仮想世界で災害を体験すると
現実の防災が変わる。
2011年、タイで発生した大規模な洪水は、3ヵ月以上にわたって大地を水で覆い尽くし、甚大な被害をもたらした。世界遺産アユタヤ遺跡のあるアユタヤ島も例外ではない。
「アユタヤ島では、当時、洪水対策が講じられたにもかかわらず、浸水被害を免れませんでした。原因は、住民間、住民と行政の間の『リスク・コミュニケーション不足』にありました」と明かしたのは、豊田祐輔だ。
それまでに何度も遺跡が浸水する大洪水に見舞われたアユタヤ市は、今回の洪水に備え、川沿いにある市場に応急的な土の堤防を設置した。ところが、「市場の面積が狭まり、商売に支障をきたす」という理由からこれに反対し、堤防を破壊してしまったのが、市場に集まる商店主たちだった。最終的には商店主も堤防を築くことに同意したものの、時すでに遅く、新しい堤防が十分固まる前に水かさが増し、堤防は決壊。文化遺産群は水に没した。
「防災対策を講じる際の最大の課題は、立場や利害の異なる複数の主体がいるにもかかわらず、現実には一つの方策しか選択できないところにあります。アユタヤ島でも、住民や商店主、行政それぞれが自分にとって良かれと思って取った行動が軋轢を生み、最悪の事態を招いてしまいました」と豊田は言う。とりわけ行政によるトップダウンによる意思決定は、住民の理解を得にくい。「だから地域コミュニティにおける防災には、『リスク・コミュニケーション』が欠かせません」と豊田。それは、コミュニケーションを通じて各主体がリスクを「共有」し、リスク対応について「合意」を形成すること。合意のもとでこそ、リスクを回避する対策も実行力を持つのだ。
この「リスク・コミュニケーション」を促進するのに有効な手だてとして豊田が提示するのが、「ゲーミング・シミュレーション」だ。豊田は「ゲーミング・シミュレーション」を用いて仮想世界で災害を体験し、安全に災害教訓を得ることができる学習ツールを開発している。現在、2011年のアユタヤ島での洪水を題材とし、新たなゲーミング・シミュレーションの構築に取り組んでいる。
豊田は、まずアユタヤ島でアンケート調査を実施し、洪水時の状況を把握するとともに、各主体が洪水によって被る経済的な損害を推計した。次に、調査結果から必要な要素を抽出・モデル化し、「ゲーム」という形式に落とし込んでいく。
豊田の開発するゲームは、プレーヤー間のコミュニケーションによる判断や行動の結果から「教訓」や「気づき」を得られる仕組みになっているのが、特長だ。ゲームは、複数のプレーヤーの行動だけでなく、プレーヤー同士のコミュニケーションや相互作用によって、仮想世界で起こる災害のプロセスや結果が左右されるように設計される。例えば、あるプレーヤー(商店主役)と別のプレーヤー(市長役)が話し合い、互いの思いやリスクを理解し合い、防災のための行動を取り、洪水を免れる。あるいは話し合いが決裂し、防災対策を取らずに浸水し、多大な損害を被る。それぞれのシナリオを辿った末、最後にどのような判断や行動を取るべきだったのかを振り返るまでがゲームになっている。
現実世界では許されない失敗を『体験』できることに加え、ゲームの中で現実とは異なる役割を担うことで別の主体の判断や行動の理由を理解できるところに、ゲームのメリットがあります」と、豊田は語る。商店主が市長役となってプレーすることで、なぜ市場の一部を壊して堤防を作ろうと判断したのかを理解できるようになる。「ゲームを経ることで、住民間や住民と行政の相互理解が進むとともに、住民自身が地域コミュニティの防災を考えるようになる。それが、ただ受動的に防災訓練などに参加する以上に、災害対応力の向上につながっていくと考えています」
大規模災害が発生した時に人命に比べて文化遺産の優先順位が低くなるのは、当然ともいえる。それを打破するのは、住民たちのボランタリーな意識や行動に他ならない。アユタヤ島を題材に開発したゲーミング・シミュレーションは、同様に世界遺産を抱える京都、あるいは世界の都市にも応用可能なものになるだろう。
これまで紛争や途上国開発の研究にも尽力してきた豊田。「地域コミュニティの住民と行政のコミュニケーションによる思いの共有や調和が重要な意味を持つという点は、防災・紛争・開発に共通します。アユタヤ島での研究が、根底でつながっていると感じます」