学院長コラム「考えてみチャイナ・中国のこと!?」バックナンバーその31~60


その31 「日中不再戦」の碑をご存知ですか?――嵐山の新たな観光スポットに(2018年10月31日(水))
■京都・嵐山に、「日中不再戦」と刻まれた大きな石碑が立っていることをご存知だろうか。――嵐山の中国関係の碑と言えば、周恩来記念詩碑(周総理が1919年、日本留学の際に立ち寄った京都で詠んだ詩「雨中嵐山」が刻まれている)が有名だが、現代的な意義から言えば、「日中不再戦」碑にも、もっと注目してほしいと考えている。というのも、中国からのお客さんを嵐山に案内する際には、周恩来碑だけでなく、必ず「日中不再戦」碑をも見てもらうのだが、この碑を見て感動の声を漏らさない中国人はいないからだ。何故か。まず、碑が建立された背景から紹介しておこう。

■日本と中国の全面戦争の発端となった盧溝橋事件(1937年7月7日)30周年を契機に、平和を望む広範な京都府民の間で、「日本と中国は再び戦わない」という決意を示す碑を建立しようという運動が、1967年春より草の根から始まった。当時はベトナム戦争が激しさを増している時期でもあり、ベトナムを爆撃する米軍機が、連日、日本の米軍基地から飛び立っていた。いわゆる「冷戦」体制に基づく厳しい緊張状況も続き、またいつ日本が戦争に巻き込まれるかもしれないという危機感から、「過去のアジア侵略戦争を反省し、未来に向けて平和を築いていく京都のシンボル」として、「日中不再戦」碑の建立が目指されたのだった。呼びかけ人には、当時の京都府知事・京都市長や立命館大学・同志社大学の学長、清水寺・立本寺の貫主など、京都を代表する29名の著名人が名前を連ねた。その結果、翌68年7月、2万人近い京都府民が賛同者となって230万円(現在の2300万円程度)の寄付が集まり、高さ3.6mの鞍馬石に、大西良慶清水寺貫主が「日中不再戦」と揮毫した碑が、嵐山公園内に建立されたのである。

■1968年と言えば、中国は、プロレタリア文化大革命(文革/1966~76年)による大混乱の渦中にあり、対内的には紅衛兵が跋扈し、対外的には「打倒日美〔米〕帝国主義!」といったスローガンが声高に叫ばれていた時期である。そんな時代に、海を挟んだ日本・京都の地では、数多くの京都府民が「日中不再戦」の思いを強く抱き、その思いを碑に結実させようとしていたことを初めて知った中国人が、京都府民に対して感謝の念と親近感を抱くのも無理はないところだろう。特に、訪日中国人が900万人に迫ろうとしている昨今(2017年786万人/18年は7月までで494万人。台風による関西国際空港の一時閉鎖があったため、今年の900万人達成は困難だろうが)、京都を訪れた全ての中国人に、是非とも「日中不再戦」碑を見てほしいと、私としても強く願っている次第である。

■今年は、「日中不再戦」碑建立50周年である。――建立当初は、碑の横に木製の駒札が立てられて、建立に関わる説明が記されていたという。しかし、木製ということもあって、1970年代後半には損壊してしまい、現在は、碑に関する説明がどこにも存在しない。そこで、この碑の建立に尽力して、現在もこの碑を管理している日中友好協会京都府連合会は、50周年を機に、碑が建立された経緯を日中両国語で記した銘板を作成する活動に取り組んでいるとのことである。「日中不再戦」そして世界の平和を祈念する嵐山の新たな観光スポットにしていくためにも、皆さんのご協力を、私としてもお願いしたいと考えている。
日中不再戦碑 


その32 中国「網絡〔ネット〕文学」の現状から――小説がまだ「力」を持っている?!(2018年12月2日(日))
■少なくとも大都会ではすでに、スマートホン決済に基づくキャッシュレス社会に、ほぼ全面的に突入していることに象徴される、近年の中国で急激に進むネット社会状況には、ちょっと付いていけないところがある。『産経新聞(ネット版)』8月20日付は、「中国政府系機関「中国ネット情報センター」が発表した「6月時点で、中国のネット利用者は8億166万人、普及率は57.7%に達した」という報告を紹介している。ちなみに、スマホ決済利用者も5億6608万人に上るとも記されていた。――こうしたネット社会化は、私が研究対象としている文学領域では如何なる様相を呈しているのだろうか。少し旧聞に属するのだが、本年9月14~16日に北京で開催された「第2届中国“網絡文学+”大会」について紹介させていただこう。「届」は定期会議の回数・年度を示し、「網絡」はネットを指す。即ち、「第2期中国“ネット文学+〔プラス〕”大会」ということになる(第1期は昨年8月に開催)。以下の内容は、ともに「第2届中国“網絡文学+”大会在京開幕」と題された2つのネットニュース(『光明網』9月16日、『新浪読書』9月17日)に依拠している。

■大会は、「網絡正能量 文学新高峰〔ネットのプラスエネルギー 文学の新たな高い峰〕」をテーマに、国家新聞出版署・北京市人民政府の指導、国家広播〔ラジオ〕電視〔テレビ〕総局・中国作家協会などの支持、党北京市委員会宣伝部・中国音像〔音楽・映像〕与〔と〕数字〔デジタル〕出版協会・北京市新聞出版広〔播〕電〔視〕局などの主宰、『光明日報』『光明網』の責任運営の下で開催されている。参加者は、ネット関連の学者・専門家、著名なネット文学企業、関連文化企業、ネット文学作家など1000人余とのことである。

■開幕式では、党中央宣伝部出版局副局長・馮士新、党北京市委員会宣伝部常務副部長・趙衛東らが挨拶を行なった。その発言要旨を読む限り、8月下旬に開催された「全国宣伝思想工作会議」における習近平講話を受けて、「新時代における人々の精神・文化生活面の新たな期待をよりよく満足させることが求められており、ネット文学の果たす役割は大きく、ネット文学を高度に重視し期待を寄せている。だが、現状では、まだ優秀な作品が数量的に乏しく、思想が欠落した物語や立場が欠落した市場といった比較的大きな問題も存在し、人々の期待との間には大きな隔たりがある。この克服を図ろう」といった、当然のこととはいえ、いわゆるネットの「規制」「健全化」に向けた意図が底流していることが看取できる。

■開幕式後に開催された「高峰論壇」では、中国作家協会副主席・書記処書記の李敬沢が「人民与〔と〕読者」と題した講演から始まった。李敬沢は著名な文芸評論家でもあり、ネット文学のあり方について、上記の挨拶よりはかなり文学プロパー的な視点から問題提起しているが、ここでは省略したい。中国音像与数字出版協会第一副理事長の張毅君が発表した「2017年中国網絡文学発展報告」が、興味深いデータ(全て2017年末の現状である)を紹介しているからだ。以下、箇条書き的に記しておく。

*ネット文学の作者数(45の大手ネット文学サイトにおける登録者数)は、1400万人に達した。内、契約者数は、前年比10万人増の68万人であり、その47%が本業として創作に従事している。1400万人の内、30歳以下が70%を占め、20歳以下も10%を占めている。
*サイトに掲載されたネット文学作品数は、累計で1647万部に上る。内6942部が紙媒体で書籍出版され、1195作品が映画化、1232作品がドラマ化(ネットドラマも含む)、605作品がゲーム化されている。
*優秀な作品も生み出されつつあり、金宇澄「繁華」のように、中国作家協会主催の「茅盾文学賞」(4年に1度開催する長編小説を対象とした権威ある文学賞)受賞作も誕生している(第9回受賞作/2015年)。また、海外で注目された作品も多く、すでに500作品以上が十数ヵ国で翻訳されている。
*ネット文学の読者は4億人を超えているが、30歳以下が70%を占めている。高学歴で消費能力も高い層が比較的多い。平均で年に4.9作品を読んでおり、読むのに費やす時間は、2015年の1日平均48.7分から73.4分に増加している。

■如何だろうか。ネット文学の内容(題材や質その他)の問題は措くにしても、この桁違いの数字には圧倒されるしかない。若者の文学への無関心が叫ばれる日本と比較した際には、中国では、まだまだ文学が、いや少なくとも小説は「力」を有しているように思われる。

■最後に補足を2つほど記しておく。実は、「高峰論壇」で基調講演した李敬沢の評論を、かなり昔に翻訳したことがあった(「「新世代」の物語」、『火鍋子』第64号、翠書房、2005年4月)。今回の講演のトーンとの差異に、やむを得ないとはいえ、感慨を抱かざるを得ない。また、「中国“ネット文学+”大会」の「+」の意味だが、ネット文学のみならずその関連・周辺分野(ネット文学を改編したドラマや関連産業など)をも視野に入れていることと、正しく健全な「プラス」の方向が示唆されていることにあるようだ。



その33 1980年代中国の本屋事情――目当ての本を買い込むのは大仕事だった…?!(2018年12月25日(火))
■12月初旬、恒例の世界孔子学院大会(第13期)に出席するため、四川省・成都に出張してきた。今回は、この12月末で任期を全うされる本学の吉田美喜夫総長(立命館孔子学院理事長兼任)も参加されたこともあり、会議の合間を利用して、成都の新名所「寛搾巷子」(「広小路と狭小路」。清朝時代の街並みを活用したモダンな観光ストリート)を見物する時間を取ることができた。独特の風情を楽しんだのだが、小さな書店に立ち寄った際には、妙な既視感に襲われてしまった。――本が展示されたショーケースの後に店員が立ち、その背後に本棚が並んでいて、客が自由に本を手に取れない構造になっていたのだった。

■1980年代の中国の一般的な書店では、本棚に並んでいる本を、客が自由に手に取って頁をめくって内容を確認することができなかった、と言ったら、驚愕する人も多いのではないか。少なくとも、じゃ買いたい本をどうやって選ぶのか、と口にしたくなる人は多いはずだ。当時の書店の構造はこうだった。――店舗の内壁には、当然ながら本が並んだ本棚が一列で並んでいる。ただし、下の方にはあまり本は並んでいない。何故なら、その前にショーケースが設置されており、その中には貴重書や話題書などが平積み(といっても大半は1冊のみだが)で置かれている。そして本棚とショーウィンドウの間には服務員が立っているのだ。簡単に言えば、デパートなどの売り場をイメージしてもらえばいいのかもしれない。ちなみに、部屋の中央の空間には、「収款処〔支払カウンター〕」が設置されていることが多かったようだ。

■本の買い方はこうである。まず、買いたい種類の本を扱っているコーナーへ行く。ショーケースの中に目を向けると新刊の話題書などが置かれているので、興味深いものがあれば服務員に声をかけて取り出してもらう。手に取って頁をめくった末に購入を決めたら、「我要〔僕、買います〕」と言えば、カーボン紙を挟んだ購入伝票に書名と値段を手書きし、控を残した伝票を渡される。次に、ショーケースの後の本棚を眺める。既刊の様々な本が並んでいるのだが、少し距離があるので、背表紙の文字がかなり見えにくいことも多い。目を凝らしながら背表紙を追っていると、これは買わねば、と思わされる本に出くわすだろう。その際にも服務員に声をかけて取ってもらうしかない。でもタイトルがよく見えないために、「添麻煩,給我看一下,那本題目是文学理論的現代化什麼的書…〔面倒かけますが、僕にちょっと見せて下さい、あのタイトルが文学理論の現代化云々っていう本…〕」などという言い方になってしまう。服務員は面倒くさそうに本を取ろうとするが、こちらの指定と違う本に手をかけることも多い。「不是這本,傍辺的那本藍色的書…〔それじゃない、横にあるあの青色の本…〕」といった、本の色で伝えるしかなくなったりもする。ようやく目的の本を渡してもらうが、頁をめくったところ、当然ながら期待していた内容ではない場合も多い。その際には、「這本書不用了!〔この本は必要ない!〕」と言って返すしかないのだが、露骨に嫌な顔をされ、時には舌打ちされたりもしてしまうのだった。で、支払いだが、伝票を持って「収款処」へ出向いて代金を払い、領収印をもらって元のコーナーに戻ると、服務員がようやく本を紙紐(!)で束ねて、最後にポンと投げて終わりとなる。本を1冊買うのにも、かなりのエネルギーを費やさねばならなかった。

■まだ計画経済の影響が強く残っている時代で、余剰労働力も豊富だったことがよく分かる。服務員はおしゃべりばかりしていて、客が呼んでも無視されることも多く、ショーケースを叩いてこちらに来させたこともあった。――この12月は、いわゆる「改革・開放」40周年に相当する。鄧小平が実権を掌握して「改革・開放」政策に舵を切ることを決めた中国共産党11期3中全会は、1978年12月18~22日に開催されたのだった。中国の変化の激しさを、改めて思い知らされるしかない。ちなみに、冒頭で触れた成都の小さな書店は、高価な稀覯本をショーケースに並べていたにすぎなかった点は、改めて付記しておく。末尾に一言。来年も立命館孔子学院へのご支援のほどを、何卒よろしくお願い申し上げます。



その34 「よしなに!」が通じない?!――中国語で言えば「随便」か「酌情」か(2019年1月29日(火))
■先日、ゼミ(3・4回生合同ゼミ)の今期最終授業があったのだが、大半の4回生にとっては大学における最後の授業だったらしく、妙に感慨深くなったようで、終了後、急遽ゼミコンパ(「コンパ」という用語についても後に言及する)が開かれることとなった。4回生を中心に、学生時代の思い出と社会に出ることの期待と不安が語られて大いに盛り上がったのだが、その場で、しばらく立ち直れないほどの衝撃的な事実を知らされたのだった。――ある4回生女子学生が、「宇野木ゼミに入ってきた学生は皆、『よしなに』という言葉に初めて直面して、これってどういう意味かわからなくて、辞書やネットで調べていたんだってこと、先生、知ってました?」と言われてしまったのだ。その発言直後、皆ではないにせよ、数人のゼミ生たちが、何故か嬉しそうに「そう、そう!」と頷いていた・・・。

■確かに、学生宛のメール(最近では学生相手の場合はLINEが大半だが)では、「次回のゼミの報告、よしなに頼むよ!」といった表現を多用しているし、メールの末尾を、「以上、何卒よしなに。ではまた。再見!」という言葉で閉めることも多い。文章語としては、「よろしく」よりも「よしなに」の方が落ち着きがあるような個人的感覚もあり、また、「よろしく」は頻出しやすいので、繰り返しを避ける意味もあって、「よしなに」を用いることも少なくないようにも思う。だが、まさかその「よしなに」が学生には通じていなかったとは、正直なところ、考えたこともなかった。

■ネットで「よしなに」を検索すると、①「よろしく」とほぼ同義で、②「円滑に物事が進むように」や「うまい具合に」という意味で用いられるが、③具体性のない言葉なので、指示を出す場合は用いない方がよい、④「よしなに」という指示が出た際には、理解のすれ違いを防ぐために具体的に質問する必要がある、といった説明に行き着く。類語としては、「適宜に」「ふさわしく」「よろしく」「然るべく」などが列挙されているが、基本的には具体性に乏しい言葉なので、「ビジネスシーンにおいてはNGワードの1つ」とまで言い切っている記事もあった。

■では、「よしなに」を中国語に直すとどうなるのか。手元の日中辞典を引くと、「隋便」「随意」や「適当」「恰当」そして「酌情」などの単語が挙げられている。日本語に訳せば、「勝手に」「気ままに」「気軽に」から「適宜に」「適切に」「事情を斟酌して」に到るまで、まさに多彩なニュアンスの単語が並んでおり、「よしなに」の多義性を思い知らされるしかない。なお、中国語の「適当〔适当〕」には、日本語の「適当」に含まれる二重性(「程よく当てはまる」/「いい加減だ」)はなく、「ふさわしい」「妥当だ」「適切だ」の意味(日本語の二重性のプラスの意味)となっている点にも留意したい。

■冒頭で「コンパ」と記してしまったが、最近の学生は、「コンパ」という言葉も使わなくなっていることをご存知だろうか。2年ほど前だったか、ゼミの終わりに「今日、コンパやろうぜ」と言ったら、「先生、ヤラシィ!」と冷やかされて戸惑ったことがある。近頃は若者の間で「コンパ」と言えばいわゆる「合コン」を指し、学生仲間などが集まって酒を飲む場は、「飲み会」(略して「飲み」ないし「呑み」とも)と呼ばれているのだった。私としては、「飲み会」の方がよほどオジサン臭いと思うのだがどうか。ともあれ、若者言葉に付いていけなくなりつつあるのは、認めたくはないのだが、事実なようだ。――遅ればせながら…本年も孔子学院へのご支援のほど、何卒「よしなに」お願いいたします。



その35 「1 3 1 4 5 2 0」って何でしょう?――数字語呂合わせの日中比較(2019年2月28日(木))
■本年は、中国にとっては「周年行事」が目白押しの1年である。中華人民共和国建国70周年だし、中国近代の始まりを示す指標の1つである五四運動100周年をも迎える。――今年度最後の大学院授業(受講生は遂に全員が中国人留学生となってしまった!)はそんな話で締め括ったのだが、同時に、「六四・天安門事件」30周年(1989年6月4日に勃発)であることを忘れないでほしいとも付け加えた。

■結果としては鎮圧に到ってしまったが、何故1989年にあれほどの民主化運動が盛り上がったのか。実は、自由・平等が叫ばれた市民革命であるフランス革命が1789年に起こっていたこと、即ち、フランス革命200周年だったこと、また、北京の学生が反帝反封建のデモに立ち上がった五四70周年だったことも、その背景には存在していた。文革後、経済改革に比して遅れがちだった政治改革に向けて、五四やフランス革命をテーマに意見を述べ合う「民主サロン」が大学内外で開催され、それを契機に数多くの市民・学生が街角に繰り出していったという側面があったのだ。――そんなことも是非知っておいてほしいと、つい熱っぽく語ってしまったのだが、最近の中国の若者は、当然ながら「六四・天安門事件」についてよく知らずにいることを、改めて思い知らされるしかなかった。

■ところで、授業後、中国人院生に、「先生はフランス革命の年号まで、よく覚えていますねぇ、びっくりしました!」と言われてしまった。「日本では、語呂合わせで歴史的年号を覚える習慣があって、平安遷都の『鳴くよ〔794〕鶯、平安京』、『いい国〔1192〕作ろう鎌倉幕府』などが有名だよ。フランス革命は『王様に避難波及〔1789〕し革命起こる』と覚えたけど、歴史の参考書のコラムか何かに載っていたんじゃなかったかな?」と答えたら、「中国にはそんな覚え方はあり得ない」と言われてしまった。「じゃあ、どうやって覚えるの?」と聞いたところ、「年号そのものは試験に出ないので、おおよその歴史の流れを、因果関係に基づいてしっかり勉強するのが一般的です」という真っ当な答えが返ってきた。

■確かに、日本語の場合、音読み・訓読みが存在するため、例えば「1」は「イ〔チ〕」「ヒ〔トツ〕」、「9」は「ク」「キュウ」「コ〔コノツ〕」など複数の読み方が可能になり、語呂合わせがしやすいのだ。従って、年号に限らず、電話番号から日付に到るまで、数字を語呂合わせで記憶したりアピールさせたりすることも多いようだ。ちょっと古いし、たぶん関東地方中心にしか流れなかったのでローカルな話題になってしまうかもしれないが、「伊東に行くならハトヤ、電話はよい風呂〔4126〕」というCMソング(伊東温泉ハトヤホテル)は、50歳以上の東京出身者の耳にはこびり付いているし、11月22日を「いい夫婦の日」と定めて、この日には、花束でも買い込んで帰らねば何となく落ち着かない気分にさせているのも、そうした一例と言えるだろう。

■中国語の場合、基本的に数字の発音は1つなので、語呂合わせはしにくい、ないしごく単純なレベルに留まるようだ。中国人の好きな数字は「8」や「9」だとよく言われるが、それは、「8〔ba〕」の発音が「発財〔facai=金持ちになる〕」の「fa」に通じ、「9〔jiu〕」が「長長久久〔changchang jiujiu=末永く長生きをする〕」の「jiu」と同音だからだ。「じゃ、数字を使って、何か他の意味を示すような例ってあるのかな?」と聞いたところ、女子院生に、「先生、『5』『2』『0』という数字を順番に、若い中国人女性に向かって連呼したら問題になりますよ。注意を!」と言われてしまった。何故か、わかるだろうか。

■「5 2 0」の発音「wu er ling」は、「我愛你〔wo ai ni=僕は君が好きだ〕」に通じるからだそうだ。「n」の音は方言ではしばしば「l」の音に変わり、「er〔アル〕」の発音は「ai〔アイ〕」の発音に近いからだという。中国のポケベル普及期(1990年代末から2000年代初)に始まった数字による意味伝達の1つらしいが、最近、SNSの普及で再流行しているとのことだった。今の流行りは「1 3 1 4 5 2 0〔yi san yi si wu er ling〕」で、「一生一世我愛你〔yi sheng yi shi wo ai ni=生涯僕はあなたを愛す〕」となるそうだ。――中国人留学生、特に大学院生クラスと話していると、感慨深いことが多くなる。歳のせいだろうか…。



その36 数字語呂合わせの補足――小野秀樹『中国人のこころ』を紹介する(2019年3月16日(土))
■今回のコラムは、最初に一言、お断わりを記すしかないようだ。――前回、「鳴くよ〔794〕鶯、平安京」や「1314520〔一生一世我愛你〕」といった例を挙げながら、日本語と中国語の数字語呂合わせにおける比較を紹介したのだったが、コラム発表後まもなく、小野秀樹『中国人のこころ――「ことば」からみる思考と感覚』(集英社新書、2018年12月)を読んで、思わず声を上げてのけ反ってしまった。その第4章で、私が用いたのと同じ「520」や「1314」などの数字語呂合わせが、ずっと詳しく論じられていたからである。――ヤバい、宇野木がパクったと思われるに違いない!との不安にも駆られたのだが、その一方で、著名な言語学者で東大教授の小野さん(まだ面識はないのだが)と、少しでも類似の発想が浮かんだことを、密かに喜んでしまったのも事実である。我ながらお恥ずかしい…?!

■小野著も、中国語は日本語より数字語呂合わせが圧倒的にしにくい言語で、中国ではほとんど見かけないと記している。だが、台湾では電話番号の語呂合わせも散見されるとして、幾つか列挙していたので紹介しておこう。なお、「我〔wo〕」が「5〔wu〕」、「你〔ni〕」が「0〔ling〕」で示されるのは、台湾・中国ともに共通である。
*外交部(外務省):「海外からの緊急救助ダイヤル」=886—800—085—095(「你幇我,你救我〔私を手助けして下さい、私を救って下さい〕」)/「8〔ba〕」→「幇〔bang〕」、「9〔jiu〕」→「救〔jiu〕」
*社団法人国際生命線台湾総会:「命のダイヤル」=台湾全土23ヶ所の電話番号の下4桁は全て共通で1995(「要救救我〔私を救って欲しい〕」)/「1〔yi〕」→「要〔yao〕」
*某大学構内:「緊急保安ダイヤル」=615—8024(「留意我,幇你24〔私のことを気に留めていて下さい、あなたを24[時間]お手伝いします〕」)/「6〔liu〕」→「留〔liu〕」、「1〔yi〕」→「意〔yi〕」

■なお、「0〔ling〕」が「你〔ni〕」に通じる背景には、二人称代名詞「你」にはもっと丁寧な表現として「您〔nin〕」があり、より「0」に近い発音となっている点がある。前回も記したように、「n」と「l」は、方言の発音などではよく転化されるのだ。また、「1〔yi〕」が「要〔yao〕」に通じるのは、「yi」は「7〔qi〕」の発音に近くて聞き間違えやすいため、中国・台湾ともに、電話番号やルームナンバーなどを呼ぶ際には、「1」を「yi」ではなく「yao」と言う習慣があることによる。日本語でも「7」を、「イチ」と聞き間違えやすい「シチ」でなく「ナナ」と呼ぶのと同じである。ちなみに、「yao」の漢字は「幺(么も用いる)」であり、昔はサイコロの「1」を意味し、博打用語として用いられていたらしい。麻雀好きな人なら、ここでニヤリとするのではないか。麻雀で「一」「九」「字牌」を用いない役を「タンヤオ」と呼んでいるが、正式名称は「断么九〔duan yao jiu〕」で、「一」「九」牌を「断った」役という意味となっていたのだった。――こうした説明は、小野著には記されていないようだが、やはり、言わずもがなだからなのだろう。

■小野著は、いわゆる「サピア=ウォーフの仮説」(言語相対性仮説)、即ち、「言語の違いは、思考や世界の認識に対して影響を及ぼす」という仮説に基づいて、中国語の構造やそこに見られる種々の現象から、中国語を母語とする人々の「集団」(=中国人)に普遍的な思考様式や感覚を読み解こうとする興味深い試みである。中国語そして中国人を、知り考えていく様々なヒントが山盛りである。是非、手に取ってみてほしいと思っている。

■このコラムの締切は毎月末なのだが(間に合わず、翌月初旬提出!になってしまうことも多いが)、今回の話題に関しては、少し早めに読んでもらった方が要らぬ誤解も生じないようにも思われるので、未だ3月中旬ではあるがアップさせていただく。――そして最後に、私にとっても楽しみなお知らせを一つ。今秋、孔子学院の特別企画として、小野秀樹さんの講演会を開催することが決定した。詳細は追ってお知らせします、ご期待下さい!



その37 珍しい姓について?!――中国の「複姓」の話など(2019年4月24日(水))
■4月は「出会い」の季節である。所属する東アジア研究学域の新入生と全教員の初顔わせの場から始まって、今期担当する各授業の冒頭に到るまで、一体、何回の自己紹介をしたことか。だが、その自己紹介の度に、ちょっと怪訝な顔をされてしまうのには、未だに慣れないところがある。――私の姓は宇野木(うのき)という、名前にはよく見かける漢字の組み合わせではあるものの、実はかなり珍しい姓であるため、一瞬、聞き取れなくなる人もいるようなのだ。私自身、親戚以外の宇野木姓の人には、今まで遭遇したことがない(「宇ノ木」姓には出会ったが)。ネットの「なまえさあち」サイトによれば、宇野木姓は全国で約600人しかおらず、日本人姓別ランキングで第11591位とのことだから、やむを得ないところだろう。ちなみに、名も「ひろし」ではなく「よう」と読むので、初対面の人に姓名を正しく呼んでもらったことは一度もない。高校入学時に、クラス担任に「うの・ぼくよう」君と呼ばれた際には、さすがにのけ反ってしまった記憶がある。

■中国人(漢族)の姓別人口に関しては、本コラムの記念すべき(!)「その1」(2016年4月26日)で紹介したことがあった。ただし、当然ながら、ランキング上位についての紹介で、「最新の「姓別ランキング」は、第1位=李(9530万人/漢族総数の7.94%)、第2位=王(8890万人/7.41%)、第3位=張(8480万人/7.07%)、第4位=劉(6460万人/5.38%)、第5位=陳(5440万人/4.54%)となっており、トップ5の合計は4億人近くに上る」といったことを記したものだった。ならば今回は、ということで、姓別人口の極めて少ない珍しい姓である「複姓」について、簡単に紹介しておこうと思う。

■中国人の姓は漢字1文字(「単姓」)が圧倒的に多いのだが、実は「複姓」と呼ばれる2文字(以上)の姓も存在することをご存知だろうか。有名人を例に挙げれば、司馬遷(『史記』を著した歴史家)の司馬、諸葛亮(字は孔明/『三国志』に登場する軍師)の諸葛、欧陽菲菲(オーヤン・フィーフィー/「雨の御堂筋」「ラヴ・イズ・オーヴァー」で有名な台湾出身の歌手)の欧陽などが該当する。――そういえば、以前、司馬遷を「単姓」だと思い込んでいて、「し・ばせん」と発音した学生がいたことを思い出す。中国人と言えば姓は1文字との印象が極めて強いことを、改めて思い知らされたものだった。

■中国版「ウィキペディア」である「維基百科」によれば、「複姓」の起源は、官名・爵位名・宗族名・封地名・居住地名・民族名などに由来するとのことである。また、現存する「複姓」は81種類で、「十大複姓」と呼ばれるのは、姓別人口の多い順に、欧陽・冷狐・皇甫・上官・司徒・諸葛・司馬・宇文・呼延・端木となっているようだ。ただし、最多の欧陽でさえも、姓別人口は88万人で、ランキングは第149位に留まるとのことだった。なお、3文字以上の「複姓」は、基本的に漢族以外の、いわゆる少数民族の姓(特に、少数民族語の姓を漢字表記にした場合など)に限られるようである。いわゆる「ラスト・エンペラー」=清朝(満族王朝)最後の皇帝である愛新覚羅溥儀における愛新覚羅などが、それに当てはまる。

■最後に、まだあまり調べ切れていないのだが、2点ほど付記しておく。1つは、「複姓」の珍しさはわかったが「単姓」でも珍しい姓はあるはずで、それは何かという問題である。「YAHOO!知恵袋」には、『人民中国(インターネット版)』の記事に基づいて「最も少ない姓」として難・死・山が挙げられているが、ネットで調べてみても諸説あって、まだ何とも言えないところがある。2つ目は、「複姓」とは似て非なる「双姓」の存在である。1990年代に阪神タイガースでプレーした台湾出身の投手に郭李建夫がいるが、彼の郭李姓は父親の姓・郭と母親の姓・李を結合したもので、これを「双姓」と呼んでいる。中国圏は夫婦別姓でしかも少子化も進行しており、稀ではあるが、こうした「双姓」も見受けられるようだ。だが、これについてももう少し調べてみないと、自信を持って実態紹介まではできないところがある。以上の2点は、今後の課題とさせてもらおう。



その38 コメントしておきたいこと二点ほど――「天安門事件」30周年にあたって(2019年7月16日(火))
□最初に、この5・6月分と2回にわたって本コラムを休載してしまったこと、お詫び申し上げなければなりません。実は5月末より体調不良に陥ったものの原因不明な状況が続いていたのですが、集中検査の結果、肺炎と判明し、10日余りの入院を余儀なくされてしまった次第です。在宅治療も含めて、授業に関しては2週間強の休講をするしかなく、また、会議その他も含めた学内職務への復帰までには1ヶ月弱ほどの時間がかかってしまい、研究も含めた日常業務に支障をきたさずにすみ始めたのは7月に入ってからとなってしまいました。現在は、ほぼ回復しつつありますので、ご安心下さい。――ということで、2回の休載につきましては、ご海容下さい。今後は健康にも留意しつつ、焦らず慌てず書き進めていこうと思っていますので、何卒よろしくお願い申し上げます。

■本年6月は、いわゆる「天安門事件」の勃発30年に相当したので、この間、各種マスコミにおいても、多くの特集記事・報道などが発表された。――では、「天安門事件」とは何だったのか。30年という歳月も流れ、風化も進んでいるとも言われているので、『朝日新聞』2019年6月1日付掲載の「解説コラム」=「天安門事件」を引用しておく。「1989年4月、中国共産党の改革派指導者だった胡耀邦・元党総書記が死去。追悼する多数の学生や市民が北京の天安門広場に集まり、民主化を求める大規模な運動に発展した。鄧小平ら党指導部は運動を「動乱」と断じ、6月3日夜から4日未明にかけて軍を投入して運動を制圧。当局は死者を319人と発表したが、実際の犠牲者ははるかに多かったとされる。」

■私としては、この「解説コラム」の内容に異を唱える点は全くない。強いて言えば、「文革」(1966~76年)という未曽有の大混乱状況を二度と繰り返さないために如何なる政治・経済体制が必要かという、いわば国民的な議論(といっても、実際は知識人・学生が中心ではあったが)が、1980年代中国では想像以上の規模で旺盛に展開されていたことの再確認と、胡耀邦死去後、党総書記を任されたのは趙紫陽であり、趙紫陽の抱く政治改革プログラムは胡耀邦とイコールではなかったとはいえ、彼もまた党改革への意欲を強く持った指導者でもあったことへの紹介などは、付記しておいてもよいかもしれない。

■だが、「天安門事件」による犠牲者数をめぐる報道に対しては、以前よりどうしても気になる点が存在していたのも事実なので、この場で記させていただく。――今回も「報道ステーション」(テレビ朝日)において、富川悠太キャスターが、「犠牲者は1万人以上とも言われている」といった言葉を口にしていたが、それはやはり少し誤解を生みかねない表現ではないかと思うのだが、どうだろうか。

■当時は衛星放送が始まったばかりで、民主化要求運動を「動乱」と規定して北京市の一部地域に戒厳令を施行した5月19日以降の天安門広場の状況が、日本のテレビでも長時間にわたって生中継で放映されることがあった。数千人規模の学生が天安門広場に張ったテントに立てこもり、「動乱」規定に抗議し、政府との対話を求めてハンストに突入したりする学生の姿が放映され続けた直後の6月4日未明、天安門広場のテントを押し潰す人民解放軍の戦車や装甲車の映像が流れたのだ。数千人の学生が虐殺されたと思わされたのも仕方がないかもしれない。だが実は、広場に立てこもっていた学生たちは、劉暁波(2010年にノーベル平和賞受賞)をはじめとする学生運動のブレーン的役割を担った知識人たちの説得を受け、解放軍が広場に突入する直前に、全員が天安門広場から撤退していたのだった(知識人たちは戒厳部隊の最高司令官と交渉し、「部隊は広場の東南の隅に学生が撤退するための通路を確保する」との約束も取り付けていた)。この点に関しては反体制派の劉暁波でさえも、ドキュメンタリー映画『天安門』(カーマ・ヒントン他監督、1995年)のインタビューで「広場での虐殺はなかった」と証言しているし、交渉に当たった劉暁波の盟友・周舵も、本年6月2日に時事通信に寄せた手記「改革は死なず」において、「我々の力で数千人の学生や市民を無事に広場から連れ出せるとは、私自身も含めて誰も予想していなかった」と記している。

■もちろん、天安門広場というスクエア内部では死者は0名だったとしても、戦車・装甲車も含む解放軍の隊列が天安門広場を目指して行軍して来る過程で、北京市内の多くの箇所で、解放軍に抗議する市民・学生と衝突して発砲したのは事実である。私としても、死者319人(暴徒化した市民にリンチを受けて殺された解放軍兵士も含むとされている)という当局発表を超える犠牲者が生じている可能性は高いと考えるが、といって、数千人から1万人もの犠牲者という表現は、少し誤解を招く可能性があるのは事実だろう。また、私の記憶によれば、事件勃発直後は「2000~5000人」といった報道だったが、1990年代後半から2000年代に入ってからは、「数千人から1万人以上」との表現も目に付くようになったように思われる。中国の国際社会におけるプレゼンスの大きさと比例している点には留意したいと考える。

■なお、誤解ないようにしていただきたいが、私としても、死者319人ないし数百人規模であるなら問題ない、小さい事件に過ぎないなどと考えているわけでは全くないことは、断わるまでもない。「天安門事件」の持つ問題性については、それへと到る過程も含めて、中国民主化の動向・段階とも絡めて今後も考えを深め、自分なりの発言を続けていきたいと考えている。(なお、「天安門事件」に関しては、事件直後の刊行とはいえ、矢吹晋編著『天安門事件の真相〔上・下巻〕』(蒼蒼社、1990年6月/9月)が、事件の「真相」にかなり迫っている実証的研究として評価されていることを、改めて付記・紹介しておく。)

コラムVol.38写真■「天安門事件」に関わっては、日本ではあまり知られていない1枚の写真をも紹介しながら、もう一点のみ、簡単にコメントを記させていただく。この写真中央のハンドマイクを持った人物は趙紫陽である。1989年5月19日早朝4時過ぎ、前夜の会議で、戒厳令施行に唯一反対したものの、結局は鄧小平らに敗れ強行決定させられた後に、天安門広場にやって来てハンストを続ける学生たちに向かって、「我々は来るのが遅過ぎた。申し訳ない。諸君が我々を叱責し批判するのは、全く当然だ」と声を詰まらせながら語った際の写真である。これ以降、趙紫陽は公の場に顔を出すことなく、失脚が明らかになった。

■ここで、趙紫陽の向かって右後方に立つ黒い人民服を着ている人物に注目してほしい。どこかで見たような顔ではないか。――結論から先に言えば、実はこの人物こそ、前総理・温家宝である。温家宝は、当時、党中央弁公庁主任という役職に就いていたこともあるのだろうが、趙紫陽が天安門広場に立てこもっていた学生たちに謝りに行く場に、まさに同行していたのだった。学生たちの民主化運動に対して、ある程度にせよ、関心ないし共感と理解を備えていたと見てもよいのではないだろうか。「天安門事件」直後に自己批判したからだとも言われてはいるが、温家宝は政治生命を長らえて、遂には党のナンバー2にまで上り詰めている点には、やはり注目しておくべきだろう。

■「天安門事件」に対する見直しは、現在の豊かな強国としての中国を築く礎を据えた、いわば「第二の建国の父」とも呼ぶべき鄧小平に対する批判に繋がっていくので、そう簡単には進まないだろうとは私も思う。だが、当時の民主化要求運動があれほどまでの広がりを持った背景には、当時の党中枢にも、かなりの共鳴者が存在していたことは間違いないし、そこから温家宝をはじめ、次世代・次々世代の党指導層が誕生してきているのも確かだと考える。今後の動向に注目したい。――2回分休載となったため、今回は少し長めになってしまった。意のあるところを汲み取っていただければ、勝手ながら幸いである。



その39 日本における中国「大衆文学」の流行――史上初めての画期的な現象(2019年8月31日(土))
■現在、日本の読書界では、中国の小説をめぐってかつてない画期的な現象が生じているのをご存知だろうか。――中国ないし中国語圏で中国語を用いて書かれた「大衆文学」(の翻訳)が、かなりのベストセラーを輩出しつつあるのだ。「三国志」や「西遊記」といった古典小説が地味に売れていたり、中国現代文学の父と呼ばれる魯迅の小説が、国語教科書にも収録されていることもあって、たまに話題になったり、莫言がノーベル文学賞を受賞した際に、一部の文学好きの間で小さなブームが起きたりといったことはあったが、同時代小説が十数万部の売れ行きを示したり(『三体』)、「週刊文春ミステリーベスト10/2017年度第1位」などに入ったりした(『13・67』)ことは、まさに日本で初めての現象と言えるのではないだろうか。――なお、「大衆文学」(いわゆる「純文学」に含まれない作品を指す)という用語を用いてしまったが、私自身は、文学を「純文学/大衆文学」という二項対立で捉える考え方には反対している点はお断わりしておく。他に適切な言葉が見つからなかったので、あえて使用させてもらった。

■上記で「大衆文学」と呼んだジャンルは、具体的にはSFとミステリである。私がこうした動向を本格的に意識し始めたのは、SF・ミステリ分野の有力出版社・早川書房が刊行している雑誌『ミステリマガジン』2019年3月号が「華文ミステリ」特集を、『SFマガジン』2019年8月号が「『三体』と中国SF」特集を組んだことによる。なお「華文」とは広義の中国語を指し、今回の「華文ミステリ」特集では、中国・香港の作家の小説を収録し、台湾のミステリ状況を紹介している。

■『SFマガジン』が特集した『三体』(早川書房、2019年7月)に関しては、『朝日新聞』2019年8月2日付が、「中国SF、国家の隔たり超えて/小説『三体』日本でも10万部超」「著者・劉慈欣さん 人類協力の物語 共鳴 科学の希望信じる」「弾圧や批判 ヒューゴー賞で一変」といった大小の見出しを付けた長文の作者インタビュー記事を掲載していたので、知っている人も多いのではないか。『三体』は、物理学者の父を文革で惨殺され、人類に絶望したエリート女性科学者が、宇宙に向けて発信した電波が惑星「三体」の異星人に届き、人類の危機を招くという物語のようだ。「三体」という言葉は、宇宙に質量を持つ3つの物質があれば引力が相互に働き、現在の物理学では動きが予測できないという物理学の「三体問題」から着想を得たという。――「ようだ/という」で分かるように、実は『三体』は購入したものの、まだ読めていない。何とか早めに読んで、中国で2000万部のベストセラーで、アジア初のヒューゴー賞(SFの世界最高文学賞だそうだ)受賞作であるこの作品について、読後感を紹介することにしたいとは思っている。乞うご期待?!

■「趣味は読書、特にミステリ。いわゆる『新本格』は、そこそこ読んできた」と広言してきた私としては、前出の「華文ミステリ」特集にも導かれて、中国大陸出身の陸秋槎『元年春之祭』(早川書房、2018年9月)、台湾出身の寵物先生(ミスターペッツ)『虚偽街頭放浪記』(文芸春秋、2010年4月)、香港出身の陳浩基『13・67』(文藝春秋、2017年9月)などを読んでみた。ミステリという性格から、小説の内容に深く立ち入って紹介することは避けるしかないだろう。以下、印象批評的になってしまうが、感想を述べておきたい。

■ミステリとしての成熟度という観点から強引に順序をつければ、やはり「香港→台湾→中国大陸」という順位付けにするしかないように思わされた。――『元年春之祭』は前漢時代を舞台に、かつて国の祭祀を担った一族で起こった連続殺人事件を、4年前の前当主一家惨殺事件と絡めて解き明かす物語で、しかも2つの「読者への挑戦状」が挿入されるという凝りようだ。だが、探偵役は17歳の少女であるにもかかわらず、漢籍や民俗学・宗教学に関わるぺダンチックな議論が飛び交うのだ。ミステリ的要素以外の完成度は低い印象は否めない。『虚擬街頭放浪記』は、大地震の被害で寂れた台北の繁華街をネット上に「虚擬街頭」=ヴァーチャルストリートとして再建する計画が進む中で、そこに入り込んでしまった人間が遭遇した殺人事件が描かれていく。SF的設定の中で構築された独特のトリックは興味深い。『13・67』は連作短編集で、「13」が示す2013年から「67」の1967年までの6つの時期に起こった事件を遡行しながら描く中で、香港の社会の変化を浮き彫りにしていく。私としては巻頭に置かれた「黒と白のあいだの真実」における、究極の安楽椅子探偵を設定しつつ、最後に見事な背負い投げを打つ構造には脱帽させられてしまった。日本の「新本格」の傑作にも匹敵するレベルではないだろうか。なお、香港警察官の苦悩もテーマになっており、昨今の香港における対政府抗議デモの背景を知ることもできる。

■独断と偏見に満ちた紹介になったが、手に取っていただくきっかけになればうれしく思う。中国(語圏)の同時代「大衆文学」の流行は、日本人の中国への関心を高めていくことに繋がるに違いない。隆盛を期待したいし、私なりに紹介も続けていきたいと考える。



その40 「行千里,致広大。」――人口世界第1位都市・重慶を堪能してきた!(2019年10月3日(木))
■9月上旬、ゼミ旅行で重慶に出向いて来た。――何故、重慶だったか。ゼミ生の1人に重慶にある四川外国語大学に1年間留学した学生がいたからである。そうした手がかりがなければ、四川外大には日本人留学生はたった3人しかいないことに示されるような、日本人にはかなり馴染みの薄い重慶にまで足を延ばす機会はないだろうとの思いがあった。ただし、移動に丸々1日必要なことから4泊5日という日程を組むしかなかったこともあり、参加者が例年より少なくなってしまったのは残念だった。なお、私は16年ぶり2回目の訪問だったが、前回は短期の校務出張だったため、今回を大いに楽しみにしていた。そして、重慶の持つ「多面性」をかなり堪能できたので、その一端を紹介しておこう。

■重慶市は人口3022万人(2018年)で、実は「世界市域人口ランキング」第1位、即ち、人口世界第1位の都市となっていることをご存知だろうか。なお、面積は82300平方㎞(北海道より少し小さい)である。現在の中国は、沿岸部に比して遅れが目立つ内陸部の発展を最大の課題としているが、重慶は、内陸部の発展を支える中核都市に位置づけられて、周辺地域の合併の上、1997年、北京・上海・天津に並ぶ直轄都市に格上げされたのだった。また、日本との関係で言えば、大陸における中華民国最後の首都が重慶に置かれたこともあって、日本軍による218回(1938年末~43年8月)にも及ぶ重慶爆撃が展開されたことも忘れるわけにはいかない。重慶の現在・過去における重要性については、日本人は、もっと知るべきだろう。ちなみに、在中国日本国総領事館も設置されている。

■10月1日は中国の建国記念日「国慶節」で、今年は70周年を迎えたのは周知の通りだ。従って、1949年10月1日に全国が一斉に中華人民共和国になったように思われているが、実は、いわゆる「解放」、即ち、各地域が共産党を中心とした軍隊の侵入によって、その勢力下に入った時期が、10月1日より遅れた地域は、実は幾つも存在したのだ。例えば、最も遅れたチベットの「解放」が宣言されたのは、1951年1月1日だった。重慶の「解放」もまた、国民党政府が置かれていたという特殊な環境下にあったことにより、49年11月31日と、建国宣言よりも2ヶ月遅れとなっている。

■重慶を舞台した小説に、「中国革命文学選」の1冊として翻訳され、1960年代の学生(の一部)の間で話題になった『紅岩』(羅広斌・楊益言作/三好一訳/新日本出版社、63年)がある。私は、類型的な革命小説だと決めつけて、今まで読まずにいたのだが、今回の重慶行を機に読み始めたら、不覚にもハマってしまった。国共内戦末期の1948年正月から重慶「解放」までの2年弱の時期における、「中米特殊技術合作所」(国民党と米軍が協力して設置した「特務」=一種のスパイの養成機関)に付設された思想犯(ということは大半は共産党員)強制収容所で展開された獄中闘争を、群像劇風に描いていく。小説の最後は、重慶「解放」を直前に控えた11月27日に思想犯たちを大量虐殺しようと試みた、国民党特務との闘いの記録となっている。以上の紹介でも分かるように、『紅岩』は実話を基にした小説で、主要登場人物には、全てモデルが存在するとのことである。この虐殺事件で殺された革命家たちを祈念する歌楽山烈士陵園には「紅岩魂陳列館」があり、小説『紅岩』にも触れながら「中米特殊技術合作所」設置以降の状況を紹介し、それに抵抗した人々を称えている。ちなみに「紅岩」とは、この一帯を象徴する地名だったことも初めて知った。

■重慶の街を歩いていると、「行千里,致広大。〔千里を行って、広大になろう。〕」という標語が、あちこちで眼に付いた。意味が分かりますか?――ポイントは簡体字(中国における簡略化された漢字)にある。重慶を簡体字で示すと「重庆」であり、広大は「广大」となる。つまり、「千+里」=「重」(縦棒が1本重複するが)、「广+大」=「庆」になって、「重庆」という文字が浮かび上がって来るのだ。重慶の都市イメージを宣伝していくスローガンとして、最近、話題になっているらしい。重慶の未来が広大であることを祈りたい。

■上記以外にも、本場の火鍋体験、「千と千尋の神隠し」のモデルとも噂される「洪崖洞」、世界遺産でもある仏教石窟の大足石刻、重慶の別名が「山城」であることなど、書き記したいことは多いのだが、紙数が尽きた。またの機会にさせていただく。



その41 「生活垃圾分類〔生活ゴミ分別〕」状況について――上海の試みから…(2019年10月29日(火))
■同僚の中西千香さん(中国語文法・中国語教育学専攻/本学法学部准教授/本孔子学院教務委員も引き受けていただいている)が、今夏の上海出張の際に購入してきたという「生活垃圾分類投放〔生活ゴミ分別廃棄〕」ゲームなるものを見せてもらった。――様々な生活ゴミの名前と絵が記された100枚以上のカードと、分別種類ごとに4つに色分けされたゴミ箱によって構成されており、ゲーム感覚で分別の基準を身に付けていくことが目指されている。生活ゴミの分別が、これほどまでに徹底されようとしていることを知って、少し驚いたというのが正直なところだった。

■というのも、私が初めて北京・清華大学に長期滞在(一般教員アパート)した2001年は、黒色のドラム缶がアパートの向かいに幾つか並んでいて、アパート住民は、生活ゴミを一切の分別もなくそこに投げ込んでいた。ゴミ回収車は週に3回程度だったので、ゴミはいつも溢れていた。2009年に2度目の清華大学長期滞在(幹部教職員宿舎)の際は、二戸一住宅区の出入口に、ゴミ回収日に限って緑色と黄色のドラム缶が並べられ、一応、生ゴミは緑、その他ゴミは黄色に区分して入れることになっていたが、多くの住民は守っていなかった。更に、ゴミ回収車が通り過ぎるとドラム缶は片づけられるのだが、出し忘れたゴミを、レジ袋に入れたままその場に放置していく住民もいた。一般市民の間でも環境問題への意識が高まり始めた時期だったが、ゴミの分別はまだまだだなぁ、と思わされた記憶がある。

■現在、ゴミの分別が最も進んでいると言われる上海は、本年7月、「上海市生活垃圾管理条例」を発効させ、分別基準通りにゴミを捨てずに、注意されても改めない「単位〔企業・機関・事業単位〕」及び個人に罰金を科すことを定めた。罰金額は、「単位」の場合5000~50000元、個人の場合50~200元となっている。日本と比して中央集権が厳しく貫徹されている中国の場合、取り締まりや罰金徴収などが強権的に実施されるのは間違いなく、上記のような啓蒙的ゲームも生まれたのだろう。

■『垃圾分類市民読本』(上海人民出版社)に基づいて分別の概要を紹介しておく。分別は4種類で、シンボルカラー青の「可回収物〔リサイクル可能物〕」、赤の「有害垃圾〔危険ゴミ〕」、茶色の「湿垃圾〔湿ったゴミ〕」、黒の「乾垃圾〔乾いたゴミ〕」となっている。「可回収物」は廃紙・廃プラスチック・廃ガラス製品・廃金属・廃繊維製品などの資源ゴミとなっており、ペットボトルは潰して、ガラス類は古紙に包んで捨てるといった指示もある。「有害垃圾」は廃電池・廃蛍光灯・廃薬品及びその包装物・廃ペンキ及び溶剤など健康や自然環境に直接・間接に危害を及ぼす生活廃棄物となっている。「湿垃圾」は食材ゴミ・食べ残し・期限切れ食品・果物の皮や種・花や植物など腐りやすい有機生活廃棄物であり、「乾垃圾」は「その他ゴミ」とも呼ばれ、上記3種類以外の全てのゴミを指している。

■では、クイズです。以下の生活廃棄物は、どのように分別して捨てるのが正しいのか、考えてみて下さい。【正解は末尾に!】
①期限切れの薬 ②水銀体温計 ③電子体温計 ④期限切れの化粧品 ⑤使用済みフェイスパック ⑤使用済みのオムツ ⑥ウェットティッシュ ⑦使用済みのペット用トイレ砂 ⑧使用済みのセーター ⑨使用済みの下着 ⑩CD

■なお、以上は上海市の条例に基づく。各都市によって分別基準が異なる点には留意する必要があるようだ。ちなみに、北京市の「居民家庭生活垃圾分類指導〔住民家庭生活ゴミ分別ガイド〕」に基づくと、「可回収物」(シンボルカラーは青)、「厨余垃圾〔台所ゴミ〕」(緑灰色)、「其它垃圾〔その他ゴミ〕」(茶色)という3種類の分別となっていた。

*  *  *  *  *

【ゲームの正解=シンボルカラーで解答】
①赤 ②赤 ③青 ④黒 ⑤黒 ⑥黒 ⑦黒 ⑧青 ⑨黒 ⑩赤



その42 佐高信『いま、なぜ魯迅か』を紹介する(1)――「生きる指針」としての魯迅の言葉(2019年11月30日(土))
■自己の生き方と関わらせながら、いわば人生の「指針」として魯迅の文章を読む――こうした読み方が存在することは、当然ながら承知している。というか、私自身、中学生頃に初めて魯迅の文章に触れた際には、それが編み出された歴史的ないし現実的コンテクストから切り離して(というよりコンテクストをほとんど知らずに)、かつ断章取義的に魯迅の言葉を選択して勝手読みを試み、その激しさと屈折ぶりに戸惑いを覚えつつも、言葉の操り方の巧みさと鋭さに驚きながら読んでいたとしか言いようがないのだ。まさに、生きる姿勢をめぐるアフォリズム的な読み方をしていたのだった。

■だが、中国現代文学を専攻し、しかも大学院に進学してからは、魯迅の文章が生成されてきた(されざるを得なかった)当時の中国という厳しい政治的磁場と具体的コンテクストを多少なりとも理解するようになり、加えて、作者の思想と書かれた文章(テクストと呼ばれる)との間には必ず「距離」が存在することを認識しなければ、研究など存在し得ないという事実を知るようになって、そうした生きるための「指針」的な読み方を、研究とは無縁なものとして排除していったようにも思われる。だがそれは、時間があれば気軽に魯迅の文章を手に取り、パラパラと頁をめくりつつ、気になる言葉に視線を走らせて心を揺さ振られるといった、それまでの魯迅読書からの「撤退」をも意味していた。もしかしたら、魯迅を読む「楽しみ」を喪失していく道程だったのかもしれないとも思うのだ。

■佐高信という「辛口」と称されている(ないしは売り物としている)評論家がいる。「経済」評論家との肩書きで呼ばれることが多いが、彼が「筆刀両断」する対象は狭義の経済事象に限られず、企業社会が培い蔓延させてきた文化または精神風土にまでも及んでおり、特に、身も心も企業に捧げ尽くす会社人間を「社畜」と命名したことでも知られている。私は、彼の熱心な読者では全くなく、新聞・雑誌などで文章を見かけた際にも、時間に余裕があれば眼を通すといった程度である。会社中心の文化風土を痛烈に批判する言辞を小気味よく感じたり、権力なるものの本質を見抜く感性の鋭さに感服したこともあれば、些か居丈高な物言いが、さすがにちょっと鼻についたことや、それはあまりに一面的過ぎる評価ではないのか、などと思わされたりしたこともあった。

■その佐高が、最近、『いま、なぜ魯迅か』(集英社新書、2019年10月22日)という本を出版したのだ。少し太目の帯には、魯迅の肖像画が大きく描かれていて、その横に「魯迅に学ぶ「批判と抵抗の哲学」/「まじめナルシシズム」を捨てよ!」との文字が大書されており、面陳列されているとかなりのインパクトがある。――何故、佐高が魯迅を?と首を傾げる人もいるかもしれないが、実は佐高は「魯迅は自らの思想的故郷」と広言してきていたのだった。彼の代表作である『さらば会社人間』(徳間書店、1994年1月)のサブタイトルは何と「私の思想的故郷としての魯迅」であり、その文庫本は『佐高信の反骨哲学――魯迅に学ぶ批判精神』(徳間文庫、1997年2月)と改題されている。それが出版元とタイトルを変更して再出版されたのが『魯迅に学ぶ批判と抵抗――佐高信の反骨哲学』(現代教養文庫、1999年7月)で、現在では、大幅な加筆を経て『魯迅烈読』(2007年5月)と改題されて、何と岩波現代文庫の1冊ともなっているのだ。

■紙幅の関係もあって、『いま、なぜ魯迅か』の具体的な内容紹介は次回とさせていただく。なお、拙稿に「魯迅テクストの読まれ方――「激辛」評論家・佐高信の場合」(『中国文芸研究会会報』第300期記念号、中国文芸研究会、2006年10月)があり、この文章も、それと重なっている部分があることだけは、お断わりさせていただくしかないようだ。



その43 佐高信『いま、なぜ魯迅か』を紹介する(2)――「まじめナルシシズム」を捨て去っていくために(2019年12月26日(木))
■佐高信は、今の時代に、なぜ魯迅が必要だと考えているのか。――本書の帯に記されたキャッチコピーにある、「捨てよ!」とされた「まじめナルシシズム」とはいったい何なのか、ということから紹介しておく必要がありそうだ。「はじめに」から引用しておく。

■「挫折」は多く、これだけ努力すれば必ず報われるだろうという「期待」と「現実」を取り違えたところから生まれる。そこには当然、無意識的にもせよ己れの力に対する過信がひそんでいる。/私が名づけた「まじめナルシシズム」の腐臭はそこから立ちのぼる。/魯迅がそうした腐臭と無縁なのは、己れの力などなにほどのものでもないことをハッキリと知っているからであり、「努力」が報われ難い“現実”であるからこそ、「絶えず刻む」努力が必要であることを知っているからである。/「私は人をだましたい」や「『フェアプレイ』は時期尚早」といった魯迅の刺言を読んで、私は「至誠天に通ず」式のマジメ勤勉ナルシシズムから自由になった。

■私なりに「補足説明」を試みれば、努力は必ず報われるという発想があるが、見当違いの努力もあるだろうし、どんなに真剣に努力しても浮かび上がれない「現実」も存在しよう、ましてや、魯迅が生きた時代の中国ではそうした「暗黒」に直面することも多く、それを前提した魯迅は、「まじめナルシシズム」とは全く無縁の「報復の論理」までをも展開したと佐高は言うのだ。例えば1926年3月18日、当時の軍閥政府によって多くの青年が虐殺された「民国以来最も暗黒の日」に書いた「花なきバラの二」では、「これは一つの事件の結末ではない、一つの事件の発端だ。/墨で書かれたタワ言は、血で書かれた事実を隠しきれない。/血債は必ず同一物で償還されねばならぬ。支払いが遅れれば遅れるだけ、一そう高い利息をつけねばならぬ!」という激しい文字を連ねている。

■魯迅の時代とは全く異なるにせよ、現在の日本も、権力を手にした者が奢り高ぶる一方で、「社畜」と呼ばれるような抵抗できない人々が圧倒的多数を占める格差社会であることは間違いないようだ。「「会社国家」であり「官僚国家」でもある日本では、いま、ドレイが主人の意向を先取りする忖度が大流行り」だからこそ、「ドレイとドレイの主人はおなじものだ」と喝破する魯迅、「私は人をだましたい」「『フェアプレイ』は時期尚早」(ともに魯迅の雑文のタイトル)という言葉に象徴される、どんな手を使っても抵抗し続ける魯迅の姿勢・思想を振り返ることは、現在の日本人が生きていく上で今こそ必要だと、佐高は考えているのだった。

■「私にとって魯迅は思想の原郷であり、魯迅を振り返ることは自分の生の軌跡を振り返ることである」との一文のある本書は、まさに魯迅を軸に据えつつ、読書をも含めた佐高の体験・交流を書き記した半生記とも呼べそうである。その角度から言えば、中野重治・伊丹万作の「魯迅的思考」、久野収・竹内好の「魯迅理解」、「魯迅の思想を生きた」むのたけじ等々に関わる記述は、私の一回り上の世代に属する知識人の思想形成(の一端)を知る上でも、非常に興味深く読んだことを付記しておく。(なお、佐高は、魯迅の文章の翻訳は全て岩波書店版『魯迅選集』に拠っているので、私もそれに従った。)

■前回ともども妙に高ぶった、「考えてみチャイナ・中国のこと!?」に似合わない文章になってしまったかもしれないが、これも何かと過去を振り返ってしまう年の瀬ゆえということでご海容いただければ、勝手ながら幸いである。――皆様、よい年をお迎え下さい。



その44 「新冠」って何でしょう…?――新型肺炎の感染阻止へ(2020年2月2日(日))
■昨年末から武漢を中心に猛威を振るい始めた新型コロナウイルスによる肺炎、いわゆる新型肺炎の中国国内患者数は、昨日(2月1日)の中国当局の発表によれば、1万4380人に達し、死者も304人を数えるに到ったとのことである。2002年から3年にかけて大流行した重症急性呼吸器症候群(SARS)の場合、全世界の感染者数8096人、死者774人(内、中国は各々5327人、349人)だったので、感染者数では、すでに中国だけでその約1.8倍となってしまった。重篤な症状の発症率はSARSよりは低いようだが、感染力はかなり強い点には改めて留意しておかねばならないだろう。なお、日本国内でも、現在、20人の感染者が確認されているとのことだ。――我々としては予防に心がけながら、グローバルな連携により、早期の収束がなされることを期待するしかないようだ。

■この新型肺炎は、中国語ではどう呼ばれているのか。中国の新聞・テレビなどでは、「新型冠状病毒肺炎」と表記されている。実は、コロナウイルスの中国語訳が、元々「冠状病毒」だったのだ。なお、ウイルスを「病毒」と訳すのは知っていたのだが、思い起こせば、それは病原体としてのウイルスの訳語として知ったというより、いわゆるコンピュータウイルスの訳語、つまり「電脳病毒」(当初は「計算機病毒」だったと記憶する)から覚えたようにも思う。日本語の場合と順番が逆だったことが、妙に印象に残っている。

■では、コロナウイルスのコロナは、何故「冠状」と訳されたのか。コロナとは、断わるまでもなく太陽の大気の外側の層のことで、皆既日蝕の際に、太陽の周囲の縁でぼやけて見える淡い光を指す。コロナウイルスは、「ウイルス粒子の表面に長い突起が出ており、太陽の光冠(コロナ)のような外観であること」(『コンサイス=カタカナ語辞典(第3版)』三省堂)から、そう命名されたとのことである。だが、手元にある中国語の辞書を調べた限り、コロナの中国語訳は「日冕」であって、日本で流通している「光冠」ではないようだ。もちろん、「冕」は古代の帝王たちがかぶっていた冠の意味なので、古くから存在する漢語なのだろう。とはいえ、いわゆる冠状動脈(大動脈の基部から枝分かれして心臓を取り巻く動脈)は、中国語でも同じ「冠状動脈」なので、こうした医学用語の定着から、「冠状病毒」という訳語が誕生したのだろうと思われる。

■それにしても、「新型冠状病毒肺炎」という名称は少し長い。SARSが「非典型肺炎」という中国語名称から「非典」という略語になったように、今回もすでに略語が存在するのではないか、と思って中国人の友人に聞いて回ったが、まだ定番はないとのことだった。だが、中国語のネットなどを見ていると、「新冠肺炎」といった文字が散見されるのも事実だ。日本語の一般名詞的な新型肺炎より、コロナのニュアンスを含んだ「新冠肺炎」の方が印象が強烈な気がするのだが、どんなものだろうか。

■最後に発音に関わって一点のみ、気になっていることを記しておく。「冠状病毒」「新冠肺炎」の「冠」の発音は「gaun」なのだが、声調は第1声で読む中国人と第4声で読む中国人がいるのだ。辞書を見ると確かに声調は2つある。「冠状動脈」の「冠」は第1声となっているのだが、優勝・第1位の意味でよく用いられる「冠軍」の「冠」は第4声なのだ。ともに冠の意味が中心義で、第1声は名詞的で第4声は動詞的らしいのだが、イマイチ違いが分かりにくい。今後、「新冠肺炎」が定着するかどうか、するとすれば「冠」はどちらの声調で読まれるのか、今後の動向に注目したいと思う。



その45 1元=40円の時代…?!――33年前の天津の生活から(1)(2020年2月29日(土))
■今まで何となく告白(?!)できずにいたのだが、実は、私はこの3月末で、36年間勤めた立命館大学を定年退職することとなっている。ただし、特任教授として残りながら、立命館孔子学院学院長という仕事は継続するようにと申し渡されているので、もうしばらくの間、このエッセイも執筆させていただく予定である。引き続き、何卒よろしくお願い申し上げます。――定年退職にあたって最も困るのが、学内の個人研究室から退去しなくてはならないことだ(特任教授室はあるのだが大部屋で、机と小型本棚のみなのだ)。個人研究室には20本以上の本棚があり、しかも二重に本を並べたりもしている。院生や同僚研究者に譲渡(孔子学院にも小説翻訳書の類を寄贈)し、不要なものを廃棄した後に引越業者に見積もりをしてもらったのだが、何と段ボール箱250個(!)と言われてしまい、さすがに呆然とするよりなかった。どうしてこうなってしまったのか……。

■私が大学院に入学したのは文革終結からわずか1年5カ月後の1978年4月で、いわゆる「改革・開放」政策もまだ始まっていなかった。文革中に停刊させられていた文学関係雑誌が復刊し始め、後に「傷痕文学」と総称される文革の残した傷痕を批判的に描く文学が、ようやく発表されつつあった時期だ。日本国内の中国書輸入専門店で購入できる現代文学関係の本も極めて少なく、また当時の流通状況を思えば、一旦買いそびれた本は、二度と手に入らない可能性がほぼ100%に思われた。従って本に関してだけは、自分の研究・教育に、今後ほんの僅かでも必要になると思われたものに巡り合ったら、後先考えずに買わねば、ということが習い性になった。それが、こうした事態を生んでしまったようなのだ。

■引越作業の「あるある」なのだろうが、本棚の奥から忘れていた本や資料が出てきて、つい懐かしくて読み耽ってしまい、本の箱詰め作業に支障を来すという状況にも陥ってしまった。その1つが『天津日記(1987.9.28~1988.3.26)』と題された3冊のノートだった。早い話が、私が初めて中国に長期滞在した際の日記である。滞在先は天津にある南開大学中文系で、身分は協定大学交換研究員だった。以下、少し恥ずかしいのだが、そのノートに記されたことの一部を紹介させていただこう。33歳の若手助教授だった私が、33年前の中国で見聞・体験・思考したことを書き記しておくことも、定年退職にあたっての記念になるやもしれないと考えたからである。

■その第1弾として、当時の物価事情について記しておこう。『天津日記』の記述によれば、87年10月1日(国慶節)に、文革後天津での最初の外資系ホテル「凱悦飯店〔ハイヤットホテル〕」に出向いているのだが、南開大学正門前のバス停「八里台」から地下鉄駅近辺のバス停「鞍山道」まで乗車時間20分程度のバス料金が5分、その後に乗った地下鉄(当時は短い路線がたった1本のみだった)の料金は全区間1角5分だった。この日、「凱越飯店」で、訪中後初の換金をしているのだが(外貨兌換は、街中の銀行に出向くより外資系ホテル内の銀行窓口の方が、当時は早く簡単に済んだ)、「1万円が現金で約244元、トラベラーズチェックで約255元だった」と記されている。即ち、1元=約41.0円(トラベラーズチェックだと39.2円)だった。「1元=10角=100分」なので、上記のバス代は約2円、地下鉄代は約6円となる。現在では教科書の中でしか見かけない金銭単位「分」が活躍していたことが懐かしく思い出される。ちなみに、『天津日記』には、「日本までの郵便代は手紙1元1角/葉書9角。なお、国内郵便は手紙8分/葉書4分」「留学生食堂の昼食で2品+花巻〔小麦粉をこねて巻いて蒸した類〕3つで1.8元」「専家楼〔外国人教員宿舎〕食堂の夕食は2品+餅〔小麦粉をこねて薄く丸く伸ばして焼いた類〕4つ+酸辣湯〔湯はスープ〕+青島啤酒〔ビール〕で7.4元」などといった記述も散見される。当時の日中間における物価の違いに、改めて驚くしかない。

■同じく国慶節の『天津日記』には、「凱悦飯店から和平路の新華書店へ。『歴史在這里沈思〔歴史はここで沈思する〕――1966~76年紀実〔ドキュメンタリー〕』全3冊と小説『男子漢〔男の中の男〕宣言』を買う。計8.35元」とある。1冊約2元、即ち、80円見当だ。当時、岩波新書でさえも480円だったことを思えば、中国書が想像を絶する安さだったことが、私の異様な(?)書籍購入量にも繋がっていたのだった。



その46 卒業式のなかった卒業生に送る言葉――伝えたかったこと(2020年3月31日(火))
□「新型冠状病毒肺炎〔新型コロナウイルス肺炎〕」(本コラムその44「「新冠」って何でしょう…?――新型肺炎の感染阻止へ」参照)の猛威が、想像を絶する勢いで日本を襲っている。「その44」を執筆したのは2ヶ月前だが、「日本国内でも、現在、20人の感染者が確認されているとのことだ」といった表現をしており、基本的に中国における事態としてのみ認識していたと言えるだろう。感染症の恐ろしさを、改めて思い知るしかない。――ということで、本来なら「その45」で記した「33年前の天津の生活から(1)」の続きを書くべきなのだろうが、本学は卒業式・入学式も中止(更には教室における授業も5月の連休明けまで延期)という状況の中で、33年前の思い出を書き記す気分にはどうしてもなれないので、専攻のHPに掲載された「卒業生に送る言葉」を再掲させていただくことにする。卒業式のなかった、私にとっての「最後のゼミ生」たちへの励ましの気持ちを、36年間の本学専任教員としての想いを込めて率直に綴ったつもりである。(以下、本コラムの形式に即して記すため、改行などが異なってしまう点をお断わりしておく。)

■2019年度 現代東アジア言語・文化専攻の卒業生の皆さん。卒業おめでとう!――この言葉を、面と向かってではなく文章でしか伝えられないことを、本当に寂しく思っています。新型コロナウイルスの影響で卒業式が中止にならざるを得なかったこと、やむを得ないこととはいえ、残念でなりません。特に、僕の場合、この3月で立命館大学を定年退職することもあって(4月以降も特任教授として授業を担当し、孔子学院学院長といった仕事も続けはしますが)、皆さんが「最後の学生」だったからこそ、「君たちと一緒に卒業だ!ともに新たな路を歩み始めよう!」と大声で呼び掛けようと思っていたのですが、それも叶わなくなってしまいました。

■今、つい「新たな路」と言ってしまいましたが、4年前、僕が皆さんと初めて顔を合わせた時、つまり学域の新入生歓迎の場で自己紹介兼挨拶をした際に、僕は、中国現代文学の父と呼ばれる魯迅の小説「故郷」の一節を紹介した記憶があります。中国語で発音したので、覚えてくれている方もいるかもしれません。「地上本没有路,走的人多了,也便成了路。〔Dìshang běn méiyǒu lù,zǒuderén duōle,yě biàn chéngle lù.〕」訳すと、「地上にはもともと路はない、歩く人が多くなると路になるのだ」となります。皆さんの入学にあたって、僕は、「今、君たちは立命館大学という新たな「地上」の前に立っている、この「地上」を、多くの友達や仲間とともに歩くことを通じて、自分なりの「路」を創り上げてほしい」といったことを述べました。今、是非、後を振り返ってみて下さい。きっと「路」ができているに違いありません。人によって「路」の広さや曲がり方などは異なるだろうけれど、立命館大学に、一筋の「路」が築かれているのは確かです。どんな「路」なのか、誰とともに歩いた「路」なのか、是非、しっかりと確認してほしい、自信にしてほしいと心より願っています。

■同時に卒業にあたっては、今度は、これから歩み出す社会という新たな「地上」に、ともに歩く人を増やしていく中で、つまり友人や同僚、恋人そして配偶者や子供たちとともに歩むことを通じて、「新たな路」、自分の人生という「路」を、是非とも築き上げていってほしいと、改めて強く願っています。ただ、一言だけ、入学時とは異なるニュアンスを付け加えておきたいと考えます。

■魯迅は、「走的人多了,也便成了路」と、「也」という言葉を入れ込んでいる点に注意を払って下さい。「也」は中国語を習った学生は、皆知っているはずの「~もまた/~ということも」という意味の副詞です。ということは、「歩く人が多くなると〔必ず〕路になるのだ」ではなく、「歩く人が多くなると路に〔も〕なるのだ」という意味なのかもしれないのです。魯迅という人間は、楽観主義者とは全く呼べない人間ですので、大勢の人々と一緒に歩いても「路」にならないこともあるかもしれないと考えて、「也」を入れ込んだのかもしれないと、実は僕は考えています。人生とは、そんなに甘くないのかもしれません。でも、考えてもみて下さい。「路」にならないかもしれないとしたら、歩くのを止めていいのでしょうか。「路」にならないかもしれないけれど、歩き続けていくのが人生ではないでしょうか。――逆説的な言い方になりますが、皆で歩き続けなければ、決して「路」にはならないのだと、僕は考えています。

■僕も、皆さんと一緒に歩き続けながら、「路」を創り上げるつもりです。立命館大学に創った「路」を、自分の「確信」にしながら……。卒業、本当におめでとう。再見!(原義は「また会おう!」です。)



その47 武漢の女性作家・方方の「日記」から――「新写実主義」の真骨頂?!(2020年4月29日(水))
■新型コロナウイルスの感染拡大防止に向けて、去る4月7日、東京・大阪はじめ7都府県に「緊急事態宣言」が発令され、16日には「宣言」は全国に拡大され、特に、上記7都府県に京都など6道府県を加えた13地域が「特別警戒都道府県」と位置づけられた。まさに未曾有の事態である。――こうした状況下では前回と同じく、「その45」の続編として「昔話」を楽しく語る気分にはなれそうもない。そこで、このグローバルなコロナウイルス禍の発端ともなった武漢市に在住の、女性作家・方方が自己のブログにアップした、本年の春節(旧正月=1月25日/なお「武漢封鎖」は1月23日に始まった)から3月24日までに書き記した全60編に渡る「作家方方日記」について紹介しておきたいと思う。

■方方のこの「日記」に関しては、『朝日新聞』が3月21日付夕刊で第一面を使って紹介したり、同じく『朝日』の中国関係専門の編集委員・吉岡桂子さん(以前に一度、酒席を共にする機会があった。中国の改革派ジャーナリストへインタビューした際の迫力ある話が記憶に残っている)が「多事奏論」欄(4月25日付掲載)で取り上げたりもしているので、ご存知の方も多いのではないか。全体として、「封鎖直後からブログに実態 読者1億人超」「「真実知りたい」当局への不信に共感の声」といった小見出し(前出『朝日』夕刊)に見られるトーンの報道が多いようだ。例えば2月9日の「日記」は、「生活那麼艱難,但辦法是有的」との表題の下に、「ここ数日、死者が私に徐々に近づいて来ているようだ。隣人の従妹が死んだ。知人の弟が死んだ。友人の両親と妻が亡くなった後に、彼自身も死んだ。人々は泣こうにも涙も出ない」と記す一方で、隣人たちと知恵を出し合い協力し合って食品や生活用品を確保していく姿をも活写して、「生きていくのはこんなにも厳しいが、でもやり方はあるものだ」という表題の言葉に繋げていく。また、3月7日の「日記」には、「最近、雑談の中で「感恩〔恩に感ずる〕」という言葉が頻出する。武漢の指導者たちは、人民が党や国家に「感恩」することを求める。本当に奇妙な発想だ。政府は人民の政府であって、その存在は人民に奉仕するものだ。政府・公務員は人民の公僕なのに、これに背いているのではないか」といった一文も見出せる。

■「日記」を斜め読みした範囲で言えば、確かに政府や役人に対する不満や批判も記されてはいるが、体制批判を試みているというわけでは全くないようだ。その証拠に、「日記」の末尾には、4月11日付で「方方回応〔方方が答える〕」という3人の「学人〔学者〕」のインタビューに答えた記録が「後書」風に掲載されているが、その表題は「我和国家之間没有張力〔私と国家との間には緊張はない〕」となっている(だからこそ現在でも読むことができる状況にある。ちなみにURLはhttp://fangfang.blog.caixin.com/)。この「日記」の真骨頂は、「武漢封鎖」後、緊迫の度を増していく社会の様相がリアルに記され、先の見えない未曾有の「戦い」に放り込まれた不安や戸惑いの心情が、切羽詰った迫真の文体で綴られていくところにこそあるようだ。やはり、まさに作家ならではの「報告文学」と呼ぶべきなのだろう。

■方方は1955年、南京に生まれたが、2歳の時に両親とともに武漢に移り、現在に到っている。78年に武漢大学中文系に入学して小説や詩を発表し始め、87年に執筆した「風景」が「1987-88年全国優秀中篇小説賞」を受賞し注目される。89年に中国作家協会に入会して専業作家となった。――まさに武漢が産み育てた作家と言えよう。私は、方方の小説は「風景」くらいしか読んでいないのだが、この「風景」の設定には驚いた記憶がある。13平米の板壁の部屋で両親と7男2女の11人家族が暮らすという、まさに都市の低層を生きる人々の姿を、8番目の子供(実は生まれて半月後に死亡してしまった嬰児なのだが)の視点から描くという構造になっているのだ。物語の設定は非現実的なのだが、描かれ方は極めてリアルなため、その作風は「新写実主義」と呼ばれたものだった。――今回のコロナウイルス禍による非日常的生活を描く「報告文学」作者に相応しい作家だったのだと、改めて妙に納得してしまったのだが、如何なものだろうか。



その48 「潤沢な人員配置」としてのバスの車掌さん?!――33年前の天津生活から(2)(2020年5月29日(金))
■「緊急事態宣言」も解除されて、未曾有の「コロナ禍」も、ようやく終息の兆しが見えつつあるようなので(もちろん「第二波」防止に向けて最大限の留意が必要だが)、この間の些か重苦しい「コロナ」関連の話題から離れて、前々々回の本コラムを引き継いだエピソードを語ることにしたい。――ただ、この間の感想を一言のみ、記させていただこう。

■ポスト「コロナ禍」に向けては、社会のあり方が改めて問われるに違いない、というか、問い直していく必要が不可欠だと思わされている。そしてその際の視点として、「平時」においては「新自由主義」的な効率化・合理化も、もしかしたら一定の意義を持つかもしれないが、それでは「緊急事態」には絶対に対応できないと思い知らされた点を挙げておく。一例のみ紹介しよう。今回、初めて知ったのだが、人口150万人の京都市に、保健所は、何とたった1つ(!)しか存在していなかったのだ。以前は北区・左京区といった11の行政区ごとに1つずつ存在していたのだが、ここ10年弱の間に全てが廃止され、たった1つに統合されていたのである。保健所関連職員の数も大幅に削減されていた。これでは感染拡大防止の取り組みが後手後手に回ってしまったのも、やむを得ないところだろう。「新自由主義」的政策ではなく、人間の生存と生活を基軸に据えた、「余裕を持った社会」の創出こそが、今まさに求められているのはないだろうか。

■ということで、33年前の中国・天津の思い出話である。――前々々回に引き続き、当時の物価事情を、賃金から紹介してみよう。『天津日記(1987.9.28~1988.3.26)』に中国人の友人から聞いた話として、国有企業の初任給(月給)は学歴で決まっており、中等専業(職業高校)卒42元/大学専科(職業大学)卒50元/大学本科卒58元/碩士(修士)卒64元/博士卒72元との内容が記されていた。当時1元=約40円だったので、大卒でも約2300円に過ぎない。なお、南開大学の専家(外国人教員)の月給は1300~1500元、協定大学交換研究員(私はこの身分で在外研究していた)に支給される研究・生活費は月額700元だった。この700元という額を聞いた中文系副教授(40歳台後半)が、「自分の月給の約2.5倍だ!」と驚いていたことも記憶に残っている。日本円に直せばわずかな金額だったが、外国人の専門家は、やはりかなり優遇されていたことは間違いないようだ。ちなみに、「改革・開放」政策が定着化しつつある中で、「外資系ホテル従業員の月給は約300元となっており、若者の憧れの職業となっているらしい」という記述も残っている。

■前々々回のコラムの「バス代が5分」という文章を読んで、「「分」というお金の単位が、実際に機能していたんですね…!」という声を寄せて下さった方が、数人いらしたことに、ちょっと驚いた。でも当然なのだろう。現在、1分は約0.16円なので、さすがの中国でも、お釣りに「分」硬貨(滅多に見かけないが。昔は「分」紙幣さえ存在した)を渡されると「不要!〔要らない!〕」と言って受け取らない人も多いのだ。中国社会の急激な発展・変化を思わないわけにはいかない。

■バスで思い出したが、天津のバスの車掌さんには、当時2歳6カ月の長男は随分と世話になった。――実は、半年間の在外研究の最初の3週間は、配偶者と長男も同行していたのだ。その頃の中国は衛生・医療環境に問題も多く、外務省は「中国に学齢期前の子供を帯同することは避けよ」との指針を出していたのだが、諸般の事情から強行した次第である。それ故に当時の中国では、外国人の2歳児は非常に物珍しかったようで、列に並ばずに我先に乗り込むのが常識だったバスに乗った際でも、車掌さんが「「外賓〔外国のお客さんの意味で外国人への呼称だった〕」の子供がいるんだよ、立ちなさい!」と大声で言って、強引に子供に席を譲らせてくれたことが幾度もあった。「自分にも3歳の子供がいる」と言って、仕事の最中なのに日本の子育て事情について質問してきた車掌さんもいて、乗客も巻き込んで子供の話題で盛り上がったこともある。子連れでなかったら体験できない交流も生まれて、無理しても帯同してよかったと思ったりもしたものだった。

■バスの車掌さんは、私も幼少期のうっすらとした記憶がある(日本では1960年頃に車掌乗務は不要とされ廃止された)が、天津で再体験して、人間的な交流の温かさを感じたのも確かだった。――だから復活すべきだ、などとは全く言わないが、「新自由主義」的な方向性に反する「潤沢な人員配置」として、懐かしく思い出されたのも事実である。ちなみに、何故、私が一目で「外賓」とバレたかというと、まだ人民服姿も多く見られる中で、「ジーンズ+ブーツ+メタルフレーム眼鏡+長髪」という私の風体(今もあまり変わらないのだが)は、当時の中国では、極めて目立っていたからにほかならなかった……。



その49 web授業に対する初体験的実感?!――対面授業の意義を改めて考える(2020年6月30日(火))
■今回の未曾有の「コロナ禍」により、大学教育の現場が一変したことはよく知られていよう。本学は、4月の授業開始日の翌日から休講に入り、5月7日の連休明けから授業が再開されたものの、授業方式は、教室で行う対面型ではなく、webを用いて実施する遠隔授業となった。――このweb授業(オンライン授業とも呼ばれるが)に関しては、言葉だけが一人歩きしてしまい、教員・学生ともに対面授業より楽なのではないか、web授業がここまで可能ならば対面授業はもう不要ではないのか、といった種々の「誤解」も生じつつあるようにも思われるので、個人的な初体験的実感を記しておくことにしたい。

■web授業は大別すると2種類となる。1つは、教員がwebを通じて種々の教材(音声付PPTや動画なども含む)を配信し、学生はオンデマンド的に教材に基づいて学習に取り組み、その上で課題を提出するという形式である。もう1つは、Zoomなどのweb会議システムを用いて、教員が対面授業に近い授業内容(PPT使用や課題提出なども含む)をライブ配信するという形式である。以下、前者を「オンデマンド型」、後者を「ライブ配信型」と呼んでおく。今年度から特任教授となったこともあり、春学期の担当授業は、1回生向けの中国語と大学院生向けのゼミ的授業のみである。中国語は、若手・中堅の専任教員が集団的に作成した動画と小テストを組み合わせた「オンデマンド型」で、大学院は受講人数もさほど多くなく、講読・発表形式が中心の授業なので、Zoomによる「ライブ配信型」で実施している。率直に言って、授業コマ数が比較的少ないのでまだ何とかなってはいるが、予想以上に消耗しており、授業に対する負担度・疲労度は、対面授業の2、3倍というのが率直な実感である。秋学期には受講生250名程度の大講義も担当するのだが、もし秋学期も対面授業不可となれば「ライブ配信型」でやるしかない。今から気が重くなる…。

■「オンデマンド型」は、学生は自由な時間帯にオンデマンドで動画を視聴し小テストに取り組むのだが、1クラス約30人の学生が、各々好き勝手な時間帯に提出した小テストのケアにあたる教員は、極端に言えば、24時間拘束されることになる。着実な修得を期すために、合格点を取得しなければ次の問題セットに進めないというハードルを課したとすれば、学生からは、採点を早くしてほしい、不合格になったので早く再チャレンジ可能にしてほしいといった注文のメールが、四六時中、寄せられることにもなるのだ。気の休まる時間など持ちようがない。また、「ライブ配信型」の場合、学生はビデオのオフ、音声のミュートが可能なので、教員が必死にライブ発信している授業を、学生が本当に視聴しているかどうかは、教員には判明しようがないのである。「ビデオはオフにするな」とは、録画も簡単に可能な昨今の状況では、肖像権の問題なども生じているようで、少人数で、かつすでに面識のある学生以外には、強要はできないのが現状である。授業をしていて、学生が聴いているかどうかが分からないという状況は、教員にとって、モチベーションの低下と疲労度の増加を生むのは間違いないだろう。

■百歩譲って言えば、web授業でも「知識」だけは何とか伝えることはできるかもしれない(学生側の積極的な取り組みの姿勢が不可欠だが)。しかし、そもそも、教育とは人間同士がぶつかり合わなくても成立するのか、との思いが、改めて沸き起こってくるのは事実である。大学においても広義の「人間」教育は、絶対に不可欠だろう。直接的コミュニケーション抜きのweb授業の有効性に関しては、現段階では疑問を抱かざるを得ない。

■中国の大学では、日本を大幅に凌ぐweb授業(中国語では「在線上課〔オンライン授業〕」「遠程〔遠隔課程〕」などと呼ばれている)が展開されているのはよく知られている。――立命館孔子学院のパートナー校である北京大学のHPには、「疫情防控〔疫病状況を防ぎコントロールする〕期間」はweb授業のみで実施するとして、それを「直播授課〔実況授業=ライブ配信型〕」「録播授課〔動画配信型〕」「慕課授課〔Massive Open Online Corses:MOOC=大学がすでに大規模公開しているオンライン講座/MOOCの音訳が“慕課”=“muke”〕」「研討授課〔web会議システムを用いた討論型〕」という4種類に分けて説明している。全て、対面授業と「同水準」にすると言っているが、どうなのだろうか。中国の大学のweb授業の「到達点」について、是非とも、意見交換してみたいと考えている。



その50 「象棋」を知ってますか?!――真ん中に河が流れている中国将棋(1)(2020年7月31日(金))
■去る7月16日、将棋の高校生棋士・藤井聡太7段が、八大タイトルの1つ、「棋聖」位を獲得した。17歳11か月でのタイトル獲得は、最年少タイトルの記録を30年振りに塗り替えた快挙である。「コロナ禍」の収束が見えず、社会全体が何となく沈鬱な雰囲気に覆われている中で、久々の明るい話題と言えるだろう。――実は、私の趣味の1つは将棋である。ここ十年以上、盤を挟んでの対局はしていないが、新聞の将棋欄には毎日欠かさず目を通し、時折りだが、ネットの将棋対局に挑んだりもしている。ちなみに棋力は、小学6年生の夏に初段の認定を受けたのだが、そこからほとんど進歩はないのが実情だ。なお、断わるまでもないが、この初段は「アマ初段」である。将棋はアマとプロの棋力差が大きく、プロ棋士養成機関である奨励会の最低級は6級だが、それは少なくともアマ4段以上に相当すると言われている。藤井棋聖は小学4年生で6級として奨励会に入会しているので、10歳にしてすでにアマ4段の実力があったことになる。絶句するしかないところだ。

■本コラムを読んで、私が将棋好きだと気づいた人はいたらしい。その23(2018年2月)の表題が「羽生が勝って、羽生が負けた!」だったからだ。言うまでもなく前の「羽生」は「ハニュウ」と読み、後の「羽生」は「ハブ」と発音しなければならない。フィギアスケートの羽生結弦選手が、ピョンチャン冬季五輪で金メダルを獲得した同じ日に、将棋の羽生善治永世7冠が、当時は中学生棋士だった藤井5段に公式戦で初めて敗北したことを取り挙げたのだ。もちろん、中国語は「1つの漢字に1つの発音」が原則なので、同じ漢字の名前が、別の発音になることなどあり得ないという話題を導く枕としてだったのだが。

■中国にも将棋は存在する。そもそも将棋の発祥の地はインドらしく、それが西に伝わってチェスとなり、東に伝わって中国を経て日本将棋になったと言われている。従って、中国将棋と日本将棋は、駒の名前も形も違えば盤も違う、当然、ルールもかなり大幅に異なっている。そもそも中国では、「象棋〔xiangqi〕」と呼ばれているのだ。ちなみに、日本語では「シャンチー」と呼び慣わしており、その普及や競技大会の運営を担っている団体も「日本シャンチー協会」が正式名称である。なお、日本にも愛好者は20万人程度はいるとのことだが、将棋愛好者の1500万人と比べると遠く及ばないのが実情だ。だが、言うまでもなく中国国内における愛好者数は圧倒的で、何と5億人(!)を超えており、世界最大の愛好者数を誇るボードゲームとのことである。立命館孔子学院のパートナー校である北京大学から派遣されて、現在、副学院長を務めて下さっている祖人殖先生(北京大学対外漢語教育学院副教授)からは、「中国国内では、男の子だったら子供の頃、誰でも一度は象棋を指したことがあるものだった。でも、最近では、ネットゲームに押され気味の傾向も生じている」といった状況を教えていただいた。

■以下、日本将棋との違いを中心に、象棋の特徴を紹介してみよう。
コラムVol.50写真1   コラムVol.50写真2

*駒の形は丸い。しかも赤(中国語では「紅」)い駒と黒い駒(緑色・紺色のものも存在)に分かれている。つまり「紅方」と「黒方」の戦いであり、従って、将棋とは異なり、取った駒を味方として用いることができない。この点は、チェス(「国際象棋」または「西方象棋」。駒の色は黒と白)と同様である。なお、「紅方」が先手となるのが原則である。
*盤は8マス×8マスだが、各々4段の自陣の先に、1段の空白地域(「河界」)がある。つまり、対陣する両軍の真ん中を河が流れているのだ。従って、この河を渡って敵陣に攻め込むことができない駒も存在する。また、自陣の中央4マスは「九宮」と呼ばれる、いわば城内となる。ここから出られない、いわば皇帝の守護専門の駒も存在している。
*盤の説明を、便宜上、マスで示してしまったが、象棋の駒は将棋のようにマスに置くのではなく、囲碁のように縦横線の交点に置く点は、最大の相違点として、しっかりと確認しておこう。また、同じ働きをする駒なのに、「紅方」と「黒方」で名前(漢字)が異なるものも多く存在することにも留意したい。「紅方」の「帥」「仕」「相」「炮」「兵」が、「黒方」では「将」「士」「象」「砲」「卒」となっている。意味が近いものに「帥」と「将」、「兵」と「卒」、発音が同じものに「仕」と「士」、「相」と「象」、異体字を用いたものに「炮」と「砲」がある。「紅方」「黒方」ともに同じ駒は「馬」と「車」であるが、時に「紅方」には各々「人偏」が付された駒もあるらしい。「漢字の国」ならではの興味深い現象だと言えそうだ。

■紙数が尽きてしまった。今回は、ここまでとさせていただこう。次回を、請うご期待?!



その51 将棋と似て非なる、でも興味が尽きない象棋――真ん中に河が流れている中国将棋(2)(2020年8月29日(土))
■去る8月15日、将棋名人戦7番勝負で渡辺明王将・棋王(36歳)が、豊島将之名人・竜王(30歳)を破って対戦成績を4勝2敗として、江戸時代から続く最も長い歴史を持つタイトルである名人位を奪取した。現在、将棋界最強との呼び声の高かった渡辺が、遂に念願を叶えたのである。だが、振り返ってみれば、先月、この渡辺から棋聖位を奪取したのが、18歳の藤井聡太7段だったのだ。そして、その藤井棋聖が、8月20日、王位戦7番勝負で木村一基王位(47歳)を4勝無敗で破り、王位のタイトルをも獲得したのである。藤井は「最年少2冠」と「最年少8段」という新記録も達成した。――この間の将棋界をめぐる動向は、我々将棋ファンにとってはまさに興奮の日々としか呼びようがない。羽生善治永世7冠(49歳)が、あと1つと迫った「通算獲得タイトル数100」(これまた前人未到の快挙だ)をいつ達成するのか、ということも含めて、今後の将棋界からは目が離せないというのが正直なところだ。

■さて、前回に引き続き、中国将棋=象棋の話題である。今回は、各駒の動かし方・機能を紹介しておこう。
*まず「師・将」だが、これは将棋の王将(ないし玉将)に相当し、これが取られれば負けとなる。縦横に1歩ずつ動けるが、「九宮」と呼ばれる城内からは出ることができない。なお、「師」と「将」は、同じ列で直接に向き合うことはできない(間に必ず駒が存在しなければならない)というタブーが存在し、「対面将〔duimian jiang〕」と呼んでいる。
*「仕・士」は斜めに1歩ずつ移動するが、これまた「九宮」から外へ出ることはできない。即ち、側近として「師・将」を守るのが仕事となる。
*「象・相」は、盤面の「田」の字の対角線を2歩分ずつ跳ぶ形で動く。ただし、跳ぶ先の中間点に駒があると跳び来せない。また、中央の「河界」を越えて敵陣を攻めることはできないので、これもまた守備専門の駒となる。
*「車」は将棋の「飛車」と同じで、縦横にどこまでも移動が可能だ。もちろん、敵駒があればそれを取った地点まで、味方の駒がいればその1つ手前の地点までとはなるが。強力な攻め駒の役割を果たす。
*「砲・炮」は、動き方は「車」と全く同じだが、駒の取り方に特徴がある。敵駒を取る際には、必ず間に1つ、何らかの駒(敵の駒でも味方の駒でもOKだ)が存在しなければならない。つまり、駒を1つ飛び越えないと敵駒を奪えないのだ。遠くから敵の「師・将」を狙うことができるトリッキーな攻め駒である。
*「馬」は盤面の「日」の字の対角線に移動する。つまり将棋の「桂馬」と同じ動き方なのだが、「桂馬」は前方の2箇所のみにしか行けないが、「馬」は、それを上下左右の各2箇所に跳ねることができるのだ。いわゆる「八方桂」の動きで、チェスの「ナイト〔騎士〕」と全く同じだ。ただし、「桂馬」や「ナイト」と異なり、離接点に駒がいると跳び来すことができなくなるところには留意しなければならない。
*「兵・卒」は将棋の「歩」と同じく前へ1歩進むのみだ。ただし「河界」を越えると、前に加えて左右にも1歩進むことができるようになる。「歩」が「と金」に「成る」のと似ている。ただし、どうあっても後へ下がることだけは不可能な駒である。

■如何だろうか。厳密に言えば、「車」が「飛車」と全く同じである以外は、将棋とは微妙に似ながらも、かなり非なる機能を備えた駒ばかりであることに、改めて驚かされるのではないか。とはいえ、文章だけでは解りにくいかもしれないが、盤と駒さえあれば、将棋愛好者ならばすぐにでも指せるのは間違いないので、是非、取り組んでみてほしい。

■最後に、勝敗の決め方を紹介しておく。将棋と同じく、相手の「師・将」を詰ませたら、即ち、「師・将」に王手(「将〔jiang〕」と呼ぶ/次に取るぞという手)をかけて、相手がどこへ逃げても取られてしまう状態に追い込めば勝利となる。ただし、上述したように、「対面将」というルールがあるので、それを活用した勝ち方もある。即ち、王手をかけて、唯一、逃げられる場所が「師」と「将」が向き合う地点しかなければ、それも勝ちである。なお、象棋(やチェス)は、取った駒は持ちコマとならずに除かれていくので、試合が進むに従って駒が減っていく。それ故、引き分けになることも多いようだ。上級者同士だと、3割程度の試合が引き分けになるという。やはり将棋とは、かなり異なるのは間違いない。だが、興味深いゲームなのは確かなので、愛好者が増えることを、心より期待したい。



その52 日本将棋は民主主義を体現していた?!――真ん中に河が流れている中国将棋(3)(2020年10月6日(火))
■ここ2回ほど中国将棋=象棋を紹介してきた。今月は別の話題を、とも思ったのだが、この間、アメリカが、香港問題などを契機に中国への対決姿勢を急激に強めてきており、それに反発する中国の応対もあって双方が総領事館を閉鎖し合うなど、「新冷戦」とも呼ぶべき危険な様相を呈してきていると言えよう。戦後75年の夏も過ぎた時期ということもあり、象棋ないし将棋と絡めながら、「戦争と平和ないし民主主義」に関する話題を記してみたいと考える。なお、8月15日は「終戦記念日」と呼ばれているが、私としては、日本の侵略戦争への反省を忘れないためにも「敗戦記念日」と呼ぶことにしている。例えば日本に侵略された中国は、この日を抗日戦争勝利が確定した日として位置づけているのだから。(ただし、中国における正式な「抗戦勝利記念日」は、東京湾沖に停泊した戦艦ミズーリ号上で、日本が降伏文書に調印した翌日である9月3日となっている。)

■日本将棋が、象棋やチェスをはじめとするボードゲームと全く異なる最大の特徴は、奪った駒を自分の手駒として、つまり味方の駒として用いることができる点にあることは、前回の本コラムでも紹介した。そもそも、チェスは白と黒、象棋は赤と黒(ないし緑)と対局者の駒色が違うので、取った駒を味方にしようもないのだ。従って、象棋やチェスでは取った駒は除かれていく、即ち、ゲームの進展にともなって、コマ数が減少していきゲームが単純化していかざるを得ない。従って、上級者同士の試合では引き分けも多くなっていく。将棋が、世界のボードゲームの中で最も複雑で難しいゲームだと言われる根拠も、実はこの点に存在する。――こうした将棋独自のルールが、以下に紹介する「戦争と平和ないし民主主義」をめぐる興味深いエピソードへと繋がっていく。

■敗戦後の日本を占領支配したGHQ(連合国軍総司令部)は、日本の軍国主義復活を徹底的に抑えるために、戦争に繋がる一切の要素の排除を占領政策の基本に据えたことはよく知られている。その一環として、1947年夏、GHQは、戦争を模したゲームと認定した将棋について、当時の将棋界の人気棋士・升田幸三八段(1918~91年/後に実力制第四代名人)を呼び出して質問攻めを行なった。というのも、戦前の将棋界の第一人者・木村義雄(1905~86年/実力制初代名人/引退後は十四世名人)が、海軍将校を前に、幾度も戦意高揚に向けた講演をしたことなどがあったからである。GHQ高官は升田に向かって、「日本の将棋は我々がたしなむチェスと違って、相手の駒を自分の兵隊として使用する。これは捕虜の虐待であり、人道に反するものではないか」と詰め寄ったという。これに対して升田は、「冗談を言ってもらっては困る。チェスで取った駒を使わないのなんてこそ、捕虜の虐殺ではないか。そこへいくと日本の将棋の方は、捕虜を虐待もしないし虐殺もしない。常に全部の駒が生きている。これは能力を尊重し、それぞれに働きを与えようという思想なんだ。しかも敵から味方に移ってきても、金は金、飛車は飛車という元の役職のまま仕事をさせる。これこそ本当の民主主義ではないか」と言い放ったそうだ。升田のこの主張に対してはGHQ高官も反論できず、将棋禁止の動向はストップしたと伝えられている。

■日本は「単一民族国家」だとよく言われる。実は、アイヌの人々や在日朝鮮・韓国人、在日中国人やそれをルーツとする人々が存在するので、「単一民族国家」という認識は幻想に過ぎないのだが、そうした傾向が強い、数少ない国の1つであることは間違いないだろう。それ故、敵・味方も同じ民族なのだから、取られた駒が味方の駒となって戦うことも当然だといった発想も生じたのかもしれない。逆に言えば、中国の場合、多民族国家であることや、同じ漢民族であっても国土が広大で人口も多大であることから、使用言語(方言)なども含めて「他者性」を意識することが多いことから、将棋的な発想が生じにくかったとも言えそうだ。盤の中央に河が流れており、渡ることができない駒も存在するという象棋は、まさに中国の広大な自然を象徴しているのかもしれないとも思う。



その53 「近代」と「現代」の違いとは?!――日本語と中国語におけるニュアンスの相違も視野に(2020年11月3日(火))
■日本語の「近代」「現代」と中国語の“近代〔jindai〕”“現代〔xiandai〕の間にズレがあること気づいたのは、1978年12月、中国が「改革・開放」政策へと舵を切った際のスローガンである「四つの近代化」の原語が、“四個現代化”であると知った時ではなかったか。――「四つの近代化」とは、工業・農業・国防・科学技術という4分野の「近代化」を指しており、文革終結直前に周恩来が提起し、それを文革後、鄧小平が継承した国家の重要課題だと言えよう。ちなみに、70年代末の民主化運動で名を挙げた魏京生は、「五つ目の近代化」、即ち政治の近代化こそが重要課題だと主張したこともよく知られている。

■「近代」と「現代」の違いについては、日本語においても微妙な部分が存在し、例えば、今、机上にある『新版・国語辞典』(講談社)の「近代」の項には、「現代、当世」といった説明もなされている。もちろん、一般的な時代区分としては、「近代」は大よそ明治維新以降を、「現代」は戦後を指すことが多いのも確かだ。また、「近代」というタームには、時代区分概念のみならず、「近代的自我」「近代の超克」などに象徴されるような、人文学的言説空間における独自のニュアンスが内包されることもある点には留意しておきたい。

■中国の中学・高校における歴史教育においては、一般に、“近代”とは1840年の阿片戦争を起点とした時代を指す。即ち、当時「眠れる獅子」と呼ばれた清朝が、産業革命を経て強国化したイギリスその他の欧米列強による「ウエスタンインパクト」を受け、その後、欧米(後には富国強兵を実現した日本も加わるが)による侵略的行為が多彩に進められていった時期を指し、“現代”は1910年代後期以降、象徴的には1919年の「五四運動」(日本の利権を承認した当時の民国政府に反対する抗議運動)前後を起点として、中華人民共和国の建国までの時期を指していく。なお、1949年の建国以降は“当代〔dangdai〕”と時代区分されるのが一般的だ。

■だとすれば、“近代”とは列強による侵略に基づく半植民地化が進んでいった時期であり、“現代”とは、そうした列強の侵略に対する抵抗が進められ、遂には侵略に勝利して自らの国家=中華人民共和国を建国するに到った時期に相当するのである。その意味で言えば、“近代”という言葉にはマイナスイメージが付随し、“現代”にはプラスイメージが付随していると見てよいだろう。従って、日本語としての「近代化」の意味、即ち、社会・文化・科学などを「近代性」の備わった状況に変えていくことを、中国語では“現代化”と呼んでいるのだ。なお、“当代”は「今の時代」といった意味で、独自の価値的ニュアンスは、特には付随していないタームとなっている。

■日本語と中国語は同じ漢字を用いてはいるが、歴史的背景も含めて、微妙なズレが生じている点は、忘れないようにしたい。なお、最近、気づいたこととして、社会科学用語である「近代国民国家」(英語で言えば“modern nation state”)を、中国語では“現代民族国家”と訳していることを紹介しておく。“nation”には「国民」と「民族」という2つの意味があるが、多民族国家である中国は“民族”を用い、単一民族国家的に理解されがちな日本では「国民」が用いられているようだ。実に興味深いところである。――もちろん、日本を単一民族国家と考えるのは実は「幻想」であり、日本にもアイヌ民族や在日韓国・朝鮮人、在日中国人とその子孫が居住していることを決して忘れてはいけない。



その54 「権利」としての言葉という視点――コロナ禍の下における講義から…(2020年11月30日(月))
■ここ10年間ほど、「現代東アジア言語・文化概論Ⅰ」という秋学期配置の専門基礎講義の前半部分「中国語圏」編と「導入」の計8回の授業を担当(後半部分7回は「朝鮮語圏」編で別教員が担当)している。今期はコロナ禍の影響もあって、基本は教室における「対面授業」としつつも、出席できない学生(家庭の事情や持病その他があって登校できない学生や入国できずに未だ祖国に留まっている留学生など)に向けては、オンライン会議システムのZoomを活用して同時配信ないし録画配信を行なう「ハイブリッド型授業」にならざるを得ず、想像以上に手こずってしまった。40年近い大学教員経験はあっても、そこで培ってきたスキルとは大幅に異なるICTスキルその他が求められ、授業準備とフォローも含めて、かなりシンドイ思いをしたとしか言いようがない。例年だと300名弱の受講生が、「対面授業」を避ける学生も多いのか100名強に留まったにもかかわらず、負担感は2倍以上というのが正直なところだ。――つい、愚痴になってしまった。お許しを。

■その講義の「導入」部分では毎年、普段は空気のように意識せずに用いている言葉に新たな光を当てると、文化はもちろん、歴史・社会・民族・国家に関わる問題までが見えて来るということを、中国語圏の問題などを素材に紹介することから始めている。文学部の学びは人文学と称されるが、人文学の土台を構成するのはまさに言葉だということを、実感を持って知ってもらいたいからだ。ということで、今年は、「ところで、人間の権利とは何だろうか。私としては、本人の選びようがなかった基本的な属性は尊重されねばならない、そのことによって不利益を被ってはならない、というところに原点があると考えている」と話し始めてみた。一瞬、「言語・文化論なんだけど…?」という顔をした学生もいた。

■「女性に生まれるか男性に生まれるか、皮膚の色が白いか黒いか黄色いか、等々は本人には全く選びようがなく、だからこそ、もしこうした属性を理由に不利益を受けたとすれば、それは人権侵害にほかならないだろう」と続けて、「だとすれば、実は言葉も、人間の生まれながらの権利と考えることができるのではないか」と畳み掛けていく。――「母語」とは、母に代表される、生まれて初めて出会い育てられる存在(別に父でも構わないはずなのだが、悔しいことに象徴的な意味で母が用いられているらしい)から伝えられる言葉、人間が生まれ落ちた環境に従って自然に修得した言葉を指す。人間は、どの国に生まれるのか、どの地方に生まれるのか、どのような階層の家庭に生まれるのか、全く選びようがない。しかし、その生まれ落ちた環境によって、最初に身につけていく言葉も異なってくるのだ。つまり、ある個人が、他の言葉のいずれでもない、固有の「母語」(方言なども含めて考えたい)を用いることは、本人の選びようのない「運命」的なものと言えるだろう。

■だからこそ、国際連合が成立後、最初に挙げた「宣言」である「世界人権宣言」(1948年)には、「全て人は、人種・皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見(中略)又はこれに類する如何なる理由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げる全ての権利と自由とを享有することができる」と記されており、1996年には「世界言語権宣言」(言語権研究会『ことばへの権利――言語権とはなにか』三元社、1999年、などを参照)も出されている点は、知っておいてほしい。――授業はこんな形で進んでいく。

■中国語圏における具体的な事例としては、中国における少数民族の固有民族言語(全てが現存するわけではないが)と人口の92%を占める漢民族の言語=漢語の関係や、漢語の内部における方言と“普通話”(共通語)の関係をめぐる問題群にも言及していく。同時に、日本人としては、1895~1945年の50年間、日本が台湾を植民地支配していた時代(特にその後期)には、いわゆる「皇民化教育」の一環として、台湾の人々から「母語」を奪い、日本語を押し付けた歴史が存在したことを、決して忘れるわけにはいかないと強調している。――受講生には、言葉から様々な問題を「新発見」してほしいと考えているのだが、どうだろうか。【以上、講義をそのまま再現したわけではない点は、お断わりしておく。】



その55 「丑」年はあまり良いイメージがないのでは?!――来年の干支から簡体字を考える(2020年12月25日(金))
■かなり思い込みの激しい方だと自覚してはいたが、ここまで外してしまったのは久しぶりのようだ。来年2021年の干支の「丑」に関しての話である。――なお、今、つい「干支」と記してしまったが、本コラム「その22」(18年1月)では、以下のような薀蓄を語っていた。「「えと」を「干支」という漢字で記してしまったが、「干支」は漢語では「カンシ」と読む。実は「干支」とは、「十干」〔略〕と「十二支」〔略〕の組み合わせを意味しており、いわゆる「甲子(コウシ/きのえね)」から始まり「癸亥(キガイ/みずのとい)」で終わる、60種による紀念法(ある紀元に基づいて起算する年数)を指す言葉なのだ。〔略〕とすれば、日本語で「干支」を「えと」と読み慣わすのは、「干支」の内の「十二支」のみに依拠した表現で、「十干」を忘れた言い回しとも言えそうだ。」ということで、来年の「十干」は「辛」なので、「干支」は「辛丑(シンチュウ/かのとうし)」ということになる。

■閑話休題。私が思い込んでいたのは、中国人は「丑年」を快く思っていないのではないか、ということであった。何故か。中国語辞書で「丑〔chǒu〕」の字を引くと、①としては、「丑(うし)。十二支の第二位」などとあるが、②の意味としては「醜い。見苦しい。嫌悪すべき、恥ずべき、ぶざまである」といった意味が記され、用例としては「长得丑〔容貌が醜い〕」「丑态〔醜態〕」「出丑〔恥を晒す〕」などが挙げられているのだ。更に③として、「芝居の道化役、三枚目」といった意味も存在する。こう見てくると、中国人は「丑年」を何となく嫌っているのではないか、と思い込んでしまったのも無理からぬところではないだろうか。

■何故「丑」に「醜」の意味が含まれたのか。中国では1950年代中頃に、識字率の向上を目的として漢字の大胆な簡略化に取り組み、簡体字を制定したことはよく知られていよう。例えば「飛」という字の内部を全て削除して「飞」という簡体字にしているのだ。そして断わるまでもないが、この簡体字こそが、現在、正式な文字として位置づけられているのである。ただし、これは中華人民共和国に限ったことで、香港や台湾においては、簡略化される前の漢字(繁体字)が正式な文字と位置づけられている。――ちなみに、日本の常用漢字の中にも、簡体字ほどではないものの、繁体字を簡略化したものが多いことは、付言するまでもないだろう。例えば、「読」の繁体字は「讀」で、簡体字は「读」である。

■実は、「丑」は「醜」という漢字の簡体字だったのだ。簡体字の作成方法は様々あるが、元の漢字(繁体字)と同じ、ないし似た発音の簡単な漢字(画数が少ないなど)をその簡体字に当てるという「同音代替字」方式は、かなり多く用いられている。「醜」と「丑」も、発音は全く同じ「chǒu」なので、こうなった。とすれば、「丑年」を見れば「醜年」を連想する人も多いはずで、よくないイメージを抱く人も多いのではないか、と思ったのだが、知り合いの中国人数人に聞いた限り、そんなことは一切ないとのことだった。「丑年」は、牛(「丑年」の牛は「丑牛」と呼ばれる)が一歩ずつ着実に歩むイメージから、勤勉に労働して忍耐強く成果を生み出す年といった好印象が一般的なようである。この辺は日本のイメージと共通と言えるだろう。

■最後に1つ、皆さんの「注意力」を問うてみたい。日本の漢字の「丑」は中国の漢字の「コラムVol.55写真1」と同じなのか。真ん中の横棒が、日本漢字の場合、右に突き出ているが、簡体字は突き出ていないのだ。「骨」の簡体字が「コラムVol.55写真2」となっており、顔を向ける方向が逆のような事態も存在しているのと同様に、日本の常用漢字と簡体字の間には微妙なズレも多いことは知っておいてほしい。……本年も残すところあと僅かとなりました。素敵な「丑年」をお迎え下さい!祝新年快楽,身体健康!



その56 「拝」の字にこだわってみた――「拝登総統」って誰でしょう?(2021年2月6日(土))
■本コラム「その9」(2016年12月24日)のタイトルは、「トランプは「特朗普」か「川普」か?――新華社と「網民」の争い」だった。その冒頭で私は、「ドナルド・トランプ氏が、第45代アメリカ大統領に当選してしまった。大統領選挙期間中の発言を見る限り、移民・イスラム教徒・女性などへの差別意識を隠さない、「人権感覚に乏しいナショナリスト」としか呼びようがないところがあるのも確かだろう。こうした人物が、世界最大の核保有国・アメリカの核兵器発射ボタンを押すことができる、唯一の人間=大統領になってしまったことに、言い知れぬ不安を抱くのは、私だけではないだろう」と記したものだった。その後の4年間は、私の「不安」を多様な形で証明してくれたとしか言いようがない。だが、昨年11月の大統領選挙に敗北したにもかかわらず、選挙に「不正」があったとしてその結果を認めず、先月6日には、支持者に向かって暴力を煽るような演説を行なって、4人の死者をも生み出した連邦議会議事堂への乱入・占拠事件を引き起こすとまでは、思いもしなかった。任期の最後の最後まで、「アメリカ民主主義」をも踏みにじった大統領だったことを、改めて確認するしかないだろう。裏返せば、様々に注文もあるにせよ、とにもかくにも民主党・バイデン氏が大統領に当選したことを、まずは心から喜びたいと思う。

■バイデン大統領の中国語表記は、「拝登〔Bàidēng〕総統」となる。バイデン氏は、オバマ大統領時代の副大統領だったので、「拝登」という表記は、中国でも定着していたようだ。断るまでもなく、「総統」は「大統領」の中国語訳である。――なお、これを説明する度に思い出すのは、もう20年以上前に、当時、中学生だった長男が放った一言だった。彼は、「総統って独裁的権力者っていう意味なのか?」と訊いてきたのだ。「総統」といえば、ナチスのヒットラーしか頭に浮かばなかったらしい。トランプの政治手法がヒットラーのそれに似ていたことをも思い出しながら、日本や中国をも視野に入れつつ、「民主主義」の意味を問い続けねばならないと考えている。

■話柄がつい固くなってしまった。以下、「拝登」の「拝」という漢字から連想したことを記しておく。――私が「拝」から始まる中国語単語で最初に知ったのは、「拝年」ではなかったか。いわゆる「年始回り」のことで、「大年初一」(「春節」=旧暦正月)は家族や親しい身内で過ごし、「初二」「初三」には親族や目上の知人の家を訪問する、即ち「拝年」するのが、中国の伝統的な習わしとなっている。ちなみに、今年の「春節」は2月12日で、11日から17日までの7日間が、国の定める「春節休暇」である。例年ならば、のべ10億人規模の「民族大移動」と呼ばれる帰省旅行が一斉に展開されるのだが、今年は「新型冠状病毒肺炎」(略称「新冠肺炎」/新型コロナウイルス肺炎)の影響もあって、自粛が強く呼びかけられている。

■「拝拝!」という言葉をよく目や耳にするようになったのは、3回目の中国長期滞在(2001年9月~02年3月/北京・清華大学)からではなかったか。断るまでもなく「バイバイ!」という別れの挨拶である。この言葉に「拝」の字を当てるのか……と少し感動した(?)記憶がある。「拝拝」は、元々は「万福」と呼ばれる女性のお辞儀(両手を軽く握って胸の下で上下させながら会釈する)を指したからだ。また、犬が後足で立って前足を揃えて上げる、いわゆる「ちんちん」の仕草をも指す言葉でもあるのだ。何となく共通項があるようにも思うが、どうか。

■最後に、衝撃的(?)な事実を1つ。今まで慣例に従って、この文章を日本の常用漢字である「拝」を用いて記してきたが、現代中国語にはこの「拝」の字は存在しない。旧字体の「拜」の字が正式な簡体字として用いられているのだ。同じ漢字を使っているとはいえ、日中間には微妙な差異があることに、改めて感じ入るしかない。では、「拜拜!」



その57 「拜登白等」から「顔色」を考える?!――白・赤・青・緑・黄など(2021年2月25日(木))
■前回の本コラムで、アメリカのバイデン新大統領を中国語では「拜登総統〔总统〕」と記すと書いたが、その後、中国で「拜登白等」という言葉が流行ったことを教えてもらった。本孔子学院副学院長兼「中方学院長」の祖人植先生(北京大学対外漢語教学学院副教授/本孔子学院の合作協定校である北京大学からの派遣教員)から聞いたのだが、改めて「漢字の国・中国!」と叫んでしまった。――「拜登白等」は拼音表記(中国語発音のローマ字表記)すると「Bàidēng bái děng」となって、「拜登」と「白等」は、声調は異なるものの発音は全く同じなのだ。意味はと言えば、「バイデンは空しく待つ」となる。「白」は「空白」という用法からも分かるように「何もない/無駄に」といった意味の副詞としても用いられ、「等」は「待つ」という動詞である。バイデンは昨年11月の大統領選挙で勝利したにもかかわらず、トランプは敗北を認めずにホワイトハウスに居座ったことも記憶に新しい。先月20日の就任式まで「ひたすら待つ」しかなかったバイデンを、中国ではこう呼んだのだそうだ。

■「白」にはもちろん白色の意味があり、上述のホワイトハウスは「白宮〔宫〕」となっている。また、「無駄に」の意味から「白費〔费〕」は「無駄に使う/浪費する」となり、更に「無料で」の意味も生じて「白費看戯〔戏〕」は「ただで芝居を見る」となっていく。――ということで、今回は、中国語の色に関するイメージや意味の広がりについて紹介してみよう。ちなみに、今、色と言ったが、中国語で一般に色を意味する単語は「顔〔颜〕色」であることも知っておいてほしい。日本語の意味での顔色は「臉〔脸〕色」となる。毎度のことながら、同じ漢字を用いていても、日中間の違いの大きさには驚かされるしかない。

■色の赤を示す中国語が「紅〔红〕」であるのは、国旗が「五星紅旗」であることなどからも比較的知られているのではないか。「紅」は伝統的にめでたい色とされると同時に、特に建国後は、革命・社会主義・共産党のシンボルカラーとして独自の地位を占めているのは断るまでもないだろう。なお、「赤」という漢字にも赤色の意味はあるが文語的であり、口語では「紅」が一般的だ。「赤」には「露わな/剥き出しの」という意味があり、「赤脚」は裸足、「赤金」は純金を指していく。

■青色は「青」も用いるが、文語的で熟語・成語に用いられることが多く、口語では「藍〔蓝〕」が多用される。青空は「藍天」だし、「藍光」がブルーレイ、「藍宝石」はサファイヤだ。そう言えば、学生時代に、「藍」はスカイブルーで、「青」は緑色や紺色から黒まで、幅広く濃い目の青色を指すのだと教えてもらった記憶がある。中文専攻の講読の授業だったと思うが、確か魯迅の文章を訳読していて先生に当てられたのだった。「青天」という単語があったので、つい「青空」と訳してしまったら、先生に「場面は夜だよ。だから青空という訳は間違い。紺色の空、せめて晴れた夜空くらいの訳をしてほしかった…」と言われてしまったのだ。で、その後で、上述の説明を聞いたのだが、恥ずかしくも懐かしい思い出である。

■「〇色」という単語でイメージがよいものには、「紅色」の他に「緑〔绿〕色」がある。「エコロジー/環境にやさしい」のシンボルカラーとなっており、都会のスーパーマーケットに行けば、「緑色食品」(安全で栄養に富み無公害な有機食品)や「緑色包装」(エコ包装)といった標語が満ち溢れている。2008年の北京オリンピックの際のスローガンの1つが「緑色奥林匹克運動〔运动〕会」だったことも印象に残っている。その頃から「緑色××」という言葉が流行り始めたように思うのだがどうか。一方、イメージのよくない「〇色」の代表格は「黄色」だろう。黄色は、かつては皇帝専用の色として一般の使用は制限されていた高貴な色だったが、近年になってから英語の影響を受けて、「堕落した/煽情的な/卑猥だ」といった意味が定着していく。「黄色書〔书〕刊」(ポルノ刊行物)、「黄色影片」(ポルノ映画)から「黄色網〔网〕站」(アダルトサイト)といった具合で、そうしたものを一掃する「掃〔扫〕黄運動」(風俗営業・ポルノ一掃キャンペーン)も、随時、展開されている。――イメージの悪い「〇色」に「黒〔黑〕色」もあるが、紙数が尽きた。これについては、また機会を改めて紹介しようと思う。



その58 「打工人」とサラリーマン――「社畜」と「獣になれない私たち」?!(2021年4月3日(土))
■「打工人」という言葉が中国で流行語になっていることは、本孔子学院の中国語教師・杜天邑さんのYouTube動画「はぴチャイ!」第6回(2020年11月28日)の「2020年ネット流行語(打工人)」から教えてもらった。――「打工」は1990年代初めに流行った言葉なので、もちろん、知っていたが、「打工人」は初耳だった。「打工」は、元々は香港でサラリーマンを指す言葉だったのだが、鄧小平の「南巡講話」(いわゆる「六四・天安門事件」後、一時、改革・開放政策に対する批判的動向が生じていた中、広東省や上海を視察した鄧小平が「市場経済は不変である」と宣言して情勢を一変させ、現在の経済発展の基礎を築いた講話)以降、激増した農村からの出稼ぎ労働者(「農民工」)の内、若い男性を「打工仔」、若い女性を「打工妹」などと呼び始めたことが強く印象に残っている。そこから更に広がって、いわゆる都市における青年・学生のアルバイトのことをも「打工」と呼びならわすようになっていった。いずれにせよ、細切れの臨時の仕事に従事することを指していたのは間違いない。その「打工」に「人」が付くことによって、独自のニュアンスが加味されて、最近、流行しているようなのだ。意味としては、サラリーマン(最近はジェンダーの問題もあってか、あまり使われなくなったが)という、元々の意味合いに回帰しているようにも見受けられる。

■「打工人」を労働者ないしは賃金労働者と訳している場合も散見されるが、いわゆる「藍領〔ブルーカラー/肉体労働者〕」のみならず「白領〔ホワイトカラー/事務労働者〕」をも含み込んでおり、現在では、「上班族〔勤め人/「上班」は出勤の意味〕」「工薪〔給料・サラリー〕人員」「公司〔会社〕職員」といった類の言葉の延長線上に出現してきた側面も存在するので、やはりサラリーマンという言葉が近いのではないか。しかも自嘲的に用いられることも多いので、昔、日本でも流行った、「俺はしがないサラリーマン」という際のサラリーマンに合致するような気がするのだが、どうだろうか。日本以上に競争社会化が進行している中国で、朝から晩まで身を粉にして働いても、それに相応しいだけの十分な報酬は得られず、働き甲斐も見出しにくい実態も進行していることの反映なのかもしれない。

■ちなみに、こうした「打工人」という文脈の中で、ネットを中心に、中国の若者の間で「社畜」という言葉も流行していることを知って、少し驚いた。「社畜」とは、言うまでもなく「会社」と「家畜」を掛け合わせた造語で、1980年代後半から90年代初めの日本で流行った言葉だが、近年、いわゆる「ブラック企業」が問題視される中で、再び注目を集めたりもしているらしい。会社のために自分を犠牲にして働く会社員、会社の奴隷と化した会社員を揶揄ないし自嘲して用いる言葉で、この言葉を社会に広めたのは経済評論家の佐高信である。なお、佐高は自分の「思想的故郷」は魯迅だと言明していることもあって、私は本コラムの「その42・43」(2019年11月30日/12月26日)で、「佐高信『いま、なぜ魯迅か』を紹介する」と題して、「「会社国家」であり、「官僚国家」でもある日本では、「精神のドレイ」が主人の意向を先取りする、いわゆる忖度が大流行りである。まじめ主義者と多数に従ういい人ばかりのこの国に、いま必要なのが魯迅の「批判と抵抗の哲学」だ」と主張している佐高著を紹介したことがあった。興味のある方は参照いただければ幸いである。

■それにしても、中国で「社畜」という言葉が話題になったのには驚くしかないが、そのきっかけは、もちろん、佐高信ではなく、2018年に日本テレビ系で放映されたドラマ「獣になれない私たち」(主演:新垣結衣・松田龍平)の中国での放映(中国語名「我們無法成為野獣〔直訳:私たちは野獣になりようがない〕」)だったとのことだ。私も視聴した記憶はあるのだが、IT企業の営業アシスタントの新垣結衣が、パワハラ社長に無理難題を押し付けられるシーンは何となく覚えているものの、「社畜」といった言葉が飛び交っていた記憶はない。中国版の台詞の翻訳がどうなっているのか、気になるところだ。



その59 使用頻度が高い中国語漢字ベスト5は「的/一/是/了/我」――「李姉妹ch」が「その合計出現率は10%」と述べる根拠は?!(2021年4月28日(水))
■「李姉妹ch」というYouTubeチャンネルをご存知だろうか。――日本在住の中国人姉妹(ゆんちゃん/しーちゃん)が中国語学習者向けに、中国語の勉強に役立つ各種情報(中国語の常用表現から中国語学習に適したドラマや流行語の紹介、体験的日中文化比較論まで)を発信して約26万人ものチャンネル登録者数を獲得し、昨年からは「HSK(漢語水平考試験)」の公式イメージキャラクターをも務めているので、知っている方も多いのではないか。この「李姉妹ch」(2020年11月14日)にアップされた「【衝撃】漢字17文字で全体の2割!?中国人が最も使う漢字とは?日中常用漢字の違い!」と題された動画の内容が興味深かったので、紹介しておきたい。同時に、この情報の出所については「(ネットの)記事で読んだ」「調査方法は分からないけど、信憑性は高めだと思う」としか語られていないので、その出典を探してみたのだが、その結果についても簡単に記しておこう。

■この動画は、李姉妹が、まず「中国語における常用漢字トップ10」を、日本語の「常用漢字トップ10」(これについても出典の説明はない)とともに紹介することから始まる。中国語漢字の「トップ10」は、①的、②一、③是、④了、⑤我、⑥不、⑦人、⑧在、⑨他、⑩有、となっており、日本語漢字の「トップ10」は、①日、②一、③大、④年、⑤中、⑥人、⑦会、⑧月、⑨本、⑩上、と紹介されている。率直な感想を言えば、中国語漢字に関しては、なるほどなぁと思わされたのは確かだ。「不」はもう少し上位ではないか、「没」は入っていないのか、などとは思わされたものの、中国語を構成する上で不可欠な基本漢字が並んでいるのは間違いない。(日本語に関しては思考停止するしかなかったのだが、皆さんは如何?)

■興味深かったのは、この①~⑤の「トップ5」の文字の出現率の合計が漢字全体の1割に到り、更に言えば、⑪这、⑫个、⑬上、⑭们、⑮来、⑯到、⑰時、を加えた①~⑰の「トップ17」の漢字を合計すると全体の2割を占めるという、少し衝撃的な事実だった。――だが、この「2割」ということの根拠と意味が、イマイチ分かりにくかったのも事実である。そこで、根拠・出典を調べた結果を記しておく。

■中国の「Google」とも呼ばれる「百度一下」などで検索すると、「最常用的一千个汉字使用频率排名〔最も常用される1000の漢字の使用頻度ランキング〕」という記事が幾つかヒットし、たぶんこれだと思うのだが、いわゆる「まとめサイト」における転載記事が多く、その筆者・出典を探し当てるには時間がかかってしまった。結論から言うと、「华语网〔華語網〕」という中国語関連サイトに「钟丽〔鐘(または鍾)麗〕」という作者名で掲載されたのが初出のようだ。この記事は、「中国語の常用漢字は3000余字に過ぎず、国家標準GB2312-80「情報交換用漢字コード文字符号セット基本集」が使用頻度に基づいて制定している。一級文字庫が常用漢字3755字、二級文字庫が常用外漢字3008字で、一級・二級の合計が6763字となる。一級文字庫の漢字は使用頻度の合計が99.7%に達している。即ち、現代中国語文章データ内の10000字の文章毎に、これらの漢字は9970回以上出現し、それ以外の漢字は30回にも満たないということだ。なお、最常用の1000字の漢字の使用頻度は90%以上、使用頻度ランキングの「トップ5」の漢字「的・一・是・了・我」の使用頻度の合計は10%である」という一文から始まる。次いで、「使用頻度ランキング第6~17位の漢字の使用頻度の合計は10%」と来て、以下、「使用頻度の合計10%」は「第18~42位」「第43~79位」「第80~140位」「第141~232位」「第233~381〔380となっているが誤記〕位」の範囲であるとした上で、「第382~500位」の漢字の使用頻度の合計は5.43%と記している。つまり、「トップ500」の漢字で75.43%を占めるということになるようだ。ゴマンとあると言われる中国の漢字だが、常用されるものはかなり少ない点は、改めて確認しておこう。

■なお、李姉妹が紹介した「日本の常用漢字トップ10」だが、ネットであれこれ調べた結果、徳弘康代編『日本語学習のための よく使う順 漢字2200』(三省堂、2014年)における「0001」~「0010」までの漢字が同一であることが判明した。検索エンジンを用いてネット上の漢字出現頻度を調べて順位を決定した、日本語学習者(日本語非母語話者)向けの漢字学習事典が出典だったようだ。新聞に用いられた漢字のデータなどはどこかで見た記憶があるが、それと合致しているのか、少し気になるところだ。



その60 1980年代に体験した中国「電報」事情から(1)――「電報の話」の前には「電話の話」が必要だった?!(2021年6月8日(火))
■若者の間では、「電報」がすでに死語になっていることに気づき、当然のこととはいえ、些か感慨深い思いに駆られてしまった。――どうしても参列できない遠い親族の結婚式へ祝電を打った話を、何の弾みか、授業の合間の雑談に語った際の学生たちの反応である。知っていた学生でも、「電報って、あの「チチキトク」っていうやつですよね。昔のドラマで見ました」といった反応だった。でも考えてみれば、私でさえも、電報と言えば、豪華な花や装飾品が付随している祝電や弔電を、今までに何度か打ったことがあるくらいなのだから当然である。私の実家に電話が敷設されたのは、私が小学校に上がった頃だったから、それ以来、つまり今までに1度も、私個人宛の電報を受け取った経験はないのだ、少なくとも日本では……。(ちなみに、幼児期に、夜遅く「電報です!」という呼び声で目が覚めてしまった記憶は、ひどく曖昧ながら微かに残っている。)

コラムVol.60写真■天津・南開大学で在外研究中の1987年12月6日午前10時頃、宿舎である専家楼(外国人教員宿舎)の私の部屋のドアがノックされ、人生でたった一度の自分宛の電報を受け取った。届けてくれたのは電報配達員ではなく(専家楼は申請して許可された者以外、中国人は入構禁止!だった)専家楼の服務員で、「给您来电报!」と言われたことも、何故か記憶に残っている。電報(写真参照)は「1987.12.5/天津 八里台 电信」と押印され、宛先は「八里台南开大学专家楼宇野木洋」で、電文は「(8)日乘船(15)点开离大连去天津新港望接阪口」となっていた。一瞬、誰からの電報かすらも分からずに焦ったが、電文の末尾を見て、当時、武漢大学で在外研究中だった同志社大学助教授の阪口直樹さん(専門は中国現代文学。研究会などで親しくしていた)からだと納得した。私が天津に到着した直後だから2カ月以上も前に、武漢の阪口さんから「12月か1月くらいに東北地方に出向く用事があり、天津にも足を伸ばしたいのでよろしく!」といった極めて大雑把な葉書をもらっていたことを思い出したのだった。

■ここまで書いてきて、「何故、電話を掛けなかったのか?」と考えてしまう読者も多いのではないか、ということに改めて思い到ってしまい、ワープロを打つ手が止まってしまった。「電報の話」の前に「電話の話」が必要らしいと、今更ながらに気づいたのだった。――当時の中国の電話事情は、日中両国ともに携帯どころかスマホが高度に普及した現在からは、到底想像できないだろうが、以下のようだったのだ。日本では1960年代末には「一家に一台の電話」という様相を生み出しつつあったが、1987年当時の中国では、電話は、一般家庭にはほぼ敷設されていなかったのだ。自宅への電話連絡を可能にするには、アパートの1階にある「居民委員会」(日本で言う町内会に近い。定年退職した公務員が役員になることが多い)的な部署の電話番号を知らせるよりなかった。街を歩いていると、時たま、「居民委員会」のオバサンが、メガホンで「〇〇階の△△さん、電話ですよ!」と怒鳴っている様子を見かけたものだった。従って、一般には、勤務先に掛けるよりなかったのだが、各職場に電話が1台設置されているかどうか、といったレベルの普及状況だったため、なかなか捉まらないことも多かった。また、国際電話はもちろん国内長距離電話さえもダイアル直通ではなく、服務台に申し込んでから繋がるまで1時間以上も待たされることも多かった。それでも繋がればいい方で、繋がらないことも度々だったし、ようやく職場に繋がっても相手が席を外していたため、「不在!」の一語で切られたこともよくあったのだ。

■1987年当時、大事な緊急連絡は、電報を打つのが通常だったのである。阪口さんは、葉書と電報という当時の中国の「常識」に従っていたのだった。――ここで紙数が尽きてしまった。人生で初めて受けた電報をめぐって、数日間、あたふたしてしまった経緯については、次回で紹介しよう。乞うご期待?!