アジア・マップ Vol.01 | イラク

《エッセイ》イラクと私
生き延びるプロの人々を研究する

酒井 啓子(千葉大学大学院社会科学研究院・教授

  今のイラク研究動向からすると想像もできないかもしれないけれど、私がイラク研究を始めた80年代初期には、まだサッダーム・フセイン政権のコントロールが厳しく、外国人研究者が自由に研究できる環境にはほど遠かった。調査ビザはおろか、一般のビザも取れない時代だったので、国連西アジア経済社会委員会(ESCWA)から招待状をもらって、その国際会議に紛れ込むのが精いっぱいだった。

  ついでにバグダード大学などを訪問させてもらったのだが、「イラクの政治を勉強したい」などとは口が裂けても言えないので、「イラクの農業に関心がある」と言ってアポをとった。イラク近現代史のなかで、南部農村地域から都市スラムへの地方・都市間移動は、都市および地方貧困層を生み出し、それが50年代の左派運動、70年代後半からはイスラーム運動の重要拠点となったからだ。それで「農業」などと言ったわけだが、おかげで同じバグダード大学でも農学部の実験農場のあるアブ・グレイブに連れていかれて、「椎茸ってどうやって栽培するのか教えてほしい」と質問されて、四苦八苦した。

  イラン・イラク戦争の最中で、石油輸出も滞りがちのなか、国立大学もイラクの食料自給率向上にどう貢献するか求められていたのだろう。その数年前には、マッシュルームの国産化に成功したので、二匹目のドジョウを狙っていたのだ。その後、アブ・グレイブはイラク戦争後、米軍のイラク人収容者への虐待で有名になったが、私にはのどかな農園地帯という印象しかない。その、イラク社会を支える農業を担うのどかな農園地帯を、米軍がイラク戦争で「政権支持派の拠点」とみなして破壊したからこそ、農業を営む地元部族が米軍に対して怒りを爆発させた。そのことがわかるのは、80年代に農学部を訪問したからならではだ。

  イラク社会を動かすメカニズムの何が重要なのかを知るには、直接ピンポイントで迫るより、回りくどく探っていくのが良い、と知ったのは、前政権期にイラクで過ごした頃の経験からくる。

  どの宗派に属しているかとか、何部族の出身かといったアイデンティティにかかわることを、直接聞くことはタブーだった。その代わり、言葉の節々に現れる出自への誇り、誉れの意識が、それを垣間見させる。「あの誇り高きカルバラーの出身なのよ」と胸を張る女性秘書がいたり、クルド人なのに親戚のつてをたどってトルコ国籍を取った同僚と「クルドは許せる、トルコは許せない」といって交遊を絶ったアルメニア人がいたり、「あの人はシーア派の説教師だがソルボンヌの学位も持っているので尊敬している」というスンナ派の運転手がいたりと、そこここに、相手のアイデンティティをどう見るかの機微なニュアンスが伝わってくる。普通に役所の窓口に並んでいると、待合室にいるイラク人たちがひそひそ話をはじめ、何を話しているのか聞くと、「ほら、あそこに座っているのは(現政権にパージされた)〇〇将軍の息子だよ、顔とたたずまいがそっくりだもの」などと言う。軍人の誉というものは、子供にも受け継がれるものだと知らされる。

  イラク社会を研究対象とするということは、「人がある集団にいることを誇りに思うということはどういうことなのか」という、根源的な問いへの回答を模索し続けることに他ならない。中東社会における複合的アイデンティティとは、板垣雄三氏の古典ともなった議論だが、まさに複数あるアイデンティティの「カード」のうちどのカードを出すか、その判断は極めて政治的かつ戦略的なものだ。カードの出し方を間違えば、文字通り、命取りになる。

  その意味で、イラクに生きる人々は、常にどのカードを出すべきかの戦略的思考とそのための情報収集を怠らない。イラク戦争直後にバグダードを訪れて私がびっくりしたのは、タクシー運転手が私の用務終わりを待つ間、私があちこちから収集した新聞を食い入るように読んでいたことだ。フセイン政権下の情報統制から一気に解放された彼らは、戦後の混沌とした状況のなかでなんとか生き延びていくために、ありとあらゆる情報をかき集めていた。それは戦前の、大本営発表が当たり前の時代にもそうだった。日がな一日、政府の御用番組をテレビで流しながら、夜こっそりと地下放送で欧米のラジオや反体制派の短波放送を聞く。イラン・イラク戦争中、イランが「ミサイルを撃ち込んだ」という報道を地下放送で耳にすれば、翌朝には近隣世帯の半分が、田舎に疎開している、などというほどに、庶民は迅速に対処する。

  全身をアンテナにし、24時間情勢分析をすることがすべての人々に日常的に求められているイラク社会は、なんて緊張感に溢れるものなのだろう。それを思うと、私たち地域研究者がやっていることなど、ただ彼らの生きる術を後追いしているだけにすぎない、と、身の程を知らされるのだ。

80年代末の南部湿地帯、ここから棄村農民が都市スラムに流入した

写真1 80年代末の南部湿地帯
ここから棄村農民が都市スラムに流入した

バスラ、イランイラク戦争後の復興工事

写真2 バスラ、イランイラク戦争後の復興工事

土嚢を積んだバスラの家、1989年

写真3 土嚢を積んだバスラの家、1989年

書誌情報
酒井啓子「《エッセイ》イラクと私 生き延びるプロの人々を研究する」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, IQ.2.04(2023年1月10日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/iraq/essay01/