西園寺の私塾 立命館に集う青年たち

立命館という名称とその建学の精神を論ずる時、我々は学祖・西園寺公望に触れなければなりません。
西園寺公望は高い門地の公卿に生まれ、明治・大正・昭和を通し常に議会重視を唱えて元老となった第一級の政治家であり、自由主義者、国際主義者でもありました。
明治維新直後、若き西園寺は、京都御苑内の邸(現在の白雲神社付近)に高名な詩文家を招いて、毎月漢詩文の勉強会を催していました。激動の世を反映して、その詩会はたびたび時事問題の討論の場となり、京の人々のよく知るところとなりました。
やがて明治維新となり、西園寺は官軍総督等として旧幕軍討伐のため、山陰・越後・会津を転戦します。勝利の後、彼は京都にもどり、御苑内の邸に私塾「立命館」を開きます。そこには、大志を抱く青年が数多く集い、新しい時代に向けた勉学が行われました。
しかし、立命館の評判が近畿一円に広がるにおよんで、そこに不穏な動きがあると誤解した時の太政官留守官は、塾の閉鎖を命じてきました。ちょうどその時西園寺は、フランス留学の準備のため長崎に滞在中。突然の報に驚き怒りながらも、長崎という遠い地にあってはいかんともしがたく、やがて心を残しながらもフランスへ旅立ちます。


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