アジア・マップ Vol.01 | イスラエル/パレスチナ

《総説》
イスラエル/パレスチナという国

錦田 愛子(慶應義塾大学法学部・教授)

〈自然環境と風土、宗教〉

 イスラエル/パレスチナとは、同じ土地の領有権をめぐり争っている二つの政治主体、およびそれらが占める領域を指す。争いの対象となっているのは、地中海の東海岸沿いに南北に広がる地域である。気候帯としては地中海性気候の半乾燥地帯に属し、20世紀半ば頃までの地域作物として平野部や水源に近い地域ではオレンジなど柑橘類が、丘陵地帯ではオリーブが栽培されてきた。季節は冬から春の雨季と、夏から秋にかけての乾季に大きく分かれる。春を迎える3月から4月にかけては、気温の上昇に伴い雨季で水をため込んだ大地から木々や草花が一息に芽吹く美しい季節となる。

 起伏に富むこの土地は、多くの宗教的聖地を擁することでも知られる。イエス・キリストが聖ヨハネから洗礼を受けた地とされるヨルダン川の終着点は、世界で最も低い場所として知られる海抜マイナス400メートルの死海だ。そこからヨルダン渓谷を上り、モーセの墓との伝承のあるモスクの傍らを通り、標高800メートルまで上ると聖地エルサレムに到達する。エルサレムの旧市街にはキリストの墓を囲む聖墳墓教会や、イスラーム教第三の聖地とされるハラム・アッシャリーフがある。同じ場所は、ユダヤ教のかつての第一・第二神殿があったとされる場所(神殿の丘)でもある。ユダヤ法に基づき、そこへの立ち入りは長らく禁忌とされてきたが、近年では政治的動機で訪問するイスラエルの政治家も散見されるようになった。

 こうした宗教的聖地の重なりからは、イスラエル/パレスチナでは数千年にわたり紛争が続いてきたかのように捉えられがちである。しかし、今日に至る争いの起点はそれほど古いものではなく、19世紀末にヨーロッパでユダヤ・ナショナリズムとしてシオニズム運動が始まって以降のことである。対立はユダヤ教徒のイスラエルと、イスラーム教徒およびキリスト教徒のパレスチナとの間で展開し、映画『アラビアのロレンス』で知られるイギリスの三枚舌外交に翻弄されながら、それぞれ独立をめざした。そのうち国家として独立を果たしたのは、現状ではイスラエルのみである。


〈イスラエル建国と中東戦争〉

 イスラエルは正式国名を「イスラエル国(State of Israel)」といい、ユダヤ教徒から成るユダヤ人国家の形成を目標に建国された。委任統治を行ってきたイギリスの撤退と同時に、シオニストは1948年に独立宣言を出し、これに反発する周辺アラブ諸国との間で第一次中東戦争が起きた。アメリカはトルーマン大統領がユダヤ側と関係が深かったことから即座に国家承認を出し、ソ連もこれに続いた。翌年にはイスラエルの国連加盟が承認された。一方でその領土は、アラブ諸国との数次の戦争により、その後も変動することとなる。

 第一次中東戦争は独立をめざすユダヤ諸勢力と、レバノン、シリア、イラク、ヨルダン、エジプトを中心とするアラブ勢力との間で戦われた。8カ月に及ぶ戦闘で、ユダヤ側はガリラヤ湖畔から地中海沿岸部、またネゲブ砂漠を含む広い地域を占領した。アラブ側にはヨルダン川西岸地区とガザ地区が残され、エルサレムは東西で分割されることとなった。このときの停戦ラインは、グリーンラインと呼ばれる。1967年の第三次中東戦争では、イスラエル側の奇襲攻撃によりヨルダン川西岸地区とガザ地区、またシリア領であったゴラン高原と、エジプト領のシナイ半島も軍事占領された。わずか6日間で戦闘が終わったため、これを6日間戦争とも呼ぶ。イスラエル側にとっての最大の成果は、この戦争により聖地を含むエルサレムの東西全域が支配下に入ったことだった。これ以降、ユダヤ教徒は神殿の丘に隣接する「嘆きの壁」で礼拝ができるようになった。「嘆きの壁」前にあったアラブ人の住居は退去させられ、礼拝のための広場として整備された。

 エジプトはその後、1979年にイスラエルとの間で平和条約を結び、シナイ半島を取り返した。だがこの単独交渉はアラブ諸国の中で強い非難を浴び、エジプトはアラブ連盟から除名処分を受けた。第三次中東戦争の直後、ハルツームで開かれた連盟の首脳会議ではイスラエルとは「和平せず、承認せず、交渉せず」という「三つのノー」が方針として決議されていたからである。エジプトに次いでアラブ諸国がイスラエルと国交を結んだのは、1993年にオスロ合意による和平交渉が始まって以降のことであった。


〈イスラエルの人口・言語状況〉

 現在イスラエルでは、グリーンライン内の2.2万平方キロメートルの領域に大半の国民が暮らす。これは日本の四国程度の広さである。人口約950万人(2022年5月時点、イスラエル中央統計局)のうち8割はユダヤ教徒だが、2割は非ユダヤ教徒のアラブ人が占める。 イスラエルの建国により、その当時までこの土地に住んでいたイスラーム教徒とキリスト教徒の住民の多くは、パレスチナ難民として家を追われた。だが残った人々とその子孫はイスラエル国籍を取得したためである。人口増加率の高いアラブ人に対して、ユダヤ人多数派を維持するため、イスラエルでは帰還法を定め、世界中からユダヤ教徒の移民(アリヤー)を呼びかけている。

 イスラエルの公用語は、建国に際してエリエゼル・ベン・イェフダーが復活させ整備した言語、現代ヘブライ語である。2018年まではアラビア語も公用語であったが、近年のイスラエル政府の右傾化の中で可決された基本法の改正により、公用語から除外されることとなった。その他にイスラエルでは、ソ連崩壊を受けて多くのユダヤ人が移民して来たことから、ロシア語話者も一定の割合を占める。現在イスラエル国内で販売されている製品には、ヘブライ語、アラビア語、ロシア語が併記されていることが多い。


〈パレスチナの抵抗運動と和平交渉〉

 他方で、第一次中東戦争で敗れたパレスチナ側では、占領された故郷の解放を求める抵抗運動が難民を中心に組織された。エジプトのナーセル大統領の主導でPLO(パレスチナ解放機構)が作られ、ヤーセル・アラファートが抵抗派閥ファタハのリーダーとして頭角を現すと、両者を中心に運動は展開していった。PLOの拠点はヨルダン、レバノン、チュニジアなどの周辺地域を点々と移動し、ディアスポラの運動組織として活動を続けた。イスラエルの占領下に置かれたヨルダン川西岸地区とガザ地区では、草の根の抵抗運動として1987年に第一次インティファーダが始まった。この際にパレスチナのムスリム同胞団からはハマースが形成され、後の対イスラエル闘争における主要アクターとなっていく。
  冷戦が終わると、パレスチナがソ連を、イスラエルがアメリカを後ろ盾とする対立構造は変化が迫られることになった。抵抗運動ではなく対話による紛争解決の試みが始まり、イスラエルとパレスチナの間の外交協議は中東和平交渉と呼ばれることになる。ノルウェーが仲介となって進めた秘密交渉は、1993年にホワイトハウスで公式にオスロ合意として調印された。この合意によりイスラエルとパレスチナの間では初めて政治的な相互承認が成立し、パレスチナ自治政府の樹立へ向けた動きが始まった。オスロ合意はイスラエルとパレスチナの二国家解決案を基本とし、交渉内容の大枠とタイムテーブルを示すものだった。その一方、解決が困難とみられる難民問題やエルサレム問題などは、最終地位交渉として結果的に棚上げされることになった。


〈パレスチナ自治区と選挙後の混迷〉

 こうして成立したパレスチナ自治区は、ヨルダン川西岸地区とガザ地区から構成され、広さは合わせて約6千平方キロメートルほどである。人口は約535万人(2022年、パレスチナ中央統計局(PCBS))で、このうち260万人ほどはUNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)に登録された難民である。また自治区の外にはヨルダン、レバノン、シリアなどに300万人を超えるパレスチナ難民が住んでおり、劣悪な難民キャンプの居住環境を逃れるため、欧米諸国などへのさらなる移住が進んでいる。委任統治の開始前はオスマン帝国領だったパレスチナではイスラーム教徒が大半を占めるが、現在も1割未満の人口比をキリスト教徒が占める。パレスチナ自治区の公用語はアラビア語である。

 オスロ合意は当初予定されていた期間内に交渉が進まず、延長を繰り返した挙句に2000年に決裂した。期待を裏切られたパレスチナ人とイスラエル人の間で衝突が起こると、第二次インティファーダに発展し、暴力の行使により双方に多くの犠牲者を出すこととなった。パレスチナにとってのカリスマ的指導者だったアラファートが死去し、ハマースとイスラエルの間で停戦が成立すると、パレスチナ自治政府は2回目の大統領選挙(2005年)、立法評議会選挙(2006年)を実施した。その結果、議会選挙ではハマースが勝利し与党となった。選挙には国際選挙監視団も立ち合い、公正な手続きで行われたが、イスラエルはじめ欧米諸国は、イスラーム主義政党の勝利と政権掌握という結果を受け入れられなかった。パレスチナでは諸外国にとって受け入れられやすい連立政権の樹立など試みられたが、失敗してますますハマースとファタハの溝は深まった。アッバース大統領は一方的に、ファタハによる政権をヨルダン川西岸地区に樹立し、ガザ地区を拠点とするハマース政府と並び立つことになった。


〈2010年代以降の動向〉

 パレスチナ自治区の二重政府状態はその後、長期化して現在に至る。その間、パレスチナとイスラエルの間の対立構造に大きな変化は起きていない。パレスチナは国際社会への働きかけを強め、BDS運動(イスラエルへのボイコット運動)を呼びかけ、また2012年には国際連合のオブザーバー国家として認められた。だが大半の国々からはまだ国家承認を得られていない。イスラエルの政治では宗教右派が影響力を強め、「ユダヤ国家であると同時に、民主国家である」という国の指針が大きく揺らぎつつある。ネタニヤフ政権下では司法の独立性を脅かす法案が出され、2023年に入り史上最大規模の抗議デモが繰り返し起きている。こうしたそれぞれの内部での展開は、今後の関係性に長期的な影響を与えていくだろう。

 外交レベルでは、アメリカのトランプ政権期に大きな変化が起きた。パレスチナとイスラエルの双方が首都と主張するエルサレムに対しては、これまで各国政府はどちらの首都とも認めてこなかった。トランプ大統領はこの慣行を破り、エルサレムをイスラエルの首都と公式に認め、実際にアメリカ大使館を移転させた。また大統領上級顧問のジャレッド・クシュナー主導で、2020年にはアブラハム合意が交わされた。これにより、イスラエルはUAE、バハレーン、スーダン、モロッコと国交正常化に合意し、長らく冷え切っていたアラブ諸国とイスラエルとの関係構築が図られることとなった。これらの変化は政権が変わった後も、交渉の新たなベースラインとして今後を規定していくこととなる。

エルサレムのハラム・アッシャリーフにある黄金のドーム(2011年12月 筆者撮影)

エルサレムのハラム・アッシャリーフにある黄金のドーム(2011年12月 筆者撮影)

エルサレム旧市街の「嘆きの壁」で礼拝するユダヤ教徒(2011年12月 筆者撮影)

エルサレム旧市街の「嘆きの壁」で礼拝するユダヤ教徒(2011年12月 筆者撮影)

ガザ地区の港で網を繕うパレスチナの漁師(2015年2月 筆者撮影)

ガザ地区の港で網を繕うパレスチナの漁師(2015年2月 筆者撮影)

死海のそばにある海抜418メートルの飲食店(2011年12月 筆者撮影)

死海のそばにある海抜418メートルの飲食店(2011年12月 筆者撮影)

書誌情報
錦田愛子「《総説》イスラエル/パレスチナという国」『《アジア・日本研究 Webマガジン》アジア・マップ』1, IL.1.05(2023年5月30日掲載)
リンク: https://www.ritsumei.ac.jp/research/aji/asia_map_vol01/israel/country/