教員コラム
文学部には100名を超える教員が在籍しています。一人ひとりのリアルな教育・研究活動を紹介します。
私が「教育人間学」に出会ったのは、ミレニアム直前の「自分探し」という時代の気分と、ガラスの天井の下で働く女性たちの「行き詰まり感」に押し流され、3年足らずで一般企業を退職した頃です。大学で心理学を学ぶことを次なる目標にした私は、「自己」をキーワードに独学を進めていました。そして、ある本に書かれていた「人間になるだけでは不十分」という言葉につまずいたのです。
私たちは、学ぶことで知識や技能、さらには、社会を共に生きる人たちとうまくやっていく術を獲得していく…。今日より明日、明日より一年後、十年後により多くのことができるようになる…。これが、私の抱いていた教育(あるいは学習)のイメージでした。このようにイメージされる教育は、「発達」という言葉にぴったりと当てはまります。しかし、その本には「発達」=「人間になる」という次元だけでは、教育を考え尽くすことはできないと述べられているのでした。そこで示されていたのは「生成」=「人間を超える」という次元です。
「生成」=「人間を超える」次元は、生(Life)を駆動する言葉では捉えがたい「何か」とも言い換えることができます。このような「何か」は、文学、美学、宗教学、文化人類学といった領域において、豊かな厚みをもって語られてきました。それらの語りは、多種多様なスタイルで、人間が人間を超える瞬間を言葉に持ち来たらそうとしています。それこそ、「何か」に駆動されながら。「人間と教育」を語ろうとする教育人間学もまた、この「何か」を扱わざるを得ない、ゆえに、「人間になるだけでは不十分」なのです。
「人間になるだけでは不十分」。私は、この言葉につまずき、教育という謎へとダイヴすることになりました。教育という謎にダイヴすることは、子どもという謎に、そして、かつて子どもだった「私」という謎に出会うことでもあります。教育を考える際に「生成」=「人間を超える」次元が不可欠であるならば、発達としての教育において人間になった「私」を考える際にも「生成」=「人間を超える」次元は不可欠であるはずです。学習は、変化・変容、そして、それまでとは異なる存在となる変態(メタモルフォーゼ)でもありえます。生きることは、ときに、「私」を超えて世界に溶け出すことなのかもしれません。「私」は常にすでに「私ならざる次元」を生きている、かもしれない。その喜びや不気味さを語ろうとすることも、教育人間学の使命です。
(参考文献:矢野智司『自己変容という物語―生成・贈与・教育』金子書房、2000年)
PERSONAL
辻 敦子
- 専門領域:
- 教育人間学・臨床教育学
- オフの横顔:
- マンガに溺れています。学生時代は24時間読み放題のマンガ喫茶で、寝溜めならぬ「読み溜め」をしていました。現在は日々供給される新作に翻弄され、マンガまで「積読(つんどく)」状態です。