学院長コラム「考えてみチャイナ・中国のこと!?」バックナンバーその91~


その91 「巳年」=「蛇年」断想――安部公房のエッセイから考えたこと(2025年1月1日(水))

■2025年という新しい年の「干支」は「巳」即ち蛇である。――なお、蛇足だが、「干支」という熟語は「かんし」と読めば「十干・十二支」の意味で、新しい年が「乙巳(きのと・み)」であることを指すが、「えと」と発音すれば「十二支」のみを意味して「巳年」を示すことは断わるまでもないだろう。

■さて、「巳年」の蛇だが、人間にとって不気味で恐怖心を抱かせる動物の代表格であることは間違いないのではないか。私も子供の頃から蛇は大の苦手だったが、その理由は、咬まれたら死に到る毒蛇が真っ先に念頭に浮かぶ恐怖からだろうと短絡的に考えていた。だが、高校生の頃だったか、ノーベル文学賞候補にもなったと言われる安部公房が、エッセイ「ヘビについて」(『砂漠の思想』講談社、1965年、所収/「講談社文芸文庫」版復刊、1993年)の中で、蛇は神出鬼没で手足もない異様な形状であるため容易に擬人化ができず、その生態を「自分自身の内的事件として想像し再現することができない」ことから「情緒の拒絶反応」が起こって恐怖心が生じるのだと書き記しているのを読んで、はたと膝を打った鮮明な記憶が残っている。

■安部公房は、更に、人間は「常識の壁」にしがみつくことで日常生活を安定させているが、それに頼りすぎると「日常の外」の存在が蛇や幽霊に見えてしまう危険性があることを指摘した上で、「現に、蛇と日常を共にしている、蛇つかいは、蛇に対してなんらの嫌悪も感じないという。そして、このことは、かならずしも実際の蛇だけにかぎったことではなく、政治的な蛇、思想的な蛇、文化的な蛇、その他さまざまな蛇についても、同様にあてはまることなのではあるまいか」とも続けているのだ。自己とは異なる「他者」への差別・偏見が発生する人間の心理構造を、蛇を例に分かりやすく提示しているのではないだろうか。

■NPO法人「言論NPO」が毎年実施している日中共同の世論調査結果(2024年12月2日公表)によれば、互いの国に親近感を持てない人の割合は、中国人で87.7%(前年度比/24.8%増)、日本人で89.0%(3.2%減)と日中ともに9割近くに上るという、些かショッキングな結果が示された。遂にここまで来てしまったとしか言いようがないのだが、こうなるには日中それぞれに、種々の原因・理由が存在するのも確かだろう。日本人の私としては、その最大のものの1つが、この間、日本政府は「台湾有事」を殊更に煽って中国をいわば「仮想敵国」に位置づけて、敵基地攻撃能力の保有や防衛費の大幅増という軍拡に踏み出す口実としてきた点にあるのは、残念ながら間違いないと考える。「仮想敵国」に親近感を抱く日本人はいないだろうし、「仮想敵国」と見なしている国に親近感を持つ中国人もいないだろう。――もちろん、中国政府に問題がないなどとは全く考えていない。大国主義・覇権主義的な対外姿勢と民主主義・人権に対して抑圧的な対内動向には、私なりの異論はあるし、それなりに発言もしてきたつもりである。ただし、上述したような日本人の中国認識の背景には、安部公房の言う「常識の壁」の論理が機能し、しかもマスコミがそれを煽っているのも確かだと、今、改めて考えている。

■孔子学院の目的・役割は、日本の市民・学生に向けて中国語教育や中国文化を発信することを通じて、日中双方の草の根レベルからの相互交流・相互理解を深めていくことにあるだろう。いわば等身大の中国そして中国人の姿を知らしめていく上で、孔子学院が果たす役割は極めて大きいように思う。――ここまで蛇を、人間に恐怖心・嫌悪感を引き起こすものとしてのみ論じてきた。しかし、蛇には「脱皮」という生態が存在しており、古いものを脱ぎ捨て新しくなっていくことの象徴としてのイメージも存在する。本年10月に創立20周年を迎える立命館孔子学院も従来の活動のあり方を刷新させながら、中国に対する「常識の壁」を打破していく活動を模索していく必要があるだろう。以上、巳年の決意としたい。

■なお、昨年2024年は安部公房生誕100周年だった。またこの「みチャイナ」の文章は、日中友好協会京都府連合会の機関紙『日中友好新聞(府連版)』第342号(2025年1月号/1月1日付)に掲載した、会長による「新年挨拶」と重なっている部分があることも付記させていただく。



その92 魯迅「藤野先生」を読んで改めて考えたこと――「日本と中国の民間交流を進める際の1つの模範例」として(2025年3月31日(月))

■中国近代文学の父と言われる魯迅(1881~1936年)に、「藤野先生」という自伝回想録的作品(実際には自伝的作風に基づく小説=フィクション的作品)があるのは、よく知られていよう。――1902年4月、日本に留学した魯迅は、東京市牛込区の弘文学院で留学生向けの速成教育と日本語学習を修めた後、1904年9月、近代医学を学ぶために仙台医学専門学校(仙台医専と略称/東北大学医学部の前身)に入学した。「藤野先生」(1926年)は、仙台医専における体験と思考、そして何よりも解剖学講座の新進教授だった藤野厳九郎(1874~1945年)との交流が描かれていく。だが、その過程で魯迅は中国人の精神を変える必要に想到し、かつそれには医学より文芸が必要だと考えて、1906年3月、仙台医専に退学届を提出するのだ。仙台在住期間は1年半余りに過ぎなかったが、自己の生き方を考えていく大事な時期だったことだけは間違いないようだ。

■なお、昨年は魯迅の仙台留学120年目、藤野厳九郎生誕150年目に相当したため、「魯迅仙台留学120周年記念会〔東北大学関係者と日本中国友好協会宮城県連合会が軸となった仙台市民有志による「仙台魯迅研究会」のプロジェクト〕」編『魯迅の仙台留学――「藤野先生」と「医学筆記」』(社会評論社、2024年9月)という書籍(以下『仙台留学』と略/「巻末写真A」参照)が刊行されていることも紹介しておく。ちなみに、その「序文」からは、「120年前の魯迅と藤野厳九郎との…出会いと指導を回顧した魯迅の作品「藤野先生」は、近代以降の日本と中国との民間交流を進めようとする場合、あるいは留学生への教育を考える場合、誰もが立ち返るべき模範例である」との一文が見出せる。では、藤野は、魯迅に対して如何なる「指導」を行なったのか。「藤野先生」の読者はすでにご存知だろうが、念のため、以下、『仙台留学』所収の渡辺襄訳「藤野先生」(69項にも及ぶ丁寧な訳注が付されている)から、当該部分を再掲しておこう。

■「私の講義だが、君は書き取ることができるかね」と〔藤野〕先生がたずねた。/「少しはできます」/「持ってきて見せなさい」/私が筆記したノートを提出すると、先生はそれを受け取って、二、三日してから返してくれた。そして、今後、毎週一回持ってきて見せるように、と言った39。それを持ち帰ってから開いて、私はびっくりすると同時に、ある種の不安と感激とをおぼえた。私のノートは初めから終りまで朱筆ですっかり添削されていて、書きもらしたところがいくつも書き加えられていたばかりでなく、文法の誤りまで、いちいち訂正してあった40。このやり方は先生が担任した授業――骨学、血管学、神経学が終了するまでずっと続けられた。」

■なお、訳注39には、「藤野先生の回想では授業時間の終了後に居残ってノートを見て上げたという。「謹んで周樹人〔魯迅の本名〕様を憶ふ」(『文学案内』1937年3月号)参照。」とある。また、訳注40は、「藤野先生の回想では、聞き間違いや誤りを「訂正補筆した」という(注39の回想記)。魯迅『医学筆記』〔魯迅の授業ノートの現物を指す〕を添削したのは藤野先生だけであり、赤ペン及び青・黒ペンを用いた。また内容は日本語の使い方に関するものが多く、解剖学に必要な添削は多くないことが確認できる。…今回おこなった藤野先生による魯迅のノート添削の解読・翻刻によって初めてその全容があきらかにされて、従来の不十分さをただすものとなっている。詳細は、本書第Ⅱ、Ⅲ部、参照。」と記している。この「第Ⅱ部」に、魯迅『医学筆記』の内32枚の翻刻写真は掲載されている。(その一部は「巻末写真B」参照。)

■魯迅『医学筆記』とは、『仙台留学』所収の窪俊一「魯迅『医学筆記』翻刻について」によれば、魯迅が仙台医専在学中に作成し製本したノートを指し、現物はいずれも、21×16センチの罫線があるノートと無いノートを合冊したもの計6冊とのことで、頁数は最大で349頁、最小で193頁というから、全てかなり大部のもののようだ。この『医学筆記』は、魯迅が「藤野先生」を執筆していた時点では所在不明だったが、1951年に魯迅故郷の紹興市の親戚の家で発見されたとのことで、後に「国家一級文物」(国宝扱い)の指定を受けて、北京魯迅博物館で厳重に保管されていたという。従って、中国の研究者たちも、簡単には目にすることはできずにいたらしい。――ところが、2005年12月、東北大学は、この『医学筆記』のデジタル複製版を、北京魯迅博物館から寄贈を受けることができたのだった。どうしてか。東北大学関係者と日中友好協会宮城県連を中心とした仙台市民は、実は1970年代から、仙台滞在時代の魯迅に関わる調査や資料収集を開始していたのだった。その成果は、1974年の魯迅仙台留学70周年事業の一環として、「仙台における魯迅の記録を調べる会」編『仙台における魯迅の記録』(平凡社、1978年)の刊行に結実されている。また、2004年の魯迅仙台留学100周年に向けて、魯迅の記録を調べる会の継承・発展として「東北大学魯迅研究プロジェクト」が立ち上がり、同年10月に、「魯迅・東北大学留学100周年史刊行委員会」編『魯迅と仙台』(東北大学出版会、2004年/魯迅授業ノートの現物写真12枚の翻刻を収録)を刊行したのだった。こうした動向が北京魯迅博物館の知るところとなり、デジタル複製版の寄贈へと繋がったのである。

■魯迅『医学筆記』全6冊の内、教員の添削や書き込みが入っているのは、第2巻「脈管学ノート」(全334頁)のみで、それも全て藤野厳九郎の手によるものだった。これは、藤野が担当した1年次授業「脈管学」「神経学」と2年次授業「局所解剖学」のノートであり、ほぼ全ての頁に、藤野による朱筆が入っているとのことである。

■最後に、『仙台留学』所収の大村泉「魯迅にとって藤野先生はなぜ「偉大」な恩師なのか?」などをも参照しつつ、魯迅が「藤野先生」を書いた時期(1926年10月12日)の時代状況について、少しコメントさせていただく。魯迅と藤野との交流が「日中民間交流の模範例」と言われる意味を探ることにもなるからだ。――少し上滑りした言い方になってしまうが、「藤野先生」に込められた魯迅のメッセージは、しばしば藤野に対する学恩への感謝と、日本人の中国人に対する民族的偏見の告発(いわゆる「試験問題漏洩事件」と「幻灯事件」が該当しよう)という2点に集約されると言われるが、そのどちらにより重点があったかと言えば、やはり前者だろうと考えたい。何故か。「藤野先生」が書かれ発表された1926年には、いわゆる「三・一八事件」が勃発しているからだ。これは、日本が、直接的な軍事力行使を背景に、中国政府への強圧的な干渉を進めたことに対して、抗議集会・デモ行進を実施した北京の大学生・市民たちに向けて、日本をはじめとする列強8カ国の要求を一部受け入れた中国政府の軍隊が、発砲し弾圧を加えた事件である。死者47名(魯迅の直接的な教え子2人も含まれていた)、負傷者150名以上に上った。当日、「花なきバラ」という雑感文を書いていた魯迅は、事件の知らせを聞いて以下のような文章を記した。「もはや「花なきバラ」などを書いているときではない。/…/いまや、北京城内において、すでに大々的な殺戮があったという。私が以上のような無聊な文字を書きつらねていたときこそ、多くの青年たちが、弾丸と銃創の洗礼を受けつつあったときなのだ。ああ、人と人との魂は、通いあわぬものだ。/中華民国15年3月18日、段祺瑞政府は護衛兵をして、小銃と大刀とをもって国務院の門前において、外交を援助せんがために徒手で請願におもむいた青年男女を包囲虐殺すること数百名の多きに及んだ。/…/もし、かくのごとき青年を殺し尽くしたとするも、屠殺者もまた断じて勝利者とはなり得ぬことを知らねばならぬ。/…/これは事件の結末ではない。事件の発端である。/…/3月18日、民国以来のもっとも暗黒なる日に記す。」(「花なきバラの二」/竹内好編訳『魯迅評論集』、岩波文庫) 当時の日本そして中国政府に対して、魯迅の怒りが溢れていることが看取できよう。――だが、こうした時期においても、日本人である藤野を「師」と呼び、「先生の人物・性格は、私の眼の中、心の中では偉大である。その名は決して多くの人に知られている訳ではないのだが。」と述べることができるところに、魯迅の冷静な視線と藤野への強い感謝の思いをも垣間見せているのではないだろうか。

■勉学面での魯迅と藤野とのやりとりで、私が興味深く思ったエピソードを3つほど拾っておく。①「あるとき、藤野先生が私を研究室に呼んで、私のノートをめくって一つの解剖図のところを開いた。下腕の血管だったが、それを指さしながら、おだやかに言った。/「ほら、君はこの血管の位置を少し動かしたね。――むろん、こう動かせば見た目はよくなるが、解剖図は美術ではないから、実物がそうなっているのであればそれは変えようがないのだよ。ここは私が直しておいてあげたから、これからは全部黒板の図のとおりにかきうつしなさい。」」、②「解剖実習が始まって一週間たったころ、先生はまた私を呼び出して、上機嫌で、相変わらず抑揚のひどい口調で話しかけてきた。/「中国人は霊魂を敬うと聞いていたので、君が屍体解剖をいやがりはしないかと心配しておったのだよ。しかし、今ではもう安心しているんだ、だってそんなことはなかったからね。」」、③「先生は中国の女性が纏足していると聞いたが詳しいことを知らない、足をどんなふうに縛るのか、足の骨はどんなふうな畸形になるのかなどと私から聞き出そうとし、そしてため息をついて言うのだった。「とにかくいちど見てみないことにはなあ、いったいどんなものなのか。」」――この魯迅が引く藤野厳九郎の言葉に共通する発想は、事実に即した科学的な姿勢を貫くことの重要性と呼べるのではないか。③も伝統的な社会風俗をも近代科学の研究対象にしていく姿勢にも見えるのだが、どうだろうか。

■前掲大村泉論文は、その末尾を以下のような文章で閉じている。「魯迅は「藤野先生」で、藤野が「偉大」だという直前に、「私はよく思い出しては考えるのだが、先生の私に対する熱い期待と、倦むことのない教導は、小にしては中国のため、つまり中国に新しい医学が生まれることを希望してのことであり、大にしては学術のため、つまり新しい医学が中国に伝わることを希望してのことであった」という。ここで魯迅は中国を「小」と呼び、学術を「大」と呼んでいる。若き日に魯迅は祖国のために身命を賭すと決意を述べた、というのだが、同じ魯迅が、藤野はそうした中国よりも「大」なるものがあることを教えてくれたと述べ、だから藤野は「偉大」だというのである。仙台医専で魯迅は民族の利害を超える科学的精神の重要性を学んだのである。誠に意義深い1年半の仙台滞在であった。」

□この3月末をもって、私は41年間(!)にわたる立命館大学の専任教員職から完全に退く次第である。5年前に定年退職を迎えてはいたのだが、その後も再任用されて、孔子学院長という役職を担いつつ研究・教育に従事する、任期制の特任教授を務めていたのだが、その任期も終了するに到った。当然ながら、孔子学院長職からも離れることになる。――従って、この「考えてみチャイナ・中国のこと!?」コラムも、今回で終了となる。休載も多々あった(特に今年は多くなってしまった)にもかかわらず、とにもかくにも92回にもわたって連載できたことを、読者の皆さんに心より感謝しなければならないと考えている。本年の遅くない時期に、このコラム集を書籍として刊行できそうなので、その際には、是非、手に取っていただければ、勝手ながら嬉しく思う。

□コラム最終回の題材は、魯迅「藤野先生」となってしまった。私は、藤野厳九郎のような教師には到底なれなかったが、学生と話し込むことだけは厭わずに積み重ねてきたようには考えているのだが、如何だろうか。少なくとも教師という仕事が嫌になったことだけは、一度もなかったとは言えそうだ。最後になるが、私との接点を持ってくれた学生の皆さん。非常感謝!そして再見!!(原義は「また会おう!」です。)

コラムVol.92写真A コラムVol.92写真B
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