アジア・マップ Vol.01 | バングラデシュ

《エッセイ》バングラディシュと私
ベンガルデルタが育んだ村人たちの人間性との出会い

安藤 和雄(京都大学東南アジア地域研究研究所・連携教授/ 名古屋大学大学院生命農学研究科・客員教授)

その年は氾濫による耕地の水位の上昇が早かった。私が栽培普及していた雨季野菜のナスは、それまで順調に育っていたのに冠水して全滅した。なんということだろうか。私は目の前の光景に言葉を失い呆然と佇むばかりだった。1979年の雨季の始まり、6月上旬のことだったと思う。バングラデシュのノアカリ県ベゴムガンジー郡ショナイモリ行政村(ユニオン)R村でのことだ。1978年8月に青年海外協力隊稲作隊員として農業普及を行うためにバングラデシュに赴任し、任地のR村で活動していた。その年はモンスーンの始まりが遅く5月中旬になってもまとまった雨が降らず、日中の最高気温が40度を超えるようになっていた。午前10時になると畑の土は熱く、ゴムサンダルを履いていてもとても農作業ができる状況ではなく、異常気象だったことを記憶している。私にとってR村で迎えるはじめての雨季の始まりだった。普及対象農家のアブドゥッラさんが、私の横で冠水した畑の光景を眺めながら、苦言の一言もなく、悲しむでもなく、淡々と、しかたがないことだ、安藤さん、あなたはよくやってくれたではないか、と慰めてくれたのだった。

私が配属されたのはボランティア団体(今ではNGOと呼ぶことだろう)のBVS(Bangladesh Volunteer Service)であった。非政府組織であり、当時の青年海外協力隊員の現地での配属先としては珍しかった。BVSはR村で事務所を構え、現地のボランティアを雇用して村単位の小規模な総合農村開発事業を計画していた。その支援への要請に応えた青年海外協力隊員の派遣だった。私にはバングラデシュが立地するベンガルデルタの自然環境や農業に関する予備知識がまったくなかった訳ではなかった。1978年4月から4ケ月間の東京での訓練期間、青年海外協力隊の同期生で、ホンジェラスに派遣された地理が専門の大学院院生(修士課程を休学)のIさんに導かれるように、お互いの赴任先の自然環境、文化、社会に関する図書や論文などの資料を読む二人の勉強会を早朝に行っていた。著者名も、図書か論文かも記憶していないが、はじめての土地にいったら1年間は様子をみたほうがよい、ということを学んだ。この教えが強く私の心を捉えていた。青年海外協力隊員の任期は2年間で、1年間は村の様子や自然環境を知るためにもBVSの事務所が置かれた場所の休耕地をひらいてモデル・ファーム(展示圃)つくりに専念し、村での普及活動は控えようと計画していた。

R村に赴任した8月は雨季の盛りで、視野に飛び込んできたのは一面にひろがる生育途中の穂が出ていない稲田であった。10月に入ると雨の日が少なくなり、11月には田から氾濫水がひき、稲は収穫期を迎えた。驚いたのは、稲の草丈は3m近くもあり、湛水した田の水深は1~2mであったことである。幅5mはあったと思われる用水路の堤は、耕地に高く土盛りされてできていた。田に育っていたのは、深水稲あるいは浮稲ともいわれるアモン品種であった。日本の私の実家は兼業農家で稲には慣れ親しんでいたが、深水稲はまったく私の予想を超えていた。R村の自然環境を一年間通じて一度はみておかないと迂闊には栽培普及すべきではないと、改めて思わざるをえなかった。普及活動を行わず、乾季の間もモデル・ファーム整備に精をだした。

しかし、半年以上も村での普及活動を始めていなかった私に対して、今度来た農業担当の日本人は何もしようとしない、という評判が村に立った。現地のボランティの勧めもあり、乾季の終わりから雨季のはじまりに作付けを開始する雨季野菜の普及をおこなってはどうか、ということになった。R村は雨季には田は深水地帯となるために伝統的に野菜栽培は冠水しない屋敷地の庭先で蔓性のウリ類の棚栽培やナスが数本植え付けられている状況だった。私がとった方法は、50km近く北に離れた野菜栽培の先進地帯であったコミラ県に学ぶことだった。幸い、私よりも一年前に赴任し、コミラ農村開発アカデミーに配属されていた野菜専門の青年海外協力隊員のSさんが活動していたので、Sさんを頼り、コミラの篤農家のJさんに乾季の終わりから雨季の始めに生育するナスの在来種の良い品種を紹介してもらい、その栽培方法を学んでR村に導入した。

当時、青年海外協力隊では、新しい栽培方法や品種の普及をする場合、種子、苗、化学肥料などは農家による自己負担を推奨していた。いわゆるオーナーシップの問題とも関連する農家の主体性を発揮してもらうためであった。国際協力事業の持続性が問われはじめていたのだった。私がデモンストレーション・ファームで育てた苗を普及対象農家に購入してもらい、化学肥料などもすべて自前で、栽培経費はすべて自己負担してもらった。私は、毎日のように普及対象農家の畑をまわり生育状況をチェックし、必要な栽培管理を農家にアドバイスしていた。ナスが栽培された畑は屋敷地よりは一段低いが、雨季には冠水しないはずであった。しかし、冒頭でも述べたように、氾濫によってその畑が冠水し、順調に育っていたナスが全滅した。

普及対象農家からの非難を覚悟していた。私のアドバイスに従い、自己負担で経費を払ってもらっていたのだから、日本なら当然の反応だっただろう。しかし、普及対象農家の誰一人として私に苦言をいわず、逆に慰めてくれたのだ。まったく意外であった。そして、この時、雨の間のつかの間の晴れた日、用水路の堤に座って稲が青々と生育する一面の農村風景をぼんやりと眺め、暑いさかりの日中には、アブドゥッラさんの自宅の土の床に敷かれたパティとよばれるイネ科の草で編んだ敷物に仰向きで寝て、天井をみあげて時間を過ごした。24歳の私にとって、アブドゥッラさんら普及対象農家の私に対する対応がまったく不思議で、申し訳ないという気持ちとともに、彼らのなんでも引き受けてくれる懐の深い優しさに溢れた人間性に魅かれた。こんな感情は日本で覚えたことがなかったのだ。今思えば、雨季と乾季で大きく姿を変え、時には厳しさ、激しさを見せ、数十万人もの人命を奪いながらも、世界一豊穣だともいわれるベンガルデルタの自然環境に暮らすことで育まれた人間性なのだろう。この出来事を契機に日本人とは異なる精神世界をもつバングラデシュの村人たちが好きになり、尊敬の念を抱くようになった。その時以来、JICAの農村開発プロジェクトでの専門家として、そして大学で職を得た後のフィールドワークで、バングラデシュの人々にかかわってきた。「黄金のベンガル」と詩聖タゴールに言わせたベンガルデルタ。この時に実感することができたベンガルデルタに抱かれているようなR村の普及対象農家の人々が見せた人間性が、日本で育った私の人間に対する狭い捉え方を根本的にかえてくれた。今も、R村のアブドゥッラさんたちを見習い、一歩でも彼らに近づきたいと思っている。40年以上たっても彼らの笑顔は色褪せず、よくやっているよ、とその声が今の私を励ましてくれる。

ノアカリ県R村のBVSの事務所とデモンストレーション・ファーム

写真1 ノアカリ県R村のBVSの事務所とデモンストレーション・ファーム

写真2深水稲アモン品種の生育する村の風景(タンガイル県カリハティ郡D村、1986年8月)

写真2 深水稲アモン品種の生育する村の風景(タンガイル県カリハティ郡D村、1986年8月)

書誌情報
安藤和雄「《エッセイ》バングラデシュと私」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, BD.2.04(2023年10月16日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/bangladesh/essay01/