『聖エウテュミオス伝』(第1〜2章)

凡例

  1. 原本(P. Karlin-Hayter (ed.), Vita Euthymii Patriarchae CP., Bruxelles, 1970)のページ数を黄字で示しています(原本の偶数ページは英訳なので、奇数ページのみです)。
  2. は最小限のものに限定してあります。
  3. この試訳の無断引用等は堅くお断りいたします

(3)(1 バシレイオス帝の死について)*1

 …さて8月になって、バシレイオス帝はトラキアのアパメイアとメリティアス近郊に狩に出かけた。そこで鹿の群れを見つけて、何人かの元老院議員、および猟師たちとそれを追いかけた。皆散らばって追跡を行っていたが、皇帝は途方もなく大きく、太っていた群れのリーダーを目標とした。(他の者たちに)ついていく力がなかったため、皇帝は一人で獲物を追った。それで鹿は彼一人であることに気づいて、逃げるのをやめて向きを変え、彼に突撃して角で突き殺そうとしてきた。皇帝は槍を投げたが、鹿の角に邪魔されて槍はなんの役にも立つことなく地に落ちた。それで皇帝は打つ手を失い、逃げようとした。鹿が追ってきて彼を角で突いてきた。それによって彼は捕まってしまった。というのも、角の先が彼のベルトをひっかけ、(彼は)馬から引きずり下ろされて(鹿に)連れ去られてしまったのである。そのため誰も、主のいなくなった馬の姿を見つけるまで、何が起きたのかわからなかった。こうしてステュリアノス=ザウーツェスとプロトベスティアリオス*2のプロコピオスは起きたことの全てを理解した。それからまわり中を走り回って、獣によって連れ去られた人を何とか見つけようとした。全力で追いかけたが、努力は実らなかった。鹿は彼らから遠く離れたところで息を切らせていたからである。だが、突進してきて再び近づいてきたので、(鹿は)まっすぐによい距離まで進んできた。そのため窮地に陥ったのだが、ヘタイレイア*3と呼ばれていた者たちの何人かが、(5)鹿が気づく前に進路を抑え、それから山の中で輪のように散らばって、鹿が再び逃げ出すよう大声を出した。そしてその場にいた、ファルガノスという地*4から来た者の一人が鹿を捕捉し、むき出しの剣を手に持って、角に絡まったベルトを切った。それで皇帝は地に落ちて気絶した。皇帝は意識を取り戻すと、自らを危機から救ってくれた人物を監視するよう命じ、そして彼のうぬぼれの理由を尋問するよう指示した。皇帝はその理由をこう語った。「彼は朕を救うためではなく殺すために、剣を抜いたのだ。」そして彼が(鹿に)連れ去られた場所からの距離を測るよう命じた。それで彼が投げ出された場所であるカタシュルタイまで、(鹿が)遠回りした分も含めて16ミリオンだったことを知った。かくして、鹿を捕らえることはできず、またその他の小動物を獲物とすることもできず、苦しんでいる皇帝を連れて首都に戻ったのである。体内からの激しい苦痛と腹部からの出血が皇帝を襲った。そして9日間一般の責めを受けた末、19年の統治の後、(バシレイオス1世は)帝権を息子のレオンに、兄弟のアレクサンドロスとともに残したのである。ただ兄弟全員で受け継がれたわけではない。というのも、彼らの残りの兄弟であるステファノスはすでに聖職者となっており、シュンケロス位にあったからである。そしてアルメニア人の言葉ではザウーツェスと呼ばれるステュリアノスを、彼が皇帝(バシレイオス)自身と同様アルメニア系のマケドニア人であるため、後見人として聖俗の政務全体を委ねた。皇帝は彼と息子たちに、最後にこう言い残した。「ああ、ああ!魔術師サンタバレノスのまじないと呪術によって、朕は神から引き離され、また悪巧みと嘘にだまされて正しい考えからそらされてしまった!主が朕を守ってくれないにせよ、彼自身と同様の罰を受けるところまで、(彼は朕を)引き出したのだ!」

(7)2 レオンの治世について:第一段階

 さてレオン帝は帝権を掌握するとすぐに、ステュリアノス=ザウーツェスをプロトマギストロスとし、さらにまもなくバシロパトル*5と宣言した。そしてこのステュリアノスが国政に関係する政務の統括と監督を司っているということが知られるようになった。一方、統治者(レオン)は、自分の目でよく見て話を聞く前に、すぐに宮廷に父なるエウテュミオスを招くのは適切でないと考え、ペゲにある聖母の教会へ赴いて、彼が会いたいと思っていた人物の所にやって来た。(皇帝は)彼を見ると、彼の足下にまで頭を落として彼の外套の裾をつかみ、それに接吻して、喜びのあまり紫衣を涙で濡らしてしまった。そして彼の聖なる祈りの力と、絶望的な苦難の中での慰め、そして彼によって予言されたことを、よく透る声で告白して言い、見る人たち聞く人たちを驚きで充たしたのである。父は魂の救いについて手短に言い、祈りの後に彼を放した。だが皇帝はなおとどまって交わることを熱望し、彼と宮廷に来るよう強く請うた。(エウテュミオスは)同意しなかったが、だが極めて畏れ多き聖なる四旬節の後に彼に同意した。それで(皇帝は)修道院への支援と援助のために望むものと、彼の望むもの好ましいものについて言うよう請うた。だが彼は望むもの好ましいものについては、以下の言葉以外には何も言わなかった。「陛下が憐れみの心と同情の心を持って、公正さと敬虔さによチて臣民を導き、司りますことを。また諸王の王の右手こそが、陛下を苦しみから救ってくれるということを、常に心の中にとどめておきますことを。そしてまた、もし陛下が神の指図を完全に充たすことを示し、また言葉だけでなく(9)行動で神の最高の善に奉仕するのであれば、神は陛下をさらに守っていくことでしょう。」それから皇帝に別れを告げると、たくさんの旅のための祈りを行い、祝福を行って去ったのである。
 それから、静寂を愛する我らの父エウテュミオスは、彼のもとに逃げてきた者たちによって引き起こされている多くのことに悩まされている状況を見て、彼と行動を共にする兄弟たちと(オリンポス)山*6へひそかに去ろうと考えた。その頃彼のところに、きわめて尊きストゥディオス修道院*7から、いとも気高き修道院長アナトリオスがやって来て、サンタバレノスが彼らのところに送られてくることを阻止してくれるよう乞うた。なぜなら、エウカイタから彼を連行して監視するよう命じられていたからである。彼はその話に耳を貸して、彼をストゥディオスに幽閉するのをやめるよう、すぐに皇帝に手紙を書いた。それで彼はダルマトスの牢獄からアテナイへ移されて監視下に置かれた。そしてその地で、ザウーツェスの命令によって到着してすぐに、両目をくりぬかれた。
 それから父はこのいとも気高き人アナトリオスのところに3日間とどまり、退去に関する意思を明らかにした。一方彼(アナトリオス)は彼のところに多くの人々が集まってきているのを見て—父帝の時代に寝室に侍していて、新帝と衝突した人々や、(皇帝と)対立している元老院の人々、そして皇帝自身に奉仕する人々の中から、ちょうど波の被害を受けない港のようにみな、祝福された者エウテュミオスのところに逃れてきていたのだ—喜び、魂を震わせてちょうどよい時に神の命令を充たす者がいることを、神に感謝した。というのも、この多くのことに心をよく動かされている人は、自分自身の書簡を通じて、統治者を正しく導いたのであり、また彼のところにやって来る人々を見、その名を呼んで、(彼らを)無気力から気力ある状態へと変えたのである。使徒の言葉にもあるように、彼は「すべての人に対して、すべてのものになっていた*8」のであり、また圧迫を受けている者たちに対しては彼自身も圧迫を受け、それどころかそれ以上の圧迫を受けた。また苦痛を受けている者たちに対してはともに苦痛を受け、同じ目に遭った。そして涙にむせびながら、身に起きるすべてのことに感謝の念を持つよう勧告していたのである。彼は完全に慰めであり、完全に救いであった。すべての人にとって、すべてのことが彼から生まれていた。それで皇帝も、父に賢明に従う息子のように、彼から書いてよこされたことをすべて実行したのである。(11)それを知ってこの大いなる父アナトリオスは彼にこう言った。「もしあなたが神とともに、このように大いなる慈悲の心をすべてに対して持ち続けるならば、あなたは—ここにおられますが—聖なる教父たちの一部の中に入ることができるでしょう。すべての人にあなたから与えられる熱気や助けが十分に充ちたり、そして完全なままでありさえすれば—というのも、それは山上や遠い荒野での生活にも優るものだからです—、神はあなたを通じて人々に生まれる憐れみを受け入れてくれるでしょう。」このように、また他のことも彼に対して述べ、また慈悲の心をも示した。その後彼に別れを告げて(エウテュミオスは)去った。
 しかしながらステュリアノス=ザウーツェスは、すべての人に対してすべてのことに陽気になった、非常に穏やかな支配者を見て、怒りで心をすり減らした。そして父なるエウテュミオスに反感を抱き、彼から乞われたものを懸命にひっくり返し、反対しようとした。すなわち多くの人々から財産を奪って国庫に編入し、また人々を剃髪し、追放したのである。そうした人々の中に、ドゥルンガリオスだったレオン=カタコイラス*9がいた。彼はその頃総主教だったフォティオスの一族だった。また他の人々に対しても同様のことを行ったが、それらの人々についてはあえて話さないでおく。そしてフォティオス自身をも、彼が辞任を望んでいないのに、総主教座から更迭して追放するよう要求した。そして彼を圧迫してこれを行い、彼を街から駆逐してヒエレイアというところに追放し、先の見えない状態にするよう命じた。さらに彼だけでなく、彼の一族全員に同様のことを行い、彼らの財産を奪って剃髪させた。その中で、彼の家の子*10であるニコラオスは、同様の憂き目に遭うことを恐れて、カルケドン府主教に付属する聖トリュフォン修道院へ逃げ、そこで大きな恐れが先走って、すぐに髪をおろして修道士たちの聖なる衣装を身に着けた。後にレオン帝は、彼を自らの学友で義兄弟だということで手に入れ、剃髪という大いなることをしたとしてミュスティコス*11位につけた。

*1 『聖エウテュミオス伝』は現在写本の一部が失われた形で伝来している。この章も本来の第1章ではなく、エウテュミオスの出生などに関して書かれていた部分があったと思われる。またこの章自体も冒頭部分が伝わっていない。
*2 衣服管理長官。
*3 皇帝の身辺を警護する小部隊。
*4 詳細は未定だが、中央アジアのフェルガーナ地方(マーワラー・アンナフル)とする見解がある。『シュメオン年代記』のミカエル3世の項目でも言及される。
*5 一般にはバシレオパトルと呼ばれる。文字通りには「皇帝の父」のような意味となるが、最近「宮廷の長(バシレイオパトル)」を意味する官職であるという見解が出されている。
*6 小アジア北西部にある山。現在のウル山(標高2327[m])。ビザンツ時代には聖山として著名だった。特に8〜10世紀には「修道士たちの山」と呼ばれた。
*7 コンスタンティノープルにあった著名な修道院。
*8 『新約聖書』「コリント人への第2の手紙」I. 9, 22からの引用。
*9 他の資料ではレオン=カタキュラスと表記されることが多い(当時の発音ではほぼ同じ音となる)。ミカエル2世の従兄弟にカタキュラスがおり、その一族の可能性もある。
*10 原文はoikogenesとあり、編訳者のP. Karlin-Hayter は親族(relations)と訳している。ただし『エウテュミオス伝』の他の箇所では「親族」には別の一般的な言葉(syngenes)が利用されており、R. Jenkins が議論しているようにフォティオスの邸宅の使用人と考えるべきであろう。事実、ニコラオスはイタリア出身と考えられる。
*11 皇帝の秘書官。

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