
大きな衝撃だったウクライナ危機。国際関係学部に入学し、世界の紛争にこだわって勉強してきた私としては『今こそ学びを活かす時』と思いました。
石川 彩華 さん
認定NPO法人ピースウィンズ・ジャパン(2011年度卒業)
2012年3月に国際関係学部を卒業後、東京大学大学院「人間の安全保障」プログラム修士課程に入学。2013年1月~3月までJICAネパール事務所でのインターン、2013年10月~2014年4月まで UNRCPD(国連アジア太平洋平和軍縮センター)でのインターンを経験し、2015年5月に修士課程修了後、2015年7月より国際NGOピースウィンズ・ジャパンに入職。2020年4月には京都大学 医学部人間健康科学科先端看護科学コースに入学し、2023年3月卒業。2023年3月よりピースウィンズ・ジャパンのモルドバ駐在員として就業中。
これまでのキャリアと現在のお仕事を選んだ理由を教えてください。
石川単純にもっと勉強したいと思い、卒業後は大学院に進学し、たくさんのインターンに参加しました。
まず初めにJICAでマオイスト紛争後の和平プロセスの真っ最中だったネパールで2カ月半インターンをしました。平和構築の支援が何か分からないと思っていたところ、ちょうどネパールの大学院に紛争・平和・開発コースがあったので、1年半ほど通いながら、国連アジア太平洋平和軍縮センターでも半年間インターン生として国際的な軍縮会議の開催や平和教育のカリキュラム作りなどの仕事に関わりました。
インターンから帰国した後は、外務省のジェンダーに関する部署で2カ月ほどアルバイトし、政策がどのように作られ、誰がどう実施していくのか、間近で見させてもらいました。
このように様々な経験をしましたが、当時の私には、どの働き方もしっくりきませんでした。
大学院を修了し、この後どうしようかと思っていたところ、ネパール地震が発生したことをきっかけにNGOに入職することにしました。今でもNGOでは、新卒採用がほとんどありません。私は大学院時代にネパール語を習得していたので、それで採用されたのが幸運でした。
現在所属するピースウィンズ・ジャパンは、国内外の緊急人道支援を専門としており、様々な自然災害や紛争による被災者を支援しています。入職後、ネパール大地震の支援に従事した後、日本国内でハイチ、ガザ、ミャンマー、タイ、新型コロナウイルス対策支援などに従事し、2023年3月からはウクライナ支援で、隣国モルドバに駐在しています。
ピースウィンズ・ジャパンでどのようなお仕事をされてきましたか?
石川被災者の一番近くで働くことできるのが、この仕事の面白さとやりがいです。ネパールに駐在していた時は、地震後初めての雨期を前に、震源地にある被災世帯に家屋再建の資材を、洪水被災者には食料と寝具を、計5000世帯以上に配布しました。ネパールでは普段から「ありがとう」とあまり言わない文化で、私も活動中に感謝の言葉を聞いたのはたった一度だけでしたが、受け取りに来る人々の真剣なまなざしから、本当に必要とされている支援ができたんだという実感がありました。
NGOの海外駐在員の仕事は、事業の運営だけではなく、NGO登録、総務、労務、経理、人事、広報など、支援事業に関わる全てのヒト・モノ・カネを動かすマネジメントの仕事です。活動分野も、土木、農業、給水、青年活動、教育など、なんでもやりました。
基本的に、支援活動そのものは、現地NGOと連携したり、現地の専門家を雇ったりして、その土地のやり方に合わせたものを提供します。日本から持ってくる方が、時間もお金もかかる上に、現地に馴染みのないもので使えないことも多いからです。自分でニーズを見つけて、現地のリソースを引き合わせて、最終的には現地の人々だけでもうまく機能していくように支援事業を組み立てる。そんな黒子、あるいは潤滑油のような存在として働くことが好きでした。
そんな私も1年ほど休職したことがあります。日本と海外を行き来しながら、短期間で新規事業を作り上げては終わり、2カ月先はどんな仕事をしているか・どこにいるか分からないというハードワークに疲れていました。上司に相談したところ、どうしたら最も自分が社会に貢献できるのか常に考え続けるものだと助言されました。
休職した理由には、今までの活動に、もどかしさも感じていたこともあります。発災直後は特に全戸配布(blanket distribution)であることが多く、高齢者や子ども等の脆弱層のみを対象としたターゲット配付はリスト作成に相当のマンパワーと時間が必要です。ひとりひとり個別のニーズにも寄り添えるようになりたい、緊急期でもそんなアプローチができるのは保健医療だ、と思い、日本で働きながら看護師と保健師の免許を取得しました。
ウクライナ支援についてお聞かせください。
石川2022年にロシアによるウクライナ侵攻が始まりました。大きな衝撃でした。祖父が特攻隊員だったという戦争体験をきっかけに国際関係学部に入学し、世界の紛争にこだわって勉強してきた私としては、今まさに学びを活かす時、と思いました。侵攻の約1カ月後に、隣国のモルドバに入り、一時避難所の一角で仮設診療所を運営する事業を立ち上げました。
派遣された時期は、食料配布を中心とした緊急期から、中長期的な支援や受入国(モルドバ)の支援が求められる移行期ともいえる時期でした。支援グループでの情報や、提携する現地NGOなどから聞き取りをする中で、ウクライナ避難民の子どもを多く受け入れているモルドバの小中学校に改修工事が必要であることが分かり、チームでプロジェクトを立ち上げました。緊急人道支援では、求められる支援内容が刻一刻と変わり、支援の手から取りこぼされている人々がいます。そのようなニーズのギャップを見つけて、自分たちの手で、そのときに最も必要とされることをやる。そんな迅速性と柔軟性が、この仕事の面白さとやりがいです。
一方で計画通りにいかないことの方が多いのが難しいところで、根気強さが求められます。入職した時、上司からは「この仕事の7割は待つことです」と教わりました。会議の時間に相手がいなくても待つ、お願いしたことをなかなかやってもらえなくても待つ、支援物資の納品予定が少し遅れても待つ。
待てない時は、交渉と根回しを工夫します。色々なやり方があると思うのですが、私は「約束と違う」と正論を言うよりも、「私がこんな風に困ってしまう」と協力や同情を誘ったり、「いつならいける?」と相手に期限を言わせたりするなどの方法を好んで使いました。誠意をもって繰り返し説明すれば、たいていのことは分かってもらえます。
石川また、どんな大きい災害や紛争も、時間が経つにつれ、国際社会の関心が薄れてしまい、支援の幅を狭めます。復興には時間がかかります。発生直後の1年目は、食べるもの、住むところを確保するので精一杯です。時には避難所を転々とし、貯金を切り崩して、値上がりした物品を購入するしかありません。生活が落ち着き、現地ではやっとこれから復興に手がつけられるという2年目以降に、国際社会からの関心や支援金が不足することに、心苦しさがぬぐえません。
世界にはたくさんの危機があり支援しきれない、と感じるかもしれませんが、ぜひ皆さんとゆかりのある土地とは繋がり続けてもらえたらと思います。私も、どのようにしたら切れ目のない支援を展開できるのか、考え続けます。
今、携わっているウクライナ支援をやりとげた後は、日本の病院で臨床経験を積むつもりです。医療と人道支援、どちらにも独特の世界と文化があります。今はまだ別々に動いているようなところが多いですが、両者の懸け橋となって、相乗効果が期待できるような活動を作り上げるのが目標です。日本政府は「顔の見える支援」といいますが、私は「手のぬくもりが伝わる支援」がしたいです。
まだまだやりたいことはたくさんありますが、去年の秋に1人目の子どもを出産し、モルドバに戻ってきたものの育休中で、慣れない子育てに必死の毎日。私のキャリアも、これからです。
仕事で役立っていると感じられる学生時代の学びや経験を教えてください。
石川国際関係学部の授業、とりわけゼミでは、議論する時間がたくさんありました。所属していた君島先生のゼミでは、日韓プロジェクトに参加して、戦時中の歴史問題について議論しました。分かり合えないことも多々経験しましたが、その中でも、お互いにどこなら着地点を見出せるのか、深夜まで話し合いが続くこともありました。そのような経験からあきらめずに話し合う気力の土台ができたと思います。
国際社会で活躍する人材養成特別プログラム(オナーズ・プログラム)にも参加し、GSG(グローバル・シミュレーション・ゲーミング)で国際的な交渉を疑似体験したり、国際社会の最前線で活躍する人の話を聞くことができました。そこで強く印象に残っているのは「相手がやってくれないのは相手のせいではなくて、自分の責任」という言葉です。相手がやってくれるように自分が動く、自分が周りを、そして社会を変えていく人になる、そんな姿勢を学ぶことができました。このような経験があったからこそ、今の仕事でうまくいかない時も、諦めずに手を尽くして説明し、なんとか支援事業を運営できているように感じています。
学部時代は語学も勉強しました。必修の中国語、友人の多かった韓国語、アラビア語も2年やりました。在学中に話をした国連職員の方に「国連では30歳を越えたら一人前」と言われ、当時20代前半だった私は、「じゃあ今何をしたらいいですか」と率直に聞いたところ、「若い間は語学ができると重宝される」と言われたからです。その方は5言語ほど堪能だとおっしゃっていました。結果的に学部時代に勉強していた言語は今どれもさびてしまいましたが、大学院時代にネパール語を学んだことが今のキャリアにつながっており、その通りでした。
特にマイナーな言語は、話者が少ないので、重宝されると思います。時間のあるうちに、英語に加えてもうひとつ習得することを強くお勧めしたいです。私は今、モルドバで話されているルーマニア語とロシア語の勉強を始めました。
卒業されて感じる国際関係学部の魅力は何だと思われますか。
石川自由な学びが保障されていることです。留学、ゼミ、サークルなど、何をやってもいいですし、私のように留学には行かず、自分で見つけてきたスタディーツアーに参加して、コソボや東ティモールといった紛争地に行くなど、やりたいことを好きなようにやっても、ちゃんと卒業できました。選択科目も多く、学びの選択肢がたくさんあります。自分の関心をとことん深めることができる環境です。
さらに、その分野で最先端をリードする先生方がいらっしゃることも魅力です。一度社会に出ると、たとえ外交や国際協力に近い職場に身を置いていても学問からは遠のいてしまいます。今の世界を学術的にどう体系的にとらえられるのか。知らないまま仕事をしている人は多いと思います。国際関係学部で、最先端の学びを得られるのは大きな魅力です。学んだことは自信をもって、インターン先や職場でお話しされていいと思います。実践の場にいる人にとっては、新しく、興味深い話です。
また、様々なバックグラウンドの友人と出会い、卒業後も広い世界と繋がりつづけることができるのも魅力のひとつだと思います。基礎演習、GSG、ゼミなどで苦楽を共にした仲間とは、今でも連絡を取り合っています。
社会に出て苦労することはたくさんあると思います。自分は何をしているのか、自分はどこにいるのか、その「位置」に悩んだとき、話せる相手がいるのはありがたいことです。自分とは違う世界に飛び立った友人の話を聞くのも楽しく、自分の世界の広がりを保てます。いつか仕事上も繋がれることがあるといいなとも思いますが、そういうこと抜きに付き合える友人の存在は、今とても貴重です。
後輩学生、国際関係学部を目指す受験生へメッセージをお願いします。
石川学生時代の私は、とても生き急いでいて、早く社会に出たい、キャリアを積んでまた研究に戻りたい、と思っていました。しかし、今、振り返ってみると、国際関係学部で学んだ4年間は短く感じます。また、新卒で卒業した友人と比べ、3年も大学院にいた私は、随分と遅れていると思ったこともありましたが、長い人生では大した差ではなかったことが、卒業後12年経った今になって分かります。30代になりましたが、「一人前になった」とも思いません。学びも、キャリアも、研究も、まだこれからです。
「急いでもしょうがなかった」ということです。学生時代は未来が気になるかもしれませんが、今、学んでいる1つの授業を、空きコマの自由を、衣笠にいる一日を、どうか味わってください。関心の赴くままに本を読み、出かけることができるのは、今だけです。仕事はいつでもできますが、辞めるのは大変です。いつでも学びなおせますが、仕事と学びの両立は思ったほど簡単ではなく、仕事に引っ張られることが多い、という経験もお伝えしたいです。国際関係学部の環境を最大限に生かして、好きなことを好きなようにやりきってください。
広い世界ですが、狭い分野です。いつか世界のどこかで、お会いできるのを楽しみにしています。そのときは、学部で何を学ばれたのか、ぜひ教えてください。そして、同じ「国関生」として、これからの世界について語り合いましょう。
2024年3月更新
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