学院長コラム「チャイナ・インプレッションズ(中国断想)」バックナンバー第1号~


第1号 私と中国(2025年4月30日(水))
 立命館大学孔子学院関係者の皆様、また、本学院の諸活動に関心を持って頂いている皆様。2025年4月から学院長となりました立命館大学国際関係学部の特命教授、中川涼司です。前学院長の宇野木先生が2025年3月末で特命教授としての任期を終えられることに伴い、私が後を引き継がせていただくこととなりました。私は2000年に立命館大学国際関係学部に赴任し、2025年3月末でいったん定年退職となりましたが、引き続き、国際関係学部において特命教授として教育、研究活動に携わっており、それとともに、この孔子学院学院長の任に当たらせていただいております。
 宇野木前学院長が出されていた学院長コラムも引きつがせていただくことなりましたが、名称を「チャイナ・インプレッションズ(中国断想)」とさせていただきました。私が中国および日中関係に関して思ったことなどを書かせて頂きたいと思っています。
 今回は第1号ということで、私と中国の関わりについてご紹介したいと思います。
 私は日本人でかつ、宇野木先生のように学生時代から中国に関わっていたということでもなく、私と中国とのかかわりは1990年代からになります。
 1992年に初めて中国を訪問しました。その時私は中国の専門家でもなんでもなく、ただ、中国の専門家の同僚の話や、あるいは、勤務先に訪問されてくる中国人の方々との接触の中で中国について少し関心がでてきたので、ほぼ興味本位で知り合いからのお誘いにのったのみでした。しかし、その時の印象はその後の私の中国研究の出発点ともなるようなものでした。あちこちにゴミが散らばる雑然とした街に、すさまじい交通ラッシュ。悪臭ただよう川。想像を超える低賃金で働く大量の若き女性たち。私が子供の時に経験した日本の高度成長期を彷彿とさせるものでした。
 その後、日系企業の海外進出先としての中国にも着目し、大阪の中小企業団体の訪中団の一員としてや、また、その他の繋がりで、中国を訪問し、とくに、部品や原材料などの関連・支援産業の発展度合いについての研究を進めました。ただ、その時はマレーシア、シンガポール、インドネシアなどにも関心を寄せており、中国だけを研究していたわけではありませんでした。
 前任校で学外研究にいけそうだということとなり、行先を検討し、一番面白そうなのは中国ということで中国に行くことに決めました。34歳の時にまったく0から始めた中国語学習も本腰をいれることにしました。1997年、37歳のとき北京にある中国社会科学院工業経済研究所の客員研究員となりました。当初は日系企業、とくに修士論文以来ずっと重点的に研究している電子産業の中国進出について研究するつもりでいましたが、北京の中関村などで目撃した中国のコンピュータ産業の発展に関心をもち、中国のコンピュータ産業についての研究をすることにしました。
 当時の中国のPCのトップブランドは「ノーブランド」。一種の形容矛盾かもしれませんが、店頭で、希望のスペックを言って部品を購入し、自分で組み立てるか、あるいは、そこで組み立て貰うものがもっとも多かったのでした。そのころの中関村は北京大学、清華大学付近の電子街を指すただの通称でしたが、後に正式な地域名になりました。中関村は日本でも中国の秋葉原などと報道されることもありましたが、活気があるが実に雑然とした街で、なんでもありの街でした。あるお店に行くと、PCを買ったらOSをつけてくれるというのですが、そのOSというのが「Windows97」。実に笑いました。正規版のWindows95の後継はWindows98でWindows97というものは存在しません。ベータ版か何かをWindows97としてサービスとして付けていたということです。Officeの正規版を買う人はほぼ絶無。のちに、研究費でおとすので、正規版を買うと、お前は本当にこんなにくそ高い正規版を買うのか、と怪訝な顔をされました。
 そんなノーブランド品と海賊版が支配的な市場で、ブランド品としてはトップシェアをとってのが、レジェンド(聯想)でした。聯想は中国科学院からのスピンアウト企業で当初は事業経営の仕方に対する無知から大損をし、野菜を売ってしのぐなどのこともしていましたが、マーケット志向に方向転換し、ノーブランド品より少し高いだけの値段で、コンピュータに詳しくない人でも使えるようなアフターサービスを充実して、シェアを伸ばしていました。これは面白いと思いました。帰国後、さっそく学会でこの企業についての報告をしましたが、当時の日本人はだれもこの企業について知らず、「何その会社?」状態でした。その後、聯想はIBMのPC事業部を買収、ブランドおよび社名の英語表記もレノボに変更、世界最大のシェアを持つPC企業へと成長しました。
 携帯電話(シーメンス)も買ってみました。当時の北京の人はまだまだポケベルが主流で、携帯電話は7000~1万元程度とかなり高く、北京の庶民には手が出ないものでした。まだ、アンテナがついていた携帯電話ですが、受信状態はかなり悪く、ちょっと郊外に出るとか、市内でも場所によっては受信できないとかと使えないしろものでした。
 北京で一人の中国人女性と知り合い、北京に滞在している間に結婚しました。当時の中国は優生保護法的な考え方で、結婚前には病院で生殖能力に関する検査を受けなければならなかったのですが、それも今となっては思い出です。日本に帰国して、日本でも結婚の届け出をして、妻のビザ申請をして日本に迎えました。かくして、研究も中国、家庭も中国ということになりました。
 2000年に立命館大学に赴任しました。その直前に中国のIT産業に関する章もある本を出していましたが、立命館大学に赴任後、中国のIT産業に特化した本を出すことにし、2004年度にこんどは妻と子供たちも連れて北京に1年間滞在して研究を進め、2007年に『中国のIT産業―経済成長方式転換の中での役割―』(ミネルヴァ書房)という本を出しました。これで勤務先の立命館大学から博士号(乙号)もとりました。  立命館大学に移ってからは大学院も担当し、研究指導も行うようになりましたが、次第に院生はほぼすべて中国人となりました。研究と家庭に加えて、教育も中国の比重が高くなりました。前期課程院生はちゃんと数えたことがないのですが、80人ぐらいの修了生のうちのほとんどは中国人です。後期課程院生は結局6人が博士号を取得(最後の一人は取得見込み)しましたが、全員が中国人で、うち4人が中国の社会保障研究でした。私の退職記念もあって博士課程修了生を中心に本を出すことにしましたが、テーマは社会保障として、『中国的福祉社会への道』(ミネルヴァ書房)が6月頃に出版見込みです。
 孔子学院とのかかわりは、孔子学院主催の研究会に参加したり、一度大阪で大阪学堂の合同セミナーでの報告を行ったぐらいでしたが、学院長の宇野木先生とは同じ学会の理事として頻繁にやり取りはしておりました。学内役職としては、孔子学院の所轄部局でもある国際部の部長を3年間(通算では4年)しておりました。そんなこともあり、宇野木先生のご退任のタイミングで私が学院長をお引きうけすることになりました。
 最近は、IT産業研究の発展でコンテンツ産業研究もしており、5月のセミナーでは私自身が中国のアニメ産業についてもお話します。
 今後ともなにとぞよろしくお願いいたします。


第2号(2025年6月10日(火))
 2025年5月30日 (於:立命館大学衣笠キャンパス創思館カンファレンスルーム)において、例年この時期に実施している北京大学・立命館大学連携講座を開催した。今年のテーマは「アニメ新時代:日中アニメーションの交差点」。北京大学新聞伝媒学院准教授・王洪喆氏、「中国における日本アニメの受容状況:歴史と現状」そして、私自身が「中国アニメ産業の発展と日本市場への進出」について報告した。
 王洪喆准教授は改革開放後の1980年12月、中国中央電視台 CCTV が 初めて日本のテレビアニメ『鉄腕アトム』が、カシオの電子腕時計の広告を挿入のバーター取引によって放映され、子供たちに熱狂的な支持をえて以来、日本のアニメが次々と中国において放映され、それがテレビの普及を促し、また、国際アニメの発展も刺激したことを豊富な画像を基にご報告された。1990年代に入り、テレビが中国の家庭に普及するにつれて、日本のアニメは中国での黄金期を迎え、その頂点に立ったのが『スラムダンク』であり、高校バスケットボールをテーマにしたこのアニメは1995年前後に中国本土で放送され、社会現象といえるほどの反響を呼び、中国におけるバスケットブームの火付け役になったとされた。同時期に放送された『美少女戦士セーラームーン』も非常に人気を博し、日本の学校生活へのあこがれも生んだとされた。ただし、『新世紀エヴァンゲリオン(EVA)』はセンシティブな内容に関して大きな改編がされ、それに対するネット上の不満が高まるなど、日本アニメの内容への懸念による制限が高まり、ジブリ作品などは当初は海賊版などで流通し、後になって正規版が放送されることになった。2010年代において外国アニメ放映枠が拡大されることで、新海誠監督の作品が次々中国で放映され、これまでの日本アニメ映画興行収入記録を次々破っていくなどのインパクトを与えた。また、それらにも影響を受けつつ、『ナタ』、『ナタ2』などの国産アニメのヒット作が次々生み出されてきた。以上である。

 中川の報告の概要は以下のとおりである。口頭で述べたことに補足をしているので、少し長くなっている。
1.中国におけるアニメの発展史
 「万氏兄弟」(万古蟾、万籟鳴、万超塵、万滌寰の四兄弟)が、1922年に中国初の広告アニメ『舒振東華文打字機』を製作したのが、中国の最初のアニメと見なされているが、同じく万氏兄弟によって1941年に『西遊記 鉄扇公主の巻』(《鉄扇公主》)が上海で公開され、翌年日本でも輸入公開されて大ヒットになった。
 中華人民共和国が成立したのち、1953年の中国最初のカラー人形アニメ『小さなヒーロー』(《小小英雄》)や1955年の中国最初のカラーセルアニメ『カラスはなぜ黒いのか)』(《烏鴉為什麼是黒的》)などがあり、切り絵アニメ、水墨アニメ、折り紙アニメなど多様な形態での展開、1961年と1964年に上下巻に分けて公開された『大暴れ孫悟空』(《大閙天宮》)は国内外で高い評価を受けた。
 しかし、1966年から始まり1976年まで続いた文化大革命の期間めぼしい作品がなく、改革開放後は日本のアニメが急速に普及した。90年代においても国産アニメは『宝蓮灯』などの高い評価を受けた作品もあり、テレビでも佳作がいくつか放映されるに至った。しかし、上記のような日本アニメの黄金期のなかでインパクトは限られていた。

2.中国文化産業政策の展開とアニメ産業
 これらの状況に対して中国政府は文化的観点からもまた同時に産業的な観点からも国産アニメ産業振興策を採ってきた。第10期五カ年計画(2001~2005年)で、五カ年計画にはじめて「文化産業」という言葉が規定され、文化部によって文化産業体系も定義された。文化が思想建設ということだけではなく、産業としてもとらえるようになったということである。第11期五カ年計画(2006~2010年)では中国の大国化と対外関係の変化を反映し、ジョセフ・ナイのソフトパワー概念を採りいれた文化ソフトパワー(「文化軟実力」)概念が明確に位置づけられた。これらの下で、体系的な文化産業振興政策である 「文化産業振興規画」(2009年)が制定された。同「規画」では「文化産業を国民経済の新たな成長点へと育成・発展させる」ために、①文化市場主体の整備、②文化産業構造の改善、③文化創新の能力向上、④現代文化、市場体系の整備、⑤文化製品とサービス輸出の拡大の5つの計画目標が定められた。第14期五カ年計画(2021~25年)の第9項目は「文化事業と文化産業を繁栄・発展させ、国家の文化ソフトパワーを引き上げる」というものであり、また、2035年までの目標として「文化強国」となることが明確化された。
 アニメ産業に関しては2006年には財政部、教育部、科技部、信息産業部、商務部、文化部、税務総局、工商総局、広電総局、新聞出版総署連名の「我が国アニメ産業発展に関する若干の意見」(《关于推动我国动漫产业发展的若干意见》)を国務院弁公室が同意(国弁発〔2006〕32号)し、広く政府機関に周知したことから大きく状況が変化した。これにより、各地に①アニメ産業開発基地が設置され、また、②テレビ放送のゴールデンタイムにおいて外国製のアニメを放送することが禁じられた。③アニメ制作企業に補助金が投じられ、また、④アニメ人材の養成を目指す教育機関も次々と設立された。
 このような供給も需要も担保された形のアニメ産業政策の結果、中国のテレビアニメは単純に放送時間からいえば一気に世界一となった。しかし、『喜羊羊と灰太狼』(シーヤンヤンとホイタイラン)などのヒットはあったが、画像、ストーリーとも洗練されておらず国内においてすら評価は低かった。2012年の「第12 次五カ年国家動漫産業発展計画」で質重視の方向に転換し、テレビにおける放送時間もピークを過ぎた。
 『喜羊羊と灰太狼』は広東省広州市にあるアニメーション企業の広東原創動力文化伝播有限会社により、2005年8月3日から放送されているテレビアニメである。2025年1月までは42期のアニメーション、3021話が制作されるロングシリーズとなっている。ほのぼのとした良作で基本的には幼児向けであり、動画技術レベルは高くないが幼児向けにはむしろシンプルな画風が良かった。
 このような中で中国のCG技術が高められた。2000年にグローバル・デジタル社(环球数码)が深圳で設立された。同社はビジネスモデルを確立できず、経営的には破綻するが、中国におけるCG技術者を育て、CG技術者第1世代を形成していった。 2003年武漢人馬動画有限公司(武汉人马动画有限公司 )が設立された。同社はMaya技術養成機関を設立し、技術者を育てながら、中国を代表する映画監督である陳凱歌とも協力、大手ゲームメーカーである上海SHANDA(上海盛大)向けに「伝説世界」(《传奇世界》)、神迹(《神迹》)のゲームCGを作るビジネスモデルを確立していった。なお、MayaはアメリカのAutodesk社が開発・販売しているハイエンドな3Dアニメーションソフトウェアであり、立体を作るモデリング、モデルを最終的映像にするレンダリング、モデルに動きをつけるアニメーション、現実の動きや挙動をデジタルの世界で表現するシミュレーション、現実世界かのような臨場感を、アニメーション映像などに加えるエフェクトの5機能を揃え、過去にはツールアカデミー賞を受賞したこともある代表的な統合型ソフトである。
 00后世代に大人気を博した3G動画『熊出没』(《熊出没》)シリーズを生み出した華強方特(Huaqiang Fantawild)は熊大、熊二、光頭強などの強いキャラクターの創出に成功し、映画等をヒットさせるとともに、ディズニーランドに似たテーマパークを全国に20余り展開するビジネスモデルを確立した。
 特筆すべきことは、2008年の『カンフーパンダ』で世界で6億ドル以上の興行収入を記録した米アニメ映画制作会社ドリームワークス・アニメーションが中国に中国合弁会社オリエンタル・ドリームワークス(上海東方夢工場影視技術有限公司)を設立するとともに、上海黄浦江河畔に政策基地だけでなく文化産業集積地機能ももった「東方夢工場」を建設したことである。オリエンタル・ドリームワークスは2016年にNetflix公開となった『カンフーパンダ3』の共同制作にあたり、中国の技術水準を示した。ただし、この事業はビジネスとしては失敗に終わっている。

3.中国アニメ産業の新展開
 中国のアニメ産業振興政策が進展する中で劇場版アニメとして、『紅き大魚の伝説』(《大鱼海棠》)(2016年)、『DAHUFA 守護者と謎の豆人間』(《大护法》)(2017年)などの国産アニメのヒット作が生まれ、日本でも放映されているが、劇場アニメとして画期となったのは2016年の『西遊記 ヒーロー・イズ・バック』(《大圣归来》)である。高いCG技術、伝統的な話に基づきながら魅力的なキャラクター・デザインとストーリーのアレンジで当時としては画期的な9.5億元の興行収入を挙げるに至った。
 これをさらに上回る空前のヒットとなったのが、2019年に公開された2019年『ナタ~魔童降臨~』(《哪吒之魔童降世》,The devil boy of Nezha comes to the world、以下『ナタ』)である。同作は実写も含めたすべての過去の中国映画の中でのダントツの興行収入である50億元を達成した。ナタ(哪吒,Nezha)は中国では『西遊記』、『三国志』などとならぶ定番の説話である『封神演義』に登場するキャラクターである。もともとの封神演義の中では、ナタは崑崙十二大師の一人である太乙真人によって宝物「霊珠子」から作られ、陳塘関の守将の李靖の第3子として生まれ変わった子供である。ナタはもともと、霊珠子であるから人間性に問題があり、雨降を司る神である龍王の三太子敖丙を殺し、背筋を抜いて父へのプレゼントにしようとしたり、また、採薬をしていた石磯娘娘の弟子を射殺したりした。これは李靖の怒りを生み、李靖はナタを殺そうとしたが、ナタは罪をあがなうために自らの肉と骨を切り自害した。太乙真人は蓮の花に金丹を入れて肉体としナタを復活させ、また、父と和解させた。その後は、ナタは仙界の(人間出身)の闡教(せんきょう)の道士として父や兄たち(金托、木托)、楊戩(よう せん)らとともに、姜子牙(太公望)を助け、人間界における商の紂王と仙界における森羅万象を起源とする截教(せっきょう)の連合と闘い勝利していく。ただし、姜子牙の真のミッションは、周の紂王を打ち破ることではなく、崑崙十二大師が千五百年に一度の逃れられぬ劫として、殷周革命に関わる闡教徒、截教徒、人道の中から「仙ならざる仙」、「人ならざる人」達を365人の「神」として封じる「封神」を行うことであった。
 上海美術映画製作所が製作し、1979年に公開された『ナーザの大暴れ』(『哪吒闹海』)はナタ(ナーザ)が人間の百姓を苦しめる四大龍王(東海龍王・南海龍王・西海龍王・北海龍王)の横暴に立ち向かうというものである。また、2003年6月から2004年に52集で放映された『封神演義 〜ナタクの大冒険〜』(《哪吒传奇》The Legend Of Nezha)は小さな英雄であるナタが女娲、太乙真人などの仙人たちの助けを受けながら、邪な仙人石矶と闘い、人々を救うというストーリーである。これらはアニメは健全な青少年育成のためのものという中国政府の方針を強く反映したもので、比較的単純な勧善懲悪の物語である。
 しかし、この『ナタ』の描いたナタはむしろ原作の前半部のキャラクターに近い。ナタは魔王として生まれる魔丸にすり替えられ、英雄となるはずだったにも関わらず、逆に世を混乱に陥れる魔王になる運命を背負ってしまった。人からは嫌われていて、悪さをしながら、最後に友情の中で死を迎えつつ回心をしていくストーリーである。キャラクター・デザインも非常に醜い(中に少しの可愛さがある)ものに設定された。これらは豊かになるも、強いプレッシャーの中で社会的不適合を起こし「ねそべり族」などにもなっていく人も少なくない「00后」(零零后)に大いに共感をえた。
 しかし、この『ナタ』の製作会社北京光線伝媒は、国内での莫大な興行収入に対して、ごくわずかの収入しか見込めない日本市場への売り込みにはあまり積極的ではなく、2019年10月22日から11月1日の2019東京・中国映画週間で上映されたにとどまった。
 2024年(日本公開は2025年)の『ナタ―魔童の大暴れ』(《哪吒之魔童闹海》,Ne Zha 2)、以下、『ナタ2』)はさらに『ナタ』をしのぐものとなった。2025年の春節(旧正月)の劇場公開以来、中国国内でメガヒットとなり、実写も併せた歴代興行収入第1位の『1950 鋼の第7中隊』(《长津湖》)(2021年)の57億7500万元の約2倍の興行収入をあげている。世界にみても『インサイド・ヘッド2』(2024年)の興収16億9886万ドルを抜き、アニメーション映画史上世界最大の興行収入となった。また、実写をいれても、中国の代表的な映画人気ランキングである「猫眼」の予想通り最終興収157億4200万元(約21億7010万ドル)を達成すれば『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』(2018年)や『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』を抜いて世界歴代5位となる見込みである。日本では中国の映画を日本で配給する面白映画によって3月に中国語字幕のみのものが、4月4日からは日本語字幕付きが上映された。Filmarksなどのコメントもほぼ好意的なものが多い。

4.主要アニメ製作企業
(1)北京光線伝媒(Enlight Media)
 『ナタ』、『ナタ2』を製作したのは北京光線伝媒(Enlight Media)である。同社は1965年大連生まれの王長田が1998年に設立した。同社はテレビ番組『中国娯楽報道』の制作から事業を開始し、それは放送局とは独立の制作会社が番組を製作する嚆矢となった。制作から始まり、全国にネットワークを形成し、全国に娯楽番組を提供した。2006年に映画とテレビドラマ制作に進出。120部以上の映画作品を公開し、連続して年間総興行収入1位を記録、630億元を超える累積興行収入を挙げている。テレビドラマでも多くの作品を制作した。2013年にアニメに進出。20社以上に投資を行ってサプライチェーンを形成、『紅き大魚の伝説』(《大鱼海棠》)、『大護法』(《大护法》)、『ナタ~魔童降臨~』(《哪吒之魔童降世》)、『姜子牙』(《姜子牙》)、《深海》、《茶啊二中》、《昨日青空》等の作品を公開した。2019年公開の『ナタ』(《哪吒之魔童降世》)が50.35億元の興行収入を挙げ、さらに2024年公開の『ナタ2』が世界のアニメ映画史上最高の150億元程度の興行収入を挙げる見込みとなっていることは上記のとおり。
 『ナタ』の原案は、監督となった「餃子」(楊宇)のものであるが、楊宇の会社可可豆動画でこの作品を完成させることは難しく、北京光線伝媒のグループとなることで完成を見た。『ナタ2』は基本的に同じ制作体制であるが、『ナタ』に比べて、可可豆動画の主導権が強く、可可豆動画の拠点である成都を中心とした制作体制が採られた。
北京光線伝媒は自社グループで制作を行うとともに、日本の『千と千尋の神隠し』、『君の名は。』、『天気の子』、『夏目友人帳』などの輸入・配給も行っている。
傘下には光線影業、青春光線影業、彩条屋影業、五光十色影業、迷你光線影業、小森林影業、光線経紀、英事達などの系列会社も持つ。
 同社はこれらのコンテンツの制作・配給を中心としつつ、芸能人のマネジメント、制作編集監督プロデュース、また、音楽プロデュースを行って、多くの俳優やミュージシャンを世に送りだしている。
 また、同社は江蘇省揚州市に1万平方メートルの専門撮影所を建設している。その他、系列の投資会社である光線投資を通じて、猫眼娯楽、橙子映像、十月文化、彼岸天、天津好転など70社に投資し、幅広い娯楽プラットフォームを建設している。
 以上のように、北京光線伝媒は各社を系列化して傘下に組み入れていく形でエコシステムを構築するのがその特徴である。

(2)追光動画(Light Chaser Animation Studios)
 追光動画は2013年4月に動画共有サイト土豆網(Tudou)の創始者であり元CEOの王微(Gary Wang)によって設立された。王は土豆網を設立、発展させていたが、有料サイトへの転換において膨大な著作権料の支払や無断使用による訴訟に耐えられず、優酷網と合併のち、同社を離れ、制作側に回った。王は中国のピクサーを目指し、アメリカでの経験を活かし、ベンチャーキャピタルから豊富な資金調達、ワーナー・ブラザースと組んだ配給を行い、Netflixへも供給することで世界中に供給している。技術人材はスカウトして内部化した。
 追光動画は、制作についてはリソースを外部から調達しつつも内部統合型で制作し、一方、配給は外部との連携に依拠するエコシステムとなっている。

(3)テンセント(Tencent)/ビリビリ(bilibili)/ハオライナー(绘梦)
 1998年に馬化騰は他の4人とともにテンセント(深圳市騰訊計算機系統有限公司、騰訊、Tencent)を設立した。同社はインスタント・メッセンジャー・ツールとしてQQを開発してチャット機能からさらに検索、音楽視聴、動画視聴、決済などに機能を拡張した。また、スマホ時代を見越して微信(WeChat)を開発、さらに機能を広げた。しかし、事業としての稼ぎ頭になったのはゲームである。2004 年、騰訊互動娯楽事業部(のち互動娯楽事業群、简称 IEG)が設立され、ネットゲーム事業に参入し、同社の最大の事業部へと成長した。
 テンセントは2011年7 月、第七回中国国際動漫遊戯博覧会において,「泛娯楽戦略」を打ち出した。これは独自コンテンツの知的財産権を軸とし、ゲームプラットフォームとインターネットプラットフォームを基礎としつつ、プラットフォームを跨る多領域を開拓していくビジネスモデルである。このコンセプトにより翌2012年に漫画とアニメの配信プラットフォームとして騰訊動漫が設立され、さら2013年に小説の配信プラットフォームとして網絡文学が設立された。さらに、2015年にはテンセントは盛大文学を買収し、閲文集団とした。さらに、同年、小説、漫画、ゲーム、動画への総合的な投資を行う騰訊影業(IEG傘下)、とやや小規模の自社製作や共同製作を行う企鵝影業を設立することで、総合娯楽エコシステムを完成させた。2018年、テンセントは「泛娯楽」戦略をさらに「新文創」戦略にアップグレードさせた。テンセント集団副総裁の程斌は2018年「新文創」エコシステム大会において「新文創」とは「より幅広い主体を結び付けて、文化価値と産業価値の相互活性化を推進し、より効率性の高いデジタル文化と知的財産権の構築を実現すること」であるとした。この概念のもと2015年からテンセントは次々と動画制作関連会社を系列に収め始めた。それらの企業は玄機科技、駿豪宏風、原力動画、天聞角川動漫などであるが、特に大きな意味を持つのはbilibiliである。2018年にbilibiliはテンセントとの戦略的協力関係に入ることを宣言し、ゲームやアニメの上下流においての協力を進めることとした。
 テンセントのアニメはネットアニメを主体としており、そのためのプラットフォームとしてテンセント・アニメ(騰訊動漫)も設立されている。プラット―フォームとして、原理的にはサードパーティを巻き込む形であるが、完全に独立したサードパーティとはならず、制作会社は系列化されるか、あるいは、系列化されていないケースでも、制作委託の形になっていることが多い模様である。
 2021年1月、bilibiliは上海絵界文化伝播有限公司の全株式を取得、絵夢はbilibiliの完全子会社となったので、bilibiliを介して、テンセントは上海絵夢さらに日本絵夢もエコシステムの中に収めることとなった。
 bilibiliは2009年に徐逸(Yi Xu)がMikufansとして開設、2010年 bilibiliに名称変更、その後、Cheetah Mobile(中国語: 猎豹移動)の共同創設者の陳睿がエンジェル投資を行って運営会社として杭州幻電科技有限公司(のち上海に移転して、上海幻電信息科技有限公司、以下会社名としてもbilibiliとする)を設立して董事長に就任した。日本のニコニコ動画のビジネスモデルを真似、会社名称まで類似していることは知られているが、ユーザー数ではすでにニコニコ動画をはるかに上回っている。騰訊視頻同様に独自コンテンツを重視し始めたbilibiliは2016年に上海絵界文化伝播有限公司(上海絵梦、しゃんはいえもん)に投資、さらに、2021年1月には全株式を取得して、上海絵梦はbilibiliのグループ会社となった。
 上海絵梦は2013年に中国にて李豪凌により上海絵夢文化伝播工作室(HAOLINERS STUDIO)という合名会社として設立された。2015年3月に上海本社は上海絵界文化伝播有限公司という有限責任会社へ変更され、絵梦(HAOLINERS、ハオライナーズ)はアニメブランドとして存続することとなった。

5.中国アニメの日本進出の歴史
(1)前段階
 中国(中華民国、中華人民共和国)の日本へのアニメ輸出の嚆矢は1941年に国内上映され、1942年に日本に輸出された『鉄扇公主』である。
(2)第1段階(1980年代~2010年代半ば)
 1980 年代に入り『咤閙海』(1980年)、『金猴降妖』(1991年)、『宝蓮灯』(2006年)、『葫芦兄弟』(2008年)、『葫芦小金剛』(2008年)などが日本のテレビでの放送、劇場公開、DVD発売などが行われた。1980 年代から日本のアニメ産業の海外への外注化が進み、日本のアニメ制作のかなりの部分は韓国や中国などの下請けによって担われるようになった。しかし単なる下請けでなく共同製作への移行の動きもみられるようになっていった。
(3)第2段階(2010年代末以降)
 2010年以降、中国アニメは劇場、オンデマンド配信、テレビ放送の多様なチャネルで日本の視聴者にはもっと近しくなっていった。
 とくに注目されたのは『羅小黒戦記』(2011-,北京寒木春動画技術有限公司制作)である。中国人の張進と白金が2019年に設立した Team Joyが本作を輸入。当初1館上映であったがその後拡大。2020年にソニー子会社のアニプレックスが日本の人気声優(花澤香菜など)を使った日本語吹き替え版を作ったことで約5億円の興行収入を挙げ、中国アニメとしては異例のヒットとなった。2次元で、キャラクター・デザイン、ストーリーとも日本アニメに近く、日本の視聴者には受け入れられやすかった。さらに人気声優が声を担当することで中国アニメという感覚も薄れたことが大きな成功要因である。
 また、上海絵梦は日本のアニメ制作会社の下請けも担当している。Comix Wave Filmとの協力では『君の名は。』の制作も担当した。また、逆にComix Wave Film協力を仰いで新海誠的なテイスト、画風の『詩季織々』(2018年)を制作した。『銀の墓守り』など日本のスタッフも使いつつ、日本と中国でネットアニメとして配信した。絵梦の制作・製作活動はテンセント・エコシステムに組み込まれている。制作作品から見ると、原作の多くは「テンセントアニメ」に掲載されたウェブ漫画である。それが日本絵梦を含む絵梦グループによってアニメ化され、中国ではテンセントアニメないしbilibiliで配信されている。それが日本ではTOKYO MXでまず放送されてから、NetflixやAmazon Prime Videoで配信される流れとなっている。ただ、近年は日本での制作は行っていない模様である。

6.日本アニメの中国進出の再開
 ハリウッドなどの働きかけで中国における外国映画放映枠が拡大し、それに乗じた形で、2015 年に『STAND BY ME ドラえもん』(《哆啦A梦:伴我同行 》) が久しぶりに日本アニメ映画が配給された。興行収入5.4億元は日本国内を上回った。 2016年『君の名は。』(《你的名字》)、2019年『天気の子』(《天气之子》)も配給され好評を博した。2019年には2001年に日本で公開され、中国には海賊版しか入ってないにも関わらず人気を博していた『千と千尋の神隠し』(《千与千寻》)が中国で公式に公開された。
 このように日本アニメに対する規制強化の中で海賊版に大きく依拠していた日本アニメが公式的にも中国市場に再び入っていっている。今後、相互に進出が進んでいけるかどうか大きな課題となっている。

7.『ナタ2』に見る海外進出上の問題点
(1)興行収入のほとんどは中国国内
 『ナタ2』はアニメ映画としては世界市場最高の興行収入を挙げることが予想されている。しかし、Box Office Mojo(2025年5月22日アクセス)によれば、Ne Zha2の世界興行収入は18億9862万9967ドルであるが、うち中国が18億6245億9345ドルで、98.1%が中国国内での収入である。CMC Picturesが配給するアメリカ市場は2085万8156ドルで全世界の1.1%であり、少なくない部分が300万人以上いる在米華人による視聴と考えられている。ヨーロッパはイギリスを拠点とするトリニティ・シネアジアが欧州37国・地域での劇場公開権を北京光線影業から獲得したが、イギリスでの興行収入は159万6106ドル、ドイツはさらに少なく56万8260ドルにとどまっている。宮崎駿監督の『君たちはどう生きるか』は全世界2億82,42万2,186ドルであり、全世界では『ナタ2』の6分の1にも満たないが、アメリカでは4683万2,867ドル、イギリス560万5,692ドルと倍以上である。

(2)『封神演義』に対する外国人の理解度への配慮不足
 中国人にとって『封神演義』は繰り返しいろいろな形でアレンジされる題材であり、日本で言えば忠臣蔵的存在である。したがって、中国人には細かい説明をする必要がない。しかし、『封神演義』を読んだことも、聞いたこともない外国人にとってはなじみが薄い。日本ではそれでも1989年に出た安能務編訳によるリライト版、それを原作にした藤崎竜による漫画『封神演義』(1996年 - 2000年)で広く知られるようになり、光栄『完訳 封神演義』全三巻(1995年)や二階堂善弘監訳の全訳全4巻、勉誠出版(2017年-2018年)も出されるようになっているが、欧米では日本以上に知られていないと思われる。『封神演義』は中国の伝統的説話で、ストーリーとしてのダイナミズムが世界にも通じるものがあるという側面があるにせよ、誰しもがベースにあるストーリーをある程度は知っているという前提でのストーリー展開だと理解が追い付かない。

(3)反米的隠喩?
 脚本家がどこまで明確に意識したことなのかどうかはまだ確定的なことは言えないが、中国のネット上では『ナタ2』に現れる反米的ミームが大いに話題になっている。
 当初、慈愛をもった指導者と思われていたが後に凶暴な姿になる「無量仙翁」(南極仙翁がもっとも近いが、基本的には本作のオリジナルキャラクターで、闡教界の最高指導者元始天尊の第一の弟子)が元始天尊が修業にこもる期間暫定的に闡教界を取り仕切っている。教化の名目で弟子たちに非道な行為も行わせ、妖怪や無垢の一般人を「仙薬」としてしまってその仙薬を使って闡教界の力を引き揚げ、異界との闘いに勝利することを意図している。無量仙翁の住む場所は白宮(ホワイトハウス)であり、その形は米国防総省(ペンタゴン)を彷彿とさせるものである。また、闡教界での身分を示す玉牌には、アメリカのグリーンカードなどに付けられるアメリカの国章のベクター(鷲)がつけられている。天元鼎(三本足の商周代の青銅器。仙薬を作るための器)には「$」マークが付けられている。仙薬(仙丹)はコロナウイルスのような形をしており、これもパキスタンのハールーン元外相などがコロナウイルスがアメリカで生産され、中国に運ばれたことを示すいくつかの根拠がある、と述べたことと符合する。
 中国で大きな興行収入を挙げた映画には2016年の『オペレーション・メコン』(《湄公河行动》)、2017年の『建軍大業』(《建军大业The Founding of An Army》、『戦狼2』(《战狼2》Wolf Warriors 2)などのいわゆる「主旋律映画」(愛国主義的映画)があり、2021年(日本公開2022年) の『1950鋼の第7中隊』(《長津湖》、The Battle at Lake Changjin)や2024年の『志願軍 ~雄兵出撃~』(《志愿军:雄兵出击》、The Volunteers: To the War)では朝鮮戦争における米軍との対決が題材として選ばれるようになっている。『ナタ2』の反米ミームはその流れに乗ったものではないかという疑いである。
 どこまで意図的なものかはともかく、少なくない中国人鑑賞者はその意味合いを感じ取っている。これらの主旋律映画の国内では人気で興行収入も多いが、国外での評価は高くなく、興行収入も振るわない。『ナタ2』が同じ轍を踏まないことを願う。

むすび
 日本のアニメは改革開放初期に中国で受け入れられ、大きな影響力を与えた。中国のアニメは中国政府の産業振興政策もあって、短期間で長足の進歩を遂げ、『ナタ2』は世界のアニメ映画史上最大の興行収入を挙げる見込みとなるところにまで至った。CG技術やキャラクター・デザイン、ストーリー展開も進歩し、迫力も見ごたえもあるものとなった。また、中国アニメ振興の中で制限されていて、海賊版でしか入らなくなっていた日本のアニメが再び映画館で公式的に上映され、かつてない興行収入を挙げるようになった。かくして、日中双方のアニメが相互に刺激しつつ生産も消費もされていく方向に展開しているようには見える。
 ただし、中国のアニメの興行収入はほとんどは中国国内のものであり、内容的にも中国国内向けを思わせることが少なくない。また、制作面でも、日本のアニメの下請けを中国がすることは進んでいるが、対等なコラボは仕事の進め方の相違などから容易ではない。今後、消費面でも制作面でもより一層の相互浸透とコラボレーションが進むことを期待したい。

質疑に関して
 会場やオンラインからいくつかの質問が寄せられた。
 一つは、海賊版の動向について。それについては、かつてはVCDが店頭や街中でも売られる形であったが、ネットに移行し、ただし、それも対策が進み、また、価格的にも正規版が十分に視聴できるようになってきていることから、正規版化が進んでいることが示された。
 中国で日本のアニメがはやるのは同じアジアの国としての文化的近接性があるからか、という点について。これについては、台湾や中国において日本を出発点とするような「二次元」文化、AGC文化圏(中国語圏において主に用いられる日本のアニメ(Anime)、漫画(Comic)、コンピューターゲーム(Game)の文化圏)の需要層があり、とくにbilibiliを拠点とした層が存在するが、中国のコンテンツがすべてこの流れにあるわけではなく、アメリカ的なもの、あるいは中国固有のものを嗜好する層も存在していると答えられた。
 『スラムダンク』の影響についても質問が出された。答えとして、中国のバスケットブームの背景の一つとしてこの『スラムダンク』があることは疑いないことが述べられた。
 またアンケートでは、1979年の『ナーザの大暴れ』は、いわゆるアートアニメファンの間で、天地がひっくり返る程の驚きを持って迎えられたことや、今はネットアニメでは『魔道祖師』がぶっちぎりの1位であるなどの指摘もされた。ご指摘に感謝したい。


第3号 世界中文大会 大会に参加してー中国語教育の企業連携、AI利用および中国コンテンツの国際化ー(2025年11月26日(水))
 2025年11月14日から16日に北京の国家会議中心で開催された世界中文大会に参加したが、単に孔子学院学院長というだけでなく、中国経済の研究者として興味深い内容が多くあった。
 世界中文大会は中華人民共和国教育部がスポンサー(主办单位)、中外語言交流合作中心、中国国際中文教育基金会、世界漢語教学学会がオーガナイザー(承办单位)として2011年から毎年開催されているもの。世界の孔子学院を所轄する基金会がオーガナイザーの一つとなっていることから、世界中の孔子学院関係者が参加するが、それ以外に、HSK(漢語水平考試)関係者を含む中国語教育に関わる政府関係者や教育機関関係者も多く参加する。
 今年度の中心的テーマは、一つは専門教育や実務教育と中国語教育の連携であり、もう一つは中国語教育におけるAI利用であった。これらのテーマに即して、AI中国語教育を進める企業のツールなどの紹介もされた。
   付随的に開催された、中国の映画やアニメ、ゲームをいかに国際化するかというセッションも2025年5月の北京大学・立命館大学連携講座とつながるものであった。
 以下、順々に説明する。

1.専門教育や実務教育と中国語教育との連携
 第一の専門教育や実務教育と中国語教育との連携に関しては、ザンビアの鉱山技術教育、タイにおけるBYDとの連携など、孔子学院が、現地進出企業との連携のもとに現地人材の育成を担っている様子が諸国の孔子学院から紹介された。この動きは今に始まった事ではないが、新たな展開としては、一つは孔子学院が企業と協力する以外に、「中外合作坊」として、中国企業と現地政府教育機関と直接に協力関係を結ぶ動きが大きくなった。世界中文大会の場においても5つの中外合作坊の署名がされた。タイでは完全に中国語で学士号取得ができる課程が作られている。
さらに中国の青山控股集団が開発・運営する「印尼経貿合作区青山園区(IMIP)」の経験は中国企業の多国籍化を考察する上でも興味深いものであった。報告に立った在外中国語教育団体の代表者は上場企業の約半数が海外進出する今日においてはかつての中国企業の「走出去」から「走去来」が問題になっている、つまり、単に海外進出するというだけでなく現地にいかに定着するかが課題になっているということを実例をもとに紹介した。この工業団地はインドネシア中スラウェシ州モロワリ県に位置し、ニッケル鉱石の採掘から、鉄鋼冶金、ステンレス生産、さらには新エネルギー材料の製造までの一貫した産業チェーンを構築しているものであり、従業員は10万人に上る。通訳協力員が2000人に上り、通常業務外時間に中国語を学ぶシステムにしていた。しかし、そのために膨大な時間、労力、費用がかかった割には結果は芳しくなかった。そのため、専門用語も含めて徹底的に単語対照表を作り、また、学習もAIを活用、また、根本的に、中国語を使って業務を行う職位を限定した。
 日本では中国語を学ぶ機会が孔子学院以外に多くあり、また、中国語を必要とする中国系企業の投資も多くないため、あまり意識されていないところであるが、アフリカ、東南アジア、南米では進出する中国企業との連携がますます強く意識されていることがわかる。

2.AIと中国語教育
 教育にAIをどのように使うべきなのか、さらにいえば教育用に開発されたAIがあればもはや生身の中国語教師はいらなくなるのか否かというのは世界中の議論となっており、いまやAI大国となった中国はもちろん例外ではない。
 多くの報告者が報告を行ったがその視点に大きな違いはない。おおよそ共通する見解を簡単にまとめると以下のとおり。
 AIは学習者の時間や場所の制約を大きくなくし、予習、復習、自己学習の大きなツールとなりうる。また、学習者のレベルにあった練習問題を即座に作り出すことができるなど、中国語教師の授業準備の時間と手間を大きく減らすことができる。しかし、そもそもAIと交流するのが語学学習の目的ではなく、学習を続ける動機づけはしないし、好奇心を喚起し続けることも難しい。ひたすら発音や文法の間違いを指摘するだけのAIは学習意欲を継続させない。したがって、AIを助手として有効に使いつつ、好奇心を保ち続けるのが人間の教師の固有の役割となる。
 また、具体的AIを使った中国語学習ツールの紹介もされた。

3.中国映画、アニメ、ゲームの国際化
 中国映画、アニメを国外に輸出する業務などにも精通する中国電影資料館電影文化研究部主任の左衡氏の講演は、2025年5月の立命館大学と北京大学との連携講座の内容とも符合しており興味深いものだった。
 左氏はまず、中国映画を外国に紹介するにあたって巧みな手段を展開してした事例をいくつか紹介した。

 第一は周恩来国務院総理・外相が、1954年のジュネーブ会議(スイスのジュネーブで開かれた、インドシナ戦争の終結と朝鮮の統一問題を話し合う国際会議)において『梁山泊と祝英台 』(1948年)を紹介した事例である。これは結婚を約束していた男女がいたが、女性側の家族が高官との結婚を決めてしまい、男性は自死を選んだ。そこで、女性は結婚の条件として、婚礼の際に下に弔いの衣装を着ることを条件とし、婚礼の際に自ら天国に行くことを選んだという話である。これはこのような自由恋愛を描く映画を作る国が権威主義国家であるはずがないという外交上の意味が込められたものであったが、同時にこの紹介として、中国版の『ロミオとジュリエット』であるという、欧米人には極めて分かりやすい紹介をしたことも特筆に価するものであった。

 第二はアン・リー(Ang Lee 李安)監督の『臥虎蔵龍』(2000年、英題『Crouching Tiger, Hidden Dragon』、邦題『グリーン・デスティニー』)。これは新世代を主人公たちが秘めた才能(隠れた龍)や、強さ(虎)を内包し、物語の中でその才能を開花させていく様を描いている 作品。リー・ムーバイ(チョウ・ユンファ)とユー・シューリン(ミッシェル・ヨー)は実は師弟関係にあるだけでなく、お互いに感情を抱いており、カンフーの達人ということを隠しながら嫁ぐことになった女性(章子怡)が結局は別の道を選ぶ、この新旧両世代の秘められた関係が、虎と龍によって象徴的に描かれ、欧米人にはわかりやすかった。

 第三は『封神』(2025年)。これは中国の伝統的小説である『封神演義』を題材とするものであるが、左氏は文学としては錯綜しすぎて失敗しているが、これをうまく整理することで映画としては成功したという。その際に、海外版の映画のポスターも封神となる人々を描くだけでなく、少女と狐の物語であることがわかるポスターに変えたことや、また、これは中国のオイディプスの物語であるという宣伝もされたとのことであった。

 第四はアニメ映画の『ナタ』(魔童降臨2019年、魔童の大暴れ2025年)である。これは私が5月の連携講座でも論じ、前号(第2号)の学院長コラム、また、『研究中国』第21号でも大きく取り上げたものでもある。
 私の指摘と同様に左氏は『ナタ』が空前の興行収入を上げたが、その大部分が国内や海外華人のものであることを指摘した。その理由として、通常は醜くて、社会不適合であるが、怒りに燃えると美青年に変わるそのストーリーが、もともと中国のものではなくてインドのものであることもあって、中国人にとってすら奇妙なストーリーであり、欧米人には分かりにくく、また、ロミオとジュリエットとかオイディプスとか欧米人に馴染みがあるストーリーに似たものもなかった、とのことであった。

 このような文化の壁を越えるためには字幕の表現は重要であり、直訳ではなく、その言語を使う人達にとって馴染みがあり、理解しやすい訳をつけていくことが必要とされた。
 ただ、これは単に中国語・中国文化を外国語・外国語文化に置き換えていくということではなく、前近代の中国、また、中国の地方の方言を使った地方文化を背景にした作品などを現代の多くの中国人にもわかる形にすることの延長にもあるとのこと。

 左氏は第五世代映画監督の代表張芸謀の『大紅灯篭高高掛』(邦題『紅夢』)を見たアメリカ人から、中国人の女性の足はやはり(纏足によって)身体に不釣り合いに小さいのかと聞かれた経験や、フランスで開かれた映画祭で中国の地方を舞台とし、方言を使った映画にフランス語の字幕はついたが、中国語の字幕がつかなかったので、中国人が理解できず解説もできなかったという経験があるとのことである。

 字幕翻訳の基本は信、誠、雅であり、単に正確に伝えるということではなく、中国語表現の雅さが伝わる翻訳である必要があり、そのためには現地の文化や伝統的説話などに通じている必要があるとのこと。

 また、字幕やポスター以外に作品づくりの点では、まず、監督が巨匠になって世界の人々が、それを理解しようとするようにする道があるが、巨匠になる監督は限られている、また、アクションなど言葉がなくても伝わるものを活用する道もあるが、表面的なものにとどまる。やはり地道に文化を伝えていくことが必要とのことであった。

 私が『ナタ』が国外で売れるために、監督の「餃子」氏はなにをすべきだったのか、それとも(近年の多くの映画監督がまずは国内市場を考えるとの指摘もあり)餃子氏ももともと国外市場はどうでも良かったのかと質問したところ、クリエイターである以上はより多くの人に観てもらいたいと思っているはずで、国外はどうでも良いと思っていたことはないはずとのこと。また、より分かりやすいアクションを使ったりする方法もあるが、背景が欧米人にもわかるようにしていくことがやはり必要とのこと。いずれにせよ、今「餃子」監督は『ナタ3』の構想中であるとのことであった。

 また、討論の中では中国的題材をとってヒットしたものに『カンフーパンダ』、『ムーラン』などがあるがこれらがモデルになるか、との問いには左氏は否定的で、これらは欧米的ストーリーに中国の題材を使っただけで、逆でないとならず、中国的ストーリーを欧米的な題材も使って欧米人にも分かりやすくすることが必要なのではないかとのことであった。
 また、質問の中で、中国はNetflix のようなオンラインプラットフォームを独自に持つべきかどうかについては特にこだわりはない模様であった。

 なお、左氏の講演は中国語で行われ、ここのまとめはあくまで私がそのように理解したというものであることはご了解頂きたい。


第4号 『中国的福祉社会への道』(2025年12月27日(土))
本書の出版経緯
 この度、中川涼司・徐林卉『中国的福祉社会への道』ミネルヴァ書房、2025年を出版した。孔子学院としての活動成果というよりも立命館大学国際地域研究所の重点プロジェクト「中国強国化と国際秩序」の研究成果であり、また、同時に私の退職記念出版でもある。

本書の構成と執筆者
 構成と執筆者は以下のとおりである。
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はじめに
用語解説
本書内で用いる法律・規定の日本語/中国語対照表
第1章 東アジアの経済発展レジーム・福祉レジームと中国的福祉社会(中川涼司)
 1 東アジアの経済発展レジーム・福祉レジームと中国的福祉社会
 2 福祉レジーム論の提起と課題
 3 中国の経済発展レジームと福祉レジーム
 4 中国福祉レジームの先進性と後発性
 5 本章の結論と今後の展望

第2章 中国国有企業改革と社会保障制度の社会化(楊 秋麗)
 1 社会主義市場経済体制下の社会保障の制度設計とその経路依存性
 2 中国都市企業従業員向け保険制度の社会化改革
 3 中国における国民皆年金への接近と補充年金制度、商業年金制度の構築
 4 中国の社会保障制度における経路依存性の緩和と方向性

第3章 中国の年金制度の展開(劉 暁梅著、藤田美季訳)
 1 中国年金制度の仕組みと展開プロセス
 2 中国の都市従業員基本年金制度
 3 公務員年金制度の発展
 4 現行の都市従業員基本年金
 5 都市従業員基本年金制度の問題点
 6 中国の都市・農村住民基本年金制度
 7 中国の年金制度改革の動向

第4章 中国医療保障制度の展開(徐 林卉)
 1 中国医療保険制度の設立――医療保障システムの「限定的高福祉」期
 2 中国医療保険制度の改革経緯――「多層的」福祉システムの構築
 3 中国の医療保障システムにおける問題点
 4 医療保障問題に関する原因分析
 5 2018年以降の医療保障システムの動き――システムの実質化へ
 6 現時点の医療保障システムの運営状況
 7 医療保障システムにおける今後の展開

第5章 中国高齢者介護保険の展開(成 虹波)
 1 中国における介護の社会的背景
 2 介護システムの構成
 3 介護パイロットの状況
 4 結論と今後の展望

第6章 中国の高齢化と持続可能な高齢者介護システムの構築――上海市浦東新区等の高齢者介護施設の事例を通じて(畢 麗傑)
 1 先行研究の整理と本章の意義
 2 高齢化の急速な進展とその特徴
 3 一人っ子政策による伝統的な家族扶養の変容
 4 高齢者介護政策の展開
 5 上海市の高齢化と多様な高齢者介護サービスネットワークの形成
 6 高齢者介護施設――上海市浦東新区の高齢者介護施設の事例を通じて
 7 中国の高齢者介護システムの到達点と持続可能な高齢者介護システムの構築についての展望

第7章 中国高齢者介護システムの郊外都市への拡張(任 泰然)
 1 中国の県域都市部における高齢化問題
 2 中国の高齢者介護システムと県域都市部への拡張に関する研究
 3 中国の高齢者介護システムの政策設計
 4 中国の県域都市部の介護保険の現状と課題――吉林省公主嶺市を中心に
 5 中国の公主嶺市における高齢者介護システムの独自性
 6 中国の高齢者介護システムの特徴と県域都市部の独自性

第8章 中国朝鮮族コミュニティと社会福祉(南 かのん)
 1 先行研究と研究課題、研究方法
 2 北京市における朝鮮族コミュニティの形成と現状
 3 北京市朝鮮族コミュニティにおける第3セクターによる社会福祉
 4 まとめ

第9章 中国の対外ODAと医療衛生援助の国際的展開(楊 鵬超)
 1 WHO加盟以前の医療衛生援助(1949―1971年)
 2 WHO加盟以降の医療衛生援助(1972―2002年)
 3 世界衛生ガバナンスに参加する医療衛生援助
 4 カンボジアの事例
 5 おわりに
おわりに
索 引
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 執筆者のうち、共編者でもある徐林卉は私の立命館大学における最初の学部ゼミ生であり、最初の大学院ゼミ生でもあって、中国の医療保障制度に関して優れた博士論文を執筆して博士号を取得、現在は上海社会科学院副研究員をしている。その他、成虹波、畢麗傑、任泰然、南かのん(南玉瓊)、楊鵬超はいずれも、私の指導で博士号を取得した面々である。楊秋麗先生は、国際地域研究所重点プロジェクトの共同研究者であり、私の大学院ゼミにもご協力頂いている。劉暁梅先生は立命館大学と密接な協力関係にある東北財経大学公共管理学院において社会保障の研究をされていて、当プロジェクトにもご協力を頂いた。また、劉先生の章の翻訳にあたった藤田美季は博士課程前期課程を私のところで終えて、現在は東京大学大学院の後期課程に在籍中である。
 私の退職記念出版は、私の博士課程指導の区切りとなるものであった。現在私は、特命教授として引き続きは立命館大学国際関係学部において教学にあたってはいるが、制度上、後期課程院生の主指導教員になることはできなくなったからである。私の大学院ゼミでは合計6人が課程博士を取得したが、そのうち4人が中国の社会保障関係をテーマにしている。私の専門は社会保障ではないが、4人を指導しながら、自分も多くのことを学んだ。そこで、テーマは中国の社会保障に関するものとし、南さん、楊君にも自分の専門の範囲ではあるが、社会保障に近いところを執筆してもらった。
 そのうえで、国際地域研究所の重点プロジェクトの研究テーマの一つの柱に社会保障を立て、立命館大学から出版助成も頂いて、出版にこぎつけた。

本書の狙いと概要
 前置きが長くなったが、このように本書は私の退職記念の意味を持つものではあるが、私の指導教授の時代のように、関係者がとにかく何でもいいから書いたというようなものではない。中国の日本以上のスピードで進む高齢化の中で社会保障制度をいかに整備するかが、大きな議論の的にもなっているなかで、社会保障制度を語る上での国際的パラダイムになっているエスピン=アンデルセンの「福祉レジーム論」を明確に意識しつつ、医療、年金、介護の各分野における到達点を確認し、今後の展望を行うものであり、少数民族地域の固有の問題や、国内社会保障政策と対外政策の連動性にまで議論を拡張するものである。
 中国の「福祉レジーム」についてはエスピン=アンデルセンの提起する三つのレジームすなわち、社会民主主義レジーム、保守主義レジーム、自由主義のどれかに簡単に当てはめることができない。また、歴史的にみて国際的に先進的なのか、遅れているのかも簡単にいうことができない。それは他の資本主義諸国とは大きく異なる発展経路を遂げたからである。中華人民共和国が成立したのは1949年であるが、1951年には早くも社会保障の基本枠組みを定めた労働保険条例が出されており、その意味では極めて先進的であった。しかし、それは政府・党機関、国営企業を中心としたもので、人口の大半を占める農村居住者は人民公社が成立する中で合作医療制度などが整備されたにとどまった。年金はなく、医療も薬代はカバーされなかった。少なくない国際機関が中国の社会保障の先進性を評価したが、それは一部の人々にとどまっていた。しかも、1978年末から開始された改革開放で人民公社は急速に解体、農民は社会保障がほぼ何もない状況に陥った。また、逆に国有企業(1993年に国営企業は国有企業となった)などは、「単位」として、企業活動に直接かかわらない住宅、学校、病院、年金などの機能を持っている結果、コストとして大きな負担となるだけでなく、労働力を流動化できない大きな原因になっているとして、1990年代後半からそれらを企業からは切り離していく方向性がとられた。医療保険や年金は従業員、企業、政府の三者が関わる別組織として再編された(本書ではそれを「社会化」と呼んでいる)。この時点で、中国の社会保障はかつての「高い」評価とは裏腹に、かなり薄いものとなってしまった。
 その後、農村部で新型合作医療保険が開始され、また、都市部の「住民」(自営業者や非就業者)向けの医療保険も整備され、その二つが合体された(第4章参照)。年金も同様に、都市部と農村部住民が一体となった年金制度となった(第3章参照)。国有企業などの従業者年金も日本と類似する形で「4階」建ての制度に充実させれてきている。なお、中国には日本のような基礎年金はないが、従業者年金自体が基金部分と個人口座の「二階」(「中二階」?)建てになっており、それに制度内での任意の「補充年金」さらに制度外の商業年金などが付け加ってきている(第2章参照)。これらにより、一応の「国民皆保険皆年金」になりうる制度的な基盤はできた。ただし、都市・農村部住民向けの年金は任意加入であり、実態として皆年金にはなっていない。また、保険料は選択制になっており、低い保険料を選択すると支給される年金の額はごくわずかである。
 高齢化の進行だけでなく、子供世代が進学ないし就職によって郷里を離れ、また、結婚するとそれぞれが一人っ子ということも少なくない中で、介護問題が深刻化した。青島市や上海市などで先行的に取り組まれてきた介護保険制度(長期護理保険)は医療保険とは別制度とされた日本とは異なり、医療保険制度の上に構築される形となった。先進的な都市では介護施設の充実も図られている(第6章参照)。実験都市として16都市が選ばれ、介護保険制度が構築された(第5章参照)。制度運用の基礎となる要介護度の認定基準、また、介護人材の資格認定制度などは中央政府が進めた。その後、実験都市は拡張され、また、都市内でも市轄区から「県域」、とくに県域の中での都市化が比較的進んだ地域に拡張されつつある(第7章参照)。なお、中国における「市」は北京、上海、天津、重慶の4市は「直轄市」として行政階層としては省レベルの位置づけ、青島や大連などは地区級(地級)市(なお、副省級とか計画単列都市はやや位置づけが高くなる)は省レベルの一つ下のレベルになる。「市」の中に都市中心部としての「市轄区」と農村部として「県」が存在し、比較的発展した県は「県級市」となるが、行政レベル的には「県」と同じである。
 また、少数民族(朝鮮族)コミュニティ、とくに自治区・自治州などと認められているものではない、国内移動などによる非公式民族コミュニティでは、戸籍を保有するに至っていない人々に対して、少数民族組織が第3セクター的に介護や健康増進の機能を担っていることも指摘されている(第8章参照)。
 中国の対外援助はすでに先進国並みのレベルにまで拡張しているが、かつてはインフラ整備が中心であった。しかし、国内の社会保障制度の整備と軌を一にするように、保健衛生分野の比率が高まっているのが、近年の特徴である。
 本書の出版の社会的公開としては2026年5月30、31日に東京女子大学で開催される日本現代中国学会全国大会でテーマ分科会を設定し、日本在住執筆者が本書の内容を報告する予定である。
 孔子学院としての中国の社会保障についての何らかの議論をする場を設けていきたいと考えている。 

中国経済経営学会全国大会共通論題「中国の人口動態と社会保障:実態、問題点と対策」
 関連する話題なので、12月13日に法政大学で開催された中国経済経営学会全国大会の共通論題の件も記しておきたい。私は中国経済経営学会の研究担当(春季研究集会および全国大会のプログラム担当)の理事であり、今全国大会では共通論題の企画担当であった。上記のように、中国の社会保障が大きな議論となっていることから、今大会での共通論題を「中国の人口動態と社会保障:実態、問題点と対策」とし、社会保障論を制度論としてだけではなく、人口動態や就業行動とのかかわりで捕えることを趣旨とした。私は企画者兼司会者としてこの共通論題を担当した。
 報告者とタイトルは以下のとおりであった。
 厳善平(同志社大学)「中国都市部における中高年の就業選択とその決定要因―定年制度のさらなる改革に向けて―」
 澤田ゆかり(東京外国語大学)「DX下の非正規労働者の生活保障:ギグ・ワーカーの社会保険と権利保障」
 馬欣欣(法政大学)「中国における社会保障制度の改革とその国民厚生への影響」

 厳報告は中国の定年延長が議論される中で、中高年(50-69歳)の就業選択の要因を人口センサスと中国家計所得調査(CHIPs)データを用いて明らかにしようとするものであった。
 澤田報告は増大する美団、餓了么,京東などのフードデリバリーの配達員に代表される「ギグ・ワーカー」が自営業者と被用者の間隙に置かれた結果、社会保険の加入率が低い問題とその対策の効果について検証を行うものであった。
 馬報告は中国の社会保障制度において年金はほぼ国民の大半が、医療保険はほぼすべての人が加入するようになった一方で、「格差と低水準」が大きな問題であることをデータに基づき明らかにした。また、幸福経済学に基づいて社会保障制度の主観的幸福度に対する影響の検証を行いその効果は非常に限定的であることも示した。
 三報告の詳細については学会誌である『中国経済経営研究』に掲載される予定なので、そちらを参照していただきたいが、中国の社会保障に関して各方面で熱い議論がされていること以上に簡単な紹介からもご理解いただけるのではないかと思う。

以上


第5号 中国の経済発展と対外関係(2026年2月10日(火))
 前号につづいて、私が執筆した書物の案内をしたい。
 今回紹介するのは梶谷懐・藤井大輔編著『新現代中国経済論』ミネルヴァ書房、2025年12月20日。

世界経済シリーズと中国経済論
 ミネルヴァ書房は、京都の山科に本社を置く出版社であるが、経済学、経営学、社会保障論などが中心となっている。私の単著2冊、共編著3冊、共著4冊が同社からの出版である。同社は、世界経済をエリアごとに分けたシリーズを2004年の現代世界経済叢書、2011~18年のシリーズ・現代の世界経済と2回企画刊行している。うち、中国は前者のシリーズでは加藤弘之・上原一慶編著『中国経済論』2004年で、後者のシリーズは当初の版は引き続き、加藤弘之・上原一慶編著『現代中国経済論』2011年であったが、両編者がご逝去されたこともあり、2018年に編者が交代して梶谷懐・藤井大輔編著『現代中国経済論[第2版]』が出版されている。
 さらにこれをアップデートする形で、企画されたのが『新現代中国経済論』である。私の参加はここからとなる。
 本シリーズは研究書というよりも、世界の各地域の経済を初学者にもわかりやすく解説するテキストとなっており、中国に関するものも同様である。本書の構成は以下のとおり。
 序章 中国経済をどう学ぶか
 第1章 集権的社会主義の挫折と市場改革
 第2章 農村経済の変容と農業の課題
 第3章 企業改革とイノベーション
 第4章 労働市場と経済格差
 第5章 少子高齢化とセーフティネット
 第6章 財政・金融制度改革と地方政府
 第7章 エネルギー・環境問題
 第8章 経済発展と対外関係
 第9章 香港・台湾の経済と中国との関係
 終章 中国経済のゆくえ
 それぞれ、執筆者は当該分野の専門家であり、研究論文では理論や数式などを使って論文を書かれている方々であるが、本書ではそれらは極力抑えられて、初学者にもわかりやすい叙述がされている。
 中国経済について一応のことをとりあえず理解したい、中国経済の現状を知りたい方々には最適のテキストとなると思われるので、お勧めしたい。

「第8章 経済発展と対外関係」の特徴と概要
 これらのうち、私が執筆したのは「第8章 経済発展と対外関係」である。基本的にはテキスト的な内容ではあるが、これまでの同類のテキストと比較しての特徴としているのは、一つは、経済発展の大きな背景にある外交関係の変化を見ていることである。第2に、輸出と対内・対外直接投資の関係を構造的に把握していることである。直接投資とは、単に金融的利得を追求する「証券投資」や「その他投資」とは異なり、国外に子会社・関連会社を設立したり、追加投資を行う投資であり、国外に投資を行う場合(outward)が対外直接投資、国外から投資を受け入れる(inward)場合は対内直接投資となる。第3に、輸出・対外直接投資と政府開発援助(ODA)や対外融資との関係を考察していることである。第4に、構造的な転換を遂げてはいるが、中国の対外経済関係はまた一帯一路の逆流現象とアメリカの経済制裁等によって曲がり角を迎えていることを明らかにしていることである。
 まず、経済発展と外交関係との関係であるが、1949年に中華人民共和国が成立して、トラック産業の発展など急速な経済関係が達成できたのは、それまでの複雑な関係を超えて「向ソ一辺倒」政策をとって、ソ連の援助を受けたことが大きい。しかし、1950年に勃発した朝鮮戦争への参戦は国連からの禁輸措置に繋がり西側諸国との関係が希薄化した。そして、中ソ対立によってソ連との関係が悪化し、ソ連が技術者などをが引きあげることで、「自力更生」路線が必要となっただけでなく、西側ソ連双方との関係で安全保障を考えざるをえなくなったことが、産業構造や工場の地理配置の国防優先を生んだ。それが1971年の国連代表権獲得、1972年のニクソン訪中によるアメリカとの関係好転(国交樹立は1979年)と日本との日中共同声明による国交正常化は文化大革命終了後の「洋躍進」路線さらに「改革開放路線」が成立する大前提であった。
 ついで、輸出と対外直接投資の関係である。1978年末の中国共産党第11期三中全会を大きな契機とする(ただし、この時点で改革開放という用語は使われていない)。そこから、中国が経済特区などへの対内直接投資を誘致するとともに、輸出志向工業化路線に踏み切ったことはどの教科書にも書かれている共通了解である。また、経常収支と金融収支(以前は資本収支)の両方の黒字および「走出去」政策などを背景に対外直接投資の増加があることも多くの教科書では触れられている。ただし、両方が進展していることの指摘はあっても、その代替関係に触れるテキストは多くない。意外なことに、中国の輸出額あるいは輸入も併せた貿易額の対GDP比は近年急激に下がってきていている。2006年には中国の財輸出額の対GDP比は輸出志向工業化で先陣を切る韓国に匹敵する0.352まで上昇したが、その後は急激に低下し、2023年には0.190にまで低下し、韓国やマレーシアなどとの差は大きい。これは国内市場の拡大と対外直接投資の拡大が原因である。2023年の中国の対外直接投資残高は29.39兆ドルで、これはアメリカ(94.34兆ドル)や、EUへの投資窓口となっているオランダ(33.86兆ドル)には及ばないが、ドイツ(21,79兆ドル)、日本(21.33兆ドル)をすでに上回っている。対内直接投資と対外直接投資もすでに後者の方が多くなっている。
 また、中国の政府開発援助も「一帯一路」政策などを背景に、2000年以降急激に拡大し、債務免除を含めると2010年にやや例外的に100億ドルを超え、2016年にも80億ドルを超え、債務免除を含めなくても2019年には70億ドルを超えた。これは2023年に646億ドルのアメリカ(ただし、今後は急減すると思われる)、196億ドルの日本などには及ばないが、イタリアやカナダと同水準である。
 改革開放の当初の路線であった、対内直接投資による輸出志向工業化を行い、また、ODAも出し手というよりも受け手であった。しかし、いまや、アメリカや日本などが歴史的に先行しているように、輸出に代わって対外直接投資が大きく拡大し、対内直接投資よりも大きくなり、ODAも受け手ではなく、出し手となっている。改革開放路線による成長方式は大きく転換を遂げている。
 しかし、大きく展開したグローバル化が大きな転換点を迎えている。その一つは「一帯一路」の停滞ないし逆流である。ODAは2019年をピークに増えていない。また、2018年のスリランカのハンバントタ港の債務不履行の代償に99年の管理権を獲得したことなどによる各国の「債務の罠」の懸念や、中国の対途上国融資残高が元本だけで1兆1000億ドル以上に達し、途上国の債務危機において中国の貸付比率が高いことが判明したことなどから、中国は新規融資を一気に縮小し始めた。それらに「中国- 中東欧国家合作」からのエストニアとラトビアの離脱、一帯一路からのイタリアの離脱などが続いた。これらを背景に中国政府は2023年「質の高い『一帯一路』」のための各国協力呼びかけを行った。
 もう一つの大きな転換はアメリカによる対中制裁および国際秩序変更の試みである。ただし、これに関しても、本章は中国が単にアメリカから制裁されて、場当たり的に対応しているということではないことを明らかにしている。中国は軍事だけでなく、政治、経済、文化など総合的に安全保障を考える「総体安全保障観」のもとで、2015年に国家安全法を制定。党中央に国家安全小組を設置しその対抗策を整備してきた。そのもとエンティティリストの作成、2020年には外国の国家安全を脅かす行為への対等な措置を定めた輸出管理法を施行、さらに外国の制裁に対して体系的な対抗措置をとりうる反外国制裁法2021年に施行している。さらには、これらは単に防御的なものではなく、自ら積極的に活用していくものでもあり、また、アメリカに代わる世界最大の経済大国になっていく「100年に一度の大変革」の展望の中にも位置付けられているものである。
 以上のように、本章は、中国の経済発展における対外関係を、直接投資の受入と輸出志向工業化という改革開放当初の成長方式が今や、輸出の対外直接投資による代替、ODAの出し手としての発展、対外融資の拡大によって構造的に変化していること、また、そのような発展を遂げてはいるが、「一帯一路」の逆流現象とアメリカの経済制裁と国際秩序変更の試みの中で新たな対応が求められていることも示すものである。テキストではあるが、大きな構造変化をとらえるものであり、ご一読いただければ幸いである。

米中対立と経済安全保障に関して
 米中対立と経済安全保障に関しては、中本悟・中川涼司・松村博行・森原康仁編著『米中対立と経済安全保障―相互依存・分断・供給網の政治経済学―』晃洋書房、2026年がまもなく刊行され、私はその第3章「アメリカと中国の安全保障政策と日本の対応―経済安全保障におけるトゥキディデスの罠の回避―」を担当している。これについては、次号以降で紹介していきたい。


第6号 中国とAI(2026年2月18日(水))
1. 同済大学・立命館孔子学院合同セミナー
 だいぶ日が経ってしまったが、2025年度の同済大学・立命館孔子学院合同セミナー・シンポジウムは11月8日に大阪のグラングリーン大阪北館5階のJAMBASE CONFERENCE5-1+ZOOMオンラインライブ配信で開催された。
 テーマは「人工知能の社会実装の推進とガバナンス」であった。
 講師と報告テーマは以下のとおり。
 孟林氏(立命館大学理工学部教授) 「交差分野のAI研究について」
 関佶紅氏(同済大学計算機科学与技術学院教授)「AIによる分野のイノベーション発展の推進―ビッグデータ時代におけるAIアルゴリズムとその応用」
 鐘振明氏(同済大学政治与国際関係学院教授・副院長)「AIが国際危機管理に及ぼす影響と国家的対応」
 川村仁子(立命館大学国際関係学部教授)「先端科学技術ガバナンスと人間社会―AI時代における人間の尊厳・権利・責任の未来―」

 孟報告では立命館大学・知的高性能計算機研究室の研究成果として、IoT(※Internet of Things、モノのインターネット)をベースにした分散型AI学習データのアノテーションシステム(※機械学習における分析対象データに注釈をし、ラベルを付与する作業体系)の構築、とくに自動下膳ロボットへの応用、スマート農業(管理・収穫・検査、ドローンを用いた受粉と畑の管理など)、AIとビッグデータ解析による古文化遺産の保護・整理と潜在的な知識の発見、とくに欠損が起こった古代文献の修復などの実例が紹介された。また、今後の展望として、AI自身がAIをよりコンパクトに、より賢くし、AIモデルの自動構築、自律更新、柔軟な学習データセットの構築を行えることが示された。

 関報告では科学研究の第5範疇として「AI4S」があり、それは人工知能(特に、機械学習、深層学習、科学計算)技術を活用して、従来の科学研究のパラダイムを加速・最適化し、さらに変革することを目的とした新しい学際分野であるとされた。AI4Sにより、計算コストの高い物理シミュレーションをAIモデル(例えばニュートラルネットワーク※脳の神経回路の動作を模した数理モデルであり、データからパターンを学習し、予測や分類などのタスクを実行する)で代替する、大規模データセットから、新しい現象(天体や素粒子)を発見する逆設計、ロボットとAIを組み合わせた実験の設計・実行・分析の自動化、データから直接、簡潔な数学公式や物理法則を導き出すことなどが実現されていることも紹介された。
 課題として、マルチモーダル融合分析、すなわち、モダリティ(テキスト、画像、音声、動画など)の各モダリティ間の関連性を十分に掘り下げることで、モデルの下流タスクにおける性能を向上させることがあげられた。これらにより、カメラ画像、レーダー信号、交通センサーのデータ統合による交通流量監視、センサー画像とLiDAR(※レーザー光を照射して対象物の距離や形状を計測する技術)を融合し、制御アルゴリズムを通じて自動運転、音声、視覚、テキストデータを組みあわせたより包括的で正確なQ&Aサービスなどが実現する。正常な対象と異常な対象の効果的なモデル化が困難という問題には「半教師あり学習」(※大量の「正解ラベルがないデータ」と、少量の「正解ラベル付きデータ」を組み合わせてAIモデルを学習させる手法)による異常検出などが行われていることも紹介された。分野特化型大規模モデルとしてはLLM(大規模言語モデル)の創発能力が発揮される。近年、大規模モデルは急速に発展し、200以上のLLM(Qwen ※Alibaba Cloud、文心一言(ERNIE Bot)※Baidu、MOSS ※復旦大学、智譜清言 ※北京智譜華章科技有限公司、DeepSeek ※杭州深度求索人工智能基礎技術研究有限公司等)が医療、教育、金融、科学研究などの分野で利用されている。応用分野として産業/生産最適化分野としては同済大学では施工ロボットシステム、自動車空気力学の研究革新などがされている。その他、航空機のデジタル設計、サプライチェーンの知識グラフ化、自動車製造工程文書の解析など。都市ガバナンス分野ではスマート交通システム、市区行政の業務割り当て、スマートオーシャン分野では、海洋時空データによる意思決定支援、バイオ/医薬分野ではタンパク質構造予測、創薬、医用画像データ解析、遺伝子配列データからの疾患リスク予測などがあげられた。
 これらの発展の一方で、このようなAIの発展は以下のような倫理的リスクももたらしているとされた。①データプライバシーと安全性、②アルゴリズムの偏見と公平性、③責任の所在と透明性、④技術の乱用と倫理的監督、⑤社会的影響と雇用問題。
 以上のことから技術、制度構築、社会的責任の融合でもって、AI技術の健全な発展を促す必要があるとされた。

 鐘報告ではAIが国際危機管理の全過程にどのように組み込まれるのかを理論的に明らかにされた。研究課題は、①AI技術が危機管理に組み込まれる背景の下で、国家は危機の早期警戒、危機対応、危機後の安定維持においてどのような変化を遂げたのか、②AIはコスト、認知、能力の側面で、危機における挑戦者と防御側の戦略的な駆け引きをどのように再構築するのか、③将来、国家はどのように選択すべきか。技術競争と制度的協力の間で均衡を求め、危機管理の効率化を実現し、安全保障のジレンマを悪化させないためにどのようにすべきかである。
 研究課題①に対しては、危機の早期警戒においては構造的組み込み、危機対応においては機能的組み込み、危機後の安定時には認知的組み込みが求められるとされた。
 研究課題②に対してはAI技術が危機管理に組み込まれることで防御側がより低コストでより高い抑止力と防御能力を実現できるようになる一方で、挑戦側が非対称的な衝突を仕掛けるコストも低下させるため、戦略的な相互作用におけるコスト構造がより複雑になること、双方の相互認識における不確実性を深め、誤認・誤判断のリスクを高めること、技術先進国の危機対応能力を上げ、軍事的優位をさらに強化することが指摘された。
 研究課題③に関してはAIによる危機への対応に関するルール体系の構築を急ぎ、「アルゴリズム倫理+ガバナンスメカニズム」という二重の制度構造の形成を推進し、AIの高度な介入によって生じるグローバルな危機管理の課題に効果的に対処する必要があるとされた。

 川村報告では先端科学技術は人類の「希望」となるのか、「脅威」になるのかという両義性を持っているとされ、AI技術も「脅威」としては軍民両用、人権侵害、情報操作の可能性があり、しかも、その影響は時空を超えた甚大なものになって、これまで築きあげられてきた人間の尊厳や権利、社会的価値に影響を及ぼす可能性があると指摘された。そのためにリスク・ガバナンスが必要であり、その体系は法律による管理(既存の法律の修正・解釈)、法律以外での管理(ガイドライン等、グローバル法)、異議申し立て制度の確立その他、である。
 法律による管理では、まず、既存の法律の修正・解釈による対応は対象となるリスクに対して既存法律(EUでは、知的財産法、公衆衛生法、製造物責任法、化粧品規則、改正新規食品規則、CEマーキング、一般データ保護規則など)で対応できるかどうかが判断される。もし、既存の法律の枠内で対応できない場合は、新たな立法が必要だが、その場合、3つの原則が存在する。それは①防止原則(Prevention Principle)、②監督的追跡の義務(Obligation de Suivi, Follow-up Obligation)、③予防原則(Precautionary Principle)である。
 法律以外の管理では、ガイドラインとしては、2022年アメリカのAI権利章典、2023年のAI推進法に基づくリスク管理のガイドラインなどがあり、また、国境を越えたAIガバナンスとして、ISO基準、Financial Coalition Against Child Pornography 、シリコンバレー仲裁・調停センターのガイドラインなどがある。グローバル法の課題は民主的管理の欠如、恣意性、実効性への懸念から正統性に疑問が投げかけられるという問題である。そこで、手続きの明確化、社会的制裁による実効性の担保、二次ルールの形成やグローバル法の審査機関や異議申し立て制度などが必要とされた。
 最後の異議申し立て制度に関しては、官民パートナーシップによるグローバル法を基にしたソフトローの制定を行い、公的機関が原則をさだめ、監督的追跡を行い、評価や租税措置をとるとともに、異議申し立て制度の設置を行う必要があり、ここに官民パートナーシップの可能性があるとされた。
 全体として科学技術自体に善悪はなく、いかに管理をするのか、将来社会において科学技術にどのような役割を与えるのかという理念を核としたガバナンスの構築が必要とされた。
 なお、以上は、報告資料を基にしたまとめであり、正確を期したが、私の理解不足で報告者の意図するところと若干ニュアンスが異なる可能性があることはお断りしておきたい。※は私の責任で追記した説明である。

2. 中国におけるAI発展
 以上の報告を受けて、中国とAIについてもう少し敷衍して述べてみたい。
 中国のAIは驚くべき発展を遂げている。
 いくつかの代表的指標を見てみよう。
 まず、スタンフォード大学の作成する世界AI活発度ツール(https://hai.stanford.edu/ai-index/global-vibrancy-tool)によるランキングを見てみよう。
 これは研究開発(R&D)、責任あるAI(Responsible AI)、経済(Economy)、人材(Talent)、政策とガバナンス(Policy and Governance)、世論(Public Opinion)、インフラ(Infrastructure)の各側面からAIの活発度を判定したものである。2024年のトップはアメリカ(総計78.60ポイント、構成は上記の順で19.15、5.56、22.22、8.41、4.22、2.83、16.21)であるが、それに次ぐのは中国(総計36.95ポイント、構成は17.22、2.23、1.96、5.70、0.25、3.18、6.40)である。総計ポイントではダブルスコアになっているが、大きく差がついているのは経済(米22.22、中1.96)であり、研究開発(米19.15、中17.22)、人材(米8.41、中5.70)でかなり迫っている。日本(総計ポイント16.04、構成は1.50、0.30、0.51、5.70、0.21、2.31、5.51)は米中、インド、韓国、イギリス、シンガポール、スペイン、UAEに次ぐ第9位である。

 図1 2024年グローバルAI活性度ランキング(1-12位)
図1
(出所)The Stanford Institute for Human-Centered AI (HAI) Which countries are leading in AI? https://hai.stanford.edu/ai-index/global-vibrancy-tool

 ついで、イギリスのトータスメディアによる世界AI指数を見てみよう。
 こちらは実装(Implementation)、革新(Innovation)、投資(investment)の三領域、さらに実装が人材(Talent)、インフラストラクチャ(Infrastructure)、運用環境(Operating Environment)の3要因に、革新が研究(Research)と開発(Development)の2要因に、さらに投資が政府戦略(Government Strategy)、商業(Commercial)の2要因に分けられ、それぞれスコアではなくランキングがしめされて総合ランキングが示されるものである。
 ここでも第1位はアメリカである。運用環境で2位、政府戦略で2位である他は1位である。それに次ぐがやはり中国で1位はないものの、インフラストラクチャ、研究、開発、商業で2位につけている。日本は第11位で、インフラで5位と健闘するも、人材23位、研究20位、開発14位で開発力のレベルで立ち遅れている。

図2 世界AI指数によるランキング(1-12位)
図2
(出所)Tortoise Media, The Global AI Index, https://www.tortoisemedia.com/data/global-ai#rankings

 その一方、IMF(国際通貨基金)によるAI準備指数(2023年 https://www.imf.org/external/datamapper/AI_PI@AIPI/ADVEC/EME/LIC)では1位シンガポール(0.80)、2位デンマーク、3位アメリカ(0.77)で、日本(0.73)は第13位であるが中国(0.64)はさらに低い35位である。この指標は各国がAI技術の導入と活用にどの程度備えているかを示す指標で、デジタルインフラ、イノベーションと経済統合、人的資本と労働市場政策、規制と倫理の4つの主要要素に基づいて評価されている。このことは中国はAIの大きな発展の陰で社会インフラの整備が不十分であることを示している。
 これらの発展の背景にはこれまでのITの発展に基づく情報インフラの発展とデータ量の蓄積、政府主導の産業政策、中国テック企業の能動的な対応がある。
 中国は2023年 に世界第1位の座を僅差でインドに譲ったものの、それまでは世界最大の人口を抱え、しかも、2026年2月5日 に発表された第57回「中国インターネット発展状況統計報告」によると、2025年12月時点で、中国のネットユーザーの数は11億2500万人に達し、また、電子商取引においてもキャッシュレス決済においても著しい発展を遂げていることから、それらのネット上に蓄積されたデータが膨大に存在していることがまず優位の基盤である。
 ついで、政府の政策であるが、2017年に国務院は「新一代人工智能発展規画 (次世代AI発展計画)」を発表した。この計画は、2030年までに中国を「世界の主要なAIイノベーションセンター」にするという野心的な目標を掲げ、具体的なロードマップと数値目標を設定した。中央政府および地方政府は、AI関連の研究開発プロジェクト、スタートアップ企業、産業パークの建設に対して大規模な補助金供与や投資を実施した。また、重点企業として百度(Baiduバイドゥ、自動運転方面)、アリババ(スマートシティ方面)、テンセント(医療画像方面)といった国内のテック主要企業を「国家AIオープンプラットフォーム(国家隊)」に指定した。また、民間で開発された最先端のAI技術を軍事分野にも応用し、逆に軍事研究の成果を民間へスピンオフさせることで、国全体の技術レベルを相互に高める「軍民融合」を推進した。また、中国政府は教育政策においても、2018年以降、大学がAI関連の学部や学科を新設することを促し、また、初等・中等教育の段階からAIに関するカリキュラムを導入するなど、AI人材育成を行い、また、海外からのAI人材の帰国促進策もとった。これらの結果、特許申請数などではすでにアメリカを凌駕し、また、AIの質レベルでもアメリカに急激に接近している。なお、LMSYS(Large Model Systems Organization)は、カリフォルニア大学サンディエゴ校(UCSD)やカーネギーメロン大学(CMU)など、複数の研究機関との共同で設立されたオープンな研究組織AIモデルをオープンかつ客観的に比較し、性能向上と研究促進を目指す重要な研究組織として注目を集めている組織である。LMSYSは「Chatbot Arena」を通じて情報提供を行っている。

図3 LMSYSによる米中のAIのパフォーマンス比較
図3
(出所)The Stanford Institute for Human-Centered AI (HAI),The 2025 AI Index Report https://hai.stanford.edu/ai-index/2025-ai-index-report

 中国国務院はさらに、2025年8月21日に「『人工智能+』行動をより深く実施することに関する意見」(「関於深入実施“人工智能+”行動的意見」)を制定、タイムスケジュールも示された。すなわち、2027年には6つの重点分野(科学技術、産業、消費、民生、社会ガバナンス、国際協力)でAIが広く普及、スマート端末の普及率70%以上、2030年にはAIが経済成長の中心的な原動力に、普及率90%以上、2035年には本格的な「スマート社会」が実現し、中国式現代化を支える基盤になるという展望である。そのための基盤整備として、AIモデルの強化、データの開放、コンピューティング能力向上、人材育成、国際的な人材交流、安全・規制が促進されるとしている(http://www.scio.gov.cn/zdgz/jj/202509/t20250901_928364.html)。

 企業の積極的対応について見てみよう。
 アリババは中国の電子商取引においてトップシェアを持つだけでなく、キャッシュレス決済や、クラウドサービスにおいても競争優位を有している。アリババは2023年に大規模言語モデルのQwen(通義千問)のベータ版を初めて公開した。2023年9月には、中国政府の承認を得て正式に公開された。2024年6月、アリババはQwen 2を発表し、2024年9月には一部のモデルをオープンソース化する一方で、最も高度なモデルは非公開とした。2026年2月16日にQwen3.5シリーズのQwen3.5-397B-A17Bを公開した。Qwen3.5-397B-A17BはGPT-5.2やClaude Opus 4.5、Gemini 3 Proといったクローズドモデルと同等の性能があるとされている。Qwenは単なる会話AIではなく、より実用的な「エージェント型AI」と位置付けらており、アリババの主力サービス「タオバオ」や「Tmall(天猫)」にQwenが組み込まれ、ユーザーがAIに相談しながら最適な商品を選ぶ形がとられている、Airbnbも顧客対応にQwenを用い、日本でも国立情報学研究所(NII)LLM-jp-3.1は学習データの整備にQwenを活用した(日本経済新聞、2025年7月27日)。

 百度(Baidu)は中国政府によるGoogleに対する強い規制もあって、中国における検索エンジンの市場で圧倒的シェアを握った。しかし、それは広告収入への依存を促し、BATの中で、多角的に事業を推進するアリババやテンセントとの距離が開いた。そこにおいて新事業として進められたのが、AIとくに自動車の自動運転である。2014年、元スタンフォード人工知能研究所所長でGoogleのAI研究チームのリーダーも務めたアンドリュー・ング(Andrew Yan-Tak Ng 、吳恩達)が百度のチーフサイエンティストに就任した。ングの下で、顔認証システム、ヘルスケアのためのチャットボット、DuerOSと呼ばれるAIプラットフォームの開発などを行い、百度のAI開発の基礎を作った(2017年に離職)。2017年7月にはBYD、フォード、ダイムラー、NVIDIA、マイクロソフト、インテル、本田技研工業、トヨタ自動車なども参加する自動運転車共同開発の企業連合「アポロ計画」を設立し、翌2018年7月4日に金龍客車と共同開発を進めてきた世界初の高度自動運転バス(レベル4)「アポロン」の量産を開始した。また、2019年からはチャットボット(テキストや音声による対話を通じて人間的な会話の模倣を目的としたソフトウェアアプリケーション)の開発を進め、2023年3月16日、百度はAIチャットボット「文心一言(ERNIE Bot)」を発表し、一部のユーザーに開放した。2023年3月27日、企業向けにワンストップサービスを提供する大規模言語モデル「文心千帆」を発表した。2023年8月にはEENIE Botは一般公開され、個人向けは無料、企業向けは契約ベースとなっている。

 日本でも話題となったDeepSeek (社名としては杭州深度求索人工智能基礎技術研究有限公司)は政府の政策とはやや離れたところから始まっている。梁文鋒は2007~2008年の金融危機の際に浙江大学に在学しながらAIを用いた取引をしていたが、2016年2月、AI取引アルゴリズムの開発と使用に特化したヘッジファンドとして「幻方量化」を共同設立した。2023年4月、幻方量化は金融事業とは独立したAIツールの研究開発に専念する汎用人工知能ラボ「DeepSeek」を立ち上げ、2023年11月2日、DeepSeekは初のモデルDeepSeek Coderを発表した。2024年5月、DeepSeekは高性能かつ低価格の「DeepSeek-V2」をリリースした。これが、最先端のAI半導体も使わず、比較にならないほどの低コストで、GPT-4oに匹敵する性能があるとして国際的に大きな話題となった。このことは、中国国内でも話題を呼び、李強国務院総理は梁文峰を会談に招いて「中国国民としてとても誇りに思う」と称賛し、中国全土でDeepSeekの採用が政府に後押しされるようになった(日本経済新聞、2025年3月9日)。
 AI関連企業の範囲をもう少し広くとれば、AI向け半導体メーカーの中科寒武紀科技(カンブリコン)やファーウェイ、音声認識技術大手の科大訊飛(アイフライテック、、画像認識技術の商湯科技(センスタイム)などもあるが、長くなるのでここでは割愛する。

3. 中国におけるAIガバナンス
 ガバナンスについても見ていこう。中国の通信事業については電気通信事業に関する包括的法令である①「電信条例」(2000年国務院令、2016年6月最新改正)、無線分野の包括的法令である②「無線電管理条例」(1993年国務院・中央軍事委員会令、2016年最新改正がある。
 インターネット・セキュリティ関係では、③「インターネット安全法」(中華人民共和国網絡安全法、サイバーセキュリティ法と訳される場合も多い、2016年11月7日第12期全人代常務委員会第24回会議制定、2017年6月1日施行)、④「データセキュリティ法」(2021年6月10日第13期全人代常務委員会第29回会議制定、9月1日施行)、⑤「個人情報保護法」(2021年8月20日,第13期全人代常務委員会第30回会議制定、11月1日施行)、⑥「電気通信ネットワーク詐欺防止法」(2022年9月2日第13期全人代常務委員会第36回会議制定)がある。また、省令(「部令」)レベルでは、まず、ディープフェイクなどの対策として国家インターネット情報弁公室、工業・情報化、公安部の共同省令(第12号)の「インターネット情報サービスディープセンシス管理規定」(2023年1月10日施行)が出された。
 さらに、これまでのインターネット安全法とデータセキュリティ法では生成AIが十分に対応できていないため、国家インターネット情報弁公室主導でその他教育部、科学技術部、工業・情報化部、公安部、国家ラジオテレビ総局の同意で、2023年8月「生成式AIサービス管理暫定弁法」が施行された。この暫定弁法は生成AIの「健全」な発展を促すもので、個人情報を保護し、虚偽情報などを防ぐとともに、社会秩序の混乱や社会主義的価値観に反する情報を防ぐことを意図したものである。そのために、情報サービス提供者が最終的な内容にまで責任を持ち、違法な情報源を用いず、透明な処理方法で、かつ、スキルを持った人員によって管理することを求めるものである。しかし、その後もフェイク画像などの流通は止まっていない。2025年1月のチベットでの地震においては、がれきに埋もれた幼児の画像が生成AIで作成され流布された。ネット上の少女の画像から自分の娘がさらわれたという偽情報をでっち上げたケースなども報告されている(日本経済新聞、2025年11月12日)。
 これらを基に、省令では効力が不十分と考えられ、2025年10月に「インターネット安全法」に、AIによる内容が加えられ、2016年1月1日から施行された。
 『日本経済新聞』2025年9月20日の記事「AIルール1300、世界で乱立」は「各国・地域のAI政策の違い」でEU型を「安全を優先し、包括法で対応」(EUや日本)、米国型を「規制緩和で技術革新を優先」(米国、英国)、折衷型を「自国の個別規制に国際基準を組み合わせる」(シンガポール、イスラエル)、強権国型を「国家主導で規制、一部は検閲も」(中国やロシア)という分類をする。確かに、開発過程においても政府が極力な促進策をとっていること、規制政策においても、体制批判的な情報は強く規制することなどはあるが、単に「国家主導型」と言ってしまうと、民営企業が中心にAI開発を進めていることや、同じように虚偽情報の流布の防止、個人情報保護といった課題に取り組んでいるところが見えなくなる。類型化論には大いに注意が必要である。まして現職の米大統領が、極めて恣意性の高い情報統制策を講じている中で、民主国家対権威主義国家の対立という単純図式で世界を見ることには少なくない弊害がある。