中川正之前学院長による「ちょこっと話しチャイナ」バックナンバーVol.1~30


Vol.1 ちょっとしたニュアンスの差
星野博美著『愚か者、中国を行く』(光文社新書2008年)は、なかなかおもしろい中国滞在記である。その一節、夜汽車の中、大声で携帯電話をかけ、眠りを妨げられ腹をたて、やめさせようとする場面。

中国語でなんといえばこちらの怒りが通じるのか? どうしよう?……
…と考えているうちに、私は中国語で叫んでいた。
「いま何時なんだ!!」
一瞬静まりかえったと思ったら、なんとうるさい乗客は「いま?三時二〇分よ」と親切に時間を教えてくれたのである。普通、「いま何時なんだ!」といったら、「うるさい」の意味に決まっているだろう。(322頁)

中国語が書いていないので想像するしかないが、星野さんはなんと言ったのだろう?
“现在几点钟?”だったとしたら、答は“现在? 三点二十分”以外ないだろう。日本語でも私の語感では「うるさい」の意味で時間を問うとしたら「何時だと思っているのだ」と「思っているのだ」が必要である。中国語も同様である。しかし、日本語は「思う」を過剰に使いすぎる。それは次回に譲るとして、“现在几点钟?”に副詞と文末助詞を加えると「何時だと思ってる」のニュアンスを出すことができる。どうすればいいだろうか、これも次回。

Vol.2 「思って」どうする?
一昨年、立命館孔子学院主催のスピーチコンテストに審査員として出席した。もちろん出場者の中国語のうまさに感銘を受けたが、改めて中国語の単刀直入さを実感した。
それは司会をしていた北京大学院生のR君の開会を告げる言葉“(第○回スピーチコンテストを)現在開始!”だった。
日本語ならば「時間となりましたのでそろそろ始めたいと思います」となるだろう。「そろそろ」って何秒後だ。「思って」どうするのだと言いたいところだが、これが日本語だ。

中西千香さんの『中国語リアルフレーズBOOK』(研究社2009年)はお勧めの一冊であるが、102頁に以下のようなリアルなやりとりが書かれている。
A:这么快就明白了? 你脑瓜真好用!
B:那当然。我是谁啊!
それを中西さんは次のような日本語をあてている。
   A:こんなに早くわかったの? 本当にあったまいいねぇ。
   B:当然でしょ.私を誰だと思ってるの。
ここにも「思う」が出てくる。この日中両国語の差は「つぶやき」では語りきれない。

さて、前回の「今何時だと思ってるの?」を「思う」なしで中国語にすると“`现在都几点钟了?”となる。中国語の一音節の副詞を的確に使うのは難しい。次回は“都”と“大家”の話。

Vol.3 「思わず知らず」のむずかしさ
友人の言語学者井上優氏は、奥さまが中国人ということもあって、その中国語は生半可ではない。しかしそれでも、奥さまに中国語を訂正されることが少なくないそうだ。例えば、通勤で,ふだんは最寄り駅のA駅から数えて7駅目のG駅でないと座れないが,今日は乗客が少なく,A駅で座れたと中国語で奥さまに“今天在A站坐上座位了。”とメールしたとき、すかさず“今天在A站就坐上座位了。”と 副詞“就”を入れなさいと返事が来たそうだ。我々中国語学習者は“也、都、就、才”などの一音節副詞を、ついつい入れ忘れてしまう。
 沈家煊著『不对称和标记论』(江西教育出版社1999年)は言語の非対称的な側面を論じたものであるが、能動文と受け身文が対称的な例として次のような例が挙げられている。
  猫把鱼吃了(猫は魚を食べた) :  鱼被猫吃了(魚は猫に食べられた)
  他把房子拆了(彼は家を解体した):  房子被他拆了(家は彼によって解体された)
そのような例の中に、“你赚了不少钱(きみはたくさんお金を稼いだ)”に対応するものとして“钱都叫你给赚了”が挙げられている。受け身文では“不少”がなくなっていることも興味深いが、“都”が入っている。我々学習者とは逆に、思わず知らず入れてしまうようなものだろう。一般的に言って、母語話者が思わず知らず入れてしまうような語の使い方が我々には難しい。
 
 同じ『みな、みんな』と訳されることがある“大家”にはそういう難しさはないように思う(「大家(おおや)」と訳すのは学習者として論外である)。
 神戸三宮の商店街では、アンケートを装った悪質な勧誘に注意を促すアナウンスが流されている。それが噛んで含めるようなやさしい調子の「みなさん」という呼びかけ語ではじまっている。中国語の“大家”は“大家好(みなさんこんにちは)”と挨拶の冒頭に用いることができるが、“大家”だけで呼びかけ語にはならない。
「(ひら社員から)課長!、(孫から)お爺ちゃん!」のように目上や年長者を指す語は呼びかけ語になりやすいのに、逆に目下や年少者を指す語は呼びかけ語になりにくい。孫から「お爺ちゃん」と呼ばれて、「なーに、孫(ちゃん)」と言うことはない。それは中国語を含む東南アジアの多くの言語に見られる傾向である。しかし、日中両国語では微妙な差異がある。“大家”もその一つである。
 次回は呼びかけ語と「みなさん」の「さん」などについて。

Vol.4 「正之」と呼んで
「みなさん」は呼びかけ語になるが、“大家”は難しい。“大家好!”は呼びかけ語というより挨拶である。呼びかけ語になることと「さん」が付けられることは関係が深い。
 今回は、日本語の「さん、さま」と「先生」について考えてみよう。

友人と東京の中国語専門店で本を見ていた。少し離れたところで若い二人連れが話している。聞くともなしに聞いていると「中川正之が……」と言っている。ムカッときた私は、二人のところに歩み寄ろうとした。ところが友人は「中川さんも、夏目漱石みたいに呼び捨てにされるようになったんや」とニヤニヤしながら私を制した。「そうか?!」と単純な私はすっかりうれしくなり、気前よく本を買った。今になって、あれは書店の策略ではなかったかと思っている。
ある大学で講演したとき、司会者が「中川正之先生です。たいへん著名な方でご紹介するまでもないと思いますが」と前置きして、どこで調べてきたのかと思うほど詳細に私の紹介をした。私は「著名な方なら紹介するな」と一人で毒づいていた。我々研究者にとって「著名な」は、「かわいい赤ちゃん」の「かわいい」のような当たり障りのない、しかし言われた本人は決して悪い気がしない枕言葉のようなものである。
 中国文学者の吉川幸次郎先生が、夏目漱石のことを「夏目先生」と言われたことがあって、私はそれだけで大いに感動したことがある。漱石のような歴史的人物や有名人に「先生」や「さん」をつけると、知り合いであることをほのめかすことになる。有名人に敬称はつけないのが日本語である。

 中国人の友人王大勇(仮名)によく電話する。たいてい奥さんが出る。私だとわかると電話の向こうで「大勇!」と名前を呼んでいる。ところがある時、奥さんが自分の亭主のことを「王大勇!」とフルネームで呼んでいるのが聞こえた。電話に出てきた王氏に確かめると、奥さんの機嫌が悪いそうだ。フルネームが「李麗」のように二文字であるときは「李麗!」と呼ぶのは普通のことであるが、三文字の場合は、機嫌の悪さを表すこともあるらしい。ただし、最近の若い人たちはフルネームで呼び合うことはめずらしくないという。
 王大勇氏は私より数歳年少であるが、ある時私に「大勇」と名前で呼んでくれと言ったことがある。日頃王さんと呼んでいる私には何か気恥ずかしいことであるが、王さんは「大勇」と名前で呼ばれるとうれしいそうである。こういう中国語の語感は私にはまったくない。
 中国の病院や銀行では、順番が来たときなど、受け付けの人が客を呼び捨てにする。それに慣れている中国人には、病院や銀行で「王大勇さん、王大勇様」と呼ばれると、それこそ殿さまになったようで変な感じがするそうである。
 日本語の「さん」は人間以外にも用いる。次は『はらぺこ あおむし』という絵本の冒頭の部分である。
 原文(Eric Carl作Philomel books1969)は英語である。
  In the light of the moon a little egg lay on a leaf.
逐語訳すれば「月明かりの中、葉っぱの上に小さなたまごがある。」とそっけない。中国語版(鄭明進訳明天出版社2008)も英語版と同様である。
   月光下,一颗小小的蛋躺在叶子上。

 それが日本語になると次のようになる。
「おや、はっぱのうえに、ちっちゃなたまご。」
お月さまが そらから みて いいました。  
もり ひさし訳(偕成社1988年)

 関西では、「お月さま、お日さま」以外にも、「お豆さん」や「飴ちゃん」のように食べ物に「さん」や「ちゃん」をつける。
 もっと一般的に言うと、日本語では人間とモノの境界があいまいなのである。モノはモノ、人間は人間と明確に分ける言語との距離は大きい。このような傾向はアニミズムと呼ばれ、幼児期の思考特性の一つとされる。中国人と日常的に接していて、彼らは大人だなと思うことが少なくないが、我々日本人が子供なのかも知れない。私は66歳になったが、「少年みたい」と言われるとけっこううれしい。

Vol.5 夏休みということで、手短に。
『ちょこっとチャイナ』の編集者の意図は、私に中国語に関する話題を「手短に」書かせることだったらしい。先日、次女が来て「長すぎるんじゃない?」と忠告してくれた。事務局にさぐりを入れると、かなりの人がそう思っていることが判明した。しかも回を追うごとに長くなっていることに困惑しているらしい。話も細かくなってきたようだ。編集者は、夏休みは中国語の話題抜きで、軽く行きましょうと言う。
 むかし『はじめての人の中国語』という参考書を書いたことがあるが、ワープロの設定違いで、編集者の想定の陪のものになってしまった。一所懸命縮めたが、一旦書いたものを半分にすることはできず、結局小さな字で読みにくいものになってしまった。
 
 長く教師をしていると色々な経験をする。学部の一年生に年度末最後の授業で「先生は将来性のある人だから頑張ってください」と言われたときにはびっくりした。どういう将来が待っているのか楽しみにはしているが・・・
 中国語の教師ということで掛け軸の鑑定依頼などさまざまなことが持ちこまれる。私は現代中国語が専門で、古典は好きだが、自信はない。だから漢文の読解を含む依頼が一番困る。先日も友人が、木彫り彫刻を長く教えておられた方の遺品の中に、「祝爽清風快歓」と彫ってあったがどう読むのかと尋ねてきた。「祝」は中国語では「祈る」に近い。それ以下、一字一字の意味が分かるが、全体としてつながらない。後ろから逆に読めばやや中国語らしくなるが、尋ねてきた友人に聞くと縦書きなので、逆に読む可能性はないと言う。尊敬する中国古典にも詳しいK先生に聞いたが、分からないと言われた。
 話は変わるが、数年前、前任校で「○○府警捜査第一係の者ですが、中川教授はいらっしゃいますか?」と目つきの鋭い二人の男がやって来た。その場にいた友人に聞くと、「中川もとうとう尻尾をだしたか」とニンマリした同僚が数人いたという。用件は、音声の鑑定であった。どうも外国人の話す日本語のようだが、そうだとしたら何人か、あるいは日本人が外国人の真似をしている可能性はないかというものであった。この件については、これ以上言うことはできないし、事件というものは悲しいことが多く、早く忘れたい。
ただ、「中川逮捕」と誤解し、喜んだ同僚の名前は今でもしっかりと覚えている。

Vol.6 出し惜しみ
次の日本語、英語、中国語を見ていただきたい。
   日本語:(子供が親に携帯をねだって)携帯電話、みんな持ってるよ。
   中国語:五一節,有的 公園 免費 開放, 大家 都  去 遊園。
         メーデーには公園が無料開放されることがあり、みんな遊びに行きます。
   英語 : Everybody spoke about your restaurant.
         みんなあなたのレストランが(おいしいと)噂している。
 子供が「みんな持ってるよ」と携帯をねだったら、「みんなって誰?言ってごらん」と応じればよい。どんな言語でも「いつも、どこにも、なんにも」などのevery系、「一番、もっとも、・・・だけ」などの強調系の表現にはこのような『虚偽』が入り込む。「彼はいつも赤いネクタイをしている」と聞いて、「このあいだ彼と温泉に行ったけど、浴槽ではしていなかった」などと反論すると、変な人にされてしまう。
 日本語の「最後」と中国語の“最后”も、虚偽が入り込む語であるが、日中両国語で微妙な差があると私は思っている。
この話を書こうと思ったが、出し惜しみして、10月1日(13:30~15:30  大阪・梅田 大阪富国生命ビル5階 立命館大学大阪キャンパス)の「ちょこっと話しチャイナ!」の公開版で話すことにした。

Vol.7 アシカ
(4)で絵本『はらぺこ あおむし』をとりあげて、日本語では青虫を擬人化していると書いた。そしたら原本の絵本のお月さまには、人間の顔のような目鼻がついているとの指摘があった。

 かつて、中国語のテキストで「e」の音を「オットセイの鳴き声に似ている」と書いたことがある。すると「e-、e-と鳴くのは、オットセイでなくてアシカである」との指摘がきた。
ありがたいことである。ものを書く楽しみの一つである。自分の思い込みや間違いが、思わぬ形で修正される。
 最近何度か私の書いたものが大学の入学試験の長文読解に使われた。試験が終わって、使用したとの断りとともに使用料2000円が振り込まれる。この入試問題がすごい。恐らく数名の試験担当者が何度も推敲を重ねたものであろう。よく出来ているし、よく読みこんでいる。自分でもやってみるが満点はとれない。漢字が正確に書けないし、とくに「筆者はどう考えているか。次の選択肢の中から正しいものを選びなさい」が難しい。私が考えていたより深く考えてあるからである。いずれにしろありがたいことである。

Vol.8 京都に4年
 立命館に来てもうすぐ3年8カ月になる。(再)就職でなく、入学だったら来年の3月で卒業ということになる。この事実を意識したとき愕然とした。けっして勤勉な学生ではなかったが、大学の4年間は多くのことを学んだ。特に中国語に関しては、その時の「遺産」で今まで生活してきた気さえする。それに対してこの4年間に何を学んだかと改めて思ったからである。よき同僚に囲まれ、居心地がよかったこともあるが、あっと言う間にすぎさった。老齢になると、一日は長く、一年は短く感じるという。同感である。
 私の父は京都の人間であって、私も小さい頃、幾度か来たことがある。それなりの京都像があった。立命館に就職することが決まって、源氏物語(もちろん現代語訳や漫画『あさき夢みし』)を読んだり、京都のイケズに関する本を渉猟した。水上勉の『雁の寺』も読んだ。私なりの理論武装である。実際バスに乗って京都市内を移動するとき、由緒ある地名や名所旧跡に身体が震える思いがした。歩いていて、例えば『雁の寺』で舞台として出てくる場所に出くわすと、しゃがみ込んで動けなくなることが何度かあった。京都に圧倒され続けているのだ。

 もう一つ圧倒されたのは、孔子学院の講座に吉川幸次郎先生の薫陶を受けられた中国古典文学者の筧文生先生と興膳宏先生が名を連ねていらっしゃることだ。かつてフランス文学者の芳賀徹先生と、京都の中国研究になぜかくも人物が排出したのかについて議論したことがある。荘子の研究者である京都学派の福永光司先生が傍でニコニコされていたのを記憶している。筧文生先生と興膳宏先生、それに竹内実先生が連続講義をされている、変な例えだが、双葉山と大鵬と千代の富士がそろい踏みしているようなものだ。私の友人の現代中国語研究者も、近くなら受講したいと言う。私は近くどころか、名ばかりではあるが、その孔子学院の長なのだ。このプレッシャーには居直って耐えるしかない。
 興膳先生が『仏教漢語50語』(岩波新書)を出版された。そこに私の書いたものが引用されている。どうしよう?お礼状を書くべきか?直接お目にかかってお礼を言うべきか?礼状を書くとしたら下手な字が恥ずかしい。事務局に尋ねると11月26日に孔子学院に来られて講義されると言う。ならば直接お目にかかってお礼を言おう。11月26日は明日である。身のすくむ思いはまだまだ続く。

Vol.9 「あっ!」という間の一年
15日に北京から帰ってきた。今年3度目の訪中である。今回は4泊5日。ずっと北京大学の王順洪教授(立命館孔子学院副学院長)と一緒だった。
 王先生は真面目だが、おっとりした人柄で、一緒にいても疲れない。私の話す中国も、やんわりと訂正してくれる。以前、握手した時、先生の手が冷たいので、“你的手太冷”と言ったら、すかさず、“对,我的手凉”となおされた。そうだビールも冷たいのを“凉的”と言うではないか、いつもそんな調子である。知っているのに言い間違う。
 15日の夜、関西空港に着いた。乗客はみんな出国ゲートに急いで向かう。中に4、5歳くらいの子供がいた。その子が転んだ。私が「あっ!」と思った時、王先生が“Yo!”と小さな声で叫ばれた。「よっ!」ですかと聞くと、“哎哟”の“哟”だと説明された。先生の説明はいつも簡単明瞭である。日本語の「よっ!」は、田中角栄元首相が片手を挙げながら挨拶代わりに使っていたのを覚えている。
 感嘆詞は、思わず知らず出るものなのでとっさの場合、的確に中国語で叫ぶのは難しいし、意味や使い方の研究もあまり進んでいない。「わっ!」と後ろから近づいて人を驚かすと、驚かされた人も「わっ!」と叫ぶ。中国語の“哇!”もまったく同様であることに気がついたのは、つい4,5年前のことで、今は廃刊になった『月刊言語』(大修館書店)にそれを書いたことがある。
 そんなことを考えているうちに、出国審査が始まり、王先生は京都に、私は神戸にと握手をして別れた。帰り道、“哟!”の代わりに“啊!”と言えないのか?“哟”と“啊”の違いはどこにあるのかと考えた。多分、前者は、好くない事態に対して用いるのに、後者は単なる驚きなのだろうと思う。小説で、“啊的一声”と驚いた場面の一節があったのを思い出した。王先生に確かめてみたいが、先生はまたすぐ一時帰国されるという。答を聞くのは来年になるだろう。
 歳をとると一日は長いが、一年は短く感じる。「あっ!」という間に一年が過ぎようとしている。みなさんもよいお年をお迎えください。

Vol.10 続「よっ!」
 王順洪先生に“啊”と“哟”の違いを確認した。前者は発話の方式によって、大きな驚きにもちょっとした驚きにも、好いことにも、悪いことにも用いられるが、“哟”は同情の気持ちがあるというのが、私の理解である。
 どうしてこんなもって回った言い方をするのかというと、感嘆詞とはそういうものだということである。スパッと定義できない。
言語学者の定延利之氏は、大阪の商人が得意先の人に深々と頭を下げて挨拶をして、頭をもとの位置に戻す時「スー」と空気をすする現象を「空気すすり」と名付け、様々な観察をしている。たとえば、ジョークを言って滑った時にも、この空気すすりが行われることがあると映像付きで実証している。定延利之氏は、コミュニケーション研究の分野では世界的に活動している研究者なので、この指摘は映像とともにかなり広く知られている。その映像で空気すすりをしているのは中川であると後で知った(確かに定延氏に、学術目的であれば私の音声・映像を自由に使ってよいと言った記憶はある)。「中川さんも世界的に顔を知られるようになった」と多くの同業者に揶揄された。それよりも重要なことは、空気すすりは、おじさんの専売特許のように思われているが、実は若い女性も頻繁に行っているとの指摘である。
 王先生の“哟”についても、若い中国人は、「中年以上の人が用いる」と指摘する人が大半である。感嘆詞が用いる人の像と結びつきやすいという現象は興味深い。ステレオタイプの形成である。今後も観察を続けたい。
 日本語の「よっ!」については、前回、田中元首相を思い出すと書いたが、これも学生に聞くと、「おじさんがカラオケの合いの手をいれながら使う」という。ところが実際は若い女性も使っている。たとえば、私の憧れのNHKアナウンサーの鎌倉千秋さんは、キャスターをしている番組で、「よっ!」といいながらフリップを持ち上げたことがある。
 つまり、感嘆詞のように思わず知らず出てくる言葉は、ステレオタイプを形成しやすいが、それが実際とはかけ離れている場合が少なくないのである。
 マドンナと呼ばれる美少女が、誰もいないところで「ハックショーン!」と大声でクシャミをして、「ええぃ、チクショー!」などといいながら鼻の下をこすっている景色など、想像するだけで楽しい。

Vol.11 「摂」 (2012年2月25日(土))
私には3人孫がいて、その中の一人が様々な障害を抱えている。ハンディを背負って生まれて来たことを知ったときはショックであったが、それでも彼女が少しずつではあるが進歩するのを見ていると、喜びを覚える。他の二人の孫とまったく同様に可愛く思う。また、その孫のおかげで、障害児関係の本を読むことも多くなった。この世の中には様々な障害があって、触覚が異常にするどく、身体に触れるものに過敏で衣服を身につけることさえ苦痛を感じるという障害があるということも知った。
 テレビを見ていたら、アメリカのデミー・ムーアという女優が拒食症でやせ細っていると報じられていた。しかし、彼女は「せっしょく障害」を克服して復帰を目指している、とのことであった。私はなぜ「せっしょく障害」が拒食症につながるのか理解できなかった。「接触障害」だと理解したからである。「せっしょく障害」というのは、世間一般では摂食障害であって、接触障害ではないらしい。それなら合点がいく。
 橋下市長誕生前、大阪市役所の関係者と上海同済大学の先生方と話をしていたとき、市役所の方が、昔は兵庫から京都の西端までの地域を摂津の国といい、「摂津」とは、「津」つまり「港」を「摂する(コントロールする)」という意味だと説明された。すかさず同済大学の陳教授が、中国の「寧波」も「穏やかな波、波を穏やかにする」の意味で、似たような意味の地名は沿岸部には少なくないと応えられた。
 海への畏れは沿岸で生活する人々に共通するものであったようだ。自然をコントロールすることは難しい。阪神淡路沖大震災、東日本大震災を経験したわれわれは骨身にしみてそのことを再確認した。
 しかし自分をコントロールすることは、そう難しくはないし、楽しみでさえある、と最近思えるようになってきた。肥大続ける虚栄心に打ち勝ち「摂生に努める」、これこそがこの地球で暮らす知恵なのではないかと思う。

Vol.12 「中」 (2012年3月27日(火))
 ドイツ語学者に小川暁夫という人がいる。ドイツのフンボルト賞という立派な賞をもらった優秀な研究者であるが、私のことを「親分」と呼ぶ。10歳くらい年下で、清水の次郎長の静岡県出身ということと関係があるかも知れないが、彼によると「大中小」の順で言うと、「中川」は「小川」の上位になるそうである。ところがある時、「横川」という友人が、「中川さんは中央を流れる川で、私なんか主流をはずれた川ですから…」と卑下したことがある。ひがみの材料はどこにでもある。
 ところで「中国」の「中」は、「大中小」の「中」か、それとも「中央」の「中」か。中国語にも「上級(「高級」と言うことのほうが多い)・中級・初級」という言葉はあるが、「中国」の「中」を「中級」の「中」だと思っている中国人は一人もいないだろう。日本もかつて、自分の国を「(葦原の)中つ国」と呼んだことがある。「中つ国」の「つ」は現代語でいえば「の」である(「目の毛」⇒「まつ毛」)。まさに「中国」と呼んでいたのだ。たとえ世の中の隅っこにいようとも、そこが世界の中心と思うのは人の常であると思う。
 それと、本来同等の資格で横に並ぶべきものが、どうしても縦の序列を読み取るという人間の精神構造が面白いと思う。かつて、カレーの宣伝のキャッチコピー「インド人もびっくり」について、なぜインド人なのかという文章を書いたことがある。ほんらい横に並ぶことを表す「も」が、カレーライスに関してはインド人が最高権威者であるという俗説に便乗して『驚き』のニュアンスを獲得するというものであった。このような「も」を考えるきっかけになったのは、「夏も近づく八十八夜」の「も」は、他に何が近づいて来るのかという中国人日本語学習者からの質問であった。

Vol.13 あなたのお父さん・・・? (2012年4月26日(木))
たまった書類を整理していたら、立命館孔子学院の同僚がネットで見つけた“小学生精彩造句”という笑い話のコピーが出てきた。先生がお題を出し、小学生が短文を作るというものである。見ていると私の分析癖が顔を出す。

 .题目: 马上
 小朋友: 我骑在马上。
 老师评语 :…… !?

 .题目: 天真
 小朋友写: 今天真热。
 老师评语 : 你真天真。

 .题目 难过
 小朋友 我家门前有条水沟很难过。
 老师评语 老师更难过。
 
 .题目 : 果然
 小朋友说 : 昨天我吃水果,然后喝凉水。
 老师评语 : 是词组,不能分开的。

 多くは、4の先生の評にあるように単語とフレーズの混同である。これも中国語の深い問題と関係する。中国語は単語とフレーズと文の境界があいまいな言語である。
 また、語形変化がないため切れるのかつながるのかはっきりしないことが多く、中国語学習者を悩ませる。
 もう一つのタイプは訳の分からないもの、二つだけ紹介しておこう。

 .题目: 一边...... 一边......
 小朋友: 他一边脱衣服。一边穿裤子。
 老师评语: 他到底是要脱啊? 还是要穿啊?

 .题目: 陆陆续续
 小朋友: 下班了,爸爸陆陆续续地回家了。
 老师评语: 你到底有几个爸爸呀?

 6.も考えさせられる。日本語なら「退社時間、お父さんたちが続々と帰宅している」のように「-たち」をつければよくなる。「たち、ら」などの複数接尾辞と“们”の関係も微妙である。日本語の「中川たちがやって来る」は『中川と他の誰かがやって来る』という意味で普通の景色である。しかし、中国語の“中川们来了”は『やって来るのは全員中川』という自分で想像するだけで無気味な景色である。
 “爸爸、妈妈”と「お父さん、お母さん」も微妙に異なる。私の娘の友だちが、私のことを「お父さん」と言うことがある。しかし、中国語で友人の父親を“爸爸”と呼んだり、言ったりすると、あなたは私の子供ではないと言われるだろう。日本語は視点の移動が簡単で、友人の父親でも、友人の視点に立ち「お父さん」と呼ぶことができる言語である。
 日本語の親族呼称の特性としてもう一点挙げておけば、「あなたのお父さん」のように所有者をつけると問題を引き起こすことがあるという点である。たとえば、夕方、母親が夕飯の用意をしている。玄関のチャイムがなる。母親が子供たちに「お父さんが帰って来たよ」と言うところを「あなたのお父さんが帰ってきたよ」と言ったとしたら、小さな子供でも『お父さんとお母さんはどうなっているのだろう?』と心配するだろう。中国語では“爸爸回来了”でも“你爸爸回来了”でも問題はないそうである。

Vol.14 「げに恐ろしや」 (2012年5月26日(土))
 今日は4月27日である。この連載の(13)号を書き終えてまだ4,5日しかたっていない。仕事が立て込んでいて、遅れに遅れている拙著『漢語からみえる世界と世間(岩波書店)』の中国語版の最終稿に目を通し終わって一息ついたところである。それで、久しぶりにごく近くに住む長女の家に孫の顔を見に行った。長女が「小川先生に偶然会った」と言う。小川先生というのは(12)号で紹介したドイツ語の研究者である。私はここ数年彼には会っていないが、(12)号の締め切りが近づいて来ているのに気がついて、何を書こうかと考え始めた時に、なぜか小川さんのことを思い出したのである。偶然が重なるということがあるものだと、長女にこの連載で小川さんのことを書いたところだと告げると、長女は「小川先生も、(12)号のことを言っておられた」という。小川さんが立命館孔子学院のメルマガを読んでいる!?と驚いたが、どう考えてもそれはあり得ない。私も時々やるのだが、インターネットで自分の名前を検索してみる。教師をやっていて一番気になるのは学生の反応である。それがネットで読めることがある。小川さんもそうしていて、私の書いたものにヒットしたに違いないと思い至り、「小川暁夫」と入れて検索してみた。図星であった。恐ろしい時代になったものだと改めて思いながら、小川さんに関する書き込みを拾い読みしていて、重大なことを発見した。(12)号で小川さんがフンボルト賞を受賞したと書いたが、それは、シーボルト賞の間違いであった。居直るわけではないが、私のこういう間違いは今に始まったことではない。誤字脱字とともに、思い込みで誤ったことを書いて、それに気がつかず、時間がずいぶんたって周りから指摘されることが少なくなかった。過去形で書いたのは、長く同僚であった一海知義先生や筧久美子先生からは何度か指摘されたことがあるが、最近はそういう機会が減ったからである。いつの間にか歳だけはとってしまい、明らかな間違いであっても、周りの人が指摘してくれないことが多くなった。
 昨年末、前孔子学院院長の筧文生先生が、今までに書かれたエッセイなどを一冊にまとめられた『長安 百花の時』(研文出版)を出された。先生の学識の深さ、几帳面さ、書物に対する愛情、それに知的好奇心の強さというか無謀と言うべきか、先生らしさが随所に見られるお薦めの一冊である。しかし、私は読んでいて衝撃を受けた。それは、次のような一節に出くわしたからである。

 人様の論文や翻訳、あるいは雑文のたぐいを読むときは、たいてい右手に赤のボールペンを持っている。それは感銘を受けた部分に棒線を引くためではない。誤植や変な表現に出くわした時のためである。 (287頁「校正癖・考証癖」)

 私の書いたものも、幾つかは先生に読んでいただいている。きっと赤のボールペンの出番が多かったことだろうと思う。恐ろしいことである。しかし、畏敬の念を抱ける方がいてくださることはありがたいことでもある、と思いなおして、私は、誤字・脱字・誤植・思い違いが山ほどある文章を、これからも書き続けるのだろう。怖いもの知らずと言うべきか。

Vol.15 「初恋」 (2012年6月26日(火))
「初恋は何時でした? ―幼稚園の時です」というようなやりとりに中国人は違和感を覚えるらしい。部内の小さな研究会でそれを話題にしたとき出席していた中国人の先生方が「恋は重いものです」、「日本人の言う初恋は、異性に対する好奇心にすぎない」と決め付けられた。
  ツルゲーネフの『初恋』を読んでみた。ロシアではどうなっているのかと思ったからである。やはり若い男(の子)が隣の年上の女性に好意をいだき、その女性に翻弄されるという筋であった。この小説のロシア語タイトルについて専門家の講釈を受けなければならないが、「初恋」はほろ苦く、はかなげなものというのが通り相場だと思うが、中国語では、男女の交際があって初めて「恋」が成立するものらしい。「同性愛」のことを中国語では「同性恋」と言うが、こういう指摘を聞くと、何か腑に落ちる。
  「恋歌、恋仇、恋文、恋仲、恋患い」という言葉そのものが陳腐化している中、「初恋」は、いつまでもういういしく日本語の中に生き続けている。「恋」が、秘める段階にとどまる限り、失望・幻滅もなく、永遠に輝きを失うことはないのであろう。

忍ぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで

  なお、【初恋】、【初婚】を中国語辞典で引くと、かならず①初めての恋 ②恋の初めの時期、①初めての結婚 ②結婚したばかりの頃 との記載がある。②は「初夏」が『夏の初め』を指すのと同じであるが、じっさい中国人に確かめると、知らない、使わないと言う答が圧倒的である。「初恋」についても日本人と同じ語感を持つ中国人もいる。このような中国人の語感のバラツキに戸惑うことが数十年続いている。広くて、歴史のある国の言葉を対象とする者の宿命であろうか。

Vol.16 「伝統」 (2012年7月26日(木))
 出版社のNさんが来た。何かを書けということが底流にあるのは当然だが、私は、いつものとおり当分何も書く予定はない、と返事をする。それでもいい、一緒に飲もうと言う。
 編集者にはいろいろなタイプがあって、強引に何が何でも期日までにというタイプ、できていないと答えるとため息をつく女性編集者、書いたものを送ると結構楽しんでくれながらも結局大幅な変更を迫って来る編集者(それで頓挫している原稿がいくつかある)、最近分かって来たのだが、私は最初のタイプ、いわゆる鬼のような編集者に脅されながらでないと最後まで書けない、だからまとまった本が少ない。
 Nさんは「環境が整えば、書け」というめずらしい接近法の編集者である。悠揚としている。Nさんは京都のかなりの家の出であるらしい(「らしい」というのは、そういう人は自慢話をしないからである)。大学の近所の安い飲み屋でかなり飲んでから、Nさんが「島原の『輪違屋』へ行こう」と言いだした。その席には同僚(女性も含む)もいたが、私は驚いた。島原というのは昔の遊郭のあったところくらいしか知識がなかったからである。Nさんの「一見の価値がある」という言葉に惹かれて私たちは行った。営業時間は終わっていたが、Nさんが前もって電話していたので、なんとも趣のある建物に、我々は入ることができた。
 終電車を気にしながらだったが、面白かった。とくにお相手をしてくださった店主(という呼び方でいいのか?)高橋利樹さんのお話や身振りを交えての花魁の歩き方などの説明が面白かった。高橋さんは「日本最古の廓、京都・島原に現存する置屋兼揚屋であり、創業三百余年の歴史を誇る、輪違屋の伝統を担う」人である。島原遊郭については、高橋さんの著書『京の花街「輪違屋」物語』(PHP新書)を参照されたい。
 1980年代初頭、北京に滞在していたとき、同和居など居のつく伝統的なレストランや宮廷料理を供するというところへよく行った。それなりに美味しく、建物も風格を感じさせるものが少なくなかったが、いずれも1949年の社会主義革命やいわゆる文化大革命によってリセットされたことからくる奥行きのなさがどうしても拭いきれなかった。最近、さまざまな形で、伝統的なものが復元されているが、これも大半は過剰復元とでもいうべきフィクションが混じり込んでいるような気がして、あまりぴんとこない部分がある。
 私が大学へ入ったころの教授から時折聞く、中国の文化人や伝統のすごさを体験できないもどかしさがいつもつきまとっていた。80年代、北京の胡同を一人であるいていると、絵から抜け出てきたような風格のある老人と出あうということもあった。何度か声を掛けたことがあるが、老人たちの口は重かった。
 香港島に「陸羽」という飲茶専門の店があった(今もあると思う)。少なくとも80年代には、昔の面影を濃厚に残していて、メニューも筆書きであった。店の人たちは広東語しか解せず、それがまた面白かった。供される点心も抜群で、何度かその店をおとずれた、というよりその店に行きたいために香港に出かけた。そういう店では、この食べ物には、このお茶という常識があるらしいことを後で知った。朝から老人が新聞を片手にゆったりとお茶を飲んでいた。そういう老人たちと昔話をしながらお茶を飲めれば、どんなに楽しいことだろうと思った。しかし、「陸羽」も微妙に時代の潮流に呑みこまれていると、何回目かに行ったときに感じた。もう10年以上も前のことである。
 流行歌やアイドルの出るテレビ番組を見ていると思わず愚痴が出る、妻はそういう私を見て「ぼやき漫才の人生行路(人生幸朗•生恵幸子)」のようだと嗤う。流行歌の歌詞に苦情を言い「責任者出てこい!」とぼやくお爺さんの漫才師がいたのである。
 近代化によって得たものが多いことは否定できないが、失ったもの、失いつつあるものも少なくない。
 日中の老人を集めて「日中老人ぼやき大会」を開催し、思う存分「昔はよかった」と話し会えば、きっと楽しいだろうなと思う。真夏の夜の夢の一節である。

 と、数日前にここまで書いていたのだが、その後、妙な話が進んでいる。

 ここ数年の間、私、大阪大学の杉村博文氏、東京大学の木村英樹氏の三人で何度か公開鼎談をした。私は60代後半、杉村・木村氏は60代前後である。鼎談を本にしないかと去年だったか一昨年であったか、ある出版社から持ちかけられたことがある。私はすっかり忘れていた。木村英樹氏がその出版社の人と偶然出くわし、再度その話を持ちかけられたが、「中川に聞いてくれ」と返事したというメールを寄こした。折しも立命館孔子学院東京学堂で鼎談をしてみないかと事務局から言われていたので、いきなり出版社を入れてやってみようかという気になっている。どうせ私が仕切る鼎談なので、相手は今をときめく学者であっても、「つぶやき」とか「ぼやき」の色合いが出てくる。最終決定ではないが「中国(語)をぼやく」というテーマはどうだろうかと提案している。12月8日に行うことはほぼ決定である。

Vol.17 「ゴミが目に入った」 (2012年8月25日(土))
立命館孔子学院大阪学堂は上海の同済大学と提携しており、5周年を迎える。その同済大学から汪麗勇という若い教師が派遣されてきている。けれんみのない人で、とくに日本語については、目に入ったもの、疑問に思ったことを即座に聞いて来る。
 忘年会だったか、孔子学院の同僚と居酒屋に行った。そこに店員に向け「整理整頓」という注意書きが貼ってあった。汪さんが、「整理」は分かるけど、「整頓」はもっと官僚組織や校風など大きなことを言うのではないか、と言って来た。中国語ではそうだけど、日本語では身の回りのものをきちんとしておくことを「整理整頓」ということが多いと応えた。
 先日、漢語橋というコンテストがあって、長時間審査員をさせられた。終了後、目をこすっていると、「どうしたのか?」という。「いや、目にゴミが入って……」と答えると、いつもそうであるが、素っ頓狂な声で、「えっ! 目にゴミが!?」と驚いた。「目に入るのはホコリでしょう?」と私の日本語にクレームをつける。「少なくとも、関西では、ゴミが目に入る、と言う、と思う」と、こちらの自信がゆらぐ。
 汪さんは、「ゴミ」と言えば、かなり大きなものだと思い込んでおり、それが目に入ったというので驚いたらしい。
「ゴミ」や“垃圾”がどれくらいの大きさの範囲をもっているのか、また、「ひとまとまりのお金」“一笔钱”が常識的にはどれくらいの額か、「外出する」“外出”がどの程度まで家から離れた段階で成立するのか、辞書には記載がないが、日中で同じという保証はないので、注意が必要だと思う。

 話は少し変わるが、中国の郵便ポストは緑色である。1980年代初頭、初めて中国北京で暮らしていた時、しばらくそのことに気がつかず、また“果皮箱”と書いてあるゴミ箱と形状も似ていたので、おそらく何度かはポストにバナナの皮などを捨てたことがあると思う。
 その後何度も中国へ行っているが、ポストを目にする度に「ゴメンナサイ」とつぶやいている。

Vol.18 「何日君再来」 (2012年9月26日(水)) 
大学の授業が前期半ばになった頃、一息つくために、学生に中国の歌を聞かせようと物色していた。一目おいている先輩が“黑鸭子”`という女性アカペラトリオの歌がいいと言っておられたのを思い出して、過日に行った折にCDを買ってきた。全三枚ものであったが、一番気に入ったのが“何日君再来”である。これが中国の店で堂々と売られていることも感慨深い。30年ほど前のことであるが、客員教授として来られていた中国人の先生が、ある映画の中でこの歌が流れているのに感動して、歌が聞きたくて何度も映画館に足を運ばれたと言っておられた。

   好花不常开 好景不常在
   愁堆解笑眉 泪撒想思带
   今宵离别后 何日君再来
   喝完了这杯 请进点小菜
   人生难得几回醉 不欢更何待
(白)来来来 喝完了这杯再说吧
   今宵离别后 何日君再来

 この歌は、様々な経緯があって中国では長く禁止されていた。中でも有名なのが“君”と“军”が同音であるために政治的な憶測を呼び、国民党あるいは日本軍がまた大陸に来ることを願ったというものである。
 メロディーも日本語、中国語の歌詞も頭に入っていたが、いざ授業で使うとなるときちんと説明しなければならない。そこで古川典代さんがファンキー末吉氏と書かれたCD付きの『中国語で歌おう! まるごとテレサ・テン編』(アルク2001年)を読み返した。
 歌詞の常であるが、言葉として難しいものがすくなくない。この歌も例外ではない。とくに“牢牢抚君怀”の解釈について、私は深く考えることもなく、“牢牢”に引きずられて「君を(わが胸に)抱きしめる」と読んでいたが、古川さんは「しっかりと君がみ胸を撫でん」、「しっかりと君の胸をさすると」候補をあげ、「君にしっかり触れ」を採っておられる。
 さてどんなものであろうか?

Vol.19 「さすらいジョニー」 (2012年10月26日(金))
 中国語学の木村英樹さん、小野秀樹さんとよく酒を飲む。以前どういう話の続きかは忘れたが、それぞれのカタカナ名を付けようということになって、木村英樹さんが、自分はリチャードで、小野秀樹さんはボブ、私はモーガンがいいと決めつけた。小野秀樹さんのボブについては、彼を知っている人全員が賛成する。日本人の「ボブ」イメージは、目がくるっと丸くて、髪の毛が縮れていると共通点があるように思う。こういうイメージは、たまたま英語の教科書にボブという黒人の少年が出ていたとか、かなり偶然性もあるが、それ以外にも言語学的な何かがありそうで、時々授業などでも話題にする。
 この夏にあるところでその話をした。そして、私はモーガンという名付けが気に入っていないと付け加えた。後日、ある女性が「あなたは、モーガン的ではない、ジョニーがぴったりだ」という主旨のメールをくれた。その女性がなかなかチャーミングだということもあって、私はジョニーが大いに気に入っている。なぜかしら「さすらいジョニー」という言葉が浮かぶ。それを立命館の授業で話したら、ある男子学生が即座に、「ジョニーて、遊び人のイメージですよ」と言った。それも分からないことはない。そこで北京大学から来たばかりのボランティアで私のTAをしてくれている彭馨さんに「ジョニー」のイメージを聞いてみた。彼女は「威厳のある感じがする」と、意外な反応をした。ボブについても、我々のイメージとはずいぶん違った。
 ついでに中国の犬の名前を聞いてみた。いろいろな名前があるが、英語風の名前や豆豆,贝贝,多多,乐乐等パンダ風、それに小呆,小花など“小”のつく名前が多いというのが多いという。ポチやタマのような定番はないようだ。30年ほど前、中国人の友人に犬の名前にどんなのがあるか聞いたところ“发财”という名前があって、“发财来来! ”なんて呼ぶのだと教えてくれた。    
 彭馨さんに、今でも“发财”なんて犬がいるのか聞いたところ、即座に、”宠物の犬ではなくて、土狗の名前だ”ということであった。“土狗”は、多分辞書には載っていないだろうが、“土布”などから連想することはできる。地ビールの「地」に近い意味なのだろう。農村などで飼われている伝統的な固有種の犬のことである。
 “土狗”なんて言葉が、さりげなく出てくるのでネイティブとの話は楽しい。

Vol.20 「若者言葉」 (2012年11月27日(火))
 前任校では言語論講座というところに属していた。卒業論文に「若者言葉」を題材にする学生が多いので、教員が相談して、授業でも取り上げるべきだということになり、若い教師がその役をかってでた。もう10年以上も前のことである。最初の授業で、クリスマスイブを一人で過ごすことを「シングル・ベル」というとしたり顔で紹介したところ、学生の失笑をかったそうである。当時でも時代遅れの表現で、要するに寒い冗談で滑ったのである。若者言葉は刻々と変化する、これについていこうとするのは言語研究者としては、あまり賢明なことではないというのが持論である。去年だったか、リアジュー(リアルに充実している)、告られる(愛を告白される)という表現を教えてもらったが、現在、使われているのかどうかは分からない。
 時々、授業にお菓子をを持って行って、「食べる?」と差し出すことがある、「要らない」という意味で「大丈夫です」と言うのがいる。私には違和感のある言い方である。
 中国語でも若者言葉がずいぶんあるのだろうが、これも追わないことにしている。
 逆に、授業で私が普通の日本語として使う言葉の中に、学生が理解できないものがかなりあるらしい。最近ではそうでもないが、一昔前の中国人は、暖かい食事を食べることに情熱をもっていた。残留孤児の方々が親戚捜しに日本にこられたおり、食事に出された幕の内弁当に激怒されたということも耳にしたことがある。
 先週の3年生の授業で、職場などで冷遇されていることを、日本語では「冷や飯を食わされている」と言うでしょう。中国語(とくに台湾)では「吃冷饭」は、さらに悲惨で「臭い飯を食べる」という意味になると、誰かの説をそのまま授業で使った。ところが、今の学生は「冷や飯」も「臭い飯」もなんのことか知らない。刑務所では麦飯が出るので、「臭い飯を食べる」というのは刑務所に入るという意味だと言っても、麦飯がどうして「臭い」のか、と質問される。同じ授業で「蚊帐」が出てきた。とうぜん「かや」と訳すが、「かや」を知らない学生がいる。知っている学生は、残らずアニメの『トトロ』で見たことがあるという。
 いつの世も、年寄りは若者の「言葉の乱れ」を嘆き、若者は年寄りの言葉を馬鹿にする。それは避けられないことであるが、それにしても変化のスピードが加速度的に速くなっている気がする。中国でもきっとそうなのであろう。
 教師という職業は、若者との接点に立ち続けなければならない、そのことは充分承知しているが、最近は、所詮無理な事と居直りをきめこんでいる。きっと学生には「化石」のような教師に見えていることだろう。

Vol.21 よいお年を! (2012年12月25日(火))
 今年あっと言う間に終わろうとしている。
 上の文の下線部の「も」について、たとえば、外国人日本語学習者に納得してもらえる説明のできる日本人は多くないだろう。普通の人は、母語について一々こだわらないないのだと思うが、私は子供のころから、相手が何を言っているのかよりも、相手の話し方や、相手の使う言葉が気になるという性癖があった。学校の先生についても同様だった、だから先生のモノマネはうまかったが、学業成績はひどいものだった。しかし、それが現在の仕事につながったのだから、人生は分からない。
 多かれ少なかれ、言葉を研究している人たちにはその傾向がある。言葉を使ってコミュニケーションすることよりも、言葉について考えたり話したりすることのほうが愉しいと言う人が少なくない。
 友人の言語学者定延利之さんは、若いころからいつもコンピュータを持ち歩いていた。もう20年ほど前のことだから、今のように軽くて小さなコンピュータではない。薄暗いバーで、お酒を飲んでいて、誰かが「赤いポストって、まだ時々ありますよね」と言ったとする。すると定延さんが、突然「今の、赤いポストが時々ある」という表現、日本語として自然ですよね、などとやりだす。つまり、赤いポストがまだどこかの街角に立っているとしたら、そのポストは、ずっと立っているのであって、「時々」ではないことを問題にしているのだ。しばらくして、定延さんがいなくなっていることに気がつく。バーの中を見回すと、隅のほうでコンピュータの画面が光を出している。定延さんが、コンピュータのキーボードをしきりに打っているのだ。何日か後にそれが論文にまとまっている。
 私はそれほどでもない、私は定延さんよりもノーマルな人間であると思っていたが、定延さんは、私が変な人であると思っていたがことがある日判明して言い合いになったことがある。
 何かの集まりで、私に自己紹介をした人があった。もう忘れてしまったが、その時も、私は相手の何かに気を取られた。「○○です」と名前を名乗られたのであろうが、私はそれに対して「中川です」というべきところを「中山です」と言ってしまった。たまたま居合わせた定延さんが、鬼の首を取ったようにほくそ笑んだのを忘れることができない。
 後日、逆の場面があった。定延さんにある人が「佐々木です」と自己紹介した。それに応えて、定延さんが「佐々木です」と名乗った。
 この二人のどちらが変か、5年ほど前、立命館孔子学院主催の私と定延さんとのトークショーで話題にしたことがある。
 前置きが長くなった。12月8日、大阪大学の杉村博文さん、東京大学の木村英樹さんと鼎談をした。木村英樹さんという人は、この道に進まなくても、どの分野に行っても超一流になる人だと思う。それでも長い付き合いの中では、私の眼前で様々な失敗をしている。いつかどこかに書いてやろうと思っている。それに対して、杉村博文さんは、文句なしに変な人である。杉村さんの奥さまが、「杉村は本を主食にしています」と私に言われたことがある。ほっておけば食事も取らずに20時間くらい書斎にこもっているそうだ。
 鼎談について紹介してもよいが、これはいずれ本になる予定なので今は触れない。
 この鼎談のタイトルが「中国(語)をぼやく」というものであった。立命館孔子学院の同僚であり、北京大学の教授である王順洪さんが、「ぼやく」とはどういう意味かと聞いてきた。その時、適当な中国語が思い浮かばなかったので、王さんに、辞書で調べてみたら、と応えておいた。しばらくして王さんが、中国語の“嘟哝”という意味だろうと言いながら近づいてきた。「ぼやく」というのは、基本的には、愛情を持ちつつも悪口・愚痴を言うのだと私が言うと、王さんは、中国語もそうかな、と考えこむ。日本語ほどではないにしても、悪口・愚痴に傾くらしい。
 日本語の「ぼやく」と中国語の“嘟哝”の大きな違いは、日本語で「ぼやく」のは、たいてい親父である。若い女の子が「ぼやく」のはおかしい。日本語は「ひやざけを飲む」にしても「しゃなりしゃなり歩く」にしても主語が特定されることが多い。日本語話者には、言わなくても通じる世界が非常に多い。などなどと、私の中で妄想が膨らむ。
 私の夢は、王順洪さんや杉村さん、木村さん、定延さんと、国と国のややこしい事や、世の中の面倒なことは、一切抜きにして、こういうおしゃべりを延々とすることである。と家族につぶやくと、「それ以外の何をしているの?」と驚かれた。そうなのかな? そうだとしたら夢がかなった人生を送っている幸せ者ということであろう。
 このようなぼやき・つぶやきは果てしがない。来年もお付き合いください。
 「よいお年を!」と書いて、今年の締にしようと思ったが、また定延さんとの言葉をめぐる言い合いを思いだした。新年の1月15日頃であった。二人で歩いていたところ、学生に出あった。その時、定延さんが学生に「よいお年を」と言ったので、私は即座にそれはおかしいと指摘した。定延さんは、「今年はあと350日ある。その日々をつつがなく送ってください」と言うことのどこがおかしいのかと譲らなかった。これも遠い昔の思い出である。

Vol.22 小心 (2013年1月26日(土))
昨年の12月からたて続けに3回、中国に行った。中国語を始めて47年になるが、中国人の人間関係について改めて感心することがあったが、この話は次回に譲るとして、今回は、「小心」について。
 日本語では「小心者」のように臆病者の「臆病」に近いが、中国語では「注意する」の意味で用いる。最近の中国では注意書きがやたらと目に入る。
   紧握扶手
エスカレーターや動く歩道に必ずこの注意書きがある。大抵の人は、手すりにつかまってはいない。まして「緊(しっかりと)」手すりを握っている人など皆無である。この「緊」は四字句にするために軽く添えられたものと解すべきであろう。

   小心台阶(段差に注意)
   小心脚下(足もと注意)
   小心地滑(滑ります)
といった風に。
 余談だが、北京で地下鉄に乗ると、必ずといっていいほど席を譲られる。今年68歳になるが、歳相応で、日本で席を譲られることはまずない。白髪頭が原因だと、私は思うが、よく中国に同行する立命館孔子学院の清水郁子事務局長は「それだけではないと思う」と、暗に私が正真正銘の高齢者であるとほのめかす。譲られるのが癪に障るので、最近はドアの近くに立っていることが多い。
   小心夹手
という注意書きがドアにある。関西では「指詰め注意」と書くところである。
   小心开车
は、「小心夹手」と同じ構造だが「注意して運転する」である。私の頭の中には、「小心」は「注意して…する」が主な用法としてあるので、「小心夹手」も「注意して手を挟みましょう」という読みがまず頭に浮かぶ。
 しばらく歩いていると
   注意触电
という注意書きがあった。「触電」は日本語の「感電」のことである。私風に言うと「触電」と「感電」は「感触(触感)」をリンク語とする類縁語である。だから「感電に注意」ということである。
 「小心・注意」とよく似た語に「当心」がある。しかしこれらの語の使い分けは、微妙なところがある。きちんと調べれば卒業論文くらいにはなるだろう。なぜそうなるのか、それぞれの語の特性を明らかにした上できちんとした説明ができれば修士論文としても立派なものだろう。
 「小心地滑・小心夹手・注意触电」もいわば望ましくないことが目的語に来て、注意して、それを避けるよう伝えるものであるが、「注意」には次のような用法もある。
   注意安全

Vol.23 別れの季節 (2013年2月26日(火))
3月は別れの季節である。とくに学校がそうである。
 わが孔子学院でも北京大学の王順洪先生が任期を終え、3月22日に帰国される。先生には顧問になっていただき今後も様々な角度からアドヴァイスをいただくことになっている。
 事務局でも3人が去られる。寂しいことである。いずれも大変有能な女性であったので、事務局の雰囲気を明るくピリッとしたものにしていた。
 3人のうちの一人、王慶燕さんは、私の前任校で修士課程の学生であった。言語学研究者として必須の言語感の良い人で、私は博士課程に行って研究者になることを何度か勧めたことがある。その王さんと、この1月に初めて一緒に北京に行った。公務を終え、滞在を一日延ばし、王さんの中学時代からの友人Lさんが天津から出て来て、3人で北京の街を歩き、一緒に食事した。
 出発の時、関西空港で待ち合わせをし、北京に飛んだのであるが、王さんはリュックにいっぱい荷物を詰めていた。何が入っているのかと聞くと、Lさんへの土産だと言う。実際、すべてがLさんに頼まれたものであった。Lさんも日本留学経験があり、懐かしさから王さんにあれも買ってこい、これも買ってこいと頼んだらしい。日本人からすれば、いくら友人とはいえ、こんなに頼むかと思うし、それに応じるかと思うのであるが、中国人にとっては普通のことのようである。中国人の人間関係は密なのである。3人で北京ダックを食べていても、二人の仲の良さが随所に見られて、こちらも嬉しくなる。実のところ、今まで中国人同士の人間関係の濃密さに辟易させられることが少なくなかったのであるが、今回、その濃密な人間関係の心地よさに初めて気づかされたような気がするのである。
 30年ほど前、香港に行った時、到着が9時間遅れ深夜になった。それでも空港には中国人の友人が待ってくれていた。
 日本人は中国人から忠や孝を学んだ、しかし人間と人間との熱い関係をいう侠については、体得できずにやくざの世界で歪曲された形で残っているにすぎない。

 心理学で、人間は悲しいから泣くのか、泣くから悲しいのかという論争があるらしい。私は罵倒についても同じだと思っている。憎らしいから罵るのか、罵るから憎らしさが増幅されるのか。昨今の日中関係をみていて、その思いを新たにしている。私は日本人であるから、中国にしょっちゅう腹を立てている。王順洪さんも王慶燕さんも中国人であるから、日本に腹を立てていることも少なくないと察せられる。だが私たちはお互いの良くない点は指摘しあっても罵倒しあったことはない。日本人と中国人の仲が、王慶燕さんとLさんのように濃密なものになれば、濃密な関係をもった日本人と中国人の数が少しでも増えれば、日中の関係はもう少し違ったものになるに違いない。 

Vol.24 年度末にあたり、あれやこれやと、まとまりのないことを (2013年3月26日(火))
 あるテレビの番組で評論家が、「中国人に二種類ある。一つは悪い中国人、もう一つは非常に悪い中国人」と言っていた。好き嫌いは人の自由で、中国人が嫌いな日本人、あるいは日本人が嫌いな中国人がいても私は仕方がないことだと思う。私だって、中国や中国人にしょっちゅう腹を立てている。しかしテレビというマスメディアで、こういう対立を煽るような発言をして得意がっている評論家、そういう評論家を出演させているテレビ局にはもっと腹が立つ。狭い海を隔てて隣同士の国なのに、不必要に対立や緊張を煽る真意はどこにあるのだろうと不思議である。

 北京大学の王順洪さんが二年の任期を終えて帰国された。私より3,4歳若いこの人は、いつも飄々としていて、けれんみがなく、率直で、いばったり驕ったりすることがまったくなかった。見送りに行った関西空港でも、出国検査を受ける時間がそれほど残っていないのに、傍で見ていて「もういいかげんにしたら」と言いたくなるほど、都会慣れしていない為にチェックインカウンターで立ち往生している見知らぬ(私にはけっして可愛げがあるとは見えず、むしら厚かましく思えた)人の手助けをしていた。これだけのやさしい気持ちを持った日本人はそういないだろうと思う。

 王さんたち、三月で立命館孔子学院を去る人たちの歓送会で、王さんは、私のことを、初めは怖かった。顔が「不可愛」だと言った。
 私の顔については、前任校の裏シラバス(学生が作った授業案内)にも「見るからに怖ろしげ」と書いてあったりしたので、自分でもやさしそうな顔だとは思っていない。
 しかし、たとえば、この王順洪さんの発言を「王順洪氏は、中川の顔は可愛くないと言った」と日本語にしたとすると、王順洪というのはずいぶんひどい事をいう、ということになるかも知れない。私は王さんが、私の顔が可愛くないと日本語で言ったとしても、彼の人柄からして、ずいぶん率直に言いにくいことをずばりと言うな、という程度でむしろ好ましく思ったであろう。さらに、中国語の「不可愛」は「近寄りがたい」というような意味合いもあることを知れば、話はまったく違ったものになる。要するに、日本語と中国語、あるいは日本人と中国人の間には誤解の種がいっぱいあるということなのだ。

 中国人の話す中国語や日本語がずいぶん強い響きを持つと感じておられる方は多いと思う。言語学者の井上優氏は次のようなことを言っておられる(近刊『相席で黙っていられるか』岩波書店 シリーズ〈そうだったんだ!日本語〉)。

 文法書では、重ね型形容詞は「具体的な状況・状態を生き生きと描写する」と説明されるが、これは少し差し引いて「具体的な状況・状態を描写する」くらいに理解した方がよい。

 井上氏は、他の文法用語の多くも、中国語を日本語に逐語訳するとニュアンスが強すぎると指摘している。私は「少し差し引かなければならない」のが文法用語にも及んでいるという事実はとても重要であると思う。中国人のもの言いが、きつ過ぎると感じたら、この言葉を噛みしめるべきだろう。

 さて、王順洪氏であるが、「今晩の夕食は奥さま一緒ですね」と言うと、「そうです。家内の作ったお粥を食べるのが楽しみです」とうれしそうに笑ってゲートに入っていった。
 飛行機の別れは風情がない、いや飛行機でも関西空港ができるまでの国際空港であった、伊丹空港はもう少し風情があった。
 もう30年以上も前のことになる。前任校に来ておられた外国人のS先生が帰国されることなり、何人かで伊丹空港までお見送りをした。先生が出国ゲートに入られて、見送り団は解散になった。天気のいい日だったし、勤め先に行く必要もないので、私は一人残って屋上にあった送迎デッキのベンチに腰を下ろして、離着陸する飛行機を見ながら缶ビールを飲んだ。二本目を飲み終えた頃、S先生の搭乗している飛行機が離陸した。私は、何気なくその飛行機に手を振った。
 数日後、同僚であった筧久美子先生が私にS先生を見送りに行ったのかと尋ねられ、S先生から手紙が来て、「中川が、私の乗った飛行機が飛び立つまで見送ってくれた、日本の知識人の真の姿を見た」と感激しておられたよと伝えてくださった。機内のS先生は屋上の送迎デッキにいる私を見つけられ、ずっと見ておられたのだ(たぶん私がビールを飲んでいたところまでは見えなかったのであろう)。

 中国には別れの詩が多い。中でも李白が孟浩然を見送った詩「黄鶴樓送孟浩然之廣陵」 は秀逸である。
 「故人西辭黄鶴樓 煙花三月下揚州 孤帆遠影碧空盡 惟見長江天際流」
 孟浩然の乗った帆掛け舟の帆が水平線の彼方に消えるまで李白は見送るのである。別れはこうありたい。しかし、S先生見送り事件以来、私はこの詩を読む度に、送られる孟浩然も、李白がいつまで自分を見送っているのか帆柱の後ろに隠れて窺っている姿が浮かんできて笑ってしまう。

 ヨガの先生に、なんどもお風呂でゆっくり身体を温めるよう言われる。私は長風呂が嫌いだ。それでも腰や関節に不具合があるのでできるだけお湯につかっていようと頑張っている。最近はかつての流行歌手春日八郎と三橋美智也の歌を二曲ずつ聞き終わるまでと決めている。春日八郎の代表曲。「赤いランプの終列車」
 ♪白い夜霧のあかりに濡れて別れ切ないプラットホーム ベルが鳴る ベルが鳴る さらばと告げて手を振る君は赤いランプの終列車♪
 赤いテールランプが見えなくなるまでプラットホームで見送る。日本でもかつてはこんなことがあったのだ。少なくとも恋人の乗ったバスを「三歩小走り」くらい追ったはずだ。
 日本では、人との別れはあっけないものになってしまったが、中国ではなお、こんなやり取りが交わされている。 別送,別送。慢慢走。

Vol.25 選択制限 (2013年4月26日(金))
 大阪産業大学孔子学院設立五周年記念式典・特別記念講演会に行ってきた。講演は作家老舎の御子息舒乙氏の「中国大運河」であった。
 黄河の氾濫により開封の街は幾度も土砂に埋もれ、現在の街の下に七層の街があるとか、大運河を行き来する船が渋滞すると、解消に三年もかかる、その間渋滞した船の上では、生活が続き、子供が生まれたりしている、といったなんともスケールの大きな話でおもしろかった。
 しかし私が一番おもしろく思ったのは、「船の渋滞」のことを舒乙氏が“堵船”と言われたことであった。中国語を聞けば「車の渋滞」“堵车”からの類推で容易にその意味は理解できるが、日本語の「船の渋滞」を中国語で何と言うかと問われれば、即答は難しいだろう。
 もう一つ、ある中国人が“罚站”のことを日本語で何と言うのかたずねてきた。“罚款(罰金)”や“罚酒(ゲームなどで罰として酒を飲むこと)”は知っているが“罚站”は聞いたことがないかも知れないが、少し考えれば「学校で先生に立たされる」ことだと分かるだろう。これが中国語だと私は思うのである。
 しかし、私の中学生時代の国語の先生は、宿題をしていないと正座をさせた、それからグランドを3周位走らせた、それを“罚坐”や“罚跑”と言うのかどうかになるとネイティブ・チェックが必要である。ある中国人に“罚坐”と言うかどうか尋ねたところ首をかしげ、“罚跪”`なら言うと思うということであった。“罚坐”と“罚跪”では姿勢が違うだろうと思うが、それはともかくブロックの玩具のレゴのように部品の差し替えが自由で、即座に単語が作れるのは、まさに中国語の特徴だと思う。 日本語で「罰金」の「金」を差し替えることはできない(アメリカンフットボールではペナルティーに「罰退」というのがある)。それもこれも、日本語の漢語は単語、中国語ではフレーズ的なことによる。

 以上の現象は、たとえば日本語で「つくる」と表現されるものが、中国語では“配眼镜(メガネをつくる)、刻图章(ハンコをつくる)、编词典(辞典をつくる)、包饺子(ギョーザをつくる)”のように目的語によって動詞が固定される現象とは一見逆に見える。相原茂氏は“配眼镜、刻图章、编词典、包饺子”などを「組み合わせ連語」と呼び、中級学習の重要なポイントであるとされている。
 これは、一般言語学的には、選択制限と呼ばれるものであり、中国語の“养”は、人間のみならず“养狗(犬を飼う)”、“养花(花を育てる)”のように様々な日本語に対応する。問題なのは、中国語と日本語でずれがみられることである。だから、相原氏の指摘されるように一つひとつ覚えていかなければならない。

Vol.26 中国雑感 (2013年5月25日(金))
中国へよく行く。行くたびに驚くことがある。本屋で勘定をすませようとレジに並んでいると男が近づいて来て、カードを見せながら、このカードで支払いをすると一割引きになる、五分ずつ分け合おうといってきた。店員の目の前であったが店員は何も言わない。そういう男が数人レジのまわりをうろうろしている。
 一昔前にはバスに乗るのは大変だった。地下鉄はそれよりずっとましであったが、うかうかしているとはげしくぶつかられることもあった。
 驚くことというのは概ね、そんなのないだろうという驚きであるが、最近は変わってきたように思う。北京で地下鉄に乗ると、私を老人とみて席を譲ってくれる人がかならずいる。上海ではそれほどでもないが、今回は譲ってもらった。日本では、バスも地下鉄も電車もまだ席を譲られた経験はない。
 そういう小さな親切から、前々回にも王順洪氏のことで書いたが、そこまでしなくともと思うほど、世話をやく人が中国にはいる。今回もとんでもなく親切な行為を目撃した。こういうことを幾度か目にしていると、中国人の見方を根本的に変えなければならないと思う。
 多くの日本人が中国や中国人に腹を立て、多くの中国人が日本や日本人に腹を立てている。それなりの理由はあるのであるが、お互いの国民が見えていない規準があって、それが憎み合いの原因の一部になっているような気がしてならない。
 日本人中国語学習者のレベル向上には目をみはるものがある。自由な忌憚のない議論を通して、お互いの価値観の違いを発見し、お互いの不信化を解きほぐしていってほしい。

Vol.27 医学用語 (2013年6月26日(水))
 5月23日兵庫医科大学中医薬孔子学院開設記念学術講演会に出席した。医学の話を5時間近く聞いた。日本の漢方が、儒学の受容と平行し、朱子学への反発として古学回帰の中で実証主義の一つとして人体解剖をしようという流れが出てきたなど、それ自体としてもたいへんおもしろい話が多く、専門外の講演会に紛れ込むのも悪くはないなと思った。
 が、実はもう一つ思惑があった。
 長くなるが『一海知義著作集』第10巻(藤原書店2008)の月報4の拙文を引用する。
数年前、体調が悪くなりどうしても止められなかったタバコが吸えなくなった。検査を受けると、精密検査が必要ということになった。後日家族には内緒で、このまま即入院、帰らぬ人となるであろうと覚悟し、好きな音楽や落語をMDに編集し、本をつめ、まるでホームレスのおじさんのような荷物を持って病院に出かけた。しかし、検査は数時間で終わり、後日簡単な手術をするからと日時を指定されただけのあっけないものであった。平日であったが休暇をとっていたし、検査のため前日は禁酒。そこで昼間からビールを飲んで赤い顔をして、フラフラと梅田から阪神電車に乗った。そこで先生にあった。胃癌の手術をされた直後で10キロ痩せられていた。「無胃の人生」になったと笑っておられた。10キロ痩せるというのは、見た限り壮絶なもので、正直なところ、幽界に行かれるのも遠くないと思った。私が下車する芦屋まで二十分ほどの間であるが、手術時の麻酔で「譫妄(せんもう)状態」になる可能性があるため誓約書に署名したこと、最近は傷を糸で縫合するのではなくクリップで固定するので「抜糸」ではなく「抜鉤(ばっこう)」というが、その「譫」と「鉤」が仮名書きであったことなどを語られ、「きみ、医学用語の論文を教えてくれないか」と尋ねられた。
 後日談であるが、数ヵ月後妻がまた偶然阪神電車で一海先生とお会いしたという。先生は電車の座席でも胡坐をかかれることが多く、電車はかなり混んではいたが、二人掛けのシートの先生の横だけが空いていたそうである。先生の近寄りがたいオーラと胡坐のせいであると推察されるが、妻は先生と認めて横に座り話をしたという。胃癌の手術で10キロ痩せて、11キロ太られたそうである。やはり並の人ではない、その後も旺盛な執筆活動をされている。
 一海先生とは、長く職場が同じで、教授会などで席が横になると、何か質問される。例えば、アンパンマンには恋人がいるけど、孫悟空にはいない、なぜか? と予断を許さない。もちろんご下問を私が忘れるわけはない、しかしうかつな答はできない。医学用語についても、あまりお答えできていない、そういう思いもあって、講演を熱心に聞いた。繰り返しになるが、たいへんおもしろく、医学研究者がほんとうに真剣に研究・治療に取り組んでいることにひどく感動した。私だって、真剣にやっているつもりではあるが、人さまの命を預かるという医学の使命感と、中国人は家庭内で家族同士“谢谢”と言うかどうかといった最近の私の問題意識とは、残念ながら、やはり迫力が違う。
 さて、医学用語であるが、驚いた、漢語のオンパレードである。もちろん中国医学と西洋医学の結合といったことが講演会のテーマであったことは割り引かなければならないが、それにしてもたいへんなものである。以下私のメモから抜き書きしてみる。一部中国語も混入しているのがおもしろい。また語釈は私自身のもので間違っている可能性もある。
  白色皮膚描記症:かゆみなどで赤みをおびた皮膚を掻いて、掻きあとが白い線となって残る症状。
  寛解:症状が軽くなること「増悪」の反義語として使用されていた。
  限局:症状などがある部分に限定されること。
  加強される:強められる(現代中国語と同じ!)
  至適濃度:薬物などの患者に最適な濃度。
  丘疹:ヒフにできるブツブツ(現代中国語でも用いる)。
  痂皮(かひ):かさぶた。
  離解:縫合したところが離れれてしまうこと。
 まだまだあったがこれくらいにしておこう。
 最後に「免疫」の話。「免」は「免除」、「免疫」は「疫病を免れる」ことで「免税、免責」と同じ。現代中国語では“免费(ただ・無料)”が活躍する。また、“免单”というのは、レストランなどで何らかの事由により支払が免除されること。
 詩人の谷川俊太郎氏(『日本語と日本人の心』岩波現代文庫)が指摘するような漢語の根無し草的な実体感のなさが、かえって冷静さを求められる医学の世界では、漢語がフィットするのであろう。

Vol.28 柿かトマトか? (2013年7月26日(金))
 2年生の中国語のテキストに“落日好像是熟透了的大红柿子”という中国語が出ている。学生が、連体修飾語の中の“了”は省略すると習ったが“透了”の“了”は省略できるのかと、質問してきた。
 ちょうど、大学院の授業で“了”について話が及んでいたので、この例文を紹介したところ、私の「夕陽はまるで熟したまっかな柿のようだ」という日本語訳に、思わぬ指摘が中国人受講生から出た。ここの“柿子”は「柿」ではなく「トマト」だというのである。夕陽を果物に喩えるなら柿だろうと思いながら聞いていると、もう一人の中国人受講生も“大红”とくれば「トマト」だと主張する。
 80年代北京に長期滞在していた折、熟柿が手に入ると、夜間、窓の外に出しておき、凍らせてシャーベットのようにして食べたものだ、私はその柿“冻柿子”だろうと思いこんでいた。
 何人かの中国人に確かめたが、おおむね南方の中国人は柿だと言い、北方の中国人はトマトだという。ウエッブで“大红柿子”と入力すると,たしかに柿の写真もトマトの写真も出てくる(“大红柿子”というブランドの柿もあるらしい)。
 我々はトマトは“西红柿”と習ったが、中国語ではトマトも“柿”という上位概念でくくられる同カテゴリーのものなのであろう。サクランボ“桜桃”やクルミ“核桃”が“桃”というカテゴリーに属するのと同じことである。おそらく北方中国では、柿がなんらかの理由で食されることが減り、馴染みの薄いものになってしまった。それに伴い、トマトが“西红柿”という、いかにも亜種のような名前から“柿子”という本流の名称で呼ばれるようになったのであろう。
 学生時代欧米のタバコを「洋モク」と称してありがたがっていたことを思い出した。

Vol.29 愛の結晶 (2013年8月27日(火))
 このコラムにも何度か登場している言語学者の井上優さんが、『相席で黙っていられるか―日中行動比較論―』を岩波書店から出版された。その「あと書き」に、私の『漢語からみえる世界と世間』(岩波書店2005年、岩波現代文庫2013年)の続編という性格を有する、と書いておられる。同書にはこのコラムも含めて何度か私の書いたものが引用されている。今後、私も授業や書きものなどで何度も引用することになると思う。個別的な問題は、おいおい語るとして、私の全体的な印象は、似たような問題を扱っていても、井上さんのほうがより正解に近づいていることは間違いないということである。是非一読をお勧めする。
 私が中国語学を専攻すると恩師に告げたとき、恩師はすかさず「中国人と結婚しなさい」と言われた。時期遅しでそれは実現しなかったが、中国語の語感のない私は、問題に出くわすたびに中国人の友人や留学生に電話やメールでたずねる。なんとも効率が悪い。そんな時に、恩師の忠告を思い出す。半分以上負け惜しみであるが、井上さんの奥さまは中国人である。それも、井上さんのくどいとしか言いようのない質問・疑問に徹底的に向き合い、応じておられる。
 我々言葉の研究、しかも現代の言葉の研究を生業としているものは、はなはだはた迷惑な存在である。このコラムでも登場したことのある言語学者のSさんとは、長く研究室が向かい同士であった。彼が「すごいことを思いついた、聞いてくれ」と私の研究室にとび込んで来てことは数え切れない。その内容は、アニメ『巨人の星』の主人公星飛雄馬の友人で捕手の伴 宙太(ばん ちゅうた)は、中国語の“幇助他”からきたのではないかというたわいもないことから、ほんとうにすごいことまであって、とても書き切れるものではないが、私だってしなければならないことがあって、いつもいつもSさんと付き合ってはいられない。ある日、「すごいことを思いついて、家内に聞いてくれと言ったが、家内はこれから病院に行かなければならない」と言うので、代わりに聞いてほしい、と言ってきたことがある。真偽のほどは確かではないが、S夫人がほんとうに病院へ行ったのか、それとも公園のベンチにでも退避をはかったのか、私ははなはだ疑わしいと思っている。私も何度か経験があるからである。たとえば「何時よりも」と「何時もより」はどう違うのか、そして「何処よりも」は言えるのに「何処もより」はなぜ日本語としておかしいのか、家族に日本語の語感を確かめながら話していると、一人去り、二人去り、結局誰もいなくなってしまう。国際結婚をした娘の子供は英語も日本語も不自由なくしゃべるが、その孫たちに英語のことを根掘り葉掘り聞く。最近は5歳になる孫も、私の質問にうんざりした様子をあらわにし、逃亡のチャンスを伺う、聞いてくれるのは2歳の孫だけである。ことほど左様に、我々は「どうでもいいようなこと」にネチョネチョと考える。そういう意味でも井上夫人の忍耐には限りない敬意をおぼえる。同書はすぐれた日中対照論であるとともに、愛の結晶でもある。

Vol.30 立命館孔子学院顧問 竹内実先生を悼む (2013年9月27日(金))
 昨年まで立命館孔子学院顧問をつとめていただいていた竹内実先生が逝去された。ご遺族のご要望もあり、立命館孔子学院としては公表しなかったが、すでにマスコミでも報道されており、竹内先生を悼む文章もいくつか目にするので、あらためて立命館孔子学院を代表して、謹んで哀悼と感謝の意を表させていただきます。
 一昨年の暮、先生から孔子学院顧問辞退のご意向が伝えられた。すでにパンフレットなどの印刷も終盤にきていたので、電話で先生に事情をご説明したところ、「あなたの思うようにやりなさい」と言っていただいた。
 先生には北京大学と立命館孔子学院と共同編纂している中国語教科書の顧問もお願いしていた。先生は、名ばかりの顧問ではなく、あたたかくもきびしいご助言をいただいていた。
 修士課程の学生だった頃、先輩の中国文学者釜屋修氏から、中国の「文化大革命」について書かれた竹内先生の文章のコピーを、読んでみたらといただいたことがある。釜屋修氏も本年2月に逝去された。釜屋氏は、政治的立場の明確な人で、早くから「文化大革命」に対してきびしい見方をしておられたが、その釜屋氏からみても、中国に愛情をもちつつも、批判的な見解を示しておられた竹内先生の書かれたものを、後輩に勧めるべきだと思わせるものがあったのだろう。
 先生のご関心はひろく、現代中国文学のみならず、古典にも及んでいた。孔子学院では、古典講座をはじめさまざまな講座をご担当いただいた。
 先生の書かれる奔放で力強い字、するどい眼差し、北京の街を飄々と歩かれていたお姿、どれもこれもまだ生き生きと目に浮かびます。
 竹内実先生、ありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。