アジア・マップ Vol.01 | バングラデシュ

《総説》バングラデシュという国
伝統ある若い国の現在

山形辰史(立命館アジア太平洋大学アジア太平洋学部・教授)
バングラデシュ北部のマイクロファイナンス集会での女性たちと子どもたち。2011年、筆者撮影。

バングラデシュ北部のマイクロファイナンス集会での女性たちと子どもたち。2011年、筆者撮影。

伝統ある若い国
バングラデシュは伝統と若さを併せ持つ国である。「伝統」と「若さ」は相容れないように思われるだろうが、ベンガル人としての伝統は深いながら、バングラデシュという国の成立は1971年と比較的新しい、ということが2つの側面の両立の理由である。

 バングラデシュという国名は「バングラ」と「デシュ」に分かれる。バングラは「ベンガルの」を意味する形容詞であり、デシュは土地や国を表す。したがってバングラデシュとは「ベンガルの国・土地」の意味である。

 インドの西ベンガル州(州都はコルカタ)も、ベンガル人が多数派を占め、ベンガル語を話し、ベンガル文化が息づいているという意味では「ベンガルの土地」である。つまり「ベンガルの土地」はインドの西ベンガル州からバングラデシュまで広がっている。人口はバングラデシュが約1億7000万人、西ベンガル州が約9000万人だから、ベンガル人は約2億6000万人いるということになる。

ベンガルの伝統
  ベンガルは南アジアの中で長らく先進的な地域であった。ガンジス川やブラフマプトラ川、メグナ川の河口に位置するこの地域は地味豊かで、主産品の米やジュートが収穫の時期を迎えると黄金色に光り輝くことから、この地方は「黄金のベンガル」と呼ばれた。

 ベンガルは、紀元前5世紀から紀元後12世紀まで、それぞれナンダ朝、マウリア朝、マガダ朝、グプタ朝、パーラ朝の支配下に置かれる。13世紀になるとイスラーム王朝の支配がベンガルに到達する。現在のバングラデシュの首都ダカの東に位置するショナルガオンにイスラーム王朝の首都が置かれた。そして16世紀にインドにムガル帝国が成立すると、ベンガルもムガル帝国の支配下に入ることとなる。

ムガル時代に建てられたラルバーグ要塞。2009年、筆者撮影。

ムガル時代に建てられたラルバーグ要塞。2009年、筆者撮影。

 ムガル帝国の東端に位置するベンガルは、17世紀以降、徐々にイギリスの植民地として組み込まれていく。1600年に設立されたイギリス東インド会社は、1690年にベンガル地域のコルカタに商館を建設した。その後、1757年のプラッシーの戦いでイギリス東インド会社軍がムガル帝国軍とフランス東インド会社軍を破ったことにより、インド全体におけるイギリスの優位が確立した。また、コルカタを中心とするベンガル地域が、イギリスによるインド支配の拠点となった。これによりベンガル地域は、南アジア全体の政治的な中心地とされていく。

 1858年に英領インド帝国が成立し、東インド会社の統治地域が英領インド帝国に引き継がれ、コルカタは英領インド帝国の首都とされた。コルカタは、アジアで初めてノーベル賞を受賞したラビンドラナート・タゴールなどの文化人を生むほどの文化的先進地域として発展していく。しかしその先進性は、ベンガル人の自立心をも高めることとなり、ベンガルは反英運動の中心ともなった。そのことから植民地政府は、ベンガル人勢力を抑えるため、1905年にベンガル分割を施行した。ベンガル分割とは、東のイスラーム教徒中心居住地域と西のヒンドゥー教徒中心居住地域の2つに分割することである。前者は他州と合併させ、後者はムスリム自治州とされた。しかしそれでも反英運動は収まらず、植民地政府は1912年、ベンガル分割を取り消すとともに、首都をコルカタからデリーに移した。

 このように、バングラデシュを含むベンガル地域は長い間、インド史における一つの中心地域であった。これが「伝統あるベンガル地域」と筆者が呼ぶ所以である。

東パキスタンからバングラデシュへ
  英領インド帝国は、マハトマ・ガンジーらが主導する独立運動の結果として、1947年に解体され、インドとパキスタンが分離独立する。この時、ガンジーの意に反し、インドはヒンドゥー教徒中心の国、パキスタンはイスラーム教徒中心の国として分離された。当時のパキスタンは、イスラーム教徒の多いパンジャブ州西部(西パキスタン)と、ベンガル州東部(東パキスタン)という地理的に分かれた二つの領域を有する一つの国として独立した。東パキスタンが現在のバングラデシュであり、西パキスタンが現在のパキスタンである。

 1947年に英領インド帝国から分離独立したパキスタンは、西パキスタン主導で政治経済運営を行っていく。その象徴が公用語問題であった。パキスタン建国の父であるジンナーは、1948年にダカを訪れた際に「公用語をウルドゥー語にする」と宣言する。ベンガル語で表現される詩や文学に誇りを持っているベンガル人には、公用語がウルドゥー語となることは堪えられなかった。そこで東パキスタンにベンガル語公用語化運動が起こった。転機となったのは1952年2月21日(ベンガル語でエクシェ・フェブルアリ)に、警官隊と運動参加者との間で4人の犠牲者を出す流血衝突事件が起こったことである。この事件はエクシェ・フェブルアリとしてベンガル人に記憶され、東パキスタンの独立運動が高まっていく。

 1970年12月のパキスタン国民議会選挙において、東パキスタンの政党であるアワミ連盟が過半数を占め、勝利した。しかし西パキスタン側がこの結果を受け入れず、軍事行動を起こし、アワミ連盟党首であるムジブル・ラーマンを拘束するという挙に出た。これをきっかけに内戦となり、インド軍の支援も得て、東パキスタンが1971年12月16日に勝利する。これにより東パキスタンがバングラデシュとして独立する。これがバングラデシュ建国の経緯である。

 これまで見てきたように、バングラデシュはベンガル地域としては長い伝統と深い文化を持っているのであるが、建国は1971年で比較的新しいことから、国としては「若い」ということができる。

バングラデシュ民主主義の現在
 バングラデシュが1971年に独立して以来、1991年まではクーデターによる政権交代が相次ぐ。1975年のムジブル・ラーマン一家の殺害によるクーデターとジアウル・ラーマンの軍政開始、1981年のジアウル・ラーマン暗殺とH・M・エルシャド陸軍総参謀長による政権樹立の後、1991年にようやく民政移管が達成される。

 1991年からは5年に一度の総選挙によって政権選択がなされ、ジアウル・ラーマンの妻であるカレダ・ジア率いるバングラデシュ民族主義党(Bangladesh Nationalist Party: BNP)とムジブル・ラーマンの長女であるシェイク・ハシナ率いるアワミ連盟が交互に総選挙に勝利し、政権を担当した。ただし2007年1月に予定されていた総選挙の中立的実施に疑義が出されたことから、軍の後押しを得た非政党選挙管理内閣が非常事態を宣言するとともに選挙準備のやり直しを決めた。同総選挙は2008年12月に実施され、アワミ連盟が勝利した。

 その後アワミ連盟政権は、2011年に憲法を改正して非政党選挙管理内閣制度を廃止した。それ以来、2014年、2018年の両総選挙でアワミ連盟が勝利して、アワミ連盟が政権基盤を固めて今日に至っている。

 ここでバングラデシュの基礎情報を述べれば、国名がバングラデシュ人民共和国(People's Republic of Bangladesh)、国土面積が約15万平方キロメートル(日本の北海道+九州+四国の面積より少し大きい)、人口は1億6822万人(2020年7月1日現在)と推定されている。主に用いられている言語はベンガル語である。2011年の人口センサスによれば、イスラーム教徒が90.39%、ヒンドゥー教徒が8.54%、その他が1.07%とされている。

気がつけば工業国?
 政治的には今も多くの課題を抱えているバングラデシュであるが、経済的には大きな進展を遂げ、産業発展や一般の人々の生活水準の向上が実現している。例えば貧困人口比率は1991年に41.9%(2017年価格で2.15米ドルを貧困線とした場合)であり、人口の4割以上が貧困線以下の生活を送っているとされていた。しかしその比率は、2000年に33.3%、2005年に24.0%、2010年に18.2%、2016年に13.5%と着実に低下している。この他、乳幼児死亡率、妊産婦死亡率などの保健指標、初等教育就学率などの教育指標に顕著な改善が見られる。

日本の大手衣料ブランド向けに生産を行う縫製工場。2008年、筆者撮影。

日本の大手衣料ブランド向けに生産を行う縫製工場。2008年、筆者撮影。

 また産業発展においてバングラデシュを代表する産業は、縫製業である。縫製業は1970年代終わりに韓国企業の協力によって発展を始め、現在では輸出総額の83.9%(2018-19年度)を占めるに至っている。近年、日本でもバングラデシュ製の衣類が大手小売店で販売されているのをしばしば目にする。それほどまでにバングラデシュ製の衣類は世界市場で受け入れられている。衣類は元々生産原価に占める労賃の割合が大きい品目(労働集約製品と呼ばれる)である。労賃が相対的に低いバングラデシュ製衣類は賃金の安さで競争力を確立した。一方、徐々に賃金は上昇しつつあり、縫製業以外の産業の発展が必要である。

 発展が見込まれる業種は、(1)労働集約製品、(2)国内市場向け製品、(3)資源活用型製品、の3つに大別される。(1)の労働集約製品としては、軽工業品が挙げられる。バングラデシュでは軽工業が light engineering と呼ばれている。これは電気製品の基本部品(スイッチなど)に始まり、自転車、冷蔵庫、エアコン、携帯電話などに及ぶ。自転車はヨーロッパに輸出されており、冷蔵庫、エアコン、携帯電話に関しては国内市場に向けた生産が主で、これらの製品の生産企業としてはWalton社が注目されている。またバングラデシュは船の解体業が集積していたが、それが転じて造船業も発展が顕著である。今ではヨーロッパからも大型船の発注がある。

 (2)の国内市場向け製品の例は食品、医薬品である。バングラデシュの人口は上述の通り、約1億7000万人の大きさである。現在はまだ一人当たり所得の平均が低いものの、今後所得が増加してくれば、国内市場の拡大が見込まれる。したがって、国民誰もが必要とする食品、医薬品需要は堅調に伸びるものと思われる。

 (3)の資源活用型製品の例は革製品、ジュート(黄麻)製品といったバングラデシュで豊富に産出される原料(ジュートや牛皮)を用いた製造業である。過去にも一定の需要はあったが、(1)、(2)のタイプの製造業と比較すると成長の見込みは限定的である。

後発開発途上国(LDC)からの卒業を見据えて
 バングラデシュは長らく、国連の分類である「後発開発途上国(Least Developed Country: LDC)」の一員であった。LDCは、貿易や知的財産権制度の適用等様々な面で他国から優遇を受けることが認められている。一方LDCは世界に貢献する国というより、世界から支援を受ける国と見なされている。バングラデシュは、国民の意識を高めるために、LDCからの卒業を決意した。制度的には、2021年11月の国連総会において、バングラデシュとネパール、ラオスが2026年にLDCの分類から脱することが決議された。これによってバングラデシュは「最貧国」と見なされなくなるが、同時にこれまで得ていた優遇を失うことになる。

 実際、LDC卒業は当然、と思わせるほどに、首都ダカの様子は様変わりしている。瀟洒な店舗が出店したマーケット・モールが増え、おしゃれなカフェも現れた。カラフルな大型スクリーンも街中に散見されるようになり、立体交差の道路も当たり前になった。都市鉄道網としてダカ・メトロの6号線が2022年12月28日に開業予定である。ちなみにこの6号線には、日本のODAが用いられている。他のアジアの都市と同様に市内を鉄道で快適に移動できる日が、ダカにも訪れようとしている。

 貧困や人権侵害、女性の行動制約の大きさや地位の低さ等々、バングラデシュの課題はまだまだ山積している。しかし現在のバングラデシュは、それらも近い将来、かなりの改善を見せるだろうと期待させるほど、希望に満ち、さらなる発展の潜在力に溢れている。

水の国バングラデシュを象徴するダッカ旧市街の港(Sadar Ghat)。2009年、筆者撮影。

水の国バングラデシュを象徴するダッカ旧市街の船着場(Sadar Ghat)。2009年、筆者撮影。

書誌情報
山形辰史「《総説》バングラデシュという国 伝統ある若い国の現在」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, BD.1.01(2023年1月10日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/bangladesh/country/