アジア・マップ Vol.01 | イラク

《総説》
イラクという国

山尾 大(九州大学比較社会文化研究院・准教授)

 イラクは、中東の戦略的拠点にある世界有数の産油国である。近年では、1980年代のイラン・イラク戦争、1990~91年の湾岸戦争、2003年のイラク戦争(正確には米国を中心とした有志連合によるイラクへの軍事侵攻)とその後の紛争、「イスラーム国」(IS)との戦いなど、戦争が繰り返されてきた。石油や戦争、テロで有名なイラクだが、古代文明発祥の地であり、その歴史は長い。

 ティグリス・ユーフラテス川が涵養した古代メソポタミア文明が栄えたイラクでは、762年にアッバース朝第2代カリフがバグダードに遷都したことで、イスラーム文明が繁栄を極めることになった。のちにモンゴルの侵略によってアッバース朝は滅びるが、それまでイラクではイスラーム文明が大いに発展した。

 オスマン帝国の崩壊後、英国の委任統治下に入り、近代国家の建設が始まった。1932年には独立を宣言し、ハーシム王政が成立した。1958年にはカースィム准将率いる共和革命がおこり、イラクは共和国となった。その後、軍事政権が続いたが、1968年にバアス党が政権を掌握し、1979年からはサッダーム・フサインが大統領に就任、一党独裁体制を敷いた。様々な戦争・内乱に関わらず、同国で影響力の強い部族や地縁関係を巧みに利用した統治政策で独裁を維持したが、2003年に米国を中心とする連合軍によって政権転覆される。その後、1950年代後半以降活動を活発化させ、70年代後半以降に大弾圧を受けた諸イスラーム政党が政権の中枢に躍進を見せた。複数政党制を導入し、最大のイスラーム政党であるダアワ党を中心とするイスラーム主義政党が政権を運営している。

 イラクの基本情報は、以下のとおりである。
・国名:イラク共和国
・国土:約43.83万平方キロメートル(2021年CIAファクトブック)
・人口:約3965万人(2021年CIAファクトブック)
・首都:バグダード
・民族:センサスが行われていないために正確な数字は不明だが、アラブ人が約7割強、クルド人が2割程度、そのほかトルコマーンやアッシリアなどの少数派がある。
・宗派:ムスリムのうち約6割程度がシーア派(クルド人の多くはスンナ派)
・通過:イラク・ディーナール
・言語:アラビア語、クルド語
・独立:1932年
・国連加盟:1945年
・OIC加盟:1976年
・その他、OAPEC、OPECなどに加盟

 <自然生態環境・産業>
 イラクは中東の砂漠の国、というイメージがあるが、実際には冬の積雪が厳しい急峻な山岳地帯や、南部に広がる湿地帯などの多様な自然生体環境がみられる国である。北東部には、ザクロス山脈がトルコとイランの国境にそってそびえたっており、スライマーニーヤ周辺には2000メートル級の山が連なっている。降雨量も年間1000mm程度あり、冬には積雪や路面凍結がしばしばおこる。国土面積に占める割合は4分の1程度に過ぎないが、渓流の美しい避暑地として開発が進んでいる。

 南西部にあるのが、年間降雨量が200mmを下回るシリア砂漠からから続く広大な砂漠地帯で、国土の約半分を占めている。こうした砂漠気候帯のなかで、イラクの生態環境を豊かにしているのは、ティグリスとユーフラテスという2つの大河の存在である。同国の水資源の9割以上がこの2つの川とその支流に支えられており、これらはいうまでもなく古代メソポタミア文明を涵養した大河である。ユーフラテス川は全長2800kmで、その約3分の1がイラク国内を流れている(残りが上流に当たるトルコとシリア)。他方、ティグリス川は全長1900kmの約7割がイラク国内を流れ、両河はイラン国境近くの南部の町クルナで合流している。この2つの大河に挟まれた地域のうち、首都バグダード以北の第2の都市モスルを中心にしたシリアへとつながる地域は「ジャズィーラ」(河に挟まれた島)と呼ばれ、それより南は「バイナ・ナハライン」(2つの河のあいだ/肥沃なメソポタミア)と呼ばれている。クルナで合流した2つの大河は、シャットゥル・アラブ川となり、ペルシア湾(アラビア湾)に注いでいる。

 そしてこれらの大河によって生み出されているもう一つの豊かな生態環境が、南部のメソポタミア湿原である。春になると、北部の山岳地域の雪解け水がティグリス・ユーフラテス側の増水をもたらし、南部は頻繁な洪水に見舞われた。洪水と氾濫の結果、河の下流では広大な湿地帯が形成されてきたのだ。この中東最大の湿地帯は、潅水時には四国に匹敵するほどの面積となり、水生植物群が織りなす緑豊かな独自の生態系が維持されてきた。ここで生活する住民は、「水上の遊牧民」あるいはアラブ・マーシュと呼ばれ、葦で編まれたセリーファという小屋に住み、小舟をつかって移動する独特の生活を営んできた。ところが、フセイン政権期に、反体制派を一掃するためにこの湿地帯の排水を進めたことにより、近年では湿地帯が急激に減少している。

 大河の周辺地域では、農耕や牧畜に必要な水を確保しつつ、洪水や氾濫からの被害を防ぐために、貯水池と用水路を張り巡らせるという灌漑技術が、古くから活用されてきた。したがって、近代に中心産業が石油になる以前は、農業が中心的な産業であった。南部では水稲、北部では小麦の生産が中心であり、それに加えてナツメヤシの生産も、かつては非常に活発であった。

 石油産業が始まったのは、1927年である。初期は、欧米のメジャーが石油収入を独占してきたが、1970年代に国有化して以降、国の歳入のほとんどを原油の輸出に依存している。石油会社は実質的に常に国有で、オイルマネーによって雇用される公務員の数が増え、肥大化した官僚国家が維持されている。とりわけ、1979年以降のフセイン政権下では、巨大な官僚機構と国軍・警察機構を有する強い中央集権国家がさらに強化され、肥大化した国家機構が社会に浸透し、網の目のように張りめぐらされたバアス党組織を用いて国民を監視する強い国家が確立されるに至った。

<近代国家の形成と人々>
 イラクは、オスマン帝国の3州(モスル、バグダード、バスラ)が統合されることで成立した。これらの3州は、先述のジャズィーラ地域と、バイナ・ナハラインに分けられ、歴史的には異なる地域として認識されていた。また、イラクはオスマン帝国版図の最東端にあたり、16世紀以降、サファヴィー朝とオスマン帝国の緩衝地帯にあった。

 こうした歴史的な一体性の欠如に加え、現在のイラク領域内には、多様な民族や宗教、宗派をバックグラウンドに持つ人々が住んでいた。すでにしてきたとおり、民族別にみると、アラブ人が約7割強、クルド人が2割程度、そのほかトルコマーンやアッシリアなどの少数派がおり、宗派別にみると、約6割程度がシーア派、その他のスンナ派に加え、イスラームの少数派も見られる。

 このようなイラクが現在の領域に統合されたのは、1920年4月のサン・レモ会議で英国委任統治下に入ったときであった。言い換えるなら、イラクは、オスマン帝国崩壊後の植民地支配の過程で、歴史的に一貫性がない土地に、多様な民族・宗教・宗派を出自に持つ人々を、外部から強制的に統合することで成立したのだ。

 それゆえ、イラクはこれまで「人工国家」であると論じられてきた。そして、イラクでは、この国家の人工性ゆえに、ネーションとして統一のアイデンティティを形成しにくい、と主張されてきた。クルド人、スンナ派アラブ人、シーア派アラブ人が、民族・宗派の独自の利害関係に基づいて競合するからである。したがって、ナショナリズムが脆弱な国家において人々を統合するためには、強権的な権威主義体制が、トップダウン式に国民統合を進めざるを得ない。それゆえに、バアス党政権のような権威主義体制が容易に成立し得る、かつ、それ以外にイラク国家をひとつに統合する方法はない、というわけである。

 こうしたイラクのとらえ方に対しては、より複雑な実態を反映していないことや、強いナショナル・アイデンティティが存在する事実などとともに、大きな批判もある。その反面、2003年のイラク戦争後の紛争や混乱を理解するためには、近現代史と国家形成の過程に目を向ける必要があるだろう。

カルバラーのイマーム・フサイン廟(2017年1月筆者撮影)

カルバラーのイマーム・フサイン廟(2017年1月筆者撮影)

グリーンゾーン内の勝利のアーチ(2017年10月筆者撮影)

グリーンゾーン内の勝利のアーチ(2017年10月筆者撮影)

ナジャフのイマーム・アリー廟(2017年1月筆者撮影)

ナジャフのイマーム・アリー廟(2017年1月筆者撮影)

米軍に破壊されたバアス党本部(2003年6月筆者撮影)

米軍に破壊されたバアス党本部(2003年6月筆者撮影)

書誌情報
山尾大「《総説》イラクという国」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, IQ.1.01(2023年1月10日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/iraq/country/