある国際部の部長を3年間(通算では4年)しておりました。そんなこともあり、宇野木先生のご退任のタイミングで私が学院長をお引きうけすることになりました。
最近は、IT産業研究の発展でコンテンツ産業研究もしており、5月のセミナーでは私自身が中国のアニメ産業についてもお話します。
今後ともなにとぞよろしくお願いいたします。
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