STORY #6

生殖をめぐる物語は
グローバルに広がっている

  • 女性
  • アジア
  • 心理学

安田 裕子

総合心理学部 准教授

子どもを産むのがオンナの幸せ?
産めない女性たちの挫折と再生の物語

「結婚して子どもを産む。それがオンナの幸せ」 人生における選択肢が多様化し、晩婚化や非婚化、少子化がさけばれる現代にあってもなお、女性の幸福をめぐるこうした価値観はある種絶対的であり、頑強に揺らがない。それが唯一無二の幸せなのではなく、ただ単に幸せのひとつのかたちであるにもかかわらず。だが現実には、その「当たり前だと信じてきた幸せ」につまずく女性たちがいる。子どもに恵まれないことに悩む女性の多くは、当然のように子どもを授かろうとして初めて「産めない」という事実に直面し、思い描いていた「幸せな人生」が、ガラガラと崩れ落ちてしまうような絶望を味わう。

安田裕子は、「生涯発達」の観点から、そうした女性たちがどん底から再び立ち上がり、人生を再構築していく道程を捉えようとしてきた。安田の研究を際立たせているのは、一人ひとりの人生に光を当て、個別で多様な物語に迫ろうとするナラティヴ・アプローチだ。

また、安田の仕事に、子どもに恵まれず、養子縁組によって子どもを得た女性たちがそれぞれに語る物語を、時間の流れに沿って径路図に表した研究がある。この研究を支える研究手法は、「複線径路等至性モデル(TEM)」と呼ばれる質的アプローチの方法論である。その特徴は、「人の発達や人生の径路は多様であり、ある状態に至る複線的なありようを、見えにくくなっている文化的・社会的な様相とともに描き出す」ところにある。そこには、誰の身にも起こりうる、人生の挫折と再生の物語が映し出される。

TEMの基本図

TEMの基本図:複線径路等至性モデル (Trajectory Equifinality Model:TEM)とは、ある状態ないしは選択・行動(等至点)にゆきいたるまでの径路は単一ではなく、多様性・複線性を有するものであることを示す、質的研究の方法論。システム論に依拠する点、持続する時間を重視する点の2点を特徴とする。

まず対象者に、自分自身の不妊をめぐる経験について語ってもらう。その物語に耳を傾けながら、安田は、当事者が直面した人生の分岐点で、実際に選んだ道と、選びえたかもしれない他の可能性とを丹念に捉え、径路図に記していく。結婚して以降、妊娠しないことに悩んだ時、不妊治療をするのか、しないのか。「産めない」現実に向き合うなかで、あきらめて夫婦二人の人生を考えるのか、養子縁組をするのか、あるいは他の可能性を模索するのか。また、当事者がその時々でどのような行動をとったかと同時に、それに対してどのように感じたのか、行動と選択とともに感情のありようを丁寧に汲みとっていく。「『語る』という行為は、不妊のような喪失の経験を自分の中に位置づけ直す作業でもあります。『語る』ことで、マイナスだった過去の経験に新たな意味を見出し、そうした経験を糧にして未来へと歩を進めることができるようになる。それぞれが語る人生の物語には、素直に心を打たれます」と、安田は語る。

同じ「不妊」という経験でも、人によって受けとめ方も、その後の行動も違う。「その一つひとつに『生きる』ことの真実がちりばめられている」と、安田はみる。語られた物語と語る行為はまた、当事者を癒すだけでなく、物語を受けとる多くの人に「人生は何度でも歩み直すことができる」という力強いメッセージを投げかけてもくる。「それが、対人援助と学術研究とをわかちがたくむすびつける質的研究のおもしろいところです」

現代において生殖をめぐる選択と行動は、文化的・社会的な背景や、進歩する生殖補助医療技術の影響を抜きに語ることはできない。とりわけ生殖補助医療技術の発展と普及に伴い、生殖をめぐる女性の選択肢は、ますます複雑かつ多様に広がっている。「治療技術の進歩はもちろん、精子・卵子の提供など、生殖への医療の介入は、本来人と人とのつながりの中で生まれるはずの『生』の営みとは異なる現実を生むとともに、生殖に関わる第三者との間でのトラブルをひき起こしてもいます。韓国では、卵子提供が社会問題になりました。インドやタイでは代理出産の斡旋が生殖ビジネスとして成り立っていました。それらへの規制がなされて以後は、非合法の代理出産によるトラブルの危険性はむしろ高まっている、という指摘があります」

そこには、経済力の格差と貧困といった社会構造などさまざまな問題が含まれており、一方的な否定は一面的なものであるにすぎない。それらの買い手の多くが先進国の富裕層だという事実を考えれば、日本人も無縁のことと目を背けることはできないだろう。「生殖をめぐって日本人女性の人生と、他のアジアの国の女性の人生がむすびつくことがあるかもしれない。『私』に向けてつむがれる、生殖の、夫婦の、家族の、そして人生の物語を見誤らないためにも、グローバルな視野で生殖に関わる見識を増やしていく必要がある」と、安田は考えている。

不妊だけに限らない。人は誰しも悲喜こもごもさまざまな物語を抱えて生きている。当事者目線でその一つひとつを見つめ、「life(いのち・生活・人生)」の真実に迫る。安田の興味は尽きない。

安田 裕子

安田 裕子
総合心理学部 准教授
研究テーマ:生殖から始まるライフサイクルにおける、危機と回復に関する質的アプローチによる研究
専門分野:臨床心理学、生涯発達心理学、質的心理学

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関連情報
質的研究の方法論 複線径路等至性アプローチ(TEA)のWebサイト
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TEAは、文化心理学に依拠した、過程と発生を捉える質的研究の方法論です。「ティー」と読みます。人間の文化化の過程を捉え記述する技法としての「複線径路等至性モデル(Trajectory Equifinality Model:TEM)」、対象となる経験ないしは対象者を選定・設定するための方法論「歴史的構造化ご招待(Historically Structured Inviting:HSI)」、文化的記号を取り入れて変容していく人や集団のシステムの内的変容過程を理解・記述するための理論「発生の三層モデル(Three Layers Model of Genesis:TLMG)」を統合した、質的研究法の一体系です。分析技法としてのTEMが、TEAの中心に位置づけられています。心理学の学問領域を超えて、保育学、看護学、社会学、経営学、言語学などの研究者や実務家にも、関心がもたれています。

exit_to_app質的研究の方法論 複線径路等至性アプローチ(TEA)Webサイト
著書『TEMでわかる人生の径路―質的研究の新展開』
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TEMは、Trajectory Equifinality Modelの頭文字をとった、「複線径路等至性モデル」の略称です。「テム」と読みます。決して一本道ではない、人が歩む軌跡(径路)が、ある状態に等しく到達するありようを意味する「等至性(Equifinality(エクイファイナリティ))」の概念をもとに、開発されました。現 デンマーク・オールボー大学(当時 アメリカ・クラーク大学)のヤーン=ヴァルシナー教授が、人の発達や文化的事象を心理学研究に取り入れたことに始まり、その後日本で育ってきた質的研究法です。TEMは、人間発達や人生径路の多様性や複線性を、文化的・社会的な諸力ととともに捉え描く分析枠組みです。その特徴は、人間を開放システムとして捉えるシステム論に依拠する点、個人に経験された時間を捉える点、の2点にあります。等至点(Equifinality Point:EFP)、両極化した等至点(Polarized- Equifinality Point:P-EFP)、分岐点(Bifurcation Point:BFP)、必須通過点(Obligatory Passage Point:OPP)、非可逆的時間(Irreversible Time)、社会的方向づけ(Social Direction:SD)、社会的助勢(Social Guidance:SG)などといった概念ツールによって分析を行います。

総合心理学部のWebサイト
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2016年4月に大阪いばらきキャンパスにて開設される総合心理学部では、<心理学を「総合的」に学ぶこと>と<「総合的」な人間力を身につけること>の2本の太い柱をおき、長い人生を見据えたキャリア形成を展望しつつ、人間を総合的に探求し理解することを目指して展開されます。前者について、心理学の基礎から応用、臨床に至る縦方向の広がりと、知覚、記憶、発達、教育、社会はもとより、情報科学、脳科学などの境界領域を含む横方向の広がりのなかで、バランスよく心理学を学修していきます。そして後者については、哲学をはじめ、社会学、経済学、政治学など、心理学の隣接学問領域である人文・社会科学分野を、幅広く学修することができます。総合心理学部では、社会で、家庭で、企業で、人生で、生きる/生かせる心理学を、存分に学んでいくことができるようカリキュラムが編成されています。

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2016年1月29日更新