【大阪・関西万博】世界で活躍する子ども・学校づくり 元プロ野球選手・田中賢介氏が語る「挑戦」と教育への想い
2025年8月6日、大阪・関西万博「Women’s Pavilion」にて、田中学園立命館慶祥小学校理事長・田中賢介氏(元プロ野球選手)を迎えた特別トークイベントを開催しました。聞き手は、立命館大学文学部3回生で放送局アナウンス部に所属する呉本芽依さん。現役学生ならではの視点から、田中氏の野球人生、教育への転身、そして未来を担う子どもたちへの想いを伺いました。
少年時代に得た継続力
田中氏が野球を始めたきっかけは、9歳上の兄への憧れだったそうです。子供時代は、熱帯魚や釣りに夢中になる好奇心旺盛な少年で、特に福岡の港で一人で魚釣りをしていたというエピソードは、後の単独行動を厭わない芯の強さのルーツとなっています。その後の土台となったのは、「一つのことを続ける力」。小学校4年生の時、ライバル投手の球が打てなかった経験から、父に相談。「何でもいいから、一つのことをちゃんと続けなさい」という言葉をきっかけに、小学校4年から中学3年までの6年間、毎朝2キロを走り続けた経験こそが、今の自分に最も役立っている「継続力」だと語ります。
プロ野球選手への道
プロ野球選手という夢を現実のものにしたのは高校2年の時、同じポジションの先輩がプロ野球チームに入団した際、「自分にも行けそうだ」と確信。そこからは、チームの伝統や指導といった雑事を捨て、プロになるためだけに自分の練習に集中しました。目標が明確であったため、孤独は感じなかったといいます。プロ入り後、田中氏は6年間もの二軍生活を経験します。この期間で、彼は意識転換を迫られ、葛藤の末に捨てたのが「小さなプライド」でした。試合に出られず雑務をこなす姿を友人に見られるのが恥ずかしい、といった感情を克服。「自分が活躍するため」ではなく、「チームが勝つために自分ができることをやる」という意識に180度転換したことで、全てがスムーズに回り始めました。彼は、目立つタイプではなく「黒子のようなタイプ」として、仲間への声かけや飲み会のセッティングなど、チームの調和を保ち、勝利に貢献する裏方の役割を強く意識しました。
メジャー挑戦から教育へ
レギュラー定着後、マンネリを感じていた時期に代理人から声がかかり、「新しいことに挑戦したい」という思いから米大リーグ挑戦を決意。野球とベースボールの違い、毎週誰かがクビになる厳しい文化を肌で感じたそうです。特に、米大リーグで初ヒットを打った際のスタンディングオベーションは、「チャレンジする人を応援する国なんだな」と強く印象に残っているとのこと。引退後の第2のキャリアとして教育の道を選んだのは、現役時代に修行で訪れたベネズエラでの経験から。盗難対策として野球ボールにマジックでチーム名を書くような「日本では考えられない光景」を目にし、「教育って大事だな」と漠然と感じた記憶が原点になっているそうです。
教育者としての展望
理事長という立場になっても、田中氏の根本は「子供たちのために」という想い。経営者としてではなく、素の自分で先生方と向き合っています。学校づくりにおいては「とりあえずやってみよう」という精神で旗振り役となり、周囲の優秀な協力者を巻き込みながら推進しています。今後の目標は、「前例をつくる学校」として、公教育では難しい新しいチャレンジを行い、その成功事例を地方自治体へ提供していくこと。北海道という広い土地で、その成功モデルを広げていくことを目指しています。
立命館への想いとメッセージ
イベントの最後には、立命館への想いも語っていただけました。「立命館小学校の挑戦を参考にしてきました。立命館と共に新しいことに挑戦できるのは本当にうれしい。今後も切磋琢磨しながら歩んでいきたい」。そんな田中氏の言葉には、教育者としての覚悟と、未来を担う子どもたちへの真摯な願いが込められていました。