アジア・マップ Vol.01 | カンボジア

《総説》
カンボジアという国  ―「体制移行」から30年―

小林 知(京都大学東南アジア地域研究研究所・教授)

 カンボジアの過去と現在について考えるわたしの脳裏に、30年ほど前にカンボジアの人びとから耳にした希望の言葉がよぎった。
 わたしが初めてカンボジアを訪れたのは、1994年の夏である。大学学部生のバックパッカー旅行者として中国からベトナムに渡り、その後カンボジアに向かった。カンボジアは、1970年代から戦争と国際的な孤立を経験していた。その後1993年に、国連が中心となって紛争解決のための統一選挙を行い、新しい国家が誕生した。訪問はその翌年で、外国人の個人旅行者が入国できるようになってまもないころだった。首都プノンペンの街は夜8時過ぎともなれば静まりかえり、幹線道路を離れて移動する際は、強盗や誘拐に遭遇する危険があった。そのなか、プノンペンとアンコールワット遺跡があるシエムリアップを訪れ、ひと月余りで旅を終えた。振り返ると、そのときのカンボジアは、長い停滞の後、外部世界との繋がりを拡大させはじめたところだった。日本から訪れた者の目に、人びとの暮らしは貧しく映った。街角の建物の壁には弾痕が残り、この場所に、かつて戦闘があったことを知らせていた。しかし、戦争終結と治安の回復、つまり、何よりも欲しかった安寧・安心できる生活を手に入れたことで、人びとの表情は明るく、来たる未来に対する大きな希望を口々に語っていた。

カンボジア写真

首都プノンペンの目抜き通り(1994年8月)

カンボジア写真

雨季の農村景観(2007年9月、コンポンチャーム州)

 カンボジアは、インドシナ半島の南部にある。東はベトナム、北はラオス、西はタイに接し、南はタイ湾の海に向けてひらかれている。日本の約半分ほどの面積のコンパクトな国土に、1600万人余りの人びとが今日暮らしている。メコン川とトンレサープ湖、およびそこから流れ出るトンレサープ川の周囲の低地と、それを取り囲むように広がる山地のコントラストが地理的な特徴である。熱帯モンスーン気候のもとにあり、雨季と乾季の交代による降水量の変動が明瞭で、住民の大多数を占めるクメール人は、それにしたがって変化する環境のリズムに合わせて水稲を耕作した。さらに、川や湖で育った魚を捕まえるなど、さまざまな生計手段によって暮らしを立ててきた。その社会は、東南アジアでは珍しく民族の均質性が高く、クメール語を話し、上座仏教徒であることを自任するクメール人が全国人口の9割以上を占める。ただし、街や川沿いの村々には、中国人やベトナム人の移民が古くから住んでいた。さらに、ベトナムとの国境域に広がった東北部の山地などには先住民族が暮らしてきた。

カンボジア写真

水牛で移動する家族(2017年2月、ポーサット州)

 日本とカンボジアとの繋がりは、案外深い。例えば、日本語の野菜の「かぼちゃ」の語源には諸説あるそうだが、ポルトガル語のCambodiaという音がなまって伝えられたという説が有力だそうだ。時代劇でたまに目にするタバコをすう細長い管は、日本語で「きせる」という。これも、「クシィア」というタバコをすう道具(管)を指すカンボジア語(クメール語)に由来するという意見が、諸説のひとつとしてあるそうだ。さらに、カンボジアが誇る世界遺産のアンコール・ワット遺跡には、寛永9年(1632年)に訪問した日本人による墨筆の後が残っている。 1945年には日本軍がカンボジアに侵攻し、その後ろ盾でフランス植民地支配から一時的に独立した。第二次世界大戦の後、再びフランスの支配を受けていたカンボジアは、1953年に完全独立を獲得すると、大戦中に日本から受けた損害に対する賠償請求権を放棄した。そこから友好関係が始まり、1955年のシハヌーク首相(当時)の来日時には、日本・カンボジア友好条約が締結された。その前後、日本政府内には、5万人の農業移民を日本からカンボジアに送り出して開発に協力するという議論があったという。

 日本とカンボジアの関わりにおいては、1990年代初頭以降に同国で進んだ「体制移行」、つまり新しい国家の建設と社会の復興、への官民を挙げた支援も話題として欠かせない。1980年代末から1990年代にかけての世界には、平和を希求するグローバルな気運があった。第二次世界大戦以降の世界秩序をつくってきた冷戦構造が雪解けし、世界各地で、紛争の当事者による和平交渉がはじまっていた。カンボジアの場合、大量の粛清殺人などによって社会を極度に疲弊させたポル・ポト政権が1979年に崩壊すると、新政府と、タイ=カンボジア国境地域に逃れたポル・ポト派らの間で内戦が勃発した。前者は隣国ベトナムと共に東側のロシア・ブロックに属し、後者は東に対抗する西側諸国や中国の支援を直接・間接に受けていた。そして、東側と西側の対立という世界秩序を背景に、戦闘を続けた。しかし、冷戦構造そのものが解消に向かった1980年代末、紛争解決の道が探られるようになった。

 カンボジアの紛争解決への支援は、日本の歴史においても大きな意味をもつ。第二次世界大戦後に敗戦国となった日本は、奇跡的なスピードで経済発展を遂げて、1980年代には経済力の上で先進国へ仲間入りした。政府は国連の常任理事国入りを目標とし、国際貢献への更なる努力を謳った。そのなか、ODAにもとづく発展途上国への直接支援や、国連活動への資金供出だけでなく、戦後掲げた平和憲法をふまえつつも、具体的なアクションによって国際的な貢献を示す必要があるという議論が繰り返された。折しも、1990年のイラクのクェート侵攻から始まった湾岸戦争で、日本は主体的な外交努力を国際社会に示すことに失敗した。そのような状況のもと、1970年代からの膠着状態が変化をみせ始めたカンボジアの平和構築への援助が、日本外交の重点課題として浮上した。日本は、1991年のパリ和平会議を皮切りに、国連が実施した1993年の統一選挙を含め、カンボジアの紛争解決と社会復興を全面的に支援しようとした。そのなか、国土の自衛を目的とし、設立から国外で活動することがなかった自衛隊が、国際貢献を旗印にカンボジアへ派遣された。文民警察官や、国際ボランティアとしても日本人が同国へ向かい、平和維持と選挙の準備活動にあたった。そのなかには、地域の紛争に巻き込まれ、貴い命を失った方が複数おられる。

 そのように、日本を始めとした国際社会の関与のもとで新しい国家がカンボジアにできてから、今年で、30年になる。この30年間、カンボジアは大きく発展した。最近のカンボジアの様子は、わたしが関わりを持ち始めた1990年代末と全く違う。今日、カンボジアの都市人口は、4割に達するという。一人あたりGDPは1,600USドルほどで、国内総生産を産業別にみた場合、農業も高いが(17%)、第一は製造業である(23%)。ちなみに、第三位は建設業(11%)。一方、1998年の都市人口率は15.7%しかなかった。一人あたりGDPはわずか268USドルだった!国内総生産の産業別割合は、農業が最大で(38%)、製造業やサービス業は未発達だった。すなわちこの30年に、カンボジアでは都市人口が増え、経済活動が拡大した。教育など、社会を構成する様々な領域でも大幅な発展がみられる。いま首都プノンペンの街を歩いて、店で売られている物、行き交う車輌、人びとの服装などをみていると、紛争国という過去を感じることは全くない。以上の発展を支えたのは、安定した国内の秩序である。生活が安定し、市場経済が浸透し、人びとがさまざまな方法で豊かさを希求することが可能になったのだ。「生活が良くなった」「昔より今の方が幸せだ」という感覚が、社会に大きく広がっている。

カンボジア写真

首都プノンペンの街角(2022年7月)

 しかし、30年前と比べ「良くなった」とはいえない現実がある。第一に、国際社会が導入を支援した民主主義的な国家制度は、この四半世紀のあいだに、著しく形骸化した。フン・セン首相を中心とした人民党の政治支配が長期化するなか、最高裁は2017年に、選挙で人民党のライバルとなってきた主要野党に解党を命令した。司法・立法・行政の三権分立や複数政党制は形だけとなり、中身は権威主義的な独裁体制に傾いた。第二に、自然資源の収奪が加速した。1990年代初めのカンボジアには豊かな森があり、トンレサープ湖は豊富な魚類資源を誇っていた。しかし、外国企業がカンボジアの政府高官らと手を組み、森を囲い込み、大規模な伐採を行うようになって久しい。トンレサープ湖の周辺地域では、「昔はそこらの水に網を入れたら食べきれないほどの魚が捕れた」という語りを聞く一方、急速に魚が減ったことを危ぶむ声が広がっている。経済発展のなか、人間活動が環境に強いる負荷が増大したことで、各地の住民の暮らしが根本的な変化に直面している。地元での生計手段を失った人びとのなかには、故郷を離れ、労働者として国外に向かう人びとが多くでている。

 以上に述べてきたようなカンボジアの今日の状況は、30年前に、大きな希望とともに人々が描いていた未来そのものなのだろうか。国際社会が、人命を含む多大な犠牲を払いつつも「良きもの」として推進した民主主義の制度と市場経済原理の導入は、カンボジアの社会と人びとに、どのような幸せをもたらしたのだろうか。内戦という過去の影響を気に掛ける人は、もはや、非常に少ない。物質的な豊かさは格段に増した。ただ、人びとの生活は別の種類の脆弱性と危険のなかにあるようにみえる。そこには、規模の大小はあれ、わたしが暮らす日本の社会にも共通する将来への課題が横たわっている。

 支援する/されるという立場を越えて、カンボジアの人びとと、より良き未来をともに考える時代に入っている。

書誌情報
小林知「《総説》カンボジアという国」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, KH.1.01(2023年4月5日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/cambodia/country/