中川正之前学院長による「ちょこっと話しチャイナ」バックナンバーVol.31~最終回


Vol.31 中川先生在難中 (2013年10月26日(土))
二年生の中国語テキストに葉聖陶の「潘先生在難中」という短編を選んだ。よくできる学生が集まっていることと、長さが適当であること、作者が「童話作家」と言われているので、難しいかなとわないこともなかったが選んでしまった。
 次のような一節にぶつかった。駅の雑踏の描写で様々な人がいるが、ここでは“潘先生”のことのみを述べるというくだりである。
    单讲一位从让里来的潘先生。
 この文を見た瞬間“让里来”を“让潘先生进来”と読んだ。しかし、潘先生は今、汽車からプラットホームに降り立つところである、だから「中に招き入れた」はおかしい。そこで、抽象的に「話題の中に取り入れた」ではないかと思った。しかし、そう読んでも“从”が字余りになる。字余り状態は、文の構造を理解できていないときにしばしば起こる。
 答は簡単であった。“让里”は地名である。“里”は地名に用いられることが少なくない。
 そこで教訓を一つ、前後から、あるいは漢字の個々の意味から、全体の意味が読みとれないときは固有名詞である可能性を考える、ということである。かつて“维特式恋爱”が読めずに困ったことがある。“维特”はゲーテの『若き日のヴェルテルの悩み』のヴェルテルのことであった。“卡,斯”のように外来語によく用いられる字があるときは、すぐに検討がつくが、漢字の意味を読みとってしまって、袋小路に入ってしまうことがある。いつまでたっても中国語は難しい。

Vol.32 実業と虚業 (2013年11月26日(火))
私は7月7日七夕の生まれであるが、子供のころから宇宙の話は嫌いだった。無限という言葉を聞いただけで精神不安に陥っていた。かといって、スポーツや芸術に才能がないこともかなり若い頃から分かっていた。だから日本語や中国語の細かな問題を何十年も考え続けることになったのは必然だと思っている。日本語の「これ・それ・あれ」の使い分けのラインは何メートルくらいに引けるかなどを考えるほうが性に合っているのである。
 ところが、10年ほど前にシンガポール⇒オーストラリアのパース⇒バリまでの船旅をしたとき、甲板で星座講座があって、面白いなと思った。船員がサーチライトを使って星の名前など天体の話をしてくれるのである。天の河をMilky wayというのが納得できた。ほんとうにミルクを流したような白い帯が天空を走っていた。数字は間違っているかも知れないが、天の川の幅は7光年あって、年に一度の天の川を渡ってデートをするという牽牛と織女の話はあり得ないということを知った。それ以後、天体や宇宙の成り立ちに関するテレビ番組を見るようになった。ヒックス粒子の発見には興奮した、それと同時に、言語学でやっていることも素粒子などの学問も基本的には似ているところがあると感じるようになった。違いは、対象のサイズである。

 私は教師以外の仕事に就いたことがない。初心者に中国語を教える時には、学生が上達することに確かな手ごたえを感じ、それなりの充実感があったが、言葉についての理屈を考えること、これは好きではあるが、世のためにはなっていない、典型的な虚業であると思う。虚業という言葉がどれほど流布しているのかは知らないが、実業(界)とは両極にあるものと理解している。
 前置きが長くなったが、『地方で生きる 地方を生かす 技術は中小企業の飯の種』(日刊工業新聞社2013)を、たいへんおもしろく読んだ。著者の鎌倉國年氏とは、時折メールを交わすくらいで面識はない。ご本人は「アルミ屋です」と言っておられる。私はアルミサッシなどを作っておられるのだろうとくらいにしか思っていなかった。   
 ところが、今回の著書の中に、要約すると、東京スカイツリーの心柱(375メートルのコンクリート製)と避難階段を結ぶ出入り口の「免震エキスパンション」を担当した、とある。それは、列車と列車の連結部のようなもので前後左右上下の変化に追随する連結部を守るものらしい。普通のエキスパンションと違った条件は、30年間に200ミリメートル沈下すること。コンクリートが固まる期間は30年と言われていて、固まるまでの収縮率が0.05%程度だそうだ。心柱375メートルだと約200ミリメートルになる。さらに完成時はコンクリートが若いので、最初の10年で予想収縮分の八割程度短くなり、その後20年間に残り2割が収縮して……。という世界で生きて来られたのである。「これ・それ」の違いとは質が違う。まさに実業の世界である。奥付によると著者は1944年生まれ。1977年鎌倉産業(株)を設立し、代表取締役。2013年特別顧問。著書に『鎌倉産業技術史考』『アラ還で味わう中国の詩文』『迷いの時代に』など、とある
 私より一歳年長であるが、生きてきた時代は同じである。しかも、著者の中国文化に対する関心はなみなみならぬものがある。今回の著書は、著者(大学では経済を専攻された)が、今の業界で生きてこられた体験から文明論にまで及ぶものである。紹介したいことはたくさんあるが、技術が育つ環境の米・中・日比較が面白い。これも要約すると、中国は歴史上の三大発明(火薬・羅針盤・活版印刷術)をしながら、その技術は別の大陸で発達した。中国では偉大な発明も珍奇さのみが喜ばれ、その価値は低い、ことを指摘されている。私の師匠とでもいうべき言語学者の橋本萬太郎先生がアメリカで長く過ごされた体験から、なぜ中国はキラ星のごとく天才がいたのに理論が発達しなかったのか、と何度も口にされていたのを思いだす。橋本先生は言語類型地理論という壮大な考えを示されたが54歳で逝ってしまわれた。
 さて、鎌倉氏の著書は、題名のとおり、地方の中小企業が生き残るためには、技術が必要であると説くとともに、地域貢献や社員の家族的関係にまで話は及ぶのであるが、誰もしないところ、つまり隙間(ニッチ)に活路を見いだす重要性を言う。私も、進路の相談に来た学生に、ブームになっていることを始めても、大抵の場合、時すでに遅しである。だから誰もやらないようなことを身につけ、セールスポイントにするべきだと力説するのであるが、実はニッチを見つけるのが難しい。私は長く大学のアメリカンフットボールに関わってきたが、このスポーツは要するに、相手のいないところ、つまり隙間にボールを持って前進する競技である。ところが、人間というものは、どうも人のたくさんいるところに行ってしまう傾向がある。だからこの競技では、隙間を狙って突っ込む練習を繰り返す。また、始めて5年以上になるヨガでは、頭で重いものを支えるとき、人間は自然に一番適切な姿勢をとる、などと人間が本来もっているものを思いださせようとする。相手のいる競技と、自分一人のために行うヨガでは、違うところがあっても当然であるが、人間は本来最適な方途を選ぶのか、それとも逆に、訓練しなければよくない方向に進むのか、大きな問題である。私は孟子の性善説と旬子の性悪説も結局はこのような問題であると思っている。ニッチを見つけて相手を攻撃することの大切さは孫子や呉子の兵法にも述べられている。五輪書には、剣で戦う場合、手だけが先に出て腰が引けてしまうことを戒めている。私自身は、人間は学習しなければ最適な方途を見出せないという立場である。まだ編集者からゴーサインは出ていないが、次の本は『日本語性悪説』というタイトルにしたいと思っている。
 長くなってしまったが、最後に鎌倉氏の著書からの一節を引用する。 ――中小の製造業ではよく「我が社は言ってくれれば、どんなものでもつくってみせる」というが、本当のポイントは「ハウツー」ではなく、何をつくるかという「ホワット」なのである――
 私は、言葉の教師は、「ハウツー」を教えるのであるが、研究者になるためには、そこから何故そう言うのか、つまり「ホワイ」が大切であると口癖のように言っている。これが実業と虚業の差である。我々の業界では「なぜでしょう?」で終わる。それで鋭い問題提起と評価されることもある。
 著者の鎌倉氏のご令嬢は、立命館孔子学院での私とのトークショーにも一度来ていただいたNHKアナウンサーの鎌倉千秋氏である。現在NHK BS1の平日10時からの「ワールドWトゥナイト」のキャスターをしておられる。私はこの番組を見てから寝ることにしている。もちろん中国語は堪能であるが、国連の取材でインタビューしておられるところが放映されていたが、英語も達者なものである。立命に来ていただいてから彼女の番組はなるべく見るようにしているが、マスコミ人として成長されているのが我がことのようにうれしい。
 私にも娘がいるが、こういう子供を育てるのにはどうしたらいいのか一度聞いてみたいと思っている。こういう親に育てられれば、こういう子供が育つのかと、今回しみじみと思った次第である。それを「この親にして、この子あり」と表現すると、逆の意味になって、親子をけなしていることになってしまう。何故だろう?「蛙の子は蛙」、「鳶が鷹をうんだ」、「瓜のつるにナスビはならぬ」、いずれもプラス評価の表現にはならない。日本語性悪説という本を書きたい所以である。

Vol.33 食在同済 (2013年12月25日(水))
同済大学のコックさんたちと食事をする機会があった。麺を手打ちで髪の毛ほどの太さにまでのばすという得意技を持つコックさんに、その技術を習得するのにどれくらいの時間が要るのかと聞いた。“聪明的话,一个星期就学会了”と答えられた。こういう領域にも“聪明”を使うらしい。さらにもう一つ、こういう場合、中国人は短めに答えるという以前からいだいていた思いを強くした。京都の和菓子職人だとこうはいかないだろう。「まぁ、小豆こねるのに5年ドスナ」というようなことになる(と思う)。
 飛行機で隣り合った中国人に「中国語上手だね、何週間やったの?」と聞かれたこともある。中国語の勉強を始めて10年以上過ぎた頃であった。NHK教育テレビで専門家が、インド人は悟りをひらくのに岩の上に何年も座り続けるが、中国人は3秒くらいで悟る、と言っていた。
 コックさんたちは、初めての海外ということもあり、かなり緊張しておられたが、食事がすすむにつれ色々な話をした。中でもおもしろいと思ったのが、上海では「玩在复旦,住在交大,吃在同济,爱在华师大,穿在东华」というような言い方があるということだった。後で調べてみると色々なヴァリエーションがあるが「吃在同济,爱在华师大」はどれもほぼ一致していることがわかった。同済大学の学生食堂はおいしいものを提供するという定評があるらしい。
 「爱在华师大」は、恋愛するなら華東師範大学ということであるが、これは教育系の大学には女子学生が多いことに由来するらしい、男目線の表現である。
 これらは言うまでもなく、「生在蘇州,穿在杭州、食在広州、死在柳州。」に擬した表現である。なぜか日本では「食在広州」だけが用いられる。
 「死在柳州」には思い出がある。20年ほど前、筧久美子先生から柳州土産ということで棺桶のミニチュアをいただいた。キーホルダーにでもつけるようなもので、蓋をスライドさせて爪楊枝くらいなら収納できそうなものである。蓋に「升官发财」と書いてある。国家公務員になって偉くなり、お金が貯まりますように、ということであるが、ある中国人によると「棺材(棺桶)」は「灌财」に通じるからいいのだと言う。お金が流れこんでくるという意味であろう。なぜ、死ぬのに柳州がよいかといえば、柳州が棺桶の材料に適している楠の産地だからである。楠は腐食しにくいそうである。中国人は棺桶にお金をかけるという話は前からしっていたが、そのミニチュアを土産物にするという発想がおもしろい。このミニチュアを中国人に「棺桶」と言って示すと、おおむね北方中国の出身者は顔をしかめ、南方出身者は、おもしろがる。その反応の違いもおもしろい。

 年末の話題に「棺桶」はどうかなとも思ったが、来年こそ「发财」できますように。

Vol.34 馬上の象 (2014年1月25日(土))
明けましておめでとうございます。

 午年である。中国の友人からlineで、ぬいぐるみの馬に大小2頭のぬいぐるみの象がのった写真が届いた。中国は午年でこういうものが流行っているが、意味が分かるかと書いてある。元日から頭を悩ませた。「馬の上に2頭の象」、まず“马上(すぐに)”だろうと見当はついた。しばらく考えて“马上有大祥”と苦しい答えを送った。“象”は第4声であるが、“祥”第2声であることが気になったが「すぐにもたいへんめでたいことがある」とこじつけたのだ。折り返し「違う」と返事が来た。長く教師をしている者にとって正月は年賀状の返事を書くことでほとんどの時間が費やされる、それ以外にあまり時間をかけたくないので、「分からない」と白状すると、“马上有对象(すぐに恋人ができる)”だと正解を教えてくれた。
 すこし文法的に説明すると、“马上有一对象”の“一”は動詞のあとなので省略されて“一对象(一対の象)”が“对象(恋人)”になったのだ。おもしろいと思って、何人かの友人に送ってみた。日本人は全員分からなかったが、中国人は、しばらく考えると正解を思いつく。
 つづいて、ぬいぐるみの馬に札束がのった写真が届いた。これは“马上有钱(すぐにお金がはいりますように)”ということだとすぐに分かった。もしこちらが先に届いていたら、馬上の象のほうも分かったかも知れない。
 Line仲間の若い女性は「はやく恋人ができますように」という願いをこめて、この馬上の象を待ち受け画面したそうだ。ネットで調べてみると、“马上有宝宝(はやく赤ちゃんができますように)”など似たようなのがいっぱいある。中国人はこういう遊びが好きだ。しかし穿った見方もあった。“马”は“跑(走る、逃げる)”するものだから、馬上の象は、「すぐに恋人が逃げる」とも読めるというのだ。line仲間の女性には、このことは知らせていない。今年もいいことがたくさんありますように祈るのみである。

Vol.35 家族愛と人類愛 (2014年2月26日(水))
30年ほど前、前任校で車椅子の必要な学生のためエレベータの設置が検討された。改築予定のある古い校舎ということもあり若干の異論が出された。ある教授が、人間はすべて多かれ少なかれ障害を持っており、程度の差にすぎないので、「障害者」だけを特別扱いすべきでないと発言したことを今でも覚えている。私の専門である言語学でも、程度の問題と見るのか、異なるグループと見なすのかがたえず問題になる。おそらく人文科学系の多くの学問でその種の問題が存在するであろう。そういう意味では教授の意見は、一つの見方としてあり得ることは認めるが、決定的な間違いがある。独力で階段を登れるものと、人の助けなしには登れないものとは、少なくとも上下移動に関しては一緒にしてはならない。
 3人いる孫のうちの一人が重い障害を抱えており、人の助けなしには一日も生きて行くことができない。ありがたいことに、この世には他人であっても助けてやろうと申し出てくださる人が少なくない。これは人間のもっとも善なる点であると思う。今世間を騒がせている「全聾の作曲家」が報道されるとおり騙りであるとしたら、障害者に対する侮辱であるのみならず、人間の善なる部分につけこんだという意味で悪質である。
 障害を抱えている孫の父親(以下「婿」という)は台湾系アメリカ人で、母親は私の長女であるが、2人ともプロテスタントで、長くロサンゼルスに住んでいた。4年前に私の妻の援助が欠かせなくなり、一家三人わが家の近所に移ってきた。父親が日本語をまったく話せないこともあり、長女夫妻の交友はプロテスタントのアメリカ人が多い。私自身、何度かロサンゼルスに行ったことがあるし、長女の結婚式などでプロテスタントの人々と話すこともあったが、教会に行こうと思ったことは一度もない。それにアメリカ西海岸の大らかさと言うべきか雑と言うべきか、要するにアメリカらしさがどうもしっくりこない。
 しかし、彼らを見ていて一つだけ、これはかなわないと思うことがある。信仰の故かどうか定かではないが、あかの他人の子供である障害児を養子としてむかえ育てている人たちが少なくないことである。
 このことをあるところで話したところ、聞いていた中国人留学生が、それは認めるが、その反面としてアメリカでは家族愛が希薄であると言った。
 立命館孔子学院主催の講座で中国人の先生が、中国で汚職が横行している理由の一つは、やっている本人は、私利私欲ではなく、家族・親類縁者のためにやっているという意識が強く罪の意識が希薄である点にあると指摘されていた。
 この種の話は、例外が多く決めつけることはなかなか困難なのであるが、あえて言うと、儒教文化が家族愛や忠君のように凝縮していくのに対して、キリスト教は人類愛へと普遍化していくという違いがあるように思える。
 婿は、それはそれは敬虔なキリスト教徒で一緒に食事をするときも、主への感謝の祈りをすることになっている。孤児院を訪問するときは大量の土産を買う。しかし、あるとき婿に、君の人生の目的は何なのかと聞いたところ、彼は即座に大富豪になることだと応えた。それを神に祈るのか?と聞いたところ、祈りはするが、それは中国の神様にお願いすると応えた。アメリカ文化に由来すると思われるこの種のジョークにはついていけないところがあるが、幾分かの本心ではあると思う。
 人間は自己の生命を保持するために持てる善意をすべて他人に分け与えることはできない。しかし、その善意の用い方には、個人差、文化差があるということであろう。

Vol.36 「角」と「股」 (2014年3月26日(水))
立命館で私が担当していたクラスの5名の学生たちのライン仲間に入れてもらった。やり取りを見ていると、勉強も、アルバイトも頑張、楽しむときは思い切り楽しんでいる様子が伝わってくる。できるだけ邪魔をしないようにしているつもりだが、言葉の話題になるとどうしてもしゃしゃり出てしまう。たとえば、中国語大好き学生のO君が、「五角形」は中国人によると星型のことで、将棋の駒のような形は“五辺形”と言うそうだなどと書いていると、もういけない。米国のペンタゴンは中国語で“五角大楼”というはずだがなどと、私の「あーでもない、こーでもない」スイッチが入ってしまう。
 昔、ある言語学者に、中国語の“角落”は内側から見た隅ではなくて、外側から見た尖った部分であると書いてあったが、本当なのかと聞かれたことがある。ネイティブに確かめ、「違う」と答えたこと、『中国語学習Q&A101』(大修館書店)に「股」のことを書いたことを思い出した。その後、中国人留学生のZさんから、「岐路」は日本語では「人生の岐路」のように、分かれ道を前に迷う地点であるが、中国語ではすでに踏み外した脇道であることを教えてもらった。
 日本語の「股(また)」は、人間であれ、樹木であれ、Y字型になった真ん中の線が交わっている部分を指すが、中国語では助数詞として“一股冷気”のように用いる。真夏にパチンコ屋の前を通ると冷気が顔にあたることがある。それが不思議であれこれ考えたものである。中国人に、「あなたの「股」はどこですか? 指さしてください」というと、お尻“尻股”か、大腿部を指す。大腿部のイメージと助数詞“股”は、重なるようである。日本語でも「ふともも」とワープロに打ち込むと、「太股」と変換される。これは大腿部のことであろう。気になっていたのは、中国語では、Y字の中心部からやや下にずれることである。ただし、日本語でも「二股のソケット」は、「股が二つ」ではなく、大腿部に相当する部分が二つ、つまり「二つに分かれる」と言っているというようなことがあるが、中国語の先のほうにずれるという傾向は、“脚”にも見られる(中国語では脛の部分よりも下にずれて靴を履いたとき隠れる部分を指す)。このようなずれとともに、もう20年ほど、物を内側から見るか外側から見るかについて考えている。だからO君の指摘は気になる。O君たちのクラスの最後の授業(2014年1月)では、この問題を話した。それから一か月経つが、まだ考えている。「三角形、四角形、五角形……」は日本語として普通であるが、「四辺形」を除いて「辺」は用いない。四辺形と言うのは「平行四辺形」があるからだろう。
 星型か駒型について、英語ネイティブで理系の婿にたずねた。五つの突起をもつ星のことはfive point(s) starと言うらしい。また、「角」や「隅」にあたるcornerは内角で、180度未満であるという。三角形でも六角形でも、すべての辺の中ほどを内側に折れこませると星型になる。しかし、そうなると「角」の数、辺の数とも倍になる。五角形をコマ型でなく、星型に捉えるのは、いずれの角も180度未満と考えていることが基本にある。人間は引っ込んでいるところより出っ張りのほうが気にかかる。角をK、辺をHとすると、以下のように一般化できる。
    駒型タイプ K=H    星型 2K=H   但し K<180度
 ただし、Kの数が多くなればそれは星型とは言わないであろう。     
 衣笠の立命館から孔子学院に向かう通用門を抜け、東に数十メートル進むと道が十字に交差している。そこに「四つ角……」と書いてあるのが目に入った。忘れないように立ち止まってメモをする。そしたら「机の角の腰をぶつけた」が思い浮かんだ。そうか音読み「カク」は内側の視点、訓読み「かど」は外側からの視点か、と気づく。もうすぐ会議が始まるのに、「あーでもない、こーでもない」モードに入ってしまう。もうやめよう、読者諸氏もうんざりされていることだろう。
 この文章は大相撲初場所をテレビ観戦しながら書いている。アナウンサーが大関稀勢の里を「かど番大関」と言っている。この「かど」は「角」なんだろうか?相撲の稽古で、「股割り」というのがある。この「股」はどこを割るのか? 
 当分「股と角」から抜けられそうもない。春の日差しの中、空ろな目をしていたり、路上で立ち止まっている私は目撃された場合は、「また股のこと考えてる」とか「まだ股のことを考えてる」と思って見過ごしていただければ幸いである。

追:同済大学の汪麗勇氏が任期満了で帰国される。このコラムの企画立案者であり、名付け親でもある事務局の村田敦子さんがこの3月で退職され高校で英語と中国語を教えられる。村田さんの最後の担当に「股」のことを書くのかと自分でも思わないことはないが、これはこれとして、お二人の今後の更なるご活躍を祈っております。

Vol.37 興膳宏著『杜甫のユーモア ずっこけ孔子』(岩波書店2014年) (2014年4月26日(土))
立命館孔子学院の古典講座でも何度かお話いただいた興膳宏先生が4冊目のエッセイ集を出版された。興膳先生といえば中国古典文化の研究で知られるが、フランス語も堪能であり、落語好きでも知られる。この本は、杜甫・李白などの詩人、孔子・荘氏などの諸子百家はもちろんのこと日本文学に話題が及び、先生の博覧強記とユーモアが楽しめる。とくに落語と中国古典との関係、荘子をもとにした創作「落語」が楽しい。
 個人的には次の点が印象に残る。
・陶淵明の故郷といわれるところを訪れられた話はほのぼのとしていて、この詩人に対する先生の思いの深さがしみじみと伝わってくる。
・先生が院生であったころ鈴木虎雄の蔵書目録作成のために阪急電車相川駅の近くに通っておられたことがあるらしい。私は先生より九歳年下であるが、その頃相川駅の近くに住んでいて、勉強もせずに友人とその辺りをうろうろしていた。友人の人形屋の息子が、かわいい子を見つけてきて教えてくれるのであるが、それがさすが人形屋の息子と思わせるほど目ざとく「はずれ」はなかった。友人の見つけた子を捜しに行くのがうろうろしていた主な目的であった。今ではストーカーということになるのかもしれない。目的はまったく違うが、ひょっとしたら先生と顔をあわせているかもしれない。阪急電車に乗っていると、今でも人形屋の看板が車窓から見える。
・前院長の筧文生についてこんな記述がある。
 当時の先輩がよくいっていたが、「筧(文生)と今鷹が来て、中文の学生の質があがった」とのことである。(「今鷹真との交友」)
 「中文」とは京都大学の文学部中国語学・中国文学科の短縮語のことである。揚げ足取りになってしまうが、上記のエッセイのすぐ前に「短縮語のいやらしさ」が収録されている。私は個人的に「目線」などの湯桶読みが好きではない。しかし、現在では「視線」と「目線」は意味分担が違っており、仕方なく使っている。興膳先生のこのエッセイは「キムタクをキムチとタクアンの短縮後と思っておられたという、木村拓哉ファンがずっこけそうなオチになっている。
 私は言語学をやっているので、木村拓哉が「キム・タク」で、かつてのアイドル後藤久美子が「ゴ・クミ」で、テレビドラマの「のだめカンタービレ」の「のだめ」が「のだ・めぐみ」の短縮語であることが気になる。大阪梅田の紀伊国屋から御堂筋方面に向かう、地下街に「プチ・シャンゼリゼ」という短い通りがある(あった?)。その通りの入り口に「プチシャン」と書いた看板が掲げてあった。フランスを模して洒落た雰囲気を出そうとして名づけたはずなのに「プチシャン」はないだろうと思うのであるが、私にはなぜこの短縮語が大阪的に感じられるのかが気になる。

 この本を最初から読んでいくと、途中で急に講演調の節がでてくる(「杜甫のユーモア」)。巻末の初出一覧を見ると「立命館孔子学院、2011年3月」とある。ここで初めて、先生がこの本を孔子学院にご寄贈くださった意図が分かった。ありがたいことである。
 いただいた本書は孔子学院の図書館でひろく閲覧に供することにします。講演をお聞きになった方も、そうでない方にも一読をお勧めする、というより是非購入され、折に触れ読み直されることをお勧めしたい。
 興膳先生は、昨秋事故に遭われいまなお入院されている。退院される日も近いと聞くが、一日も早くご健康を回復されることを祈るのみである。

Vol.38 月と星 (2014年5月27日(火))
宇野木洋さんと二人で担当している大学院のゼミに台湾の絵本作家幾米の研究をしている学生がいる。彼の作品“月亮忘記了”を全員で読んだ。少年と月の友情を描いたもののようであるが、作者の表現したいことがまだまだ読み込めていないという思いがしている。
 月が登場する中国の小説は少なくない。老舎の中国版「女の一生」ともいうべき“月牙儿”や茹志鵑の短編“百合花”も月が重要な役割をしている。
 どこで聞いたのか、読んだのか忘れてしまったが、月を見ると、同じ月を故郷の父母たちも見ているだろうという思いがつのることから、家族団欒の象徴とされる。これは日本も中国も同じである。
 子どもの頃、中秋の名月の日には、ススキの穂を飾り月見団子を食べたものだ。また、夜道を歩く時、月を見上げて、「お月さまがどこまでもついてくる」というような会話をかわすのは日常のことであった。
 言うまでもなく中国では月餅を食べる。そして月をめでる。
 これも不確かな知識ではあるが、欧米では月をめでることはないらしい。何か不気味さを漂わすものとして月が出てくることが多いように思う。狼男と月は切っても切れない。ベートーベンの「月光の曲」やドビュッシーの「月の光」は、月そのものよりも、月明かりを起因とする思いや情景を連想させる。
 そんなことを考えながら学部学生の授業の折、下宿している学生に、月を見て故郷を思い出すことがあるかと聞いた。今までにも何度かたずねた記憶はあるが、今回の学生の反応には驚いた。月を見ることはほとんどないと言うのである。自然には興味がないの?と聞くと、星はよく見ると言う。
 クリスマスには星がつきものである。そして日本のクリスマスは、とくに若い人たちの一大イベントになってしまった。それに対して中秋節は、天気予報の際に告げられる暦上の節目程度に後退してしまったのかもしれない。
 菅原都々子が歌った ♪月がとっても青いから、遠回りして帰ろ♪ という台詞も、「もう少しあなたと一緒にいたい」という恋の囁きに理解される時代は遠くなったのかもしれない。

 最後に野暮な日中比較を。「月・星」を中国語でなんというか? “月亮・星星”が正解であるが、これは天上に輝く月や星のことであって、有人宇宙飛行で着陸するなら“月球・星球”と言うべきであろう。この天体には“地球”と同じようなものとして、“月球・星球”が存在しているということであろう。

月亮忘記了-Jimmyspa.com::幾米二三事::幾米的書

Vol.39 終活 (2014年6月26日(木))
もうすぐ誕生日を迎え69歳になる。いつの頃か、私は自分の寿命は75年と思いこんでいる。我が家系の女は長命で、私の曾祖母は夏目漱石と同じ年に生まれ、漱石の倍、100歳まで生きた。母も今年95歳になる。それに対して男はだいたい75歳までに亡くなっている。
 そこで終活を始めなければと思い至った。書き残したいことなど私にはそうあるわけではないし、書けなければ死にきれないというほどの執念もない。
 75歳以上存命するにしても、現在住んでいる高層マンションは30年以上も前に建てられたもので、段差もあるし、年寄二人だけで住むには無駄に広い。早晩年寄仕様の住居に移る必要がある。それには持ち物の大整理が前提になる。長く大学の教師をしていると書物がどうしようもなく増える。一昔前は、図書館に寄贈するという手があったが、今は受け入れ先がまずないと思うほうがよいとのアドヴァイスを先輩から受けた。若い友人たちに役にたちそうなものはもらってもらえると思っているが、そのためにはこちらであらかじめ仕分けしておく必要がある。
 私の場合は書物以外に音楽CDがかなりの場所を占めている。
 この春、手始めにCDの整理をした。整理と言っても、ハードディスクに移すのであるが、何百枚とあったCDが手のひらにおさまるサイズにまとまった。そこで初めてわかったのであるが、まったく同じCDが複数枚ある。まずこれを捨てることから始めればよいのであるが、まったく同じ中身でもジャケットが違うと未練が残る。まして中身や演奏者が異なるものを捨てるのはそう簡単なことではない。ハードディスクが壊れることを想定して、バックアップもとった。しかし、大半のCDはまだ処分できないでいる。それでも、私の音楽の趣味はかなり偏っているので、私がこの世にいなくなれば一挙に処分されることは間違いないし、私にも異論はない。
 問題は、書物である。これには時間がかかるだろうと、最近若い頃に読んだもので、自分の専門とは直接関わりのないものの整理を始めた。これがいけなかった。加藤周一、鶴見俊輔、鶴見和子などなど……手放す前にもう一度ざっと目を通してみると、どれもあだやおろそかにできるものではない。長くなるので加藤周一の『続羊の歌』(岩波新書1968年)の一節のみを引用しておく。

 ……。住めば都……いや、住むということは、そこで経験が蓄積され、相互に干渉して、あるときには過去の経験が現在の経験を強め、あるときには現在の経験が長く忘れていた過去の経験を浮かびあがらせ、そういう過程の全体が具体的な持続として感じられるということだ。

 言うまでもなく、中国語の“住”は「滞在する」が基本で、滞在時間の長短は問題にならない。私はかつて中国語の“告別、旅、住”などは「永久の別れ」か否か、時間の長短などは問題にならないこと、それに対して日本語は、そういうことが出来事の本質的な違いにかかわると書いた。それとともに、日本人は「世間」と「世界」と名付けるべき二つの領域を持っていることを指摘したことがある(『漢語からみえる世間と世界』岩波現代新書)。そのときイメージした、しかし十分描き切れなかった「世間のたたずまい」が、加藤周一の上の文章に見事に描かれていると感心したし、まだまだ考えなければならない問題があるような気がする。こういう魂のこもった本たちを、スペースがあるとかないとかで処分できるわけがない。棺桶の中まで持っていって行こう、いや、退職して時間ができたら全集を揃えたいなどと家族が聞けば卒倒しそうなことを思い始めている

Vol.40 第9回スピーチコンテストによせて (2014年7月26日(土))
立命館孔子学院主催の第9回スピーチコンテストが11月23日に行われる。
 回を重ねるごとに眼を見張るようなレベルの高さになっている。とりわけ昨年の高校生以下の部に参加された小学生のネイティブかと思えるほど流暢な中国語には圧倒された。
 私は中国語の勉強を始めて50年近く。英語にいたっては60年になる(高校の英語の教師をしていたこともある)が、中国語の少なくとも発音に関しては参加小学生に及ばない。私の6歳の孫は父親が英語母語話者で、話す・聞く能力については、もう完全に「参りました」状態で、英語の語感もあり、こちらがたじろぐことも少なくない。
 外国語の学習は残酷な面を持っている。まずセンスのいい人とそうでない人との差がある。残念ながら本人の責任ではないが、長い外国語の教師生活の実感である。それにもまして残酷なのが、言語形成期(諸説あるが多く見積もっても10歳代前半)に触れる機会がどれほどあったかが決定的である。作家の司馬遼太郎は25歳をすぎて外国語を学ぶのは、鶏が空を飛ぶ練習をするようなものだと言っている。若ければ若いほうが有利であることは間違いない。しかし、いくら中国語を勉強したくても条件に恵まれず、高校生や大学生になって、あるいは社会人になって始めた人もいるのが現実だ。
 本スピーチコンテストでは、遅く始めた人にも受賞のチャンスのあるものにしたい。たとえ発音がそれほど流暢なものではなくとも、努力のあとがうかがわれ、内容のある、心にしみてくるようなものをよしとしたい。これに関しては異論のあることは十分承知している、たとえばたぐい類まれなるセンスをした参加者が入賞を逃すこともあり得るかも知れないが、外国語としてコツコツと中国語を勉強している人を励ますのが本スピーチコンテストの主な目的であるということにしたいと思う。
 また高校生以下の部の「漢詩暗唱」はとりやめ、スピーチの内容に関する簡単な質疑応答に変えた。もちろん中国語による質疑応答である。たどたどしくてもよい、自分の言葉で何かを伝える姿を期待している。

Vol.41 「あお」の話 (2014年8月26日(火))
最近、また日本語における漢字の使い分けのことを考えている。「打撃」という漢語は、いずれも「うつ」という意味の漢字が並んでいるが、日本語ではどう使い分けているのか、といったことである。
 私の語感では「撃つ」は、飛び道具を使った感じがする。しかし、こういう予断は、私の経験では多くの場合不完全なものである。中国語の並列二字漢語は「降下」のように、古い用法と新しい用法を並べることが少なくない。「殴る」場合でも「撃つ」を使うことはないのか?
 そこでノンフィクション作家沢木耕太郎が、カシアス・内藤という不運なボクサーに密着取材した『一瞬の夏』を読んだ。沢木耕太郎は私より3歳年下であるが、「はら」を「腹」でなく「肚」と表記するなどやや変わった漢字を好む作家であること、ボクシングを扱ったものなので「うつ」という表現が多く出てくるとあたりをつけたのである。しかし、ボクシングの撲り合いはすべて「打つ」であった。ただ、一発のパンチで相手をマットに沈める時には「一撃で相手を倒す」という表現をとることに気がついた。

 これで「打つ・撃つ」、さらには「討つ」の比較に没頭すればよいのであるが、悪い癖で、ついでに沢木耕太郎の『深夜特急』を読み始めてしまった。彼が26歳の時、1年2ヶ月にわたって、香港からロンドンまで寄り道をしながらバスを乗り継いで行った貧乏旅行記で、文庫本全6冊もある。同時期に同じようなところをうろついた経験を持つ私には感慨深いものであったが、それは別の機会に述べることにする。

 漢字の使い分けについては、以下のようなおもしろい例が見つかった。地中海の青さを描写した部分である。(以下下線は中川による)

   道はしばらく海から離れていたが、ひとつの坂を越えると不意に左手前方に輝くばかりの海が姿を現した。太陽の光をいっぱいに受けて、
   海水は何層にも色を変えている。青く、蒼く、碧い……。(新潮文庫『深夜特急6』79頁)

 今私は、自宅を離れたところにいて、出典などを確かめるすべがなく、おぼろげな記憶を頼りに書くことになる。「あお」に関して、まず杜甫の絶句が思い出される。

   江碧鳥愈白 山青花欲然  
   今春又看過 何日是帰年

 一海知義先生は、「江は碧、鳥は白、山は青」ときて、「花は紅」とせず「花は燃えるようだ」とシンメトリックを崩したところが杜甫の非凡さだと指摘され、吉川幸次郎先生は、「碧」はつまる音(入声)なので凝縮した「あお」、「青」は現代中国語でもqingとのびやかに発音されることからも分かるように拡散する「あお」と説明されていたと記憶する。

 沢木耕太郎が上記の旅行で持参したという李賀の詩集の中の一首に「恨血千年土中碧」という句がある。無実の罪で殺された人の恨みの血が千年経ってエメラルドに凝縮されるということであろう(陳舜臣の小説『玉嶺よ再び』この句を発端とした物語である)。
 日本語の「あお」は、「木が青々としている」のように「みどり」をも含むことはよく知られたことであるが、杜甫の絶句の前半を、意の儘にならぬ暗い境遇を描いた後半と対比させて、「川はエメラルドグリーンで、鳥はいやがうえにも白く、山は青く、花は燃えるように紅い」とひたすらカラフルな世界の描写と読むのが一般的であると思うが、私は「碧」にこだわりたい。「みどり」は「あか」の補色である。中国語世界では「緑を引きたてるために赤が、逆に「赤」を引きたてるために「緑」が描かれる。これは文学上の一つの手法になっていると言ってもよい。ここでは李賀が詠うように「碧」が「あか」つまり「血」を連想させるものであることが気になる。さらには「白」が中国語では「死」を意味するものであることも気になる。つまり、前半の二句はカラフルな自然を詠うものであるが、一方で遠雷のように不吉な予感がするものと考えたい。
 以上、文学にはまったく無知な素人の真夏のたわごととして読みとばしていただければ幸いである。

Vol.42 苦瓜 (2014年9月27日(土))
今月は「最美教師」について書くつもりであったが、それは次回に。

 自宅の狭いベランダに日よけを兼ねて苦瓜(ゴーヤ)の苗を二株植えた。台風でダメージを受けはしたが、10棵ほど実を付けた。朝、目覚めてベランダのカーテンを引くと実の太り具合を見る。種類が違うのか、スーパーなどで見かけるものよりぼってり膨らんでおり、なんとも可愛らしい。と言いながら、頃合いをみて食べるのであるが……。それでも、2棵見逃していて、黄色く色づいてしまった。このまま完熟させて、種子まわりの甘い果肉を味わうのも悪くない。しかし見れば見るほど可愛いし、色合いもなんとも言えない。柄にもなくカメラをとりだして、家にころがっているオブジェにからませて写真を撮った。撮りながら、35年以上も前に読んだ余光中氏の詩を思いだした。
長くなるが、当時在職していた広島大学の同僚前田利昭氏の文章(アジア研究第二号1980)「民主への障壁と自由への胎動」から抜き書きする。

 香港を中川正之氏と訪れてからすでに二年が経った。私にとって香港は初めて海外に足をのばした忘れえぬ地であり、そこで出会った人々は消しがたい印象を今も残している。(中略)
 香港で出会った人びとの中で特に記憶に鮮やかなのは余光中教授である。(中略)そのまま乗っていけば深圳を通って中国と結ばれている九広鉄道の、その名も大学という駅まで、かれはわざわざ日本製のスカイラインで出迎えてくれた。余教授はアメリカでは車がおおいに役立ったけれども、香港のように狭い所だとすぐに行くところがなくなるという意味のことをあざやかな北京官話で語った。(中略)
氏とともに中国や日本の文学、大学について語り合った。中川氏は日本語でのときと同様にジョークをとばし、余光中教授と夫人を笑わせた。
 
注釈がいるだろう、当時中国とは国交もなく、簡単に行ける国ではなかった。私は、「疑似体験」の意味で何度か香港に足をはこんだ。香港の九龍―広州を結ぶ九広鉄道に乗るだけで胸がときめいたものだ。前田氏との旅では、中国本土との国境に近い上水というところまで行き、この道をまっすぐ行けば中国に入るというところで記念写真をとった。今香港で物資を仕入れ深圳で売りさばく担ぎ屋「水客」で話題になっている所であるが、当時はのんびりとした田園地帯であった。
余談だが「中川氏が中国語でジョークをとばしていた」というのは、私を知る人には意外であろう。私も、昔はけっこう中国語をしゃべったのである。日本語と中国語の対照研究をするようになって、私のまわりに俄かに優秀な日本語専攻の中国人留学生が増え、みな流暢な日本語を操るので、私が中国語を話す機会が激減し、銹ついたのである。加えて加齢のせいか、外国語を話すのが億劫になった、いや外国語どころか、日本語を話すのも面倒だと思うことが多くなった。

前田氏は余光中氏の詩4首に日本語訳を付け、紹介している。その中に台湾故宮博物館
所蔵の白玉製の苦瓜を詠んだものがある。

    『白玉苦瓜』(1974)
似醒似睡、緩緩的柔光裡   うつらうつらと柔らかな光の中に
似悠悠醒自千年的大寐    はるかなる千年の大夢より醒めて
一隻瓜従従容容在成熟    瓜一つ 静かに熟れて
一隻苦瓜、不再是渋苦    苦瓜一つ 苦さは消えて
日磨月磋琢出深孕的清瑩   月日の磨き上げしは深く育みし清玉
看茎鬚繚繞、葉掌撫抱    蔓はからまり掌の如き葉に抱かれ
哪一年的豊収像一口要吸盡  かの一年の豊収を一気に吸い尽ししがごとく

古中国餵了又一餵的乳漿   古の中国の培いまた培いし乳漿
完美的圓膩阿酣然而飽    完美なるまろやかさよ 陶然たる飽満よ
那觸覺、不斷向外膨張    その手ざわり、たえざる膨張
充實毎一粒酪白的葡萄    一粒一粒の乳色に熟れし葡萄のごとく
直到瓜尖、仍翹着當日的新鮮 瓜の尖にもかの日々の瑞々しさとどめり

 わが家の苦瓜は白玉製のものではないが、手に取ると「その手ざわり、たえざる膨張」から苦瓜の生命力を実感できた。
 長く中国をやっていると、解せないことに多く出くわす。中でも台湾故宮博物館の至宝が、豚の三枚肉を模したものであったり、象牙や翡翠で白菜を彫り出し飾り物にするというのがその最たるものである。一つには「白菜」の「菜」が「財」に通じるということがある。20年ほど前、筧久美子先生から棺桶の名産地である柳州の土産に棺桶のミニチュアをいただいたことがある。棺桶の中国語「棺材」が役人を表す「官」に通じ、「材」が「財」に通じる(「昇官発財」)、さらには「棺材」全体が「灌財」と音がよく似ており、大金が懐に流れこむ感じがするのだろう。だから本物は買えなくてもミニチュアを持っていたいという人が少なくないのだろう。金銭に対する欲望の赤裸々さは、日本人の及ぶところではない。さらには食べ物に対する熱い眼差しもすごい。日本語でも、とくに関西では「お豆さん」や「飴ちゃん」のように食べ物に敬称をつけることはくらいはするが、象牙や翡翠で日常の食べ物を模した飾り物を作るかと思うのである。
 ところが、この度苦瓜を育て、日々その成長を見守り、その実を、手にとった時の感触、それに改めて読みなおした余光中氏の詩が相乗効果を生み、朽ち行くものを宝玉に刻み永遠に残したいという思いが分からないでもないという気がしてきた。最後の「直到瓜尖、仍翹着當日的新鮮」も味わい深い。

Vol.43 美女 (2014年10月25日(土))
私は、中国のレストランなどで“服务员!”と呼ぶのはずいぶん抵抗があった。タクシーの運転手に「運転手!」と呼びかけるのと似たような感じが拭いきれなかったせいである。
有名な話であるが、東南アジアの多くの言語では、学生が教師に「先生!」と呼びかけることはできても、逆に教師が学生に「学生!」とは呼びかけにくいという傾向がある。一般化すれば、目下(年下)から目上(年上)を呼ぶ言葉があるのに、逆は存在しないか、怒りなどのニュアンスをもってしまうということである。子どもが父親に「お父さん!」と言うのに、父親が子どもに「子ども!」は言わないのも同様である。ただし、中国語では親が“孩子!”と呼びかけることがないわけではない。これについてはまだまだ考えなければならない問題がある。
 さて“服务员!”であるが、最近ではそれにかわって、女性には“美女!”が用いられることは知っていた。しかし、去年のことであるが中国の大学関係者が正式な挨拶の中で私の女性同僚(複数)に“美女”を使ったのには少なからず驚いた。
日本語の修飾語は枕言葉のように使われることが少なくない。ある大学の創立何周年かの記念式典に講演に行ったおり、その大学の司会者が「大変有名な方で紹介するまでもないと思いますが」と前置きし、どこで調べたのかというほど長々と私の紹介をした。私は「有名なら紹介するな」と心の中で毒づいていた。一方で、「可愛い子には旅をさせよ」の意味は、子どもには「可愛い子」と「可愛くない子」がいて、「可愛い方の子には旅をさせよ」ということではない,「子どもというのは(親にとって)可愛いものだ」ということであるということは知っていた。
 この事実に気がついたのは小学生の頃であった。近くの神社にサーカスが来た。ライオンが美女に変わるというマジックがあった。ライオンが入っている檻に黒い布がかぶせられ、シンバルの賑やかな音とともに煙が出たかと思うと、布がさっと取りはらわれた。たしかにライオンはいなくなっていたが、現れたのは「美女」というより妖怪かと思われる厚化粧の中年の女性であった。大人の世界の複雑さを初めて垣間見た瞬間であった。テレビの旅番組で紹介される旅館の「美人女将」が必ずしも美人でないことなど事例は枚挙にいとまがない。それに対して中国語の主に形容詞からなる修飾語は、分類の根拠となるものである。たとえば“白的花”は、「(赤ではなく)白い(ほうの)花」であるというニュアンスが強い。これも中国語の文法の初歩的な事柄である。
 決して誤解しないでいただきたいのだが、“美女”と言われた同僚が美女であるかどうかを問題にしているのではない、言葉の問題として中国語にも枕言葉のような修飾語がかなり使われるようになってきたと感じているということが言いたいのである。どの言語でも語が本来の意味を希薄にするという現象が広く存在する、中国語では“虚词化”と言い、言語学ではブリーチング或いは文法化と言う。日本語の「最高!」には、もはや「最も高い」という意味はほとんどない。「最近」は空間的に「最も近い」という意味を失い、時間的に「最も近い」、しかも過去の時点を指す語に変わっている(中国語の“最近”は空間的に「最も近い」という意味でも使われる)。
 ごく最近のことであるが、孔子学院の本部から“最美教师”を推薦するようにという文書が来た。長く日本にいる中国人の同僚に、こんな表現をするのかと聞いてみたが、彼も初めて見ると言った。もちろん一番容姿の優れた教師の推薦依頼ではないことは当然であろう。若い中国人に聞いてみると、「熱心で学生に評判がよい先生」くらいの意味である。日本語の「最高」に似たところがある。言語学的に言うと、日本語では「高」が、中国語では“美”がブリーチングの対象になっているということである。何がブリーチングの対象になるのかはまだまだ分からないことが多い。それが外国語習得の落とし穴になることは知っておいたほうがよいとあらためて感じた次第である。

Vol.44 近況報告 (2014年11月26日(水))
この原稿は毎月25日締め切りである。今日は21日。
 明日からの予定。
 11月23日 立命館孔子学院スピーチコンテスト  同僚夫妻と夕食
 11月24日 休日にもかかわらず立命館大学は授業日 午後授業
        元中国人留学生と食事、一人はBKCの教員C君、一人は岡山大学の教員
        Z君、C君は立命館孔子学院の運営委員で、今年会議の席で20数年ぶりに再会。Z君とは20年以上会っていない。
        Z君夫人も私の授業に出ていたという。
 11月25日 午前授業。午後オフィス・アワーのため研究室で待機
 11月26日 APU孔子学院来学(午後1時) 2時40分から授業
        4時半から専攻教員の研究発表 6時からAPU孔子学院との会食
 11月27日 同済大学来学 会談の後会食
 11月28日 予定なし
 11月29日 台風のため休講になった授業の補講
 とくに行事の多い週ではあるが、12月6・7日アモイで開催される孔子学院世界大会、8日の上海同済大学訪問まではうまく体調を維持しないといけない。
 11月23日のスピーチコンテストは12時半からであるが、審査委員打ち合わせのため集合時間は早目である。芦屋の自宅から直行するのはやや負担が大きいので、前日土曜日に京都へ移動する。というわけで、この原稿は21日(金)、つまり今日中に書いておかなければならない。これが終わると、たまっているメールの返事と元学生の就職のための推薦状を書いて、NHKの鎌倉千秋さんが出演するNews Webの一週間分の録画を見て、インフルエンザの予防注射に行く。こういう毎日のスケジュールが時間で決まっていることにオーストラリア人の婿はいつも驚く。
 立命館着任後6年が過ぎ、7年目前期半ばに入った。1年間の授業は30週。私は2016年3月に満期退職するので、授業はあと37週である。それがすめばゆっくりとした生活を送ることができる、頑張ろうと始めたカウントダウンであるが、残りの授業週が少なるとともに長い教員生活の終わりが近づいてくるという寂しさの入り混じった感慨が日増しに強くなる。
 自宅の芦屋市から立命館(衣笠)まで片道ニ時間半かけての通勤を6年続けたが、体力的に限界に達していて、行事が立てこんでいる時には京都のホテルに宿泊するようになった。しかし行楽シーズンのホテル確保がますます難しくなってきたので、この4月から緊急宿泊所としてワンルームを借りた。正解であったと思うが、高年齢になっての一人暮らしは、何かと不便で、不安も伴う。
 たとえば、風邪をひかないよう、節電の呼びかけを無視してエアコンを多用しているが、朝目を覚ました時、口の中のみならず、喉の奥までカラカラに乾燥している。エアコンのせいだと思いこんでいたが、ある時、テレビを見ていて、高齢になるにしたがい、顔の筋肉が衰え、睡眠中に口が開いて、口内が乾燥する。それを防ぐために、寝る前に絆創膏を鼻の下から顎まで貼って固定し、口が開くのを防げばよいことを知った。早速ためしてみた。私の場合、口が大きいので、紙製の白い絆創膏を「11」の形に二本貼る、まるで洟を垂らしているような顔である。それに絆創膏を貼るタイミングが難しい。ほぼ毎日寝酒にウィスキーを飲んでいるが、絆創膏を口に貼ってから、また飲みたくなることがある。おちょぼ口をしてすすったり、口角を親指と人差し指で広げ、ウィスキーを流し込んだりしている。一昨日は本を読みながら飲んでいた。酔いがまわり、眠気が来たので「口絆創膏」を貼った。目が疲れていたので、電気を消して、落語を聞いた。たまたま録音していた落語であったが、それが無類に面白い。酔いもあって、異常なほどの笑いがこみあげてきた。しかし、口は二本の口絆創膏で固定されている。パニックになりそうなほど、ややこしいことになってしまった。
 日本というのは奇妙な国で、「口絆創膏」が市販されている。始めたころは包帯を固定するサーディカル・テープというのを用いていたが、ドタバタ喜劇に出てくる洟垂れ小僧のようで、なんとも間の抜けた顔になる。歳が歳だけに、いつポックリいくかも知れない。この間の抜け顔を人目にさらすのは嫌だと、適当なものを探していたら、「口絆創膏」が見つかったのである。形はやや長めではあるがハート型。それを二枚、毎晩口に貼り寝ている。口絆創膏そのものは可愛く作ってあるが、それを貼った私の顔が可愛いはずがない。きっと、さらに不気味なものになっているだろう。

 中国から帰国したら、年賀状の用意をしないといけない。「口絆創膏」を貼った我が顔の写真を使おうかとも思っている。魔除けになりそうだ。
 何かと気ぜわしい年の瀬、皆様もご自愛ください。

Vol.45 「孔子学院中国政府手先説」について (2015年1月27日(火))
アメリカ、カナダ、最近ではスウェーデンの大学で孔子学院を忌避する動きが出ている。いずれも公教育に中国政府の意向が介入することに対する警戒感がある。日本でも、そのような見方は設立当時からあった。「スパイ養成機関」という発言さえ聞かれる。
 外国語を真剣に勉強した人には説明するまでもないことであろうが、通常7歳くらいとされる言語習得期を過ぎてから学習する言語を母語話者なみに身につけることは至難の業である。とりわけ成人してからの外国語習得は、司馬遼太郎が「鶏が空を飛ぶ練習をするようなもの」と言うように、一般的には、できそうでできないことである。週に一度か二度の学習機会を提供する孔子学院で「スパイ養成」ができるわけはない、「スパイ養成機関説」には反駁する気さえ起らない。それに対して、公教育に他国の政府の意向が介入することに対する危惧については、真摯に向き合わねばならないと私は考えている。孔子学院が日本の大学で初めて設立された立命館大学から教員にならないかとの誘いがあった時にも躊躇いがあった。いずれ孔子学院長のポストが廻って来るであろうと考えたからである。その予感は的中し、院長になってから4年が過ぎようとしているが、その点については片時も忘れたことはない。私より前から立命館大学に在職している同僚の中には、立命館孔子学院の運営はあくまで立命館の主体的意思に基づくものでなければならないと考えている人も少なくないし、大学自体もそれなりの対策を講じている。
 昨年、アメリカの大学での孔子学院の動きを受けて『サピオ』(小学館)から電話取材に応じてほしいとの要請が事務局を通してあった。私は、電話取材では行き違いも生じるので、是非直接授業風景をみてからインタビューしてほしいと応えた。結局大部のアンケートを送ってきて事務局が答えることになった。立命館大学に関する記事については正確であったが、その記事は「中国が日本でしている嫌らしいこと」というタイトルの特集の一つに掲載されていた(サピオ2014年9)。
 立命館孔子学院は、立命館大学の組織の一つとして自主、民主、公正、公開、非暴力を原則とする立命館憲章に基づき運営されている。しかし、様々な問題があることは否定できない。私自身、中国のやり方に違和感を覚えることも少なくない。ならば、なぜ孔子学院にコミットしているか問われるであろう。
 私の恩師である伊地智善継先生は、終生中国に愛情を持ちつつも客観的に中国をみることを貫かれた(伊地智善継主編『白水社中国語辞典』の中川による「まえがき」)。私も師の姿勢を踏襲したいと考えている。多様な角度から中国を紹介し、中国を理解する機会を提供したいと思う。
 日本の中国研究は、日本の中小の出版社の努力により支えられてきた面がある。教科書を出版する側ら、採算を度外視して研究書を出版してきた出版社は少なくない。私自身そのような出版社に育てられたという思いがある。そこに中国政府の巨大な資本が入ってきて安価な教科書をばらまいて日本の出版社をつぶすようなことがあってはならないと主張してきた。私より院長経験の長い愛知大学の荒川清秀氏は、中国のかなりハイレベルの役職にある人に「中国政府要人の反日発言が、日本人の嫌中感情に拍車をかけている」というようなことを堂々と発言される。研究者としての実績のある氏の発言は、重みをもって受け取られていることを肌で感じることが少なくない。
 隣国と隣家は、「近い」という点では同じであるが、「隣国」は引っ越すことができないという点で大きく異なる。末永く付き合っていかねばならない。近親憎悪ということもある。ヘイトスピーチなどで中国や中国人を罵ることは簡単で、痛快なことかも知れないが、これからの両国の関係にはなんら資することはない。
 日中関係だけではなく何事も傍観者として批判・非難を展開することは容易である。しかし、様々な理由で当事者の立場に立たざるを得ないことは少なくない。それを初めて体験したのは、前任校において思いもしなかった役職に選任された時である。辞退することができない選挙なんて暴力であると思ったほどである。言い尽くせないほど嫌な思いもした。しかし、当事者は、その思いを直接相手に伝える機会や不本意な現状を少しはよい方向に変えることができる立場であることも少なくないと何度も自分に言い聞かせてきた。今もその思いは変わらない。
 去年孔子学院の奨学金で中国を代表する大学に留学した立命館大学の学部生のOさんは、留学先の大学の本科の授業に出席し、尖閣列島に関する自分の考えを中国語で発表した。また中国から派遣されてくる若い教師やボランティアは、日本人と接触する中で日本への理解を深めている。孔子学院がそういう場であり得る限り存在の意義はあると思うのである。
 中国の窓口である総領事館の教育室と連絡をとることがある。現在の教育室長は、真面目な好人物である。しかし、思い返せば彼の申し出に応じたよりも、断ったことが多い。個人的には申し訳ないと思うほどである。時には激しい議論もしたことがある。私の知るかぎり、立命館孔子学院や荒川清秀氏が院長を務めている愛知大学孔子学院は、中国政府の手先ではないと断言できるし、そうあってはならないと考えている。

Vol.46 王选:回忆北大数学力学系的大学生活―馬希文氏のこと― (2015年2月26日(木))
受信したメールがたまり過ぎたので、整理していたら東京大学の小野秀樹君からのメールにタイトルの文章が添付されていた(一昔前なら「ひきだしを整理していたら古い手紙が出てきた」という書き出しになるのであろう)。
 1954年に北京大数学・力学系に入学した学生が200余名、その数・質とも空前のもので、中国全土から逸材が集まっていた。後にアカデミーの会員になった者が6名などと出身母体自慢はこういうものの定番であるが、私にはとくに2つのことが興味深かった。
 1つは、全国各地から集まって寮生活をするのであるから方言による誤解が多かった。湖南省から来た学生は、北京の人がちょっと頼みごとをする時に使う“借光(すみません)”を「(タバコを吸うために)火を貸して下さい」と思っていたということ。また、無錫から来た学生が食道で“要一盘儿饺子(餃子一皿)”と注文した時、発音が悪くて120個の餃子をもって来られたというエピソードである。“一盘儿”をyibai‘erに聞き間違えられたのであろう。
 餃子では私も苦い思い出がある。初めて北京に滞在していた1982年、当時ではめずらしく食堂のメニューに餃子があるので頼んだところ“要几个?”と聞かれた。「一皿」のつもりで“一个”と答えた。店員が“一个?!”と聞きかえすので“对,一个!”と応じると店員はしばらくして大きな皿にぽつんと1つの餃子をのせて持って来た。この行き違いはまだましである。中国人留学生が日本で「餃子20個」と頼んだところ20人前を持って来られトラブルになったという話がある。外国語や方言にまつわる悲しくもおかしい逸話である。
 もう1つは、馬希文氏のことである。氏は15歳で北京大学に入学した「神童」で、大学の授業を軽々とこなし、余った時間でモンゴル語を学び、ドイツ語の詩を書いたりしたが、もっとも力を注いだのは作曲であったという。もちろん本職の数学や人工知能でも業績を残している。王選氏が生涯で出会った最も頭のいい人であったという。
 王選氏の文章で、馬希文氏が余暇に力を入れていたという分野が少なくとも1つ抜けている。それは言語学である。中国語結果補語に関する論文(1987)は今や古典的名著となっている。
 いつだったか記憶は曖昧であるが、結果補語に関する論文が発表されて間もない頃、氏が東京に来られ、関西にも来たいという意向を持っておられることを知って、杉村博文氏と木村英樹氏とポケット・マネーを出し会ってお呼びしたことがある。「些少ですが」とお金を差し出したところ“不客气”と言われて受け取られたことを覚えている。意見交換をしたいということだったので我々3人も話すべきことを用意していたが、1人で結果補語についての話を延々とされた。まだ院生だった小野秀樹君が付きっきりであちこち案内した。灘の酒蔵や大阪城がお気に召したらしい。
 夜は私の家に泊まられた。家族は偉い先生が来られるというのでそれなりに緊張していたが、氏は挨拶もそこそこに言葉に関する議論を始められた。翌日は情報工学の大家である長尾真先生に会うと言いながら、いつまでたっても話を辞めない。もう12時を過ぎたから寝ようと言うと、北京時間では11時だとか、自分は気功をやっているので寝なくても大丈夫だと筋の通らぬことを言っておられた。いろんな意味で忘れられぬ人である。
 その後、氏が健康を崩しておられることが耳に入ってきた。北京大学の朱徳煕先生とお会いした時そのことを確かめると、「そう、勉強しすぎなんだ」と言われ“替他担心(彼のことを心配している)”と続けられた。

 馬希文氏は、2000年米国のスタンフォード大学におられた時、癌のため逝去された。
 朱徳煕先生も、スタンフォード大学におられる時発病され2002年にこの世を去られた。
 馬氏と朱徳煕先生のスタンフォード滞在時期は重なっており、夜な夜な言葉について議論されたという。
 紛れもない二人の天才がどんな話を交わされていたのか、今や知る由もない。

Vol.47 中学時代のことから (2015年3月26日(木))
私は大阪府吹田市の中学を卒業した。在日韓国人・朝鮮人の多い地域が学区に含まれていて、在学生の一割くらいは在日の人たちであったと記憶している。その中に金君という気骨のある同級生がいた。2人で大阪梅田へ遊びに行くなどなかよくしていた。
 50年以上も前のことである。ある日突然、彼が私の家にやって来て、数日後に北朝鮮に帰ることになったと告げ、小さな封筒を渡して帰って行った。封筒の中には、もう会えないかも分からないけれど、文通(手紙のやりとり)をしよう、住所が決まればできるだけ早く連絡すると書いたメモとともにいくばくかのお金が入っていた。文通の切手代にしてほしいということだった。
 しかし、その後彼から便りはない。当時「(北朝鮮は)天国のような幸せな国」という噂があって、集団帰国が続いていた。北朝鮮が「天国のような国」という幻想が広がった背景の一つに、在日の人たちに対する差別の問題があったと思う。在日であることが就職や結婚の際、障害になることは日常茶飯事であった。また、日本姓を名乗っていた同級生が在日であることを告白するというようなこともあった、それは当時の私にはとてつもなく重い出来事であった。
 現在でも差別というものが完全になくなったと言える状況ではないが、当時は他にもあからさまな差別があった。そのような差別をなくすために、時には度を超したとしか言いようがない激しい糾弾運動もあった。糾弾が恐いので露骨な差別はひかえておこうという打算もあると思うのであるが、徐々に露骨な差別は影をひそめていったように思える。
しかし、糾弾運動は私が大学の教師になった時にもまだ続いていた。私自身が糾弾の対象になったこともある。私には、言葉尻を捉えた「言いがかり」としか思えないようなことがきっかけであった。そんな中、長く差別反対の運動にコミットしておられた先輩の教師がこんな話をしてくれた。
学生のP君がバイト先の塾の中学生たちに、自分は在日朝鮮人であると伝えた時、中学生たちが、「それなら先生、あの字(ハングル)書ける? 書いてみて」というので、黒板に書いたら、中学生たちが目を輝かせて「先生、恰好いい!」と喝采した。
先輩は、差別意識をなくす啓蒙運動や時には糾弾も必要だけど、子供にはもともと差別
意識なんてないのだし、「恰好いい!」と感じた瞬間、差別意識なんて吹っ飛んでしまうようなところがあるよね、と言われた。
 その後の韓流ブームについては言うまでもない。「歴史問題」を論外にするつもりはないが、「恰好いい!」と感じたことがきっかけとなって、韓国語の勉強をはじめ、韓国に旅行し、直に韓国を体感している学生たちに、水をさすようなことがないように祈らずにはおられない。
 日中間にも難しい問題が存在する。憎悪の悪循環に陥る可能性すらあると私は思っている。一方で、日本のサブカルチャーに興味をもつ中国の若者たちが急激に増加していることは間違いのないことである。日本のサブカルチャーに魅かれたことがきっかけとなり日本留学を決めたという大学院生も少なくない。こういう学生も大事にしたい。

 4月25日に、NHKの中国語学習番組に出演されている段文凝さんと私のトークショーをすることになった。立命館孔子学院設立10周年企画の一つである。先日打ち合わせのため京都に来ていただいた。活発で利発な可愛い女性である。段さんがスマートフォンで自撮り(中国語では“自拍”と言う)した私とのツーショットを、二人の共通の友人であるNさんに送られた。Nさんと段さんはテレビで共演する仲、Nさんの恩師であるA氏は私と50年以上の付き合いがある仲。後日、Nさんからツーショット写真を見せられたA氏は嫉妬し、「(中川が)デレデレしている」と毒づいたそうである。
 この文章がHPに載る頃には、トークショーのポスターが衣笠のキャンパスにも貼られていることであろう。学生から「デレデレしている」とか「やにさがってる」とか言われるのは必至である。トークの材料にするために、少しずつネットで段さん情報を収集している。「可愛いすぎる中国語講師」などの言葉があふれている。それとともに、『日本が好き!』(PHP研究所)と題するエッセイ集を出しておられることも知った。何よりも感心したのは、彼女が、これから日本に留学に来ようとしている中国人に向けて動画メッセージを出して、日本人のみならず中国人にも発信しておられることである。
25日当日には、デレデレしながら、来日の動機や日本の印象、日本人の中国語について聞いてみたいと思っている。しかし、私の最大の目的は、来場者の方々に段文凝さんのことを「可愛いーぃ!」と感じていただき、日中間にわだかまる重苦しい空気をつかの間でも忘れ、中国語を勉強しようという思いを新たにしてもらうことである。

 追記:このコラムの編集を担当しておられた立命館孔子学院事務局の鴻原美沙子さんが結婚退職されスイスに行かれることになった。お幸せに!
40年前、パリからコペンハーゲンに向かうのにわざわざスイス経由の国際列車に乗った。車窓から見るスイスの牧場、バーゼルで途中下車し眺めたレマン湖の夢のような景色が甦る。フランスのフランとスイス・フランの硬貨がごちゃごちゃになって、区別できずカウンターに全部ぶちまけて店の人にスイス・フランを選んでもらった。若いからできたことがいっぱいあったと改めて思う。

Vol.48 壁咚 (2015年4月23日(木))
通勤電車の中で、遠足に行く4年生か5年生の子供たちと一緒になった。男女の差が顕著に出る年ごろらしい。総じて、女子はおとなしくしているのに、男子はうるさい。つり革に猿のようにぶら下がったり、走りまわっている(梅本佳代『男子』という写真集は、このくらいの年齢の男の子のアホさを活写していてなんともおもしろい)。「静かにしなさい」と引率の先生へのあてつけも兼ねて叱ってやろうかと思っていたところ、2人の男子がドアの横の壁を利用して「壁どん」をやりだした。立場を変えて何度も「壁どん」の動作をしながら笑い転げている。
 先日テレビを見ていたら、女優のジュディ・オングがクイズで「壁どん」を丼の一種と答えていた。彼女は何十年も日本に住んでいるはずである。そこで周りにいる中国人留学生に「壁どん」を知っているかたずねたみた。全員知っており、中国語で“壁咚”というのだと教えてくれた。
 2014年の中国語の流行語に“萌萌哒”が入っていた。赤ちゃんにやる「いないいない、ばぁー」のような調子で「モンモン・ダァー」と言う。これは言うまでもなく日本語の「萌え」から入った。言語学的には“哒”が文末助詞の“的+啊”だとしたら興味深いものがあるが、ここでは述べない。
 私は「壁どん」の意味や使う場面、効果についてすでに学習している(残念ながら使う場面はまだない)が、「萌え」は何度か説明を聞いたがもう一つピンとこない。
 かなりの日本人(特に年配の人)や長く日本に住んでいる外国の人が知らないのに、同世代の若い人たちが、SNSによって国境を越えてたちまち共有するという事態が著しく増えた。世代間の伝承よりすばやく確実に、同世代間の情報交換が行われる時代に入りつつある。
 歳寄りが若者の言葉(の乱れ)を嘆き、若者が年寄の話し方を嘲笑する傾向がますます強くなるだろう。

Vol.49 中国人のユーモア (2015年5月26日(火))
1980年代中国に長期滞在しているとき、電話事情がまことに悪かった。よほど運がよくなければ通じない。もちろん携帯電話などなかった時代である。「電話を掛ける暇があったら自転車で行け」と言われたものだ。それを中国人は「我が国の自転車は電波より速い」などと胸をはったりしていた。その逞しさやユーモアが私は好きである。
  最近面白いと思ったのは、同僚に教えてもらった以下のようなものである。いろいろなバージョンがネットで見られる。
  英語の「チャイナ」をどう発音するか職業や帰属集団によって違うというものである。英語であっても、英語に堪能でない人や、単語レベルでは漢字が充てられるということも確認しておきたい。
          关于 China 的 读音
     光棍 读 : “妻 哪 ?” 花男 读 : “妾 哪 ?”
     恋人 读 : “亲 哪 ?” 穷人 读 : “钱 哪 ?”
     官员 读 : “权 哪 ?” 地产商 读: “圈 哪 ?”
     贫民 读 : “迁 哪 ?” 政府 读 : “拆 哪 ?”
政府 发音 最 准 。外国人 来 中国 , 看到 到处 搞 基建 ,很 多 墙上 都 写 个“拆 ”字 画 个 圈 ,不解 , 就 问 翻译 。翻译 说 , 这 是 国名 , 我们 中国 自古 就 叫 CHINA , 不 拆 不行 。

ここでは“光棍”は独身男、“花男”は浮気男。“亲”はキスをする、ということであろう。こういう人がChinaを発音するときは、「結婚相手や、愛人、キス」にあたる単語の音を充てるというものである。
会話部分の最後の二行は、最近の中国を皮肉っている。不動産屋が地上げのため囲い込みをし、貧乏人はどこかへ追いやられ、政府は取り壊しをする。私も風格のある四合院(中国の伝統的な家屋)に“拆”と貼り紙がしてあるのを見たことがある。“圈”は、地上げ屋が囲い込みをすること、あるいは昔から○が公的印鑑の代わりに用いられたことを二義的に用いている。「“拆 ”字 画 个 圈」は、取り壊しが政府の許可を得たものであることを示しているのだろう。
外国人が、なんでこんなに“拆 哪Chāi na”と書いてあって、丸印が描いてあるのかと通訳に聞くと、通訳は、“拆哪”国名で、中国は昔からチャイナと言ってきたので、取り壊しは必然だと応える。
 私からみてもChinaの漢字表記としては“拆 哪”が一番元音に近いと思う。発音に関しては政府が“最准”であるという点で異論はない。

Vol.50 ”圏”について (2015年6月26日(金))
前号取り上げた“圈”について“地产商”が“圈”するのが元義に近く、(土地などを地上げのために)囲い込むと読んだが、“拆 ”と書いてある壁に“圈”を描くのは印鑑がわりで、政府公認の意味だと書いた。自信があるわけではない、魯迅の『阿Q正伝』の中に、字の書けない阿Qが紙切れに○を描くよう要求されるシーンがあるが、それを思いだした。
 後日中国人留学生3名に“圈”について、尋ねた。印鑑代わりの“圈”については、さしたる反応はなかったが、“地产商”の“圈については、声を揃えて“圈钱”だと答えた。『(土地や株で)大金をがっぽり儲ける』ことだという。賭博で勝ったものが卓上の金を両手でかき寄せるイメージであろう。在日10年以上の中国人は、まずこの意味を知らない。新語なのだろう。中国語の新語を知って、それを周りの中国人にひけらかしたり、知っているかどうか訊くのは楽しい。来日10年前後の若い女性に“圈钱”を知っているか尋ねてみると、案の定知らなかった。私は彼女のことを時代遅れとかなんとか揶揄したと思う。後日、彼女から “圈粉丝”を知っているかとメールがきた。“粉丝”は麺のことで、いろいろ思いを巡らしたが正解できなかった。
ツイッタ―などで多くのフォロワ―を集めることらしい。フォークにパスタが掠め足られているところがイメージされたが、留学生に聞くと“粉丝”は英語fansの音訳語だという。“圈粉丝”はファンを一挙に獲得することらしい。  中国語は、外来語を取り入れる場合も意訳を旨とし、音訳のような訳のわからないことはあまりしない。中国語には純血性があるからだと胸を張っていた専門家を思いだす。
 言葉に関するかぎり、中国語は深いところから変化を始めている。

Vol.51 祭り (2015年7月28日(火))
一昨年から2時間半をかけての通勤が無理になり、週に2日くらい京都の仮住まいに滞在している。それが祇園祭りの中心地であることはあとから知った。去年は、宵山には、自宅に近づくのさえいつもの3倍くらい時間がかかった。ベランダから山鉾が三つ見える。翌朝、動き出すと聞いていたのでベランダから見降ろすのも一興かと思っていたが、目覚めた時には、もう山の姿は見えなかった。
 そもそも、私は祭りというものがあまり好きではなかったし、我が子の節目節目の祝いもしたことはない。自分の誕生日も7月7日ということで、覚えてくれている人がけっこういて、祝ってもらうことはあっても、人さまの誕生日を祝ったことはほとんどない。
 7月7日というのは、日中関係にとっては、七夕、まして私の誕生日などよりも忘れてはならない日である。そういうこともあって、祭りごとはよけい好きではなくなった。ゼミの学生にも、結婚式の出席だけは勘弁してほしいと言っている。心にもないお世辞を言うのも聞くのも嫌だし、持って帰るのが大変な引き出物、力づくで参加者を泣かせるような演出もかなわない。
 しかし、今年は私にとって最後の祇園祭になるだろうと思い、少しは勉強し、山鉾を見て回った。懸装品も改めて見るとなかなかのものである。
 神戸に40年近く住んでいるが、神戸祭りには、どういうわけかサンバのグループや阿波踊りのグループが神戸の大通りを練り歩くらしいが、「なんで?」という思いが拭いきれない。それに対して祇園祭りは風情があって、いろいろな歴史やお話があって、改めて京都の奥深さを感じた次第である。
 祭りが嫌いなら、式はもっと嫌いだろうとご推察のことだろうが、その通りである。そんな私が院長として、今年の10月10日、立命館孔子学院の創立10周年式典を迎える。皮肉なことではあるが、お世話になった方々、とりわけ裏方として孔子学院の実際の運営を支えてくれた事務局の方々には、心から感謝している。当日午後は北京大学学生芸術団の公演がある。北京大学を訪れたとき、そのプログラムの一部を演じてくれた。羽生結弦ばりの男性のバレーやアカペラ、きれいな女性たちも多く参加する民族音楽などどれもレベルが高く感動した。
 みなさんも是非ご出席ください。

Vol.52 说有容易,说无难 (2015年8月28日(金))
33年前、北京の同じプロジェクトで仕事をしていた早稲田大学の竹中憲一氏が、言語学者王力先生に書いてもらったと自慢げに書を見せてくれた。「说有容易,说无难」とあった。言語学者にとって「こういう言い方が存在する」と言うのは簡単であるが、「こういう言い方は存在しない」というのは難しい、ということである。
 橋本萬太郎(1932-1987)先生がプリンストン大学在職中に現代中国語の各ジャンルから百万字分の文章を電子化するプロジェクトに参加されていた。その後、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所(AA研と略す)に移られた。当時オイルショックで日本はあたふたしていた。サウジアラビアのヤマニ石油省が来日し、日本にはアラビア語の辞書がないことに不快感を示したと言うので、早急にアラビア語の辞書を作るべく、政府から莫大な予算が用意された。手作業では間に合わないのでコンピュータを最大限利用しようということになって、言語情報機械処理プロジェクトが立ち上がり、中国語も加わることになった、という経緯を酩酊されている橋本先生から何度か聞いたことがある。真偽のほどは定かではない。とにかくプリンストン大学で入力された百万字テキストを研究に利用するため、中国語学を専攻している10名ほどの若造たちが動員された。私もその中の1人であった。これは40年以上前の話である。当時私は広島大学に勤めており、頻繁にAA研に出かけた、というか呼び出された。橋本萬太郎先生の思い出話は一冊の本になるくらいある。中でも、先生が「百万字の中国語を検索してヒットしなければ、こういう表現は存在しない、と言えるよね」と呟かれたことが忘れられない。40年前といえば、大昔と思われる読者もおられるだろうが、(変な言い方だが)縄文時代が一万年も続いたことを思うと、ほんの一瞬である。
 私は、最も早い時期にコンピュータによる言語研究に従事した研究者と自慢することがあるが、当時コンピュータを見たこともなかったし、一体全体どういう代物なのかももう一つピンとこなかった。我々が目にするもは、直径3ミリほどの穴が不規則に開いた幅5センチほどの紙テープ(これが記憶媒体)とプリントアウトされた中国語であった。
 それからミニコンピュータが出現し、さらにパソコンになった。パソコンに詳しい友人が、もうすぐ1ギガのハードを内蔵したパソコンが出る、1ギガあればどんなソフトでも入れられると言っていたことが懐かしい。今私が使っているパソコンは128ギガである。中国語データも優に億単位である。まずマイデータに当たって、検索する、ヒットしなければ、中国のものにあたってみる。それでもない場合、中国語ネイティブに訊く。それでも、いとも簡単に「ありますよ」と応えられることが何度もある。  こんな言い方があるのかと思う中国語に出くわすと、まず自前のデータで検索する、それでいくつか用例があれば「ある」と言える。「ある」と言うのはそう難しくない。
 しかし、「ない」は難しい。日本語の例を挙げると、「一本・二本・三本」と本数を数える時「本」の読みが「ぽん・ほん・ぼん」と変わる。「本ほん」は促音の後では必ず「ぽん」になる、という強力なルールがあって、難しくはない。問題は「さんぼん」である。「撥音」の後にくるハ行はパになることも、バになることも、ハのままのこともある。
 たとえば、日本語を外国人に「三本」は「さんぼん」と読みますと教えた時、「さんぽん」や「さんほん」は無いのですかと質問されたとしよう。「そんな言い方はありません」と断言できるだろうか?
 野球の三塁と本塁の間は「さんぽん」だし、「(今日の試合で)三本塁打(が出た)」では「さんほん」になる。ことほど左様に「ない」というのは難しい。
 私のようなものでも、書いた本に何か書いてほしいという人がいる。王力先生の「说有容易,说无难」を使わせていただくことがある。ある人が、その意味を知りたくて中国から来た留学生に訊ねたところ、留学生は「借金の申し入れに対する答えだ」と言ったそうだ。言語学者の心情は、世間に理解されるものではない。

Vol.53 写真を撮る (2015年9月25日(金))
また昔の話であるが、1980年代中国に長期滞在していた時、写真を撮るというのは一大事件であった。当然フィルムの時代で、一枚分が大学教師の60分の一位かかったと思う。しかも白黒であった。まちの写真屋で記念写真を撮ってもらったりすると、手書で彩色してくれる有料サービスもあった。
 中国では現在でもそうであるが、同姓の身体接触は親しさの重要な表現手段である。友人と写真を撮るときも、肩を抱いてきたり、座って撮る時は私の腿部に手をのせてきたりする。割高であることもあって、一枚の写真を撮るのに一分以上かけることは普通であった。その間、私の膝の上にずーとオッサンの手がのっている。やがて彼の体温が大腿部に伝わってくる。私は発狂しそうになったこともあった。こういうポーズをとる時、中国人は、今も昔も、我々から言わせるとためらいがない。最近日本の若い人たちも結構ポーズをとるが、ほとんどがVサインである。
 さて、写真を撮る時、日本で「チーズ」、中国では“茄子”という。口角をあげるための知恵であろう。と
 「ナス」をワープロで打ち込むと中国語と同じ「茄子」に漢字変換される。「-子」は接尾辞である。日本語でも「椅子、餃子」などの語に入っているが、中国語の“-子”を的確に使うのはけっこう難しい。果物に限っても、「梨」は“梨”と“-子”がなくても言えそうであるが、「柿・桃・みかん」は“柿子・桃子・橘子”のように“-子”が欠かせないように思う。思うなどと断定しないのは、「桃」は“桃”でいいと言うネイティブがきっといると思うからである。
 この夏に「トマト」のことを少し書いた(「中国語辞典について」『文学』岩波書店2015年9・10月号)。このコラムでも触れたが、私は「柿」は“柿子”、「トマト」は“西紅柿”と習ったし、そう教えてきた。ところが“柿子”を「トマト」だと言う中国人もいれば、「トマト」は“洋柿子”だと言う中国人もいる。いずれにしろ、中国語では「柿」も「トマト」も光沢があって、同じような形をしていると考えられているのだろう。言うまでもないが、南方では「トマト」のことを“番茄”と言うのが普通である。「トマト」も「茄子」も光沢があって、蔕の部分を視野に入れると、似ていると思えないこともないと思う。

Vol.54 10周年記念式典 (2015年10月20日(火))
10月10日に立命館孔子学院設立10周年記念式典が行われた。
 日本で最初の孔子学院ということもあり、日中関係の悪化の中で矢面に立たざるを得ないところもあったが、とにもかくにも10周年を迎えた。この夏には40名の学生が提携校である北京大学で中国語研修を受け、帰国後のアンケートでは参加者の大部分が、行く前に抱いていた中国のイメージと、実際に体感した中国とはずいぶん違ったこと、そしてまた行きたいと答えていたことがうれしい。
 中国語で式典などが盛大に行われる形容に《隆大》が用いられるが、今回の式典に関して私は「簡素に、こじんまり」としたいと何度も希望を述べた。実際こういうものを行うとなると、「この人を招待したのに、あの人は招待していない」といった問題がどうしても出てくる。そんな中、実務にあたる事務局は苦労も多かったことと思う。改めて労をねぎらいたい。
 午前中は式典であった。各界の人たちによるご挨拶も「短めに」というこちらの要望を聞いていただき、時間通りに進んだ。
 午後は北京大学学生芸術団の公演であった。立命館大生の琴と尺八の演奏もあった。最前列にいたので、出演する若い人たちの、緊張・真剣さが手に取るように分かった。最後に北京大生のアカペラで「赤とんぼ」が歌われた。日本公演のために一所懸命に練習してきたのであろう、素晴らしいものであった。
 日中には様々な問題がある。中国にも言うべきことは言って、我々も謙虚に耳を傾け、両国の若い人たちが仲良くなれる場を、少しでも多く提供できるようにしていきたいという思いを新たにした一日であった。

Vol.55 忘年会・懇親会・反省会 (2015年11月24日(火))
忘年会の季節である。「忘年」は漢語には違いないが、中国語で《忘年》となれば《忘年之恋》であろう。蛇足になるが《忘年之恋》は、今年もいろんなことがあったななどと感慨にふけりながらする恋ではなく、年(歳)を忘れた恋、つまり「老いらくの恋」である。ほぼ同世代の同業者の一人が二十代の女性と結婚したらしい。羨ましいと思わないことはないが、学生が卒業旅行で米国のディズニーランドで四日間遊びまくるなどと言うのを聞くと、私には無理だと思う。恋や結婚ではなく、孫のおもりに近い。
 中国人留学生が、忘年会を開いて何を忘れるのかと聞いてきた。新しい気持ちで新年を迎えるために嫌な事を忘れるのでしょうと答えておいたが、要するに「飲み会」の口実にすぎない。同僚に教えられて初めて知ったが、私が学生時代からつい最近まで使っていた「コンパ」という言い方は「合コン」に近く、異性の相手を見つけようとする下心が見え見えだそうである。「コンパ」と「カンパ」は同源でそんな意味はないと抗弁するのであるが、若い世代には通用しない。 新学期になると「懇親会」が開かれる。これも中国人には何をする集まりなのか分かりにくいらしい。
 会合に関する言い方のうち日中両国語でずれのあるものに「反省会」と「検討会」がある。四人の同じような研究をしている友人と二日間にわたるパネルディスカッションに呼ばれたことがある。聴衆の大半は、日本で中国語を教えている人たちであった。私は司会を兼ねていた。初日の終わりに、「これから今日の反省会(実際は飲み会であるが)をして、明日の話題を考えます」と結んだ。
 顔見知りの中国人が寄って来て「何を反省するのか? 重大なミスをしたのか?」と心配そうにたずねてきた。そうだ中国語の“反省会”は重大なミスをした時に行われる深刻なものだ。《検討会》も同様である。【检讨】は辞書には「(個人または団体の思想上・活動上の欠点や過ちを調べ、その原因を追及して)自己批判をする、反省をする」とある。
 中国に長期滞在しているとき、何度か「茶話会」があった。菓子とお茶が用意してある話し合いであったが、若い中国人にもこれは分かるらしい。逆に、若い日本人に「茶話会」をしようと呼びかけると、年寄りの集いのような感じがするのであろう。
 話題はそれるが、昨日大学で授業をしていて「バタ臭い」と「ストリップ」が日本人学生に通じなかった。「ストリップ」については、中国では「葬式にストリップを呼ぶことさえある」と書かれていたのを話題にした時のことである。

Vol.56 さわぐな! (2015年12月25日(金))
私自身は言うことも言われることももはやないことであろうが、“我们结婚吧(結婚しよう)”などと言われたら、どう応えるか、ある中国人女性に聞いてみた。“怎么说呢。。。”、“别闹了!”が即座に思いつくそうだ。前者は「なんとお答えすればいいのか……」、後者は文字通り訳せば「騒ぐな、ごたごた言うのはよせ」ということだろう。
 立命館孔子学院事務局に李麗麗LìLìlìという日本語もよくできる利発な反応の速い女性がいて、中国語の語感のない私は、よく中国語のことを訊ねる。先日もある学生の卒業論文の相談にのっていた。その学生は、日本語の小説とその中国語訳の突き合わせ(日中対照研究)をやっていて。日本語の「多分」を“八成(8割方)”と訳しているのを問題にした。「多分」のいう確率はもっと低いだろうと言うのである。そこで李さんに、日本語の「多分」を中国語で何と言うか聞いた。即座に“八成”と応えた。
概数を表す“两”も我々には難しい。私の感覚では、例えば“两步”は、少なくとも「5,6歩」といやそれ以上のこともある。こういうズレも中国語教育の中できちんとおさえていかなければならない。
 さて、“怎么说呢。。。”、“别闹了!”であるが、李さんによると“怎么说呢。。。”は可能性なし、しかし“别闹了”は脈がある、6割位の可能性があると言う。どうも“别开玩笑!(冗談はやめて)”に近く、“闹=騒ぐ、賑やかだ”という私のような単純な理解からは距離があるようだ。
 その後、何人かの中国人に“别闹了!”について訊ねてみた。可能性なしから6割の可能性まで個人によってばらつきがある。もちろん、イントネーションはその時の表情や雰囲気もあるだろう。
 今日は、クリスマスである。ひょっとしたら昨夜、告白して“别闹了!”と言われた人がいるかも知れない。相手のインチネーションや表情を思いだし、もう一度アタックするのも無駄ではないかもしれない。
 来年こそよい年でありますように。

Vol.57 最後に (2016年1月26日(水))
新年早々変なタイトルであるが、立命館大学の規定で専任は最長70歳までとなっており、この3月末日で専任教員の任期を終えることになっている。
 孔子学院の院長も退任する。何人かの関係者に「慰留された」。私もかつて「慰留する」立場にいたことがあった。そんな場合、「ほんとうに辞めてほしくない人」であっても、「辞めてくれるのがうれしい人」であっても、一応「慰留」するのが礼儀になっているように思う。そして会議で「慰留したのですが、辞意のご意向が固く、お認めせざるをえませんでした」と報告するという流れになる。儀礼上「慰留されている」のかどうかの見極めは本当に難しい。私自身、「慰留して」、「じゃあ、辞表を撤回します」と応じられたらどうしようかとドキドキしながら慰留したこともある。
 言葉を専門にしていると、自分の退職に際してのやりとりの最中でも、こんなことを考えてしまう。
 「最後に」については、どこかに書いた記憶がある。中国語の“最后一次”も含めて、ほんとうに最後かどうかが問題になる。私自身「これが最後の一本」と何度タバコを吸ってきたことか・・・・・・
  韓国語の「最初・最後」は「原初・終末」に近い意味だそうだ。中国のフィットネス・クラブの広告に、ダイエットの前後の写真が並べてあって、「ビフォー」は“原始”とあった。どうしてそんな差が生じるのだろう。
 ある時、一緒にゼミを担当している同僚が、後ろからハグして来て「来年も一コマでいいから、来てくれない?」と言ってくれた。私の退職は「辞めてくれるのがうれしい」ケースには当たらないと私は勝手に解釈している。
  この連載は、新院長に引き継がれることになっている。私の担当はあと2回である。最終回のタイトルは「最後の最後」にしようと思っている。

Vol.58 中国語学習歴50年 (2016年2月25日(木))
倉石武四郎先生のご著書に『中国語五十年』(岩波新書 1973)がある。学生の頃、50年も中国語と付き合うなんて化けもののように思っていたが、私も50年付き合ったことになる。50年もすれば蓄積されるものが多くて、中国語の全体像が見えてくると思われるかも知れないが、むしろ逆である。分からないことがどんどん増えてくる。
先日、キャンパスを歩いていたら中国語の先生に声を掛けられた。風邪をひいて喉が痛く、咳も出る。それを中国語で言おうとすると「咳が出る」はkésou咳嗽と喉をこするような発音をしなければならない、どうしてよりによって一番発音したくないような語になったのか?というものであった。私も同感で、空腹を表すè饿もお腹に力を入れて出すように教えられた時、なんで?と思ったものだ。語の形と意味については様々な議論があるが、深い訳があるのかも知れない。
中国語にはどうして声調があるのか?
中国語の第三声の語は他の声調より多くないのに、身体部位を表す語にはなぜ第三声が多いのか、などなど。
こういった問題は、中国人に聞いても答えが返ってくるものではない。

 2月20日に桜美林大学と二松学舎で、東京大学の木村英樹氏と講演をするように頼まれた。木村氏はきっとアカデミックな話題を取りあげるだろうと予想し、私はテレビ中国語で人気の段文凝さんにお願いし、「段文凝さんに聞く中国語学習歴50年の素朴な疑問」と題するトークをした。ジェットコースターでどんな叫び声をあげるのか?といったことである。段さんはさすがタレントさんで、実演を交えていろいろとやってくださった。
 お化け屋敷でアルバイトをしていた学生がレポートで、女性の悲鳴について書いてくれたことがある。日本の若い女性は、女同士で来たときと、カップルで来たときとでは悲鳴が違うということを書いていた。つまり日本人は悲鳴や感嘆詞さえ、状況によって使い分けるということであるが、中国の若い女性にはその傾向が顕著には見られないのではないかということである。
 3月27日大阪産業大学梅田サテライトキャンパス レクチャールーム (大阪駅前第三ビル19階)でその続編をすることになった。トーク終了後、段さんは近著『リアル中国人』(主婦の友)の販売・サイン会をするそうである。
 立命館孔子学院でも、私の(多分)最後の講演会を企画してもらっているが、これは4月以降になりそうである。この講演に事務局が仮につけたタイトルが「私の失敗談」である。見事な名付けであると思う。思えば、失敗の多い、恥多き人生であった。「(多分)最後の」と書いたのは、三年ほど前の日本中国語学会のパネルで「公衆の面前に顔を出すのはこれが最後だ」と言明したのに、その後も何回か公衆の面前に顔をさらしており、今の段階でも講演の依頼がポツポツとあるからである。恥の上塗りは当分続くのかも知れない。

最終回 最後の最後 (2016年3月25日(金))
比較文学者の芳賀徹先生とは北京でしばらく一緒に仕事をした。よく酒を飲みながら話した。話題が「終わり」になったことがある。芳賀先生が画家ルノワールは、画中の女性のお尻をポンと叩きたくなったら、その絵は完成したのだと言われたのを覚えている。音楽はどうなのだろう?ブルックナーの延々と続く交響曲を聞いていると、この作曲家にとって「終わり」とはどういうものだったのかいつも考える。音楽をやっている人に何度か訊いたことがある。「厭になったら終わる」、これはどの分野でも、間違いなく正解の一つであろう。幾つかのモチーフがあってそれを結びつけている内に長くなってしまう、ということもあるだろう。面白いとおもったのは、作曲家が表現したいモチーフをクライマックスにもってくるために、序奏とエンディングをつけるというものであった。
 我々のような研究者の書くものは、落とし所が明確にならないと書き始められない。字数との関係で、持ち込む問題の大きさや新知見を効果的にちりばめる、などの工夫も必要である。ワープロに向かう前の段階である。これが一番たいへんな作業なのであるが、外見は何もしていないように見える。家族など周りの者には、まったく理解されない。冷やかな扱いを受けることが多い。漱石だったと思うが、構想をねっている段階は外見的には仕事をしているようには見えない。漱石は鼻毛を抜きながら考えるとか、だから、抜いた鼻毛の数で苦労を数値化するよう提案していたと記憶している。私の周囲には、歩きながら考える人が多い。考えながら歩いていたら溝の中だったとか、道端の植え込みに触れて傷だらけになっていたなどなど多くの逸話がある。

 「終わり」には、二種類あって、動作自体に終わりが内包されているもの、「到着する・座る」がそうである。継続動詞と呼ばれる。それに対して「飯を食う・本を読む」のように動作それ自体に終わりが内方されていない継続動詞がある。これらの動詞が表す「終わり」は「腹がいっぱいになる、飯がなくなる;一冊読み終える」のように動作それ自体でなく、外的要因によって区切りのつくものである。中国語の“了”は瞬間動詞と継続動詞の違いに大変敏感である。
 編集者から、最終回は、字数無制限とのお言葉をもらったので、かなり長くなる。「量は質に転化する」ということで、私の感慨の深さを汲み取っていただければ幸いである。
 この度の終わりは、専任は70歳までという立命館大学の規定によるものであるが、内的なものもそれに呼応するがごとく燃え尽きようとしている。クライマックスを終えてエンディングに向かっている。幸せな終わりである。

 3月9日、提携校である北京大学との理事会が無事にすんだ。20日は卒業式であった。最後の卒業生を見送った。
  3月9日の夜、こんな夢を見た。
 場所は米国のタングルウッド、小澤征爾がボストン交響楽団の指揮者をしていた頃、チェロのロストロ・ポーヴィッチやジュリヤード弦楽四重奏団のメンバーの協力を得て若い優秀な音楽家のレベルを上げるプログラムを行っていた場所である。なぜかそこに私が講師として招かれている。他にNHKの鎌倉千秋さんや私のお気に入りの数人の女性アナウンサーもいる。鎌倉千秋さんが小さな教室でソファにゆったり身をしずめ、楽しげに授業をしている。私はその教室に入りたいが、入って行くと鎌倉さんが話しにくくなるだろうと思い迷っているところへ、若い日本人の男性が「中川先生、いい加減に授業を始めてください」と詰め寄ってきて、授業をすることをしぶる私に腹をたて、殴りかかってきた。夢の中の私はなぜか腕力が強く、男性の腕を掴み、ねじあげ投げ飛ばす。そこへ携帯に電話が掛ってきて、私が立命館に着任してきたときに所属していた国際機構の機構長のM先生が「いつもお世話になります」と言う。そこで眼が覚めた。
 他人の夢の話などおもしろくも何でもないであろうが、立命館で最後の仕事が終りかける時にこんな夢を見たというのは、自分ではそれほど意識してはいなかったが、相当な解放感が増大していることと無関係ではない。タングルウッドが出てきたのは、その教育環境が羨ましかったに違いない。授業をしろと言いにきた男性を投げとばしたのは、授業をすることが決して厭だったのではない、しかしプレッシャーであり続けたのは間違いない。立命館に5年契約でお世話になることが決まった時には、5年はとても無理だろうと思っていた。

 最終講義を準備のためもあって、小学校からの自分の通知表を見た。成績以外に担任の先生の所感や欠席日数が書いてある。「虚弱、学習効果があがっていない、うつろ」などの表現が並んでいる。欠席日数も長欠と言っていいほどである。今回、これを書いていて、小学校低学年の頃、母親が私を抱きかかえて、坂道を駈けあがり病院に駆け込んだことを思いだした。兄が幼くして亡くなっていたので、母はただならぬ異変を感じたのであろう。
 とにかく虚弱であった。先日も若い頃に教えた学生と話す機会があったが、彼らも私がこんなに長く生きるとは思ってみなかったと口をそろえた。30歳を過ぎたあたりから、歩いたり、泳いだりする中で徐々に人並みに近づいてきたが、虚弱体質であることには変わりないと思っている。それが多くの人の助けをえながらも70歳まで働けたという感慨は大きい。立命での5年はあっという間に過ぎ、3年延長し、計8年勤めたことになる。孔子学院長も2年ということであったが、5年やったことになる。院長代理の文楚雄氏には、多くの海外の会議に出席してもらった。
 8年間、とにかく授業や会議は休まない、その為に体調を整えることをモットーに日々を過ごした。病気で授業を休んだことは一度もない。ただし、授業を二度、会議を一度忘れた。疲れないように原則として授業は日に一コマにしてもらっていた。その一コマの授業に出るために大学に行き、研究室の机の引き出しを開けた。何を思ったのか、引き出しの整理を始めた。それで授業のことを忘れてしまった。時計を見ながら、今日はなぜこんなにゆっくりできるのかと思いながら、久し振りに孔子学院の事務局に顔を出し、お昼近くになって、事務局長と昼食を食べようということになり、外に出た。その時携帯電話がなった。出ると同じゼミを担当している上野隆三さんからであった。「授業なんですが……」と言う。時計を見ると授業終了まで15分もない。そこで初めて授業を忘れていたことに気がついた。私は慌てた。しかし上野さんは落ちついた声で、これから教室に顔を出してもよいが、くれぐれも走ってこないようにと言った。だが、私は走った。教室につくと学生たちがにこやかに迎えてくれ、上野さんは息を切らしている私を見て、走って来ないように言ったのにと不満をもらしながらも怒ってはいない。  授業開始時間が過ぎても中川が姿を見せないので、上野さんは「中川先生はお忙しいので、忘れておられるのでしょう」と授業を始められたそうであるが、授業が進む中で、学生は中川はどこかで倒れているのではないかと心配になりだし、上野さんに電話してみたらということになったそうである。なんともやさしい同僚、学生たちである。

 最終講義は「私の失敗談」という予告をしたが、事務局の意向もあって、立命館孔子学院東京学堂で長らくお世話になった榎本英雄先生に関西に来ていただき、ジョイント最終講義を7月にすることになりそうである。
 そこで、失敗談をもう二つ。
 ある小さな新聞で「漢語の散歩道」という連載がある。すでに数冊の本になっているのでご存知の方もいることだろう。その連載に加わることになった。前院長の筧文生先生のお薦めである。その3回目の連載を失念した。連載が抜けるのは大変なことで、編集者は私に何度もメールや電話をしたらしい。コンサートなどに行って電源を切ったまま、入れるのをわすれて2,3日たつということを私はよくやる。家に電話をしても誰も出ない。困った編集者は、筧文生先生に泣きついた。筧先生は八方手を尽くして私の携帯の番号を聞き出し電話をくださった。私はその電話を覚えている。朝の九時頃であったと思う。私はまだ眠っていた。ベルがなったので発信者の番号を見ると075で始まる番号である。眠気の中で私は京都を示す075を見て、いずれ立命館からであろうと思った。その日はお昼には大学に出ることになっていたので、慌てることもあるまいと、また眠ってしまった。それが筧先生からの電話であった。事の重大さを知った後、筧先生に電話でお詫びをすると、倒れているのではないかと心配したとまず言われた。ちなみに筧先生は私より10歳も年長である。「忘れている⇒倒れている」と思われる歳になったことは肝に銘じておきたい。
 4月からも水曜日の2時40分から一コマだけ授業を担当する。倒れているのではないか? と心配をかけることはまだまだ続きそうである。

 先月号で書いた。テレビで中国語の段文凝氏とのトークであるが、私は『テレビで中国語』という番組を予約録画している。時間があるときにまとめてみる。使えそうなところはメモに取る。もちろん段さんの出ている部分を中心にあとは早送りする。ハードの容量の関係で段さんの部分以外は編集で消去する。その際講師の三宅登之氏とかぶることが多い。「あのおじさん邪魔ですな?」といった意味のことを東京のトークでしゃべった。横にいた段さんが脇をつついてくる。聴衆の中に三宅氏がいたのである。3月27日は大阪で段さんとのトーク第二弾である。

 「最後の最後に」で日中関係のこと、中国語のことを格調高くかくつもりであったが、卒業にあたって学生に話した私の人生の(現時点での)結論を書いておきたい。

 人生はけっして順風満帆といったものでない、努力すれば必ず報われるというものでもない。自分の人生を振り返って、やりたいこととやらなければならないことの折り合いをどうつけるのか、時にはあきらめも必要である。しかし、基本はしなやかに、粘り強く続けることであろうと思う。失敗することは決して少なくないが、すさんではいけない。大抵の失敗は、蒲団をかぶって酒でも飲んでいれば、二週間もすれば和らぐ。
  卒業式でこれから社会に出る若い人たちを見ながら、これから映画を見ようと劇場に入って行く彼ら・彼女ら、見終わって、劇場を出ようとする私の姿が浮かんだ。彼ら・彼女らに伝えたい、いろいろあるけれど、人生という映画は面白い。最後まで見てほしい。