新企画 『アジアと日本は、今』(研究者エッセイ・シリーズ)
Asia-Japan, Today (AJI Researchers' Essays)
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第11回 サイバー空間の猟歩と現地調査の往還:中東と東南アジアのイスラーム経済研究

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ハシャン・アンマール(立命館アジア・日本研究機構・専門研究員)

 世界的なパンデミックとなっている新型コロナウイルス感染者は、世界全体で1200万を超え、犠牲者も54万人を上まわっている。その中でも感染者が多い国はアメリカやブラジル、インドなどであるが、アラブ諸国を含む中東、あるいはイスラーム世界でも感染は広がっている。私の出身地であるシリアでも、内戦状態ということもあって情報は限られているものの、知人などからの話を総合すると、感染者はかなり増えている。

 私自身は比較的感染者の少ない日本にいるが、仕事の面では大きな影響が出ていて、今後どうなるのだろうかという不安が日常生活の一部となっている。このエッセイ・シリーズでも、地域研究者の皆さんが現地に調査にいけないため、研究にも支障が出ていると悩みを書いている。

 その点では、私も同じである。このところ、東南アジアのムスリム国(マレーシアやインドネシア)でフィールド調査を重ねてきたので、今年(2020年)の3月くらいから、こちらからの渡航もあちらの研究者の来日もかなわなくなり、困惑している。

 とはいえ、私の研究方法は古典と現代をつなぐというものなので、もっぱらフィールド調査を主としている研究者と比べると、多少は状況がましなのかもしれない。古典というのは、ここではアラビア語で書かれたイスラーム諸学の文献のことである。

 私はシリア北方の古都アレッポ(アラビア語ではハラブ)で生まれたが、大学は学部も大学院も首都のダマスカス大学に通った。この大学のイスラーム法学部は、シリア国内でもアラブ世界全体でも学問の中心の1つとして重きをなしている。

 世界にはいろいろな国があり、歴史が古く、たとえ現代であっても歴史の古層の上に社会がのっているようなところがあれば、アメリカのように(私自身はまだ訪れたことはないが)若くてエネルギッシュだけれども、歴史の重みはそれほどなさそうなところもある。来日して9年にしかならないが、大阪、京都に暮らしていると、日本は歴史が深く、重みもある国であると感じることが多い。特に京都はその点で、歴史の古いアレッポやダマスカスと似ている気もする。

 ダマスカス大学では、イスラーム法学、ハディース学、タフスィール学(聖典クルアーンの解釈の学)などを学んだ。この学問的な伝統は現在まで続いているが、主要な文献は9世紀から18世紀くらいまでのもので、日本で言えば平安時代から江戸時代くらいに書かれたものが多い。

 日本に留学してからは、京都大学で現代イスラーム経済論を研究することになった。学問分野としては地域研究に属する。つまり、現代社会のフィールド調査をおこなって、いろいろなことを明らかにする研究分野である。

 とはいえ、イスラーム経済というものは、イスラーム法の規定と切っても切り離せない関係にある。イスラーム経済で一番有名なのは、リバー(利子)を取ってはいけないという教えから、無利子銀行(バンク・ラー・リバウィー)を作ったことであるが、リバー禁止は7世紀に生まれた聖典に書かれていることである。つまり、7世紀に成立した法規定が現代でも生きているから、イスラーム経済というものが成り立っている。

 そこで、私が以前から専門としているイスラーム諸学が役立ってくる。古典と現代を結びつけて研究することが可能となる。イスラーム諸国の研究なら何でもこのようなことができるわけではない。イスラーム経済という分野の特殊性があると思う。

 もちろん、日本にいると、アラビア語の古典が自由に手に入るわけではない。特に、私が日本に来た頃はまだ、ネット上の「図書館」も整備されていなかった。ところが、何年かのあいだにアラビア語の古典が大量にPDF化されて、ネット上でかなり自由に手に入るようになった。

 これについては、アラブ世界では著作権や知的所有権の感覚が薄い、という説もある。そちらから見れば、そう言うこともできる。その一方で、古典は知的な共有材という考え方も根強い。ネット上の文献サイトは、こちらの考え方に基づいている。

 有名な古典はどこのサイトでも見つかるが、あまり有名ではないが、大事な本もある。珍しい本を探して、サイバー空間を猟歩するのは、私の仕事でもあり楽しみでもある(今回、これを書く際に「猟歩」という言葉を知った)。

 ただし、今の専門は地域研究であるから、フィールドに行かずに調査をするわけにもいかない。しばらく前まで、サイバー空間から古典を取り出し、東南アジアの現地にも行くという暮らしをしていたが、はたして、ウィズコロナの状況はどこまで続くのか。早く現地を再訪したいと思うが、そうもいかないのが現実である。

 イスラーム世界でも、コロナ状況は大きな問題となっている(これはサイバー空間からの情報と知人とのコミュニケーションによる情報と両方による)。パンデミックを防がないといけないのはどこでも同じであるが、イスラーム世界の場合は宗教と文化の問題も起きている。

 イスラームでは、毎日5回礼拝をすることが知られている。家の中にいて自分一人で礼拝してもかまわないが、推奨されているのは、集団(ジャマーア)でする礼拝である。そのため、みながモスクに行って、いっしょに礼拝することになる。ところが、コロナで皆が集まることができないという状況が生まれた。日本で言う「3密」をしてはいけないという話である。

 また、アラブ世界では、あいさつで握手をしたりハグをすることは普通となっている。それもコロナ対策からは好ましくないという話になった。イスラームではこのような時には、イスラーム法学者の見解を聞く。モスクでいっしょに礼拝をしなくてもいいのか、握手をしなくてもいいのか、議論がしばらく続いていた。

 疫病の経験は、今に始まったことではなく、イスラーム初期にも記録がある。中世の「黒死病」も有名である。現代との大きな違いは、昔は病気の原因や伝染について、今ほど医学的な知識がなかったことである。現代では、法学者の議論も医学的な知識が前提となっている。その一方で、人間の生死を決めるのは神であるという考えも強く、あまりに宗教活動を制限するのはよくないという議論をする人もいる。予防をしたから助かるとは限らないということで、どこまで感染予防を優先するのかが1つの論点となる。

 日本では、感染予防と経済的な問題が、場合によっては対立している。病気で亡くなるのも経済危機から亡くなるのも死活的な問題というのは、よくわかる。イスラーム世界では、それが感染予防という医学的・社会的な問題と、宗教的な倫理との間で議論になる。そこに文化の大きな違いを感じている。

(2020年7月10日)
〈プロフィール〉
KHASHAN Ammar(ハシャン・アンマール)
立命館大学立命館アジア・日本研究機構・専門研究員。地域研究博士(京都大学)。専門はイスラーム経済論、イスラーム世界研究、ハディース学、イスラーム法学。論文に "The Quran's Prohibition of Khamr (Intoxicants): A Historical and Legal Analysis for the Sake of Contemporary Islamic Economics", Kyoto Bulletin of Islamic Area Studies, Volume: 9, 2016, pp.97-112, 「イスラーム成立期における社会・経済変容とリバー禁止の史的展開」『イスラーム世界研究』11, 2018年, pp. 225-255 など。