研究活動
『立命館哲学』目次 第11集〜第20集(2000年〜2009年)
第11集(2000年)
記念講演 | 辻村公一 ヘーゲルの講義『世界史の哲学』について |
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論文 | 大西光弘 往復書簡に見る基礎的ライプニッツ哲学-ゾフィー、シャルロッテ、マサム夫人への書簡より- 加國尚志 表現と自然(前編)-後期メルロ=ポンティにおける- 土屋敬二 ヘーゲル『精神現象学』における悟性-精神との関連で- 平尾昌宏 方法と倫理へ-デカルトの弁神論- 亀井大輔 デリダのフッサール解釈-歴史の問題に即して- 富田広美 ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」に関する神経科学的見地による検証 |
書評 | 進藤貴美子 感覚・動きの実感から心身関係を探る-池田善昭著『心身関係論』によせて- |
レポート | 松本充弘 ハイデガーの「存在」とライプニッツの「根拠」について |
彙報 |
第12集(2001年)
講演 | 西川冨雄 シェリングにおける医の思想 |
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論文 | 福井雅美 自然の崇高と多様性 川瀬雅也 見えないものの実質性への問い-メルロ=ポンティとミッシェル・アンリ- 神田大輔 フッサール現象学における本質論-本質の純粋さについて- |
彙報 |
第13集(2002年)
講演 | 木田元 ハイデガーを読んで五十年 |
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論文 | 和田渡 ベルナウ草稿の解読-意識の生体解剖とフッサールのまなざし- 富田広美 心脳問題について(Mind and Body Problem)-「物」としての脳と「生」としての脳~エックルズの哲学から- 平尾昌宏 生命と倫理-ソクラテスとの対比によるスピノザの自殺論- 川瀬雅也 見えないものの実質性への問い(後半)-メルロ=ポンティとミッシェル・アンリ- 神田大輔 記述と明晰性 青柳雅文 物の知覚における超越の問題-Th・W・アドルノ最初期の超越論的立場と、フッサール現象学との関係- 木戸正幸 論理パズルを論理学で解く |
学会報告 | 大西光弘 「第7回国際ライプニッツ会議」参加報告 |
彙報 |
第14集(2003年)池田善昭教授定年退職記念号※在庫僅少
日下部吉信 まえがき 池田善昭 最終講義―超越論的課題のゆくえ― 木田元 思索の技法―ハイデガーのライプニッツ観をめぐって― ハンス・ポーザー (大西光弘訳) 調和と複雑性と象徴的認識―池田善昭氏のライプニッツ像についての考察― |
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講演 | 渡邊二郎 現代における存在の問題 |
論文 | 木原志乃 初期ギリシア医学理論とヘラクレイトス-クラーシス説における対立物の均衡関係について- 亀井大輔 デリダ『発生の問題』における「理念」の問題 神田大輔 本質と観点の多重化-現象学の方法と「基づけ」について 青柳雅文 超越論的意識の自己批判に向けて-Th・W・アドルノ最初期における無意識の問題と、〈非同一的なもの〉の端緒- 小林琢自 還元の動機と超越論的傾向について 大西光弘 ドイツ語を学ぶ(または教える)ための記号法について |
特別寄稿 | 西川冨雄 舩山信一先生と中国-先生の哲学・「人間学的唯物論」を軸に- |
彙報 |
第15集(2004年)
シンポジウム 現象学-以後の/による-現象学 -21世紀の扉を開くために- |
浜渦辰二 フッサールにおける現象学と存在論 谷徹 現象学の冒険 川瀬雅也 瞬間の奥行き―フッサールとデリダ、メルロ=ポンティ、アンリ― 質疑応答 加國尚志 総括 |
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論文 | 大西光弘 西田とライプニッツ―表象的モナドロジーと創造的モナドロジー― 佐藤勇一 メルロ=ポンティにおける哲学とキリスト教―『著名な哲学者たち』、「哲学を讃えて」、「生成するベルクソン」― 内田浩明 存在論としてのカントの超越論哲学―ヴォルフ以来の存在論との比較考察を通じて― 青柳雅文 意識の自己批判の可能性―1930年代アドルノにおけるフッサール研究を手がかりに― 溝口万子 アーレントによる時間の贈与―崇高の場あるいはnunc stans― 大西光弘 ドイツ語を学ぶ(あるいは教える)ための記号法について―上級篇― |
随想 | 西川冨雄 体験的哲学専攻史―哲学専攻の半世紀とわが半生― |
彙報 |
第16集(2005年)
シンポジウム -自然概念の哲学史的変遷について- |
有福孝岳 仏教における自然と人間の関わり合い 今義弘 エリウゲナにおける普遍概念としてのピュシスあるいはナトゥーラの導出 薗田坦 ルネサンスの自然観・補遺 総括 |
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論文 | 平尾昌宏 スピノザ倫理学とアクラシア―意識の批判に向けて― 佐藤勇一 呪われた哲学者―ベルクソンの禁書目録登録とメルロ=ポンティ― 神田大輔 フッサール現象学における「疑わしさのなさ」について 田村智明 マルクス唯物論における解釈の論理 小林琢自 習慣性としての歴史とその解釈における理性の自由―フッサールとシュッツの動機づけ概念について― 田邉正俊 初期ハイデガーにおけるニーチェの影響に関する一試論―「ナトルプ報告」を手がかりとして― 大西光弘 ドイツ語を学ぶ(あるいは教える)ための記号法について―「聴き取り篇」― |
彙報 |
第17集(2006年)
論文 | 田村智明 ドイツ観念論と現代司法システム 小林琢自 フッサール現象学における構築と解体 田邉正俊 ハイデガーの主観性批判をめぐる一考察 木村美子 矛盾概念を巡るライプニッツと西田―「予定調和」と「絶対無の場所」との対比において― |
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書評 | 山下善明 池田善昭著『「哲学」のゆくえ』を読む |
追悼 | 服部健二 許萬元先生の思い出 |
彙報 |
第18集(2007年)
論文 | 鈴木竜雄 ケプラーの重力理論への道―W・ギルバートの影響について― 後藤正英 ドイツ観念論と神義論―中期シェリング理解のための序論― 島田喜行 世界観としての相互主観性―フッサール現象学における規範性の問題の端緒― |
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彙報 |
第19集(2008年)
講演 | 坂部恵 ポリフォニックな主体を生きる―哲学における文体の位置と意味― |
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論文 | 溝口万子 ア・プリオリな綜合判断はいかにして可能か―アーレント「精神の生活」三部作の「船」の隠喩について― 竹花洋佑 個体性と媒介―ヘーゲル概念論と“コプラの論理”としての西田・田辺哲学― 佐藤雄太郎 方法としてのゲシュタルト 小松学 「私」を演じることの(不)可能性―サルトルの他者論における「魔術的なもの」を巡る予備的考察― 木戸正幸 論証図の拡充―入れ子型論証図の提唱― |
彙報 |
第20集(2009年)
講演 | 徳永恂 ベンヤミンの方法と方法としてのベンヤミン―歴史哲学の方法としてのアレゴリー― |
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論文 | 佐藤光友 自己理解を深める教育の現象学的考察 島田喜行 フッサールのヒューム道徳哲学批判 守津 隆 西田哲学における種概念の意義―西田幾多郎の田辺批判― 田邉正俊 主観性批判と主観批判をめぐる一考察―ハイデガーとニーチェを手がかりとして― |
彙報 |