アジア・マップ Vol.01 | アフガニスタン

《総説》
アフガニスタンという国

山根聡(大阪大学大学院人文学研究科・教授)

 アフガニスタンは、正式名称を「アフガニスタン・イスラーム首長国」と呼ぶ。パキスタン、イラン、トルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、中国と国境を接する内陸国で面積は日本のほぼ2倍近くの65万平方キロである。人口はおよそ4000万人で、その多くはムスリムである。スンナ派がほとんどであるが、ハザーラ人がシーア派である。民族総人口の半数近くの42%を占めるパシュトゥーン人のほか、タージク人27%、ハザーラ人10%、ウズベク人9%や、バローチ人、アイマク人など多様な民族が共存する。その言語は、ペルシア語と同じ起源をもつダリー語のほか、パシュトー語、ウズベク語、トルクメン語などが用いられている。中央アジア、西アジア、南アジアの人々が交差する土地として、前4世紀にはアレキサンダー大王がアフガニスタン各地を訪れた。その後もセレウコス朝、ササン朝ペルシア、ギリシアなどの影響を受け、クシャン朝などでのガンダーラ美術の拠点として仏教文化が開花したほか、ゾロアスター教やヒンドゥー教、イスラームなどさまざまな宗教文化がこの地に伝わった。7世紀にムスリムが進出して以降は、ムスリム諸王朝が成立した。現在のアフガニスタンの原型は、1747年、国父とされるアフマド・ハーン王によるドゥッラーニー朝成立に遡るとされる。

近代に入ると、アフガニスタンは、ロシア、イラン、そしてインドを支配していたイギリスの確執に置かれ、これらの国々とそれぞれ戦火を交えた。政治的に板挟みとなりながら、また地域内での部族間の対立も重なり、統一された国家の成立への道のりは厳しいものであった。19世紀末の、「鉄の王」と称されたアブドゥッラフマーン・ハーン王は、こうした国内外の確執を乗り越えて国家統一や近代化に着手した。

19世紀以降イギリスとの3度の戦争を経て、1919年、アマーヌッラー王の時代にイギリスからの完全独立を果たして近代国家として成立したものの、その後は東西冷戦の確執の中に置かれ、両国からの経済的支援を受けつつも、1978年にクーデターによる社会主義政権樹立を招いた。しかし政権は安定せず、1979年末にソ連軍による軍事侵攻を迎え、東西冷戦の代理戦争が始まった。冷戦の代理戦争でありながら、同時に、神の存在を否定する共産主義に対するムスリムのジハードと位置付けられ、中東諸国を始め世界中のムスリムの若者が参戦した。結果はソ連軍の撤退となり、戦争終結後、1992年にムジャーヒディーン政権が成立したものの、アフガニスタン諸派間での対立が深まり、内戦状態となった。この内戦を憂い決起したのがターリバーンであった。ターリバーンを構成する兵士の多くは対ソ連戦争に参戦していたが、戦後はそれぞれの故郷に戻っていた。内戦を止めるべく集まったターリバーンはあっという間に支配地域を広げ、1996年に首都カーブルを制圧、政権樹立を宣言した。しかし、政治経験のなかったターリバーンは、イスラーム化を唱えて治安維持に努めたものの、国際的な承認を得ることができず、内戦を繰り広げていた諸派との内戦を続けることとなった。ここでターリバーンと協力関係を結んだのがウサーマ・ビン=ラーディンらアル=カーイダであった。2001年9月の同時多発テロにより、首謀者ビン=ラーディンの身柄引き渡しを要求するアメリカに対し、ターリバーンはこれを拒否、対テロ戦争が開始され、ターリバーン政権は瓦解した。その結果、同年末に暫定政権が樹立され、アフガニスタンの復興が始まった。民主的な総選挙などが実施されて、徐々に復興の道を歩んでいたが、2021年8月、急速に勢力を取り戻したターリバーンが首都を再び制圧し、政権を樹立した。前回の政権時の反省もあって、ターリバーン政権は対話による国際社会の承認を求めている。

内戦中の首都カーブルでのハザーラ人。1995年。内戦で国内避難民として市内南部に集住していた。

内戦中の首都カーブルでのハザーラ人。1995年。内戦で国内避難民として市内南部に集住していた。

カンダハールのターリバーン本部(1995年)1994年に結成されたターリバーンは拠点を南部の古都カンダハールの旧市役所に置いた。筆者が専門調査員時代にこの本部に赴いた時

カンダハールのターリバーン本部(1995年)1994年に結成されたターリバーンは拠点を南部の古都カンダハールの旧市役所に置いた。筆者が専門調査員時代にこの本部に赴いた時

 筆者はアフガニスタンの隣国パキスタンへ留学したが、学生当時の1980年代は、アフガニスタンでの対ソ連戦争が続き、80年代末にソ連軍撤退が完了した時期で、訪れることもかなわず、アフガニスタンの存在は遠いものであった。だが、1994年2月から在パキスタン日本国大使館で専門調査員として勤務した際、アフガニスタン情勢を担当することとなり、連日アフガニスタンでの内戦当事者や国連の関係者、他国の外交官らと意見交換するうちに、アフガニスタンは筆者にとって身近な国となった。

 専門調査員として、アフガニスタンへの出張も何度となく行った。カーブル、カンダハール、ジャラーラーバードを小型の国連機で幾度か訪問したが、西部の古都ヘラートやカーブル北の要衝バグラムに立ち寄ろうとした際には、現地での内戦が激化したために着陸できないと言われ、急遽パキスタンに帰国した。この時は砲撃が届くのでは、と恐怖を感じた。

 ジャラーラーバードは東部に位置する都市で、内戦のために首都を脱出した20万人ほどの国内避難民(IDP)が郊外の広大な平地でテント生活を強いられていた。夏は40度を超え、冬は5度くらいまで気温差がある厳しい環境であったが、驚いたのは、テントの周りに草木を植え、小さな土壁を拵えていたことである。つまり、彼らは配給される貴重な飲料水を少しずつ貯めて、花を植えたり、泥をこねて壁を作っていたのであった。同様に、首都カーブルでも、内戦中で燃料のない冬にあっても、街路樹は切り倒されず、そのままであった。筆者は、内戦の愚かさは許せないものの、一般の人々が自らの生活よりも公共性を配慮する姿に強い感銘を受けた。ジャラーラーバード市内には、独自の方法でターバンを巻いたスィク教徒を商店主として見かけた。パキスタンのペシャーワルという町同様、この地域にはスィク教徒の交易ルートが細々ながらも確立されているのであった。

アフガニスタン 北部の要衝マザーレシャリーフ。1995年。ウズベク人の軍閥ドーストムの支配下にあって、ロシア産の物資があった。女性はみなブルカを被っていた。

アフガニスタン 北部の要衝マザーレシャリーフ。1995年。ウズベク人の軍閥ドーストムの支配下にあって、ロシア産の物資があった。女性はみなブルカを被っていた。

 ドゥッラーニー朝の都であった南部の町カンダハールでは、国際赤十字の病院内に宿泊したり、ターリバーンの本部を訪問して幹部らと面会した後、「ゲストハウス」に滞在したことがあった。病院に泊まった夜、屋上に上がって、電気のない砂漠地帯で見た満点の星空は見事で、この無数の星でこそ占星術が生まれえたのだろうと納得した。ターリバーンのゲストハウスでは、隣室にターリバーンに身柄を拘束されたロシア人がいると聞いて、あまり寝付けなかった。北部の要衝マザーレ・シャリーフでは北部一帯を支配していた軍閥ドーストム将軍のゲストハウスに泊まったが、テレビや石鹼まで、すべてロシア産であったことが印象的であった。内戦時代、各地には軍閥が割拠し、その地域と国境を接する周辺国との交易を通じて、独自の交易圏を確立し、小国のような存在となっていた。軍閥は周辺国とつながり、周辺国は軍閥を通して影響力を行使しようとし、「小さな冷戦」と呼ばれるような政治的駆け引きが続いた。これが内戦を長引かせ、国家統一を妨げる要因の一つと言われた。

 様々な民族、勢力は相互間での対立を招いているが、現代史を見ても、彼らが離合集散を繰り返していることがわかる。前日まで戦火を交えていた者同士が、ある日をきっかけに強調する柔軟性を持ち合わせている。アフガニスタン社会の安定につながる落としどころはないのだろうか。

書誌情報
山根聡「《総説》アフガニスタンという国」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, AF.1.01(2023年1月10日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/afghanistan/country